沖縄に配置された第三二軍が、沖縄県民と一体となり、死力を尽くして約三ヶ月におよぶ長期持久戦を戦い抜いたことは、前回申し上げました。それゆえ、米軍の物量に物を言わせた熾烈極まる攻撃は、将兵のみならず、沖縄県民にも多大な犠牲を強いることになりました。そのなかでも集団自決の問題は、とりわけなにかと取り沙汰されることの多い論点であるようです。たしかに、その悲惨さ・救いがたさは、聞く者をして言葉を失なわしめるほどの重さ・深刻さを有しています。ましてや、それが軍に強制されたものであったとすれば、上級統帥のみならず、現地の第三二軍も、大東亜戦争の義を自らの手で扼殺したと断じざるをえなくなるほどの深刻な事態である、ということになりましょう。
当論考の「その2」で、私は、戦争の義に関して次のように申し上げました。
″近代国民国家の戦争は、それが追い詰められてやむを得ず始めたられたものであろうと、なんであろうと、国益を守るためになされるべきものです。君主の私権のためになされるべきものではない、ということです。そうして、国益の核心には、無辜の一般国民の生命を守ることがあります。つまり、無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを絶った戦争に、義はない。だから、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければなりません。″
そういう言い方にそれなりの理があるのだとすれば、沖縄県民に対する集団自決の命令や強制は、軍が自分たちの戦いと無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを断ってしまうことで、その戦いの義を喪失することを意味します。“いや、自分たちには天皇のために戦っているという義がある”と言い張ってもダメです。臣民を「おおみたから」として慈しむところに天皇の御心があるのですから、そういう振る舞いが、天皇の御心を踏みにじるものであることは明らかだからです。その御心が国体の本義であるのだから、“自分たちは、国体護持のために戦っている”と言ってみてもやはりどうにもなりません。
さらに言えば、たとえ沖縄県民の集団自決が軍の命令や強制ではなかったとしても、その重みを私たちは十二分に感じ取り、そこからなにものかを取り出さなければならないことには変わりありません(そのことについては、集団自決の話の後に触れましょう)。
これから沖縄県民の集団自決に非力をかえりみずに触れてみようと思います。しかしながら、一口に集団自決と言っても、主だったものだけでも、列挙すれば、伊江村のアハシャガマなど約百人、恩納村(おんなそん)十一人、読谷村(よみたんそん)のチビチリガマなど百二十一人以上、沖縄市美里三十三人、うるま市具志川十四人、八重瀬町玉城(たまぐす)七人、糸満市、カミントウ壕など八十人、座間味島二三四人、慶留間島五三人、渡嘉敷島三二九人と十件ほどあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA より
そのなかから、読谷村のチビチリガマと渡嘉敷島の事例に触れてみようと思います(座間味島のケースにも後に少しだけ触れます)。両者ともに規模が大きいことと、読谷村の場合には軍からの直接の命令がなかったのに対して、渡嘉敷島の場合それがあったとされているという違いがあることが選び出した理由です。
読谷村のチビチリガマの集団自決については、読谷村HPにきちんとした記載があるので、まずは、それからの引用をご覧ください。その前に、昭和二〇年(一九四五年)四月一日の米軍上陸前後の様子に触れておきましょう。
上の図から分かるとおり、読谷村は、四月一日午前八時三〇分に米軍が押し寄せた海岸沿いの村です。夜の明け切らない午前五時半から、沖合に並んだ戦艦十、巡洋艦九、駆逐艦二十三、砲艦百七十七が、いっせいに砲門を開きました。二十センチ以上の大型砲弾四万四千八百二十五発、ロケット弾三万三千発、臼砲弾二万二千五百発が、第一陣が上陸する一、二分前までの約三時間内に、渡具知海岸地帯に撃ち込まれました。よく晴れた、抜けるような青空がたちまち黒い空に一変したといいます。住民がどれほど身の縮む思いをしたか、想像するにあまりあります。
チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ五〇〇メートルほど行った所の、深さ一〇メートルほどのV字型をした谷の底にあります。米軍が上陸した海岸からは八〇〇メートルほど奥まったところにありました。集落内に源をもつ湧水が流れ出て小さな川をなし、それが流れ込む所に位置し、川が尻切れる所なので「チビチリ」(尻切れ)という名が付いたそうです。「ガマ」は鍾乳洞のことです。HPから引きましょう。
チビチリガマの悲劇は、一九四五年四月二日に起きた。生か死か――騒然とする中、一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けた。中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んで「決死」の覚悟だったようだ。当然のように壕内は混乱した。「自決」を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、結局多くの犠牲者を出した。燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。
日本軍の中国戦線での「残虐非道ぶり」とチビチリガマでの集団自決を結びつけようとする強引な手つきはちょっと気になるところですが、それはとりあえず措いておくとして、ある男の先導によって、周りの人々が自決に追いやられていく状況が、よく分かります。
「集団自決」に至るまでには幾つかの伏線があった。四月一日、米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。上陸直後のため敵の人数もそう多くはないと思い込んだのが間違いだった。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。
避難民が、竹槍を持って、米兵に立ち向かおうとしている点は見逃せません。避難民のすべてが恐怖で縮み上がっているわけではなくて、軍の保護のない状態で、なおも敵と戦おうとしている者もいたことは、注目すべきでしょう。
米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。
第一次大戦後日本の委任統治領となったサイパン島には、沖縄からたくさんの人々が出稼ぎに行きました。だから、サイパン島における民間人の集団自決の事実が、沖縄県民の間でよく知られていたのは、うなずけるお話しです。そのことが、沖縄での集団自決を促したという側面があるのでしょう。しかし、みながみな、自決に即座に賛成したわけではないことが分かります。わが子を目の前で死に追いやることをためらうのは、親として当然のことですから。
結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま二日を迎えた。前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。その間にもいくつかの悲劇は起きていた。十八歳の少女が母の手にかかり死亡したり、看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。横たわる死体。そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた。
まともに睡眠をとりえない状況は、人間を心理的に極限にまで追い詰めます。極端な睡眠不足は、精神状態を平常に保ち正常な判断を下すことを著しく困難にするのです。
そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。煙で苦しんで死ぬより、アメリカに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。
大半の人々は、精も根も尽き果てたところで、やむをえず集団自決を受け入れた様子がうかがえます。
避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。波平の人々が、知っていても語ることなく、口を閉ざしたのは、チビチリガマの遺族の人々自らが語り出すまでは、黙っておこうといった、地域の人々の思いを反映したものであったと言われる。
ガマ(鍾乳洞)のなかは、いわば密室です。そこにじっとうずくまっている状態で命の危険に晒されても、そこから逃れる術はないのです。あえてそこから逃げ出せば、雨あられのように降り注ぐ、米軍の銃弾や砲弾の餌食になるだけ、という極限状況を私たちは思い浮かべなければなりません。「ならば」と、戦後に生きる私たちは考えます、「集団投降すればよかったではないか」。しかし、当時の沖縄県民の立場と精神状態を考えれば、それはきわめてむずかしいことではなかったかと思われます。
沖縄県民が、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓の影響を強く受けていたという事情があったのは、もとよりそうでしょう。そこに、″捕虜になれば、女たちは犯され、男たちはひどい目にあう″という鬼畜米英のイメージが重なれば、投降しようにも投降できなくなってしまうのは、理の当然です。
しかし、私が気にかかっているのはそういうことといささか異なります。
誤解を恐れずに言いましょう。離島に住む人は、本土に対して、根深いコンプレクスを抱いているという事情が、投降をいちじるしく困難にしたのではないかということです。
これは、他人事として言っているのではありません。私自身、対馬という離島の出身なので、そういう感情について自分なりによく分かるところがあります。田舎者の都会人に対するコンプレクスと、文化の辺境で生まれ育ったことをめぐるコンプレクスと、貧しい者が抱くコンプレクス(離島は貧しいのです)とが、離島人コンプレクスを構成しているのではないかと思われます。戦前であれば、本土の沖縄に対する差別意識が露骨でしたから、沖縄県民はそういう心性を抱きやすい状況にあったといえるでしょう。
当時の沖縄県民が独自の文化圏を有していたことはもとよりそのとおりではありますが、地理的歴史的経済的事情から、彼らが根深い離島人コンプレクスを抱いていたこともまた間違いないものと思われます。私が申し上げたいのは、″だからこそ彼らは、本土へのあこがれや、立派な日本人として振舞いたいという思いがほかのどの日本の地域の人々よりも強かった。そのことが、県民の軍への深い信頼や献身をもたらしたのではないか。そうして、そうしたものが、ほかの諸要因とともに集団自決の悲劇を余儀なくさせたのではないか。″ということです。投降など日本人として恥ずかしくてとてもできたものではない、という思いが、それを口に出すかどうかは別として、あったのではなかろうか、ということです。引用文中の、少なからぬ「天皇陛下バンザイ」の叫びには、島民のそういう思いが込められているように感じられてなりません。
軍が彼らに集団自決を命令・強要したのだとすれば、それは、沖縄県民の信頼や献身的な協力を悪用し裏切るとんでもない振る舞いであると断じるよりほかはないでしょう。つまり、沖縄戦は、戦術的に一定の効果をもたらしたかもしれませんが、義なき非道の戦いであった、となります。
それを検証するために、渡嘉敷島の集団自決に話を移しましょう。差し当たりそれは、集団自決における軍の命令の有無をめぐって展開されることになります。しかし、私の関心それ自体は、実はその先にあることをあらかじめ申し上げておきます。
渡嘉敷島の集団自決が軍の命令によって実行されたことをはじめて主張したのは、『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社編 一九五〇年初版発行)です。そこから文章を引く前に、渡嘉敷島の地理と同島上陸前後の日本軍の動向を確認しておきましょう。
渡嘉敷島は、慶良間諸島のなかの一つの島です。慶良間諸島は、現在の那覇空港から東に35kmのところに位置します。渡嘉敷島は、当諸島のほぼ中央部に位置する諸島内最大の島です。ほかには、座間味島や阿嘉島や慶留間(げるま)島があります。
三月二六日午前九時ごろ、沖縄本島の軍司令部の目が、沖縄本島に撃ち込まれる艦砲射撃と爆撃に釘付けになっていたとき、誰も気付かないうちに、水陸両用戦車を先頭に立てた米上陸部隊が、座間味、阿嘉、慶留間の三島に襲いかかりました。ほどなく、渡嘉敷島にも、艦砲射撃がなされ始めました。
″こんな山ばかりの島に、米軍がわざわざ上陸してくるはずがない″と考えていたのは、軍司令部だけではありませんでした。慶留間諸島に配置された海上挺進戦隊の誰もが、島を守る手筈には、注意を向けていなかったのです。というのは、彼らは自分たちが「死ぬこと」だけを考えていたからです。彼らは事実上の海の特攻隊員だったのです。それが、渡嘉敷島の悲劇につながっていきます。
それだけではありません。一九四四年(昭和十九年)九月七日以来、慶良間の各港は、海の特攻隊としての海上挺進戦隊の機密保持のために、軍の命令で閉鎖され、住民四〇〇〇人は外界と完全に隔絶されました。そういう環境下で、住民たちは、慶良間の名誉のために、国防婦人会総動員で接待に当たりました。もともと慶良間は、日本軍への協力と参加を誇っていた土地柄で、島の出身者から将校も出しており、軍に対して、よろこんで寄与し協力しようとする気風がありました。文字通り、軍と島民が一体となって戦いに臨む体制を作り上げていたのです。そのことも、渡嘉敷島の悲劇につながっていくことになります。
では、『沖縄戦記 鉄の暴風』から引きましょう。
渡嘉敷島の入江や谷深くに(特攻用の――引用者補)舟艇をかくして、待機していた日本軍の船舶特攻隊は急遽出撃準備をした。米軍の斥候(せっこう・敵情偵察兵のこと――引用者注)らしいものが、トカクシ山と阿波連山に、みとめられた日の朝まだき(三月二六日。本書では二五日と誤記されている――引用者注)、艦砲の音をききつつ、午前四時、防衛隊員(沖縄防衛のため現地在住の男性により組織された軍事集団。沖縄全体では約二万人。島内では七〇人――引用者注)協力の下に、渡嘉敷から五十隻、阿波連から三十隻の舟艇がおろされた。それにエンジンを取りつけ、大型爆弾を二発宛抱えた人間魚雷の特攻隊員が一人ずつ乗り込んだ。赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の濠深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、刻々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。
渡嘉敷島・島民の集団自決を命令した張本人とされる海上挺進第三戦隊・戦隊長赤松大尉は、本書において、特攻を拒み我が命を惜しむ卑怯者の特攻隊長として登場します。衝撃的といえば衝撃的な登場の仕方ではありますけれど、これは、どうやら事実ではないようです。吉田俊雄氏の『最後の決戦 沖縄』(NF文庫)によれば、海上挺進第三戦隊の出撃を中止させたのは、赤松隊長ではなくて、海上挺身隊の総指揮官・軍船舶隊長大町茂陸軍大佐です。赤松隊長は、むしろ出陣を阻止されたショックで顔面蒼白の状態になりながら「昨日来、空襲を受け、本日はまた艦砲射撃を受けております」と事態の急迫を訴え、上官の命令に抗おうとして、激しく叱責されています。この一事からだけでも、私たちは、沖縄タイムス社が編集した『鉄の暴風』が作り上げようとした「物語」がどういうものか察することができると思われるのですが、それについては後ほど触れることにして、いまは、同書からの引用によって、集団自決の顛末を確認する作業を進めましょう。
翌二十六日(二十七日の誤り――引用者注)の午前六時頃、米軍の一部が(中略)上陸した。(中略)赤松大尉は、島の駐在を通じて、民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。
集団自決命令の予告ともとれるメッセージが、この段階で、赤松隊長から発信されている、というわけです。しかし、「保護してやる」とは、ずいぶん傲慢な口ぶりです。それに加えて、集結命令は無残な形で撤回されます。
住民は喜んで軍の指示に従い、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。
もちろん住民たちは、あっけにとられました。しかたなく、西山A高地のふもとの恩納河原に下って、思い思いに、避難場所を探しました。ここでの赤松隊長は、住民たちを右往左往させるだけの横暴でダメなリーダーという姿で描かれています。ところが、それだけではありませんでした。その翌日に、赤松隊長から「住民は、速やかに、軍陣地附近を去り、渡嘉敷に避難しろ」という無慈悲な命令が下されました。なぜ無慈悲なのかと言えば、渡嘉敷にはすでに米軍が上陸していたからです。端的に言えば、「死ね」と命令しているに等しいのです。むろん、住民はその指示に従うことをためらいます。そうしてついに、恩納河原付近で途方にくれている住民たちに対して、決定的な命令が下されることになります。
同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである。(中略)米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。(中略)最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に迫っていた。
いよいよ集団自決が決行されることになります。次は、その生々しい描写です。あまり気が進まないのではありますが、ここまで進んできた以上、書き写すのはやむをえないでしょう。私は、歴史の神様に両の掌を合わせる気持ちで、書き写します。
住民たちは死(原文ママ)場所を選んで、各親族同志が一塊一塊になって、集まった。手榴弾を手にした族長や、家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、――男、女、老人、子供、嬰児――の肉(原文ママ)四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頸部を切ったり、鍬で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、世にも恐しい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまった。
その結果、三二九人が集団自決で亡くなり、敵の迫撃砲による戦死者が三二人、手榴弾の不発で死をまぬがれたのが、渡嘉敷一二六人、阿波連が二〇三人、前島民が七人だったそうです。
同書は、そのほかの赤松隊長の悪業を暴き立てます。すなわち、飢餓線上をさまよう島民を尻目に、島の食料の50%を軍に供出することを義務付ける強制徴発命令を出したり、スパイ容疑に基づく島民の不必要な虐殺を幾度も実行したりしたことを、です。
これらすべてが事実だとすれば、赤松許すまじ、の気持ちが嵩じてくるのは、渡嘉敷島の人々や沖縄県民ばかりではないでしょう。少なくとも、赤松部隊の戦いぶりに義はない、となりましょう。というより、他から隔絶されたごく狭い場所で起こったことだけに、かえって日本軍の悪しき本性を純粋に浮かびあがらせる事例である、という見方も成り立ちうるでしょう。そうなると、義もなにもあったものではありません。
大江健三郎氏の『沖縄ノート』(岩波新書・一九七〇年)は、『鉄の暴風』が渡嘉敷島の惨事に関して描き出したものをほぼそのまま踏襲したうえで、あらためてその惨事に触れています。どういう触れ方をしているのか、見てみましょう。意味をきちんとたどるのがけっこうしんどい文章ですが、おつきあい願えれば幸いです。
『創造』を支えているもうひとりの中心人物たる高校教師は、なおも直截に、それを聞く本土の人間の胸のうちに血と泥にまみれた手をつっこんでくるような事実を、すなわち一九三五年生まれのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島でおこなわれた集団自殺を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で、祖父と共にひそんでいたひとりの幼児が、隣りあった防空壕で、子供の胸を踏みつけ、兇器を、すぐにもかれ自身の自殺のためのそれとなる兇器をふるうひとりの父親を覗き見てしまい、祖父と共に山へ逃げこむ。そのようにして集団自殺の強制と、抗命による日本軍からの射殺と、そして米軍の砲撃という、三重の死の罠を辛くも生き延びたところの、まさに慶良間におこった事件の、その核心のところに居合わせた人間の経験についてかれは篤実に語るのであった。
引用文中の『創造』とは、大江氏自身の言葉によれば、「一九六一年四月、《沖縄劇団の不毛を克服すると同時に、演劇を通じて現実変革のビジョンを構築していこう》という呼びかけをかこむようにして集まり、ふじた・あさや作の『太陽の影』を上演して出発した」劇団です。「ふじた・あさや」をインターネットで検索してみたら、彼の「平和憲法を持つ日本が、『憲法9条があるので仕方がない』と軍隊を送るのを拒む姿は、少なくとも平和の役に立つ。仕方なくても何でもいい。『これは置いておこう』とみんなが思うことを心から願う」(09年2月インタビュー)という内容の発言が見つかりました。どうやらいまにいたるまで、戦後民主主義をほぼ無傷の状態で保持し続けてきた人のようです。そういう人の作品を上演して出発した劇団の「もうひとりの中心人物たる高校教師」なる人物は、渡嘉敷島の「集団自殺」が「軍人によって強制された」ものであったと証言しています。ただしこの人物は、証言内容のなかの「幼児」ではありません。つまり、伝聞したことがその証言内容のすべてです。また、「抗命による日本軍からの射殺」が「幼児」によって目撃されたものなのかどうかもはっきりしません。さらには、どのような事実に基づいた指摘なのかもはっきりとしません。大江氏の物々しくて深刻めいた言い方のわりには、その証言の内容は具体性に乏しいと言わざるをえません。大江氏が、″渡嘉敷島で、軍の強制による住民の集団自決というひどい事実があった″ことを告発したがっていることだけは分かる文章であるというよりほかはありません。
本書は、もう一箇所、渡嘉敷島の惨事にふれています。こちらは、もっと長い文章です。
(前略)新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしずかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。
同書において、赤松隊長が「米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否」し、「投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑」し、「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいた」と断定しているのは、先ほど取り上げた『鉄の暴風』を踏襲しているものと見て間違いないでしょう。それに加えて大江氏は、赤松元隊長の、渡嘉敷島での慰霊祭に出席することをめぐっての発言をはなはだしく否定的に受けとめているようです。
おりがきたら(原文、以上傍点。以下、「おりがきた(ら)」にはすべて傍点あり)、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。僕は自分が、直接かれにインタヴィューする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的資質についてなにごとかを推測しようと思わない。むしろ彼個人は必要でない。
と言いながも、大江氏は、赤松元隊長の発した「おりがきたら」という一言をめぐって、想像力を逞しくします。″いかにおぞましく恐しい記憶でも、その具体的な実質の重さはしだいに軽減していく。ましてや、その人間ができるだけすみやかに厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはなおさらそうである″とした上で、大江氏は、なぜか唐突に強姦の事例を挙げます。
たとえば米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。このような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で(原文、傍点)犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛(原文、「つかのまの愛」に傍点)などとみずから表現しているのである。
要するに大江氏は、赤松元隊長が「おりがきたら」と発言した心持ちは、この強姦魔の兵隊と同じであると言っているのです。これは、『鉄の暴風』で描かれた「極悪人・赤松隊長」のイメージを前提としてのみ成り立つ心理分析です。
慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。(中略)誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。
このような調子が延々と続くのです。こういう、巨悪をなしたとみなされている人物に、人間としての最低・最悪の心理を、妄想を逞しくして延々と読み込み続けることを、(仮に彼が本当に巨悪をなしていたとしても)私は素直に受け入れることができません。どこかおかしいと思うのです。もっと踏み込んで言ってしまうと、大江氏の人間観は根のところで致命的に誤っている、人間の心は彼が思うほどには分かりやすくできていない、という私の人間観が、そういう振る舞いを拒否するのです。「この異様な経験をした人間の個人的資質についてなにごとかを推測しようと思わない」と言った舌の根も乾かぬうちに、赤松元隊長の人間性を全否定し、事実上の断罪をしていることも気に入りません。
文芸批評家・福田恆存氏は、″一匹と九九匹を目の前にして、一匹の側につくのが文学である″という意味のことを言っています。それを踏まえるならば、赤松元隊長をめぐる大江氏の振る舞いは、それとは逆なのです。彼は九九匹の側に就いて、集団で一匹に石を投げつけているのです。つまり大江氏は、ここで文学を捨ててしまって、政治的に振舞っている。そういう自覚もなく、この期に及んでも「想像力」などという言葉を振り回して文学者のふりをしているのは無残としか言いようがありません。
それに対して、大江氏を弁護する向きは当然あると思います。彼らは、おそらくこう言うのではないでしょうか。″お前は、間違っている。大江氏は、歴史的に本土によって虐げられ、差別され続けてきた犠牲者としての沖縄という「一匹」の側に就いているのだ。彼のすべての言葉は、その立場から発信されているのであるから、彼こそまさに文学の本道にかなったスタンスをとっている。そういう大江氏を批判しようとするお前こそ、九九匹の側に就いて、一匹に石を投げつけようとしているのだ″というふうに。
しかし、私はそう思いません。「歴史的に本土によって虐げられ、差別され続けてきた犠牲者としての沖縄」という言い方は、(厳しい言い方になりますが)実はひとつの政治的なフィクションであり、そういう立場を選択するのは、あくまでも擬制としての「一匹」に就くことにほかならないのです。さらにいえば、大江氏のように「一匹」の側に就いているというポーズをとるのは、文学的に言えば醜悪の極みであり、政治的には錯誤にほかならない、と私は思っています。もっとも、政治ゴロとして妥当な振る舞いであるとは思いますが(ここは、いまのところあまりうまく伝えられていないような気がします。もっと先のところで、もういちどここに立ち返りましょう)。
世間から鬼か悪魔のように言われて続けている赤松隊長とはいったいどういう人物なのか、という疑問や興味を抱くのが、まっとうな文学者としての自然な心の動き方なのではないでしょうか。
曽野綾子氏が、『ある神話の背景』(一九七三年)を上梓した動機は、そういうものだったのでしょう。事実曽野氏は、本書の「新版まえがき」で「赤松氏に関しては、渡嘉敷島の集団自決の歴史の中では、悪の権化のように描かれていた。そして本文中にも書いたように、私はそれまでの人生で、絵に描いたような悪人に出会ったことがなかったので、もし本当にそういう人物が現世にいるなら是非会ってみたい、と考えたのが作品の出発点である」と言っています。まっとうな文学者としてのごく自然な動機ですね。それに促されて、曽野氏は、赤松隊長に会い、存命の部下たちにも会い、さらに渡嘉敷島の惨事の関係者にも会いました。要するに氏は、渡嘉敷島集団自決事件の根本的再検討をするに至ったのです。その結果氏は、「『直接の経験から《赤松氏が、自決命令を出した》と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった』と言うより他はない」という結論に至りました。それがどれほど衝撃的なものであったか、そうしてあり続けているのかは、主に左派リベラルのひとびとのブログ等によるおびただしい数にのぼる、過剰なまでの寄ってたかっての「曽野バッシング」が明らかにしています。彼らにしてみれば、「痛いところ」を突かれたのですね。だから、必死になって否定しようとするのでしょう。あらん限りの憎悪を本書に注ごうとするのでしょう。それらの反応それ自体が、興味深いといえば興味深いのではありますが、それはひとまず措きます。(この稿、続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます