貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

ついの世界へ 推敲の極み ④

2021-01-28 14:36:28 | 日記

ついの世界へ 推敲の極み ④

  令和3年1月27日(水)

  擬音には、動作の表現だけで、内面の

描写がないから文章の品が落ちると、

主張したのは志賀直哉さん。

 逆に、うまく使ったのが、

宮沢賢治さん。

 俳句の世界で巧妙に擬音を使った

のが、芭蕉さんかも。

馬ぼくぼく 

  我をゑに見る 

        夏野哉

   この句は、芭蕉が親しい人の絵画に

画賛した句である。

 当時、江戸に大火が起こり、深川の

芭蕉庵も類焼する。

 甲斐のの門人の家に一時避難。 

 そこで、親しい人の絵画に画賛した

という句という。

 初句は、

夏馬の 

   遅行我を絵に 

      見る心かな

   夏の日射しの中を馬は暑さに

だらけた様子。

 ゆっくり歩いている。

それを「遅行」と漢字表現するが

何となく堅苦しい趣。

 ちょっと気に入らず手直しとする。

夏馬ぼくぼく 

   我を絵に見る 

      こゝろ哉

  「ぼくぼく」という平仮名の

重ね言葉を活用。

 馬の様子、馬上のゆったりした

気分をうまく表現する。

 「ぼくぼく」に合わせて

「心」を「こゝろ」と平仮名に。

ぴったし!の感。

  しかし、いまひとつ。

夏馬ぼくぼく 

  我を絵に見る 

      茂り哉

   のんびりと馬で行くのは、田舎道。

緑の茂みがある。

馬の赤い色と緑が映え合って

美しさを増す。

 しかし、今度は緑の茂みの風景が

強くなり、ぼくぼく感が弱くなった

感じ。

馬ぼくぼく 

  我を絵に見む 

      夏野かな

   熱い日射しと広い野原を

組み合わせて「夏野」にする。

 「我を絵に見む」とするが、漢字が

並列。重苦しさが漂ってしまう。

 しかも「見む」と文語調にするが、

堅苦しい。

馬ぼくぼく 

  我を絵にみん 

     夏野哉

  「見む」を平仮名にして「みん」。

涼しくなり、風通しもいい。

「絵」を「ゑ」に変え、

「みん」を「見る」にした方がと。

馬ぼくぼく 

   我をゑに見る 

       夏野哉

 推敲への執念が、やはり秀句を生む。

 芭蕉もやれやれか。

 私も漢字と平仮名、漢語と和語など

随分使い分けすることも日常。

 長年子どもたちと一緒にすごして

きたこともあり、

「子供」という漢字をみ嫌い、

「子ども」。

「子供たち」も「子どもたち」。

 漢語よりも和語を使うことが50代頃から

増えてきたのは、柔らかさ、しなやかさが

自分のこころを占めるようになって

きたことによるかも。

 だから、芭蕉の推敲の執念は

理解できる。

 しかし、この執念と見事な推敲感覚

には、脱帽の域かな。

 惚れちゃうねえ!!!!