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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

日本軍の失敗から私たちが学べること(その5) 沖縄戦② 集団自決と大東亜戦争の義(2)結語

2014年07月15日 17時59分08秒 | 歴史
*ブログ主人より:同日に、(その4)と(その5)を連続アップしました。もしも(その4)をお読みでなければ、まずはそちらからお読みいただければ幸いです。→(その4)http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/8254988c34d9b3def33e9ba402acf69d



沖縄タイムス社の『鉄の暴風』や大江健三郎氏の『沖縄ノート』が主張する軍の命令説に対して、曽野氏が深い疑問を抱くに至った理由を以下に列挙します。なお、一九七三年に文芸春秋から出版された『ある神話の背景』は、一九九二年にPHP研究所からPHP文庫として出版されました。それが、二〇〇六年にWACからタイトルを『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』と変えて出版し直されました。私が読んだのは、それです。

〔1〕軍の命令説の原典にして原点でもある『鉄の暴風』は、沖縄タイムス社によって、やっと捕らえられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で固定された。

昭和二五年当時、政府に勤めていた太田良博氏は、沖縄タイムス理事・豊平良顕(りょうけん)氏から、『鉄の暴風』の企画出版の手伝いを乞われました。当時は、渡嘉敷島に渡るのも一苦労で、漁船さえまともにない状態でしたから、太田氏は、島から二人の証言者に来てもらいました。そのうちの一人は、当時の助役でありその後沖縄テレビ社長になった山城安次郎氏。もう一人は、南方から復員して島に帰ってきていた宮平栄治氏。宮平氏は事件当時南方にいました。山城氏が目撃したのは、渡嘉敷島ではなくてとなりの座間味島の集団自殺でした。もちろん、二人ともに渡嘉敷島の話はほかの人から詳しく聞いていましたが、直接の体験者や目撃者ではありませんでした。本書から興味深い箇所を引きましょう。

太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。太田氏によれば、この戦記は、当時の空気を反映しているという。当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその盡、記録することもまた、筆者としての当然の義務であったと思われる。

『鉄の暴風』の企画執筆の担当者がみずから、日本軍を絶対悪として描き出すフィクションの創作に加担したことを事実上認めてしまっているのは注目に値します。

〔2〕事件当時渡嘉敷村の村長で集団自決の現場にいた古波蔵惟好氏によれば、彼が軍から集団自決の命令を直接受けることはありえず、軍からのあらゆる命令は、当時の駐在巡査の安里喜順氏を通じて受け取ることになっていた。だから、赤松隊長から自決命令が出されたかどうかをいちばんはっきりと知っているのは、安里氏であるということになる。それで曽野氏は、安里氏に直接会って確認してみたところ、彼の口から軍の命令があったという話は出てこなかった。

出てこなかったどころか、それとは正反対の事実を示唆するような話が飛び出してきました。それを次に引きましょう。なお、安里氏が渡嘉敷島に来て赤松隊長とはじめて会ったのは、集団自決の日だったそうです。

(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、又、捕虜になる可能性はありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。

安里氏の話しぶりからは、極限状況において、自らの死の覚悟を決めた上で、なおも戦闘員と非戦闘員との区別をきちんとするだけの正常な判断力を残している赤松隊長の姿が浮かび上がります。ただし古波蔵元村長が、「そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいた」と発言していることは記しておきます。しかしそれは、赤松隊長から直接伝えられたものでないことは彼自身が言っていることなので、信憑性の点で、安里氏に軍配が上がることはいうまでもないでしょう。

〔3〕曽野氏と取材時の渡嘉敷村の村長の玉井氏と事件当時若い娘であり若い主婦であった四人の女性とのざっくばらんな会話のなかで、軍の命令の話がまったくでてこないこと。

軍の命令説との関連で核心部分と思われる会話は次の箇所です。

曽野「私、本島のほうで、最後の時の話を伺うと誰か一人、わりとはっきりと《死のう》と言っている人がいるというんですよ」
B「あのね、みんな家族のうちで、家庭内のうちで誰かが・・・・・」
玉井「それを一番最初にやったのは・・・・・」
皆「(くちぐちに)わからんよ」
A「軍から命令しないうちに、家族、家族のただ話し合い」
B「海ゆかば、うたい出して」
C「芝居みるように人を殺したですね、天皇陛下万歳も」
玉井「そのとき、天皇陛下万歳という音頭は、誰がとったの?」
B「わからん、だれかがとったいね。あんとき、あれ《日本魂》だもの」


〔4〕旧厚生省援護局調査課沖縄班によれば、戦傷病者戦没者遺族等援護法ができたのは昭和二七年で、渡嘉敷の場合は軍の要請で気の毒にも戦闘に参加したということで、島民全員が準軍属とみなされ、戦闘中の死亡は、非戦闘員でも戦死とみなされた。そこで、渡嘉敷をめぐる周囲の空気が「軍命令による玉砕」を主張することは、遺族年金を得るために必要であり、自然であり、賢明でもあった、といえること。

軍命令説賛成派からすれば、赤松部隊の生き残り組の発言を取り上げるのは、泥棒の釈明を聞いてやるようなものだと言われてしまいそうですが、ここは、大江健三郎氏が全否定してみせた、赤松隊長の人間性に関わる大切なところなので、取り上げることにします。

この点に関しては、もと赤松部隊の連下政一氏と谷本小次郎氏からの回答があった。
「軍が命令を出していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけない、と思ったからです。我々が口をつぐんでいた理由はたった一つそれだけです」
厚生省の話によると、一旦調査が決定したものは再びその資格を剥奪されることはない、というから、今やその点も伏せておく必要は全くなくなったのである。


赤松部隊は、戦後においても、赤松隊長を中心とする強い絆で結ばれています。赤松隊長の一声で、全国に散らばっている元隊員たちが、万難を排して集結するのですから。それゆえ、もしも連下氏と谷本氏の回答が事実であるのならば、そこには、赤松隊長の強い意向が反映されていると見るほかないと思われます。つまり赤松隊長は、渡嘉敷島の集団自決に対して痛切に責任を感じ続けている、と。なぜなら、軍命令であることを甘受して、世間の冷眼視を背中に感じ続ける茨の人生を甘受することと引き換えに、集団自決によって亡くなった島民の遺族に年金がきちっと行き渡るようにするという振る舞いの動機は、赤松隊長の強い責任意識に求めるよりほかはないと思われるからです。大江健三郎氏が、妄想を逞しくして描き出そうとした「極悪人赤松」とは、かけ離れた人間像が、そこから浮びあがってきます。私には、それこそがまともな文学者が抱く赤松隊長のイメージなのではないかと感じられて仕方がありません。大江氏の赤松像は、修羅場をくぐり抜けた現場の指導者のそれとして、あまりにも幼稚な感じがします。彼が思っているほどに、世間の人々は単純ではないのです。私は、赤松部隊の元隊員たちの詐術に引っかかっているのでしょうか。どうも、そうではないような気がします。その傍証をひとつだけ挙げておきます。

巻末の解説で、石川水穂氏(産経新聞論説委員)は、次のように述べています。

同島(渡嘉敷島のとなりの座間味島のことを指している――引用者注)を守備していた日本軍は、梅沢裕少佐が率いる海上挺身隊第一戦隊だ。沖縄タイムス社の『鉄の暴風』はこう書いていた。

「米軍上陸の前日(昭和二十年三月二十五日)、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた」「村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である」「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」

だが、座間味島の集団自決から三十二年後の命日(三十三回忌)にあたる昭和五十二年三月二十六日、生き残った元女子青年団員は娘に「梅沢隊長の自決命令はなかった」と告白した。梅沢少佐のもとに玉砕のための弾薬をもらいにいったが帰されたことや、遺族が援護法に基づく年金を受け取れるように事実と違う証言をしたことも打ち明けた。

また、昭和六十二年三月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し、「集団自決は兄の命令で行われた。私は遺族年金のため、やむを得ず、隊長命令として(旧厚生省に)申請した」と証言した。

これらの事実は神戸新聞が取材し、昭和六十年七月三十日付、六十一年六月六日付、六十二年四月十八日付で伝えている。


年金の話が出ていますね。集団自決において軍命令があったとされていることやとなりの島であることや同じ日に米軍が上陸してきたことや海上挺進隊が出発をひかえていたことなど、渡嘉敷島と座間味島には、類似点が多い。だから、座間味島における年金事情と同じような事情が渡嘉敷島にもあったと考えるのが自然でしょう。ましてや、座間味島の事情が明るみに出るはるか前に赤松隊員の口から年金の話が洩れていたのですから、彼らが神戸新聞を読んであわててそれを猿真似した可能性はゼロです。

赤松部隊の元隊員たちの証言のなかで、無視し難い重要なものが、ほかにひとつあります。それは、赤松部隊には『鉄の暴風』が強調した「安全な地下壕」などなかったということです。『鉄の暴風』によれば、その地下壕のなかで将校会議が開かれ、赤松隊長は、「事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」と言って、渡嘉敷島の住民の集団自決を示唆しました。同書には、「これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と書き添えられています。曽野氏は、昭和四六年七月十一日、知念元少尉に会い、次のような会話を交わしています。

「地下壕はございましたか?」
私は質問した。
「ないですよ、ありません」
知念氏はきっぱりと否定した。
「この本の中に出て来るような将校会議というのはありませんか」
「いやあ、ぜんぜんしていません。只、配備のための将校会議というのはありました。一中隊どへ行け、二中隊どこへ行けという式のね。全部稜線に配置しておりましたんでね」


私たちは、「安全な地下壕」が、渡嘉敷島の現地日本軍をなるべく貶めて描き出すためのフィクテシャスな舞台装置であったことが、白日の下に晒された瞬間を目撃したことになります。

そのほか、『鉄の暴風』が執拗に暴き立てた赤松隊長の悪行三昧の数々について、曽野氏は、ひとつひとつ丁寧に取り上げて検証しているのですが、いまはその詳細について触れるのは控えます。事実は、『鉄の暴風』が主張したがっているほどに単純ではない、とだけ申し上げておきます。

軍命令説の是非について長々と論じてきましたが、このあたりでやめておきます。その説は、限りなく疑わしいことが判明しただけで、私としてはよしとします。左翼リベラル派は、「広義の強制性」などという言葉を持ち出して、いつかどこかで聞いたような議論の仕切り直しをしたがっているようですが、それはこの際、どうでもいいことです。彼らは日本が滅びるその日まで、そういうことを言い続けるのでしょう。

大本営が「国民総玉砕」「本土決戦」などと嘯くことで、我知らず手放そうとした大東亜戦争の義を、住民の集団自決が頻発するような極限状況において、沖縄戦を戦う現場の隊長クラスは、放り出すようなバカなマネはしなかった可能性が高いことを、とりあえず確認しました。しかし、私が言いたいのは、実はそういうことにとどまりません。

沖縄戦における島民の「献身的な」というレベルを超えた命がけの軍への協力ぶりを、言いかえれば、不可避的に集団自決にまで自分たちを追い込むほどの協力ぶりを、いまに生きる私たちがどう受けとめたらよいのか、という問題について、わずかながらでもいいから、触れてみたいのです。おそらく、そのことに対してきちんとした言葉を発することができなければ、戦後レジームからの脱却もなにもあったものではないのだろうと、私はぼんやりとではありますが感じています。

曽野氏も、同書でそのことをめぐってあれこれと考えています。そのなかで、氏によって引用されたある文章が、私にはもっとも鮮やかな印象を残しています。曽野氏によれば、それは新里恵二、喜久里峰夫、石川明の三氏によって『歴史評論』昭和二十二年一月号に書かれたものです。氏は、それを「昭和二十年の空気を最もよくあらわした文章」と評しています。孫引きしましょう。

「私たちは、ここで(戦場へ)かりだされたと書いておきました。それは事がらの本質においてそのとおりでした。然し、私達はこみあげてくる悲憤をおさえつつ、次のように書きとめておかねばならないと思います。これらの行為は、その殆どが、特に青年層の場合には百%までが『自発的な意志』に基づいてなされていた、と。軍隊の中でも、沖縄出身の初年兵は、『斬込み』の先頭に立っていました。『護郷』『郷土防衛』、それが当時、帝国主義戦争の本質に関する知識は欠きながらも、自らの生まれ育った地を荒らす兇暴な戦争に抗議するために、沖縄県民がとりえた唯一つの態度だったのです。この合言葉の下に、多くの若い生命が惜しげもなく捨てられ、有為の人々がむざむざと非命に斃れてゆきました。・・・・・歴史の上で常に異民族ででもあるかのように扱われ『忠君愛国の志乏しき』ことを、ことごとにあげつらわれ、一種の劣等感、民族意識における特殊のコンプレックスをすら抱かされていた沖縄青少年にとって、『醜(しこ)の御楯(みたて)』たることに疑問を持つのは道徳に反することでした。沖縄戦は『吾々もまた帝国の忠良たる臣民である』ことを、身をもってあかしする格好の機会とすら考えられたのです」

今日から振り返れば、「帝国主義戦争の本質に関する知識は欠きながらも」の箇所は、敗戦直後という、左翼全盛期の痕跡として受けとめるのが妥当で、カッコに入れて読む方がよいでしょう。その手続きを経たうえでのことではありますが、これらの言葉は沖縄戦の最中の沖縄県民の心を忌憚なく吐露したものとして私たちの胸に迫ってきます。また、これらは、児島襄氏『太平洋戦争』の「沖縄戦の最後に勇戦したのは、本来の兵士を除けば、鉄血勤皇隊の少年たちだった」という言葉と符合しますし、「沖縄県民五七万人のうち、約一〇万人は島外に疎開し、老幼者の一部は北部に避難したが、大半の約三〇万人は南部に残り、多くは陣地構築、補給作業に従事した」というくだりにおける県民の秘められた心を明らかにしてもくれるような気がします。先に私が離島コンプレクスという言葉で舌っ足らずながらも言おうとしたのは、要するにそういうことだったのです。

ここで私の脳裏に、次の文章がおのずと浮かんできます。それは、一九四五年六月十三日に拳銃で自決した、海軍・沖縄方面根拠地隊司令官大田実少将が、その七日前の六月六日に、海軍次官に宛てた電文です。知っていらっしゃる方も少なくないのではないでしょうか。

沖縄県民斯(か)く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、三二軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。

 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。


私が、この電文にはじめて接したのは、いまから十七年前、沖縄那覇市南部の小禄にある海軍壕においてでした。そのとき私は、一種名状し難い感情に襲われて、それをどういう言葉で表したらいいのか、皆目見当がつきませんでした。すっかり混乱してしまったのです。一語一語をかみしめるようにして読み進めると、おのずと熱いものがこみ上げてくるのです。大田少将自身、死の覚悟を決めたうえで、これだけは書き留めて残しておかなければ、死ぬに死ねないという、やむにやまれぬ切迫感に突き動かされて、これを書いているのではないかと思われます。

大田少将は、沖縄県民が日米軍の熾烈な戦いによって被っている、筆舌に尽くしがたい惨状を訴えているのでしょうか。「風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり」「一木一草焦土と化せん」とあるとおり、それを訴えているのも間違いないでしょう。しかし大田少将は、沖縄県民を戦争の被害者としてのみ描いているわけではありません。それらすべてを無言で引き受けて、命を供するようにして、それぞれの立場で沖縄戦を戦い抜く県民の姿に、太田少将は、畏敬の念すら覚えて、これを書き記したのではないでしょうか。「沖縄県民斯く戦えり」という一文には、少将の万感の思いが込められている。そう感じられます。死に臨み、太田少将は、あらためて県民の″『吾々もまた帝国の忠良たる臣民である』ことを、身をもってあかしする″という思いの深さと大きさに触れて、絶句する思いを味わったのではないかと思います。「沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき」という書き出しの文には、いままでそのことにはっきりと気づかずにまことにかたじけないという少将の思いがおのずとにじみだしています。

「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」という言葉は、直接的には当時の海軍次官に向けられていますが、実は私たち本土の心ある人間すべてに向けられていると考えるよりほかにない、といまでは考えています。慌てて先回りしておきますが、私は、これを機に不戦の誓いを新たにしたいなどという寝ぼけた綺麗事を言いたがっているわけではありません。

ここからは、端的に、本土決戦を覚悟していたが結局は戦わなかった「やまとんちゅ」の末裔として話します。

沖縄県民は、本土の人々が潜在的に覚悟していた本土決戦を、沖縄の地で本当に戦い切ってしまったのです。そこには当然、集団自決をした人々も含まれます。親から頭を痛打されて絶命した赤ん坊も含まれます。そうして、沖縄県民に「一種の劣等感、民族意識における特殊のコンプレックス」があり、彼らが「沖縄戦は『吾々もまた帝国の忠良たる臣民である』ことを、身をもってあかしする格好の機会」と考えて戦い切ったのだとしても、彼らが「戦い切った」事実それ自体には、いささかの瑕疵も生じません。人間は、常に時代に制約された不完全な存在として、あることを成し遂げるのです。

では沖縄県民が、本土の人々が潜在的に覚悟していた本土決戦を、沖縄の地で本当に戦い切ってしまったことの意味とはいったい何なのでしょうか。それをうまく言い当てるには、大東亜戦争の本質について押さえておく必要があります。

私見によれば、大東亜戦争には、ざっくりと言ってしまえば、大きくふたつの意味があります。ひとつは、身も蓋もないパワー・ポリティクスとしての国際政治の、極限状況における姿としての近代戦争という意味です。これは、要するに強いほうが勝つというドラスティックな世界であって、時の政府と軍首脳が戦略的思考のありったけを振り絞って敵国に臨むべき世界です。この面で、日本が英米との戦いにおいてボロ負けの惨状を呈するに至ったことは、当論考の「その1」から「その3」までで、しつこいほどに申し上げました。

国際政治学者・高坂正堯氏が述べる、国家の三つの体系に即すならば、以上は、おもに「力の体系」と「利益の体系」に関わる領域であると一応言うことができるのではないでしょうか。

大東亜戦争には、もうひとつ、欧米と日本という歴史的にまったく異なるふたつの価値の体系の、避けようにもどうにも避け得なかった衝突、思想戦としての文明の衝突という意味があります。この戦いは、たかだか時の権力を手中にしたに過ぎない一政府によって担い切れるものではありません。心ある国民が民族の記憶のすべてを動員して担うよりほかにないものです。つまり、この戦いの主体は、共同体の良き伝統・慣習を体現した総体としての国民なのです。戦争において、時の権力者は、この「価値の体系」に関してあくまでも謙虚かつ禁欲的でなければなりません。それゆえ、″自分たちは、あくまでも、「力の体系」と「利益の体系」に関する責任を全うするに過ぎない″という自覚こそが、ノーブレス・オブリージュの根拠なのです。そこを踏み外すと、権力者は、醜くて情けない姿を晒すことになります。その典型例として、私は、大本営がサイパン島陥落の衝撃によって呆然自失状態になり、「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」などと口走って、自分たちの失敗を国民の命を弄ぶことでカモフラージュしようとした事実を挙げました。だから、時の権力者にとって、戦争の義とはどこまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりにおいて存すると考えるべきなのです。それは、繰り返しになりますが、国家の「価値の体系」の側面に関して、時の権力者はあくまでも脇役に徹し、主役は、良き伝統や慣習それ自体であることを肝に銘じなければならない、ということでもあります。これは、″国家権力なるものは、国民道徳や道徳教育に容喙することにあくまでも慎重であるべきだ″という見解につながっていきます。むろん私は、そうあるべきだと考えています(このことがきちんと理解できない政治家や思想家を、私はあまり高く評価できません)。

以上のことから、戦争には、それにふたつの意味が存することに対応して、もうひとつの義があることに私たちは気づかされます。共同体の良き伝統・慣習を体現した総体としての国民が戦いの主体となる、思想戦としての文明の衝突において、無辜の一般国民の生命を守ることがすなわち戦争の義とは言い切れなくなるのです。この戦いにおいて、義を守る主体が、時の権力者から総体としての国民に移るのですから、そういうよりほかはありません。端的に言えば、この意味での戦争においては、国民がみずから自発的に命を賭けてでも戦い抜くことによって義を守る局面が存する可能性を排除できないのです。そうして、その局面が表面化し顕在化してきたのが、サイパン陥落を機に、軍首脳の戦略的思考の欠如に起因する総体としての戦争の失敗が誰の目にも明らかになってきた大東亜戦争末期なのでした。この場合、命を賭しても主体的に戦い抜くことそれ自体が、戦いの義そのものの様相を帯びることになります。なぜなら、共同体が長い時間をかけて培ってきた良き伝統・慣習なるものは、結局のところ言葉に表し得ないものとして存在するからです。

心ある国民は、そういう深刻な事態の現出を暗黙のうちに感じ取っていました。児島襄氏が『太平洋戦争』に、敗戦の色が濃厚になってきた状況下で「国民の多くは、一方で″諦観自棄″の風を生みながらも、最後の戦いの覚悟は捨てていなかった」と書き記しているのには、そういう意味があるのではないかと思われます。また、吉本隆明氏や桶谷秀昭氏が、必敗の悲惨な状況下でまったくひるまなかったのは、"自分は本土決戦で死ぬ"という覚悟が定まっていたからである、という意味のことを言っているのも、そのことと大いに関わりがあると、私は考えます。

長谷川三千子氏は、『神やぶれたまはず』に、吉本隆明氏の次の言葉を書き記しています。

戦後すぐに、児玉誉士夫と宮本顕治と鈴木茂三郎が大学に来て、勝手なことを講演して帰っていったことがあるんです。なかで、もっとも感心したのは児玉誉士夫の話で、米軍が日本に侵攻してきた時に日本人はみんな死んでいて焦土にひゅうひゅうと風が吹き渡っているのを見たら連中はどう思っただろう(笑)、と発言して、ああいいことを言うなと僕は感心して聞きました。

吉本氏はここで、自分を含めた日本国民が、思想戦としての大東亜戦争を戦い切った後の荒涼としていて底知れぬ迫力に満ちたイメージを、戦後においても心の奥底に存する、実現できなかったみずからの秘められた願望をそこに重ね合わせながら素直に語っています(こういう無類の率直さが、思想家・吉本氏の掛け値なしの美質です)。

ところが天皇の決断によって、日本国民は、本土決戦を目の前にしながらそれを戦う機会を永遠に失うことになりました。私は、そういう決断をした天皇を決して非難しようとは思いません。「おおみたから」としての国民を守るためのやむを得ざる現実的な決断であったと思っています。しかし、それが日本国民にとってきわめて大きな精神史的事件をもたらしたこともまた、確かなのです。つまり、そのことによって、国民の心のど真ん中にポッカリと虚ろな穴が空き、戦前と戦後がうまくつながらなくなってしまったのです。それが、敗戦トラウマの核心を成すものです。GHQのウォー・ギルド・インフォメーション・プログラムによって、それが強化されたことは確かですが、そういう洗脳政策を受け入れる精神状態があらかじめ十分に存在したことも確かなのです。

本土の人々は、精神的な空白状態と戦後のどさくさによって我を忘れ、沖縄の存在をすっかり忘れてしまったのです。それと同時に、沖縄県民が、あの小さな島で民族精神としての本土決戦を戦い抜くことによって、図らずも思想戦としての大東亜戦争の義を命がけで守り抜くことになったこともすっかり忘れてしまったのです。

本土の人々の情けないほどの健忘症によって精神的な孤立を余儀なくされた沖縄は、戦後、左翼勢力の巣窟となり、彼らの被害者史観が猖獗を極めることになります。大田実少将が訴えた沖縄県民の悲惨にして崇高な戦いぶりは、県民に寄り添ったふりをする連中によって、見事に泥塗られ貶められてしまったのです。

また、精神的な空白を抱えた本土では、その間隙を突くことで、いわゆる自虐史観が大手を振ってまかり通り、相も変わらず時代の支配思想で有り続けています。決定的な場面で義を貫けなかったという集合的記憶が、そういう病んだ歴史観を呼び寄せたのでしょう。つまり、敗戦トラウマを仲立ちにして、沖縄の被害者史観と本土の自虐史観とは、合わせ鏡の関係にあるのです。大江健三郎氏などは、そういう悲惨で病んだ精神状況にどっかりと胡座をかいて、ちょっと深刻ぶった表情をしてみせるだけで、けっこう大した力を発揮できたりしてしまうわけです。戦後民主主義とは、要するにそういうものです。

結論です。私を含めた本土の人々が、敗戦トラウマや自虐史観から脱却し、新たな歴史観を力強く未知の地平に切り開いてゆくには、沖縄県民が、あの小さな島でかつて思想戦としての大東亜戦争の義を命がけで守り抜いたという精神史的な、ある意味で神学的な事実を、一度は無条件に、素直に、全面的に、身体の隅々に行き渡るまで受け入れることが必須となります。これが、大田実少将が本土の人々に送ったメッセージに、いまの私が応えうるもののすべてであります。それは同時に、沖縄の人々が、病んだ被害者史観から脱却し精神的に自由になる道筋でもあることは言うまでもありません。なぜ、「ある意味で神学的」なのか。端的に申し上げましょう。沖縄戦における沖縄県民は、『旧約聖書』の「イサク奉献」におけるイサクそのものであるからです。その意味で沖縄戦は、イサク問題でもあるのです。これはこれで、きちんと話そうとするとけっこう長くなってしまうような気がしますので、未完の、『神やぶれたまはず』についての論考の続きを書くときにでも、あらためて触れようと思います。(この稿、終わり)
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日本軍の失敗から私たちが学べること(その4) 沖縄戦② 集団自決と大東亜戦争の義(1)

2014年07月15日 14時57分37秒 | 歴史


沖縄に配置された第三二軍が、沖縄県民と一体となり、死力を尽くして約三ヶ月におよぶ長期持久戦を戦い抜いたことは、前回申し上げました。それゆえ、米軍の物量に物を言わせた熾烈極まる攻撃は、将兵のみならず、沖縄県民にも多大な犠牲を強いることになりました。そのなかでも集団自決の問題は、とりわけなにかと取り沙汰されることの多い論点であるようです。たしかに、その悲惨さ・救いがたさは、聞く者をして言葉を失なわしめるほどの重さ・深刻さを有しています。ましてや、それが軍に強制されたものであったとすれば、上級統帥のみならず、現地の第三二軍も、大東亜戦争の義を自らの手で扼殺したと断じざるをえなくなるほどの深刻な事態である、ということになりましょう。

当論考の「その2」で、私は、戦争の義に関して次のように申し上げました。

″近代国民国家の戦争は、それが追い詰められてやむを得ず始めたられたものであろうと、なんであろうと、国益を守るためになされるべきものです。君主の私権のためになされるべきものではない、ということです。そうして、国益の核心には、無辜の一般国民の生命を守ることがあります。つまり、無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを絶った戦争に、義はない。だから、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければなりません。″

そういう言い方にそれなりの理があるのだとすれば、沖縄県民に対する集団自決の命令や強制は、軍が自分たちの戦いと無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを断ってしまうことで、その戦いの義を喪失することを意味します。“いや、自分たちには天皇のために戦っているという義がある”と言い張ってもダメです。臣民を「おおみたから」として慈しむところに天皇の御心があるのですから、そういう振る舞いが、天皇の御心を踏みにじるものであることは明らかだからです。その御心が国体の本義であるのだから、“自分たちは、国体護持のために戦っている”と言ってみてもやはりどうにもなりません。

さらに言えば、たとえ沖縄県民の集団自決が軍の命令や強制ではなかったとしても、その重みを私たちは十二分に感じ取り、そこからなにものかを取り出さなければならないことには変わりありません(そのことについては、集団自決の話の後に触れましょう)。

これから沖縄県民の集団自決に非力をかえりみずに触れてみようと思います。しかしながら、一口に集団自決と言っても、主だったものだけでも、列挙すれば、伊江村のアハシャガマなど約百人、恩納村(おんなそん)十一人、読谷村(よみたんそん)のチビチリガマなど百二十一人以上、沖縄市美里三十三人、うるま市具志川十四人、八重瀬町玉城(たまぐす)七人、糸満市、カミントウ壕など八十人、座間味島二三四人、慶留間島五三人、渡嘉敷島三二九人と十件ほどあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA より

そのなかから、読谷村のチビチリガマと渡嘉敷島の事例に触れてみようと思います(座間味島のケースにも後に少しだけ触れます)。両者ともに規模が大きいことと、読谷村の場合には軍からの直接の命令がなかったのに対して、渡嘉敷島の場合それがあったとされているという違いがあることが選び出した理由です。

読谷村のチビチリガマの集団自決については、読谷村HPにきちんとした記載があるので、まずは、それからの引用をご覧ください。その前に、昭和二〇年(一九四五年)四月一日の米軍上陸前後の様子に触れておきましょう。




上の図から分かるとおり、読谷村は、四月一日午前八時三〇分に米軍が押し寄せた海岸沿いの村です。夜の明け切らない午前五時半から、沖合に並んだ戦艦十、巡洋艦九、駆逐艦二十三、砲艦百七十七が、いっせいに砲門を開きました。二十センチ以上の大型砲弾四万四千八百二十五発、ロケット弾三万三千発、臼砲弾二万二千五百発が、第一陣が上陸する一、二分前までの約三時間内に、渡具知海岸地帯に撃ち込まれました。よく晴れた、抜けるような青空がたちまち黒い空に一変したといいます。住民がどれほど身の縮む思いをしたか、想像するにあまりあります。

チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ五〇〇メートルほど行った所の、深さ一〇メートルほどのV字型をした谷の底にあります。米軍が上陸した海岸からは八〇〇メートルほど奥まったところにありました。集落内に源をもつ湧水が流れ出て小さな川をなし、それが流れ込む所に位置し、川が尻切れる所なので「チビチリ」(尻切れ)という名が付いたそうです。「ガマ」は鍾乳洞のことです。HPから引きましょう。

チビチリガマの悲劇は、一九四五年四月二日に起きた。生か死か――騒然とする中、一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けた。中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んで「決死」の覚悟だったようだ。当然のように壕内は混乱した。「自決」を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、結局多くの犠牲者を出した。燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。

日本軍の中国戦線での「残虐非道ぶり」とチビチリガマでの集団自決を結びつけようとする強引な手つきはちょっと気になるところですが、それはとりあえず措いておくとして、ある男の先導によって、周りの人々が自決に追いやられていく状況が、よく分かります。

「集団自決」に至るまでには幾つかの伏線があった。四月一日、米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。上陸直後のため敵の人数もそう多くはないと思い込んだのが間違いだった。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。

避難民が、竹槍を持って、米兵に立ち向かおうとしている点は見逃せません。避難民のすべてが恐怖で縮み上がっているわけではなくて、軍の保護のない状態で、なおも敵と戦おうとしている者もいたことは、注目すべきでしょう。

米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。

第一次大戦後日本の委任統治領となったサイパン島には、沖縄からたくさんの人々が出稼ぎに行きました。だから、サイパン島における民間人の集団自決の事実が、沖縄県民の間でよく知られていたのは、うなずけるお話しです。そのことが、沖縄での集団自決を促したという側面があるのでしょう。しかし、みながみな、自決に即座に賛成したわけではないことが分かります。わが子を目の前で死に追いやることをためらうのは、親として当然のことですから。

結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま二日を迎えた。前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。その間にもいくつかの悲劇は起きていた。十八歳の少女が母の手にかかり死亡したり、看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。横たわる死体。そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた

まともに睡眠をとりえない状況は、人間を心理的に極限にまで追い詰めます。極端な睡眠不足は、精神状態を平常に保ち正常な判断を下すことを著しく困難にするのです。

そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。煙で苦しんで死ぬより、アメリカに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。

大半の人々は、精も根も尽き果てたところで、やむをえず集団自決を受け入れた様子がうかがえます。

避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。波平の人々が、知っていても語ることなく、口を閉ざしたのは、チビチリガマの遺族の人々自らが語り出すまでは、黙っておこうといった、地域の人々の思いを反映したものであったと言われる。

ガマ(鍾乳洞)のなかは、いわば密室です。そこにじっとうずくまっている状態で命の危険に晒されても、そこから逃れる術はないのです。あえてそこから逃げ出せば、雨あられのように降り注ぐ、米軍の銃弾や砲弾の餌食になるだけ、という極限状況を私たちは思い浮かべなければなりません。「ならば」と、戦後に生きる私たちは考えます、「集団投降すればよかったではないか」。しかし、当時の沖縄県民の立場と精神状態を考えれば、それはきわめてむずかしいことではなかったかと思われます。

沖縄県民が、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓の影響を強く受けていたという事情があったのは、もとよりそうでしょう。そこに、″捕虜になれば、女たちは犯され、男たちはひどい目にあう″という鬼畜米英のイメージが重なれば、投降しようにも投降できなくなってしまうのは、理の当然です。

しかし、私が気にかかっているのはそういうことといささか異なります。

誤解を恐れずに言いましょう。離島に住む人は、本土に対して、根深いコンプレクスを抱いているという事情が、投降をいちじるしく困難にしたのではないかということです。

これは、他人事として言っているのではありません。私自身、対馬という離島の出身なので、そういう感情について自分なりによく分かるところがあります。田舎者の都会人に対するコンプレクスと、文化の辺境で生まれ育ったことをめぐるコンプレクスと、貧しい者が抱くコンプレクス(離島は貧しいのです)とが、離島人コンプレクスを構成しているのではないかと思われます。戦前であれば、本土の沖縄に対する差別意識が露骨でしたから、沖縄県民はそういう心性を抱きやすい状況にあったといえるでしょう。

当時の沖縄県民が独自の文化圏を有していたことはもとよりそのとおりではありますが、地理的歴史的経済的事情から、彼らが根深い離島人コンプレクスを抱いていたこともまた間違いないものと思われます。私が申し上げたいのは、″だからこそ彼らは、本土へのあこがれや、立派な日本人として振舞いたいという思いがほかのどの日本の地域の人々よりも強かった。そのことが、県民の軍への深い信頼や献身をもたらしたのではないか。そうして、そうしたものが、ほかの諸要因とともに集団自決の悲劇を余儀なくさせたのではないか。″ということです。投降など日本人として恥ずかしくてとてもできたものではない、という思いが、それを口に出すかどうかは別として、あったのではなかろうか、ということです。引用文中の、少なからぬ「天皇陛下バンザイ」の叫びには、島民のそういう思いが込められているように感じられてなりません。

軍が彼らに集団自決を命令・強要したのだとすれば、それは、沖縄県民の信頼や献身的な協力を悪用し裏切るとんでもない振る舞いであると断じるよりほかはないでしょう。つまり、沖縄戦は、戦術的に一定の効果をもたらしたかもしれませんが、義なき非道の戦いであった、となります。

それを検証するために、渡嘉敷島の集団自決に話を移しましょう。差し当たりそれは、集団自決における軍の命令の有無をめぐって展開されることになります。しかし、私の関心それ自体は、実はその先にあることをあらかじめ申し上げておきます。

渡嘉敷島の集団自決が軍の命令によって実行されたことをはじめて主張したのは、『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社編 一九五〇年初版発行)です。そこから文章を引く前に、渡嘉敷島の地理と同島上陸前後の日本軍の動向を確認しておきましょう。

渡嘉敷島は、慶良間諸島のなかの一つの島です。慶良間諸島は、現在の那覇空港から東に35kmのところに位置します。渡嘉敷島は、当諸島のほぼ中央部に位置する諸島内最大の島です。ほかには、座間味島や阿嘉島や慶留間(げるま)島があります。






三月二六日午前九時ごろ、沖縄本島の軍司令部の目が、沖縄本島に撃ち込まれる艦砲射撃と爆撃に釘付けになっていたとき、誰も気付かないうちに、水陸両用戦車を先頭に立てた米上陸部隊が、座間味、阿嘉、慶留間の三島に襲いかかりました。ほどなく、渡嘉敷島にも、艦砲射撃がなされ始めました。

″こんな山ばかりの島に、米軍がわざわざ上陸してくるはずがない″と考えていたのは、軍司令部だけではありませんでした。慶留間諸島に配置された海上挺進戦隊の誰もが、島を守る手筈には、注意を向けていなかったのです。というのは、彼らは自分たちが「死ぬこと」だけを考えていたからです。彼らは事実上の海の特攻隊員だったのです。それが、渡嘉敷島の悲劇につながっていきます。

それだけではありません。一九四四年(昭和十九年)九月七日以来、慶良間の各港は、海の特攻隊としての海上挺進戦隊の機密保持のために、軍の命令で閉鎖され、住民四〇〇〇人は外界と完全に隔絶されました。そういう環境下で、住民たちは、慶良間の名誉のために、国防婦人会総動員で接待に当たりました。もともと慶良間は、日本軍への協力と参加を誇っていた土地柄で、島の出身者から将校も出しており、軍に対して、よろこんで寄与し協力しようとする気風がありました。文字通り、軍と島民が一体となって戦いに臨む体制を作り上げていたのです。そのことも、渡嘉敷島の悲劇につながっていくことになります。

では、『沖縄戦記 鉄の暴風』から引きましょう。

渡嘉敷島の入江や谷深くに(特攻用の――引用者補)舟艇をかくして、待機していた日本軍の船舶特攻隊は急遽出撃準備をした。米軍の斥候(せっこう・敵情偵察兵のこと――引用者注)らしいものが、トカクシ山と阿波連山に、みとめられた日の朝まだき(三月二六日。本書では二五日と誤記されている――引用者注)、艦砲の音をききつつ、午前四時、防衛隊員(沖縄防衛のため現地在住の男性により組織された軍事集団。沖縄全体では約二万人。島内では七〇人――引用者注)協力の下に、渡嘉敷から五十隻、阿波連から三十隻の舟艇がおろされた。それにエンジンを取りつけ、大型爆弾を二発宛抱えた人間魚雷の特攻隊員が一人ずつ乗り込んだ。赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の濠深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、刻々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。

渡嘉敷島・島民の集団自決を命令した張本人とされる海上挺進第三戦隊・戦隊長赤松大尉は、本書において、特攻を拒み我が命を惜しむ卑怯者の特攻隊長として登場します。衝撃的といえば衝撃的な登場の仕方ではありますけれど、これは、どうやら事実ではないようです。吉田俊雄氏の『最後の決戦 沖縄』(NF文庫)によれば、海上挺進第三戦隊の出撃を中止させたのは、赤松隊長ではなくて、海上挺身隊の総指揮官・軍船舶隊長大町茂陸軍大佐です。赤松隊長は、むしろ出陣を阻止されたショックで顔面蒼白の状態になりながら「昨日来、空襲を受け、本日はまた艦砲射撃を受けております」と事態の急迫を訴え、上官の命令に抗おうとして、激しく叱責されています。この一事からだけでも、私たちは、沖縄タイムス社が編集した『鉄の暴風』が作り上げようとした「物語」がどういうものか察することができると思われるのですが、それについては後ほど触れることにして、いまは、同書からの引用によって、集団自決の顛末を確認する作業を進めましょう。

翌二十六日(二十七日の誤り――引用者注)の午前六時頃、米軍の一部が(中略)上陸した。(中略)赤松大尉は、島の駐在を通じて、民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。

集団自決命令の予告ともとれるメッセージが、この段階で、赤松隊長から発信されている、というわけです。しかし、「保護してやる」とは、ずいぶん傲慢な口ぶりです。それに加えて、集結命令は無残な形で撤回されます。

住民は喜んで軍の指示に従い、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。

もちろん住民たちは、あっけにとられました。しかたなく、西山A高地のふもとの恩納河原に下って、思い思いに、避難場所を探しました。ここでの赤松隊長は、住民たちを右往左往させるだけの横暴でダメなリーダーという姿で描かれています。ところが、それだけではありませんでした。その翌日に、赤松隊長から「住民は、速やかに、軍陣地附近を去り、渡嘉敷に避難しろ」という無慈悲な命令が下されました。なぜ無慈悲なのかと言えば、渡嘉敷にはすでに米軍が上陸していたからです。端的に言えば、「死ね」と命令しているに等しいのです。むろん、住民はその指示に従うことをためらいます。そうしてついに、恩納河原付近で途方にくれている住民たちに対して、決定的な命令が下されることになります。

同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである。(中略)米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。(中略)最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に迫っていた。

いよいよ集団自決が決行されることになります。次は、その生々しい描写です。あまり気が進まないのではありますが、ここまで進んできた以上、書き写すのはやむをえないでしょう。私は、歴史の神様に両の掌を合わせる気持ちで、書き写します。

住民たちは死(原文ママ)場所を選んで、各親族同志が一塊一塊になって、集まった。手榴弾を手にした族長や、家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、――男、女、老人、子供、嬰児――の肉(原文ママ)四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頸部を切ったり、鍬で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、世にも恐しい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまった。

その結果、三二九人が集団自決で亡くなり、敵の迫撃砲による戦死者が三二人、手榴弾の不発で死をまぬがれたのが、渡嘉敷一二六人、阿波連が二〇三人、前島民が七人だったそうです。

同書は、そのほかの赤松隊長の悪業を暴き立てます。すなわち、飢餓線上をさまよう島民を尻目に、島の食料の50%を軍に供出することを義務付ける強制徴発命令を出したり、スパイ容疑に基づく島民の不必要な虐殺を幾度も実行したりしたことを、です。

これらすべてが事実だとすれば、赤松許すまじ、の気持ちが嵩じてくるのは、渡嘉敷島の人々や沖縄県民ばかりではないでしょう。少なくとも、赤松部隊の戦いぶりに義はない、となりましょう。というより、他から隔絶されたごく狭い場所で起こったことだけに、かえって日本軍の悪しき本性を純粋に浮かびあがらせる事例である、という見方も成り立ちうるでしょう。そうなると、義もなにもあったものではありません。

大江健三郎氏の『沖縄ノート』(岩波新書・一九七〇年)は、『鉄の暴風』が渡嘉敷島の惨事に関して描き出したものをほぼそのまま踏襲したうえで、あらためてその惨事に触れています。どういう触れ方をしているのか、見てみましょう。意味をきちんとたどるのがけっこうしんどい文章ですが、おつきあい願えれば幸いです。

『創造』を支えているもうひとりの中心人物たる高校教師は、なおも直截に、それを聞く本土の人間の胸のうちに血と泥にまみれた手をつっこんでくるような事実を、すなわち一九三五年生まれのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島でおこなわれた集団自殺を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で、祖父と共にひそんでいたひとりの幼児が、隣りあった防空壕で、子供の胸を踏みつけ、兇器を、すぐにもかれ自身の自殺のためのそれとなる兇器をふるうひとりの父親を覗き見てしまい、祖父と共に山へ逃げこむ。そのようにして集団自殺の強制と、抗命による日本軍からの射殺と、そして米軍の砲撃という、三重の死の罠を辛くも生き延びたところの、まさに慶良間におこった事件の、その核心のところに居合わせた人間の経験についてかれは篤実に語るのであった。

引用文中の『創造』とは、大江氏自身の言葉によれば、「一九六一年四月、《沖縄劇団の不毛を克服すると同時に、演劇を通じて現実変革のビジョンを構築していこう》という呼びかけをかこむようにして集まり、ふじた・あさや作の『太陽の影』を上演して出発した」劇団です。「ふじた・あさや」をインターネットで検索してみたら、彼の「平和憲法を持つ日本が、『憲法9条があるので仕方がない』と軍隊を送るのを拒む姿は、少なくとも平和の役に立つ。仕方なくても何でもいい。『これは置いておこう』とみんなが思うことを心から願う」(09年2月インタビュー)という内容の発言が見つかりました。どうやらいまにいたるまで、戦後民主主義をほぼ無傷の状態で保持し続けてきた人のようです。そういう人の作品を上演して出発した劇団の「もうひとりの中心人物たる高校教師」なる人物は、渡嘉敷島の「集団自殺」が「軍人によって強制された」ものであったと証言しています。ただしこの人物は、証言内容のなかの「幼児」ではありません。つまり、伝聞したことがその証言内容のすべてです。また、「抗命による日本軍からの射殺」が「幼児」によって目撃されたものなのかどうかもはっきりしません。さらには、どのような事実に基づいた指摘なのかもはっきりとしません。大江氏の物々しくて深刻めいた言い方のわりには、その証言の内容は具体性に乏しいと言わざるをえません。大江氏が、″渡嘉敷島で、軍の強制による住民の集団自決というひどい事実があった″ことを告発したがっていることだけは分かる文章であるというよりほかはありません。

本書は、もう一箇所、渡嘉敷島の惨事にふれています。こちらは、もっと長い文章です。

(前略)新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしずかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。

同書において、赤松隊長が「米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否」し、「投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑」し、「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいた」と断定しているのは、先ほど取り上げた『鉄の暴風』を踏襲しているものと見て間違いないでしょう。それに加えて大江氏は、赤松元隊長の、渡嘉敷島での慰霊祭に出席することをめぐっての発言をはなはだしく否定的に受けとめているようです。

おりがきたら(原文、以上傍点。以下、「おりがきた(ら)」にはすべて傍点あり)、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。僕は自分が、直接かれにインタヴィューする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的資質についてなにごとかを推測しようと思わない。むしろ彼個人は必要でない。

と言いながも、大江氏は、赤松元隊長の発した「おりがきたら」という一言をめぐって、想像力を逞しくします。″いかにおぞましく恐しい記憶でも、その具体的な実質の重さはしだいに軽減していく。ましてや、その人間ができるだけすみやかに厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはなおさらそうである″とした上で、大江氏は、なぜか唐突に強姦の事例を挙げます。

たとえば米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。このような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で(原文、傍点)犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛(原文、「つかのまの愛」に傍点)などとみずから表現しているのである。

要するに大江氏は、赤松元隊長が「おりがきたら」と発言した心持ちは、この強姦魔の兵隊と同じであると言っているのです。これは、『鉄の暴風』で描かれた「極悪人・赤松隊長」のイメージを前提としてのみ成り立つ心理分析です。

慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。(中略)誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。

このような調子が延々と続くのです。こういう、巨悪をなしたとみなされている人物に、人間としての最低・最悪の心理を、妄想を逞しくして延々と読み込み続けることを、(仮に彼が本当に巨悪をなしていたとしても)私は素直に受け入れることができません。どこかおかしいと思うのです。もっと踏み込んで言ってしまうと、大江氏の人間観は根のところで致命的に誤っている、人間の心は彼が思うほどには分かりやすくできていない、という私の人間観が、そういう振る舞いを拒否するのです。「この異様な経験をした人間の個人的資質についてなにごとかを推測しようと思わない」と言った舌の根も乾かぬうちに、赤松元隊長の人間性を全否定し、事実上の断罪をしていることも気に入りません。

文芸批評家・福田恆存氏は、″一匹と九九匹を目の前にして、一匹の側につくのが文学である″という意味のことを言っています。それを踏まえるならば、赤松元隊長をめぐる大江氏の振る舞いは、それとは逆なのです。彼は九九匹の側に就いて、集団で一匹に石を投げつけているのです。つまり大江氏は、ここで文学を捨ててしまって、政治的に振舞っている。そういう自覚もなく、この期に及んでも「想像力」などという言葉を振り回して文学者のふりをしているのは無残としか言いようがありません。

それに対して、大江氏を弁護する向きは当然あると思います。彼らは、おそらくこう言うのではないでしょうか。″お前は、間違っている。大江氏は、歴史的に本土によって虐げられ、差別され続けてきた犠牲者としての沖縄という「一匹」の側に就いているのだ。彼のすべての言葉は、その立場から発信されているのであるから、彼こそまさに文学の本道にかなったスタンスをとっている。そういう大江氏を批判しようとするお前こそ、九九匹の側に就いて、一匹に石を投げつけようとしているのだ″というふうに。

しかし、私はそう思いません。「歴史的に本土によって虐げられ、差別され続けてきた犠牲者としての沖縄」という言い方は、(厳しい言い方になりますが)実はひとつの政治的なフィクションであり、そういう立場を選択するのは、あくまでも擬制としての「一匹」に就くことにほかならないのです。さらにいえば、大江氏のように「一匹」の側に就いているというポーズをとるのは、文学的に言えば醜悪の極みであり、政治的には錯誤にほかならない、と私は思っています。もっとも、政治ゴロとして妥当な振る舞いであるとは思いますが(ここは、いまのところあまりうまく伝えられていないような気がします。もっと先のところで、もういちどここに立ち返りましょう)。

世間から鬼か悪魔のように言われて続けている赤松隊長とはいったいどういう人物なのか、という疑問や興味を抱くのが、まっとうな文学者としての自然な心の動き方なのではないでしょうか。

曽野綾子氏が、『ある神話の背景』(一九七三年)を上梓した動機は、そういうものだったのでしょう。事実曽野氏は、本書の「新版まえがき」で「赤松氏に関しては、渡嘉敷島の集団自決の歴史の中では、悪の権化のように描かれていた。そして本文中にも書いたように、私はそれまでの人生で、絵に描いたような悪人に出会ったことがなかったので、もし本当にそういう人物が現世にいるなら是非会ってみたい、と考えたのが作品の出発点である」と言っています。まっとうな文学者としてのごく自然な動機ですね。それに促されて、曽野氏は、赤松隊長に会い、存命の部下たちにも会い、さらに渡嘉敷島の惨事の関係者にも会いました。要するに氏は、渡嘉敷島集団自決事件の根本的再検討をするに至ったのです。その結果氏は、「『直接の経験から《赤松氏が、自決命令を出した》と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった』と言うより他はない」という結論に至りました。それがどれほど衝撃的なものであったか、そうしてあり続けているのかは、主に左派リベラルのひとびとのブログ等によるおびただしい数にのぼる、過剰なまでの寄ってたかっての「曽野バッシング」が明らかにしています。彼らにしてみれば、「痛いところ」を突かれたのですね。だから、必死になって否定しようとするのでしょう。あらん限りの憎悪を本書に注ごうとするのでしょう。それらの反応それ自体が、興味深いといえば興味深いのではありますが、それはひとまず措きます。(この稿、続く)
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語源探索は、おもしろい  ――「わたし、脱ぐとすごいんです」の謎

2014年07月05日 02時52分05秒 | 教育


昨日の国語の時間に、生徒から「『はなはだしい』ってどういう意味ですか」と質問されました。手を変え品を変えて説明を試みたのですが、どうもピンと来ないようなのです。どうやら、「はなはだ」がどうして「とても」と同じような意味になるのかその理由が知りたい、ということのようなのです。それには、「はなはだしい」の語源をちゃんと知らないと答えられないので、正直にそう言って次回までに調べておくことにしました。

インターネットって、便利ですね。ちゃんとありました。「はなはだしい」は、漢字を当てると「甚だしい」で、副詞「甚だ」を形容詞化したものです。上代に「極端」の意味を表わす「はだ(甚)」という語があり、それを重ね合わせると「はだはだ」。それが音変化して「はなはだ」となり、「はなはだしい」となった、というわけです。もう少しこまかく言うと、「はだ」の「は」は「端」の意味で「だ」は接尾語です。もうひとつの説があります。「はな(花)」は目立つものの形容にも用いられる語ということから、「花甚」が形容詞化して「はなはだしい」となった、と。好みで言えば、私はこちらを採りたい気分です。

ついでに「はなはだしい」の類義語の語源をいくつかさぐってみました。

まずは、「ひどい」。漢字を当てると「酷い」。これは、人としての道理に外れていることを意味する漢語「非道(ひどう)」が形容詞化したものだそうです。そこから、「非常識である」「残酷だ」「むごい」「程度が非常に悪い、はなはだしい」と意味が広がっていきました。用例は、江戸時代から見られるとの由。状態や程度が好ましくない場合に用いられるのが普通ですが、「ひどく感銘を受けた」などと好ましい場合にも用いられるようになってきました。このように見てくると、だまされた女性が男に向かって「あなたって、ひどい人」と恨み言をいうのは、この語の語源に的中していると評するべきでしょう。当の女性は、そういうふうに言われても、ぜんぜん嬉しくないのはもっともなことですが。

次に、「めっぽう」。これはもともと漢語の「滅法」で、仏教用語です。因縁に支配される世界を超え、絶対に生滅・変化しない真如や涅槃といった絶対的真理を意味し、「無為法」の別名です。それで、「因縁を超越した絶対のもの」という意味が含まれていることから、近世以降、「桁はずれに」「はなはだしく」といった意味が派生し、「ケンカがめっぽう強い」「今日はめっぽう暑い」などという用い方がされるようになりました。

次に、「べらぼう」。「箆棒」は当て字です。その由来は、江戸寛文年間(1661~1673)の末頃から見世物小屋で評判になった奇人に求められるそうです。その奇人は全身が真っ黒で頭が尖っていて、目が赤くて丸く、あごはサルに似ていて容貌がきわめて醜く、愚鈍なしぐさで客を笑わせていました。その奇人が「便乱坊(べらんぼう)」とか「可坊(べくぼう)」などと呼ばれていたことから、「馬鹿」や「阿呆」の意味で「べらぼう」という語が生まれました。単に「馬鹿」や「阿呆」という意味のみならず、そこには″普通ではない者″というニュアンスがありましたから、そこから「程度がひどい」とか「筋が通らない」という意味が派生しました。「べらぼうめ」が音変化して「べらんめい」となり、江戸から上方に広がったそうです。上方が江戸から言葉を取り入れるとは、この言い方がよほど面白く感じられたのでしょうね。それにしても、「そいつぁ、ちょっとべらぼうじゃないかね」などという言い方を聴かなくなったのは、ちょっとさびしい気がします。私は、こういうレトロな物言いに心惹かれるところがあります。

もひとつ、「すごい」。これは、度を越している意味の動詞「過ぐ」が形容詞化したものだそうです。この語には、程度がはなはだしいという意味に「寒く冷たく身にしみる感じ」というニュアンスが織り込まれています。だから、たとえば「すごい美人」という肯定的な言い方には、「身の毛がよだつほどにはなはだしく美しい」という意味合いがこもることになります。それで思い出したのが、昔のCMのフレーズ。「わたし、脱ぐとすごいんです」。あれは、「すごい」という言葉のニュアンスを活かしきった秀逸な名セリフだったのですね。だって、「見る者の身の毛がよだつほどに、はなはだしく魅力的な裸体」というわけですから、聴き手を一瞬思考停止状態に陥れるほどのインパクトがあるのもうなずけます。しかし、これは中学生には言えませんな。

ついでながら、最初に出てきた「とても」について。これは、「とてもかくても」の略だそうです。「とてもかくても」は、「いずれにせよ・どっちみち・どのようにしてでも・どうあろうと」という意味ですから、「とても食べられない量」という使い方が本来の意味に沿っているようで、英語のveryに相当する意味は後に派生したものです。

語源由来辞典 http://www.gogen-allguide.com/info/
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漢検準1級の申し込みをしました

2014年07月03日 03時31分59秒 | 日記
今回は、まったくのミーハーネタです。そういうのはちょっと、と思われる方は、遠慮なくパスしてください。

私は今日、インターネットで次回の漢検準1級受検の申込をしました。その勢いのまま、近くの本屋に、関連の問題集を二冊買いに行ってきました。私としては、けっこう張り切っているつもりなのです。

どうした風の吹き回しなのか、ですって?実は最近、同年代の友人から、女優の宮崎美子さんが漢検の1級を持っていると教えられて、俄然、奮起したのです。ちょっと前から、どうしようかな、ちょっと面倒だな、といささか迷うところがあったのですが、その話を小耳に挟んだとたんに、そんなもやもやが吹き飛んでしまったのですね。

私は、宮崎美子さんにいまだに強く惹かれています。過去の残像に囚われていることは自覚しています。例のミノルタX7(エックス・セブン)の「ジーパン脱ぎ」CM(と言っても、通じない方が多いのかもしれませんが)を二十歳かそこらで目の当たりにして以来、彼女は、私のなかで別格の存在になってしまったのです。彼女がそのCMで見せた初々しくてキラキラとした恥じらいに満ちているのにとても大胆でもあるビキニ姿は、私が過ごすことを余儀なくされた暗い青春の日々に刹那の鮮烈な光を放った永遠の像として、脳裏に深く刻み込まれてしまったのでした。この感じ、同じく暗い青春の日々を過ごした同年代の方々には、分かっていただけるのかもしれません。むろん、若い人たちの目に、いまの彼女がちょっと綺麗なただのおばさんとしか映らないだろうことは十分に承知しているつもりです。

そういう彼女が漢検1級を持っている、という事実は、私のミーハー魂をはなはだしく刺激しました。「あの宮崎美子さんが、漢検1級を持っているのか。だったら、オレも」と単純に思ってしまったのです。憧れる対象への自己同一化願望に起因する虚しい倒錯心理と自己分析してはいますが、それがどうした、なのです。

「それは分かったけど、だったらはじめから一級を目指せばいいじゃないか」と思われるかもしれませんが、そうは問屋が卸しません。というのは、私の現在の学力でいきなり1級を目指すのは背伸びしすぎと思われるからです。試験まで半年もありませんし(試験日十月二六日)。まずは準1級を目指して、着実にそれをゲットし、次にその上を目指そうと思うのですね。準1級でも、かなり高度なレベルなのですよ。直近の過去問からいくつか紹介しますので、よろしかったら、チャレンジしてみてください。

まずは、読みから。

1.皆から英彦(    )として尊敬されている。
2.文物斌斌(    )たり。
3.洲渚(    )が遠く陰映している。
4.古の経典に従って手法を(    )える。
5.葵花(    )が太陽に向かって傾いている。

次に、書き。

1.ごレンサツ(    )のほどお願い致します。
2.ニラ(    )の臭気。
3.ショウユ(    )と砂糖で味を付ける。
4.野ビル(    )は、春の代表的な食用野草だ。
5.セッケン(    )とシャンプーを使う。

これくらいにしておきます。むろん、現状ではお手上げの漢字ばかりです。みなさんはいかがでしょうか。なかなか手ごわいでしょう?特に、書きの方は、「読めるんだけどなぁ」と悔しい思いをしますね。これをスラスラと解けた方は、ためらうことなく1級を目指されたほうがいいでしょう。

解答
読み 1.えいげん 2.ひんぴん 3.しゅうしょ 4.かんが 5.きか
書き 1.憐察 2.韮 3.醤油 4.蒜 5.石鹸

というわけで、動機はきわめて軽薄ですが、やることそれ自体は、どう考えても悪いことではなさそうなので、ちょっと頑張ってみることにします。

You tube で、宮崎美子さんの例のCMが見つかったので、掲げておきます、はい。


宮崎美子 MINOLTA X-7(1980年 ジーパン脱ぎ脱ぎ)
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