美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

語源探索は、おもしろい  ――「わたし、脱ぐとすごいんです」の謎

2014年07月05日 02時52分05秒 | 教育


昨日の国語の時間に、生徒から「『はなはだしい』ってどういう意味ですか」と質問されました。手を変え品を変えて説明を試みたのですが、どうもピンと来ないようなのです。どうやら、「はなはだ」がどうして「とても」と同じような意味になるのかその理由が知りたい、ということのようなのです。それには、「はなはだしい」の語源をちゃんと知らないと答えられないので、正直にそう言って次回までに調べておくことにしました。

インターネットって、便利ですね。ちゃんとありました。「はなはだしい」は、漢字を当てると「甚だしい」で、副詞「甚だ」を形容詞化したものです。上代に「極端」の意味を表わす「はだ(甚)」という語があり、それを重ね合わせると「はだはだ」。それが音変化して「はなはだ」となり、「はなはだしい」となった、というわけです。もう少しこまかく言うと、「はだ」の「は」は「端」の意味で「だ」は接尾語です。もうひとつの説があります。「はな(花)」は目立つものの形容にも用いられる語ということから、「花甚」が形容詞化して「はなはだしい」となった、と。好みで言えば、私はこちらを採りたい気分です。

ついでに「はなはだしい」の類義語の語源をいくつかさぐってみました。

まずは、「ひどい」。漢字を当てると「酷い」。これは、人としての道理に外れていることを意味する漢語「非道(ひどう)」が形容詞化したものだそうです。そこから、「非常識である」「残酷だ」「むごい」「程度が非常に悪い、はなはだしい」と意味が広がっていきました。用例は、江戸時代から見られるとの由。状態や程度が好ましくない場合に用いられるのが普通ですが、「ひどく感銘を受けた」などと好ましい場合にも用いられるようになってきました。このように見てくると、だまされた女性が男に向かって「あなたって、ひどい人」と恨み言をいうのは、この語の語源に的中していると評するべきでしょう。当の女性は、そういうふうに言われても、ぜんぜん嬉しくないのはもっともなことですが。

次に、「めっぽう」。これはもともと漢語の「滅法」で、仏教用語です。因縁に支配される世界を超え、絶対に生滅・変化しない真如や涅槃といった絶対的真理を意味し、「無為法」の別名です。それで、「因縁を超越した絶対のもの」という意味が含まれていることから、近世以降、「桁はずれに」「はなはだしく」といった意味が派生し、「ケンカがめっぽう強い」「今日はめっぽう暑い」などという用い方がされるようになりました。

次に、「べらぼう」。「箆棒」は当て字です。その由来は、江戸寛文年間(1661~1673)の末頃から見世物小屋で評判になった奇人に求められるそうです。その奇人は全身が真っ黒で頭が尖っていて、目が赤くて丸く、あごはサルに似ていて容貌がきわめて醜く、愚鈍なしぐさで客を笑わせていました。その奇人が「便乱坊(べらんぼう)」とか「可坊(べくぼう)」などと呼ばれていたことから、「馬鹿」や「阿呆」の意味で「べらぼう」という語が生まれました。単に「馬鹿」や「阿呆」という意味のみならず、そこには″普通ではない者″というニュアンスがありましたから、そこから「程度がひどい」とか「筋が通らない」という意味が派生しました。「べらぼうめ」が音変化して「べらんめい」となり、江戸から上方に広がったそうです。上方が江戸から言葉を取り入れるとは、この言い方がよほど面白く感じられたのでしょうね。それにしても、「そいつぁ、ちょっとべらぼうじゃないかね」などという言い方を聴かなくなったのは、ちょっとさびしい気がします。私は、こういうレトロな物言いに心惹かれるところがあります。

もひとつ、「すごい」。これは、度を越している意味の動詞「過ぐ」が形容詞化したものだそうです。この語には、程度がはなはだしいという意味に「寒く冷たく身にしみる感じ」というニュアンスが織り込まれています。だから、たとえば「すごい美人」という肯定的な言い方には、「身の毛がよだつほどにはなはだしく美しい」という意味合いがこもることになります。それで思い出したのが、昔のCMのフレーズ。「わたし、脱ぐとすごいんです」。あれは、「すごい」という言葉のニュアンスを活かしきった秀逸な名セリフだったのですね。だって、「見る者の身の毛がよだつほどに、はなはだしく魅力的な裸体」というわけですから、聴き手を一瞬思考停止状態に陥れるほどのインパクトがあるのもうなずけます。しかし、これは中学生には言えませんな。

ついでながら、最初に出てきた「とても」について。これは、「とてもかくても」の略だそうです。「とてもかくても」は、「いずれにせよ・どっちみち・どのようにしてでも・どうあろうと」という意味ですから、「とても食べられない量」という使い方が本来の意味に沿っているようで、英語のveryに相当する意味は後に派生したものです。

語源由来辞典 http://www.gogen-allguide.com/info/

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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-07-16 03:06:52
はじめてコメントさせていただきます。
けっこうくそ真面目に書かせていただきます。
語源に対する関心というのは、日本と欧米のあいだではいささかの温度差というようなものがあるのでしょうか。
われわれはなぜ語源について考えるのかということのコンセンサスというのがちゃんとできているのかといえば、いささか疑問です。それは、ことばの起源について考えることなのだろうが、そのことに対する人類共通の認識がまだちゃんとできていないようにも思えます。
ひとまず一般的には、ことばは伝達の道具である、という認識で合意されているのでしょう。だから、語源探求も、「意味」を詮索してゆくことばかりなされている。多くの人がそれが語源探索の正道だと思っている。
しかし、はたしてそれでいいのでしょうか。
言葉は、「意味伝達」の道具として生まれてきたのでしょうか。
原始人が人や世界と出会って思わず洩らす「ああ」とか「おう」というような音声は、そんなことではないでしょう。べつに、誰に何を伝えるつもりでもなく、それでも思わず洩れてしまう音声がある。そういう体験が重なっていって言葉のかたちになっていったのでしょ。「ねえ」とか「さあ」とか「ふうん」とか「あーあ」とか「よお」とか「おい」とか「あれ?」とか「きゃあ」とか……そういう思わず洩らす音声がだんだん言葉になっていった。そういう思わず洩らす音声に、それぞれ違う感慨のニュアンスがともなっていることに気づいていった。
原初のことばは、思わず発してしまう(人間的なさまざまなニュアンスを持った)音声だった。「伝達する」というような意志とか欲望によって発せられたのではない。そのときことばを発するものもまた「聞く」という体験をしているのであり、その体験を共有しながら言葉が育っていった。「聞く」という体験を共有してゆくこと、それが「語り合う」という行為の本質でしょう。話すものだって、本質的には「言葉に反応している」のであり、そこにこそ人がことばを持つことの醍醐味がある。
ともあれ原初のことばがそなえていた機能は「感慨の表出」ということにあったのであって、伝達のための「意味」を持っていたのではない。
もちろんそこからしだいに現代的な意味伝達の機能も加わっていったのだが、すくなくとも「語源」においては、「音声を聞く」という体験の無意識がはたらいている。無意識的に、なんとなくそのような言い方になっていったのです。
「とても」という意味を表したくて「はなはだ」ということばを生み出したのでない。気がついたらいつの間にか「はなはだ」といっていた。
ごく手短にいえば「はなはだ=はなはた=花畑」ということです。「やまとことば」の語源は、基本的に濁音はありません。まあ「花畑」というだけで、なんとなく「にぎやか=とても」というニュアンスは伝わってくる。「はなはた=花畑」という地名は日本中にいくらでもあるが、すべてが「お花畑」という意味だったのではない。
「は」という音声には「無条件に」とか「スムーズに」とか「たちまち」というようなニュアンスがあります。そして「な」は「親密」「感動」の語義で、「た」は「完了」「充足」の語義。「たちまち感動して満ち足りてゆくこと」を「はなはた」といった。お花畑だって、そういう感慨をもたらす景色でしょう。しかし昔の人の無意識にはまだ語源のことば感覚が残っていたから、ただもう「たちまち感動して満ち足りてゆく場所」という思いを込めて「はなはた」という地名にしていった。漢字なんか、あとの時代にあてていっただけです。「ひらがな」で考えないと語源には推参できない。
「花(はな)」は、「無条件にたちまち感動し親密になってしまう」対象だったから、そういった。昔の人は、花に対するありったけの親密な想いを込めてそういった。ただ「目立つ」というだけでは「語源」にはならない。語源においては、あくまで無意識的な「感慨の表出」の体験だったのです。
「はたと思いつく」というときの「はた」は、「たちまち完了する(生起する)」というニュアンスでしょう。「果たす」といえば、まさに「完了」し「充足」することでしょう。
「はなはた」の語源は「たちまち感動して満ち足りてゆく」感慨の表出だった。そして「た」を「だ」にすればもっと大げさな感じになり、やがては「とても」という「意味」として定着していった。
語源探索のさらなる重さと面白さを訴えたくてコメントさせていただきました。
返信する
そのとおりですね (美津島明)
2014-07-16 07:52:49
貴重なコメントを、どうもありがとうございます。語源探索は、言語の本質に即した営みであるべきなのではないか、というご趣旨と承りました。そのとおりだと思います。また、「はなはだ」の語源についてのお話しも、傾聴すべき多くを含んでいると感じました。

当ブログは、ご覧のとおり、重くて長い文章が多いのです。そういう文章ばっかりだと、ブログ主人としても、ちょっとな、と思うわけです。だから、適当なタイミングで、軽くて短いものを挟むことにしています。いわゆる「薀蓄もの」は、私的に、そういうもののひとつとして位置づけています。だから、Unkownさんが、そういう文章を取り上げて、「これでは踏み込みが足りない。底が浅い」と思われたとしても、私としては「ごめんなさい」としか言い様がない、というのが正直なところです。人に楽しんでいただくだけでなくて、この手の文章を書いていると、私自身、楽しいですし、肩の凝りがほぐれていくような気もするのです。息切れせずに、細く長く当ブログを続けていきたいですしね。

「だから、そっとしておいてくれ」というわけではありませんよ。遠慮なく、「くそ真面目」なご意見をこれからもお寄せください。心より歓迎します。Unknownさんは、吉本隆明や時枝誠記あたりの言語論に深いご関心がおありのようですね。私も、実はそうなので、そういうものとのつながりでの語源探索には、けっこう関心があるのです。力量不足で、私にはそれができないだけのことです。細々と続けている『古事記』についての論考では、そういうことに少しだけ触れることになるのかもしれない、とは思っております。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-07-16 23:02:39
無事に読んでもらえて、ほっとしています。僕はコメントをするとき、相手の刺激になることを差し出そうと考えてしまいます。それで書き方がつい無作法になって誤解されたりすることもよくあるのだが、そのときはどうかご容赦を。
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