美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

石狩川の流れはなぜ速いのか

2014年09月17日 07時28分44秒 | 歴史


私の父方の伯父は、北海道の札幌市に住んでいます。そのため私は、これまで何度も札幌市に行きました。そのついでに、市内や郊外をうろついたことも何度かあります。

十年ほど前のことだったでしょうか。私ははじめて石狩川を間近に見ました。その流れの速さに、私は目を見張ったものです。間違って川に落ちることを想像しただけで、寒々とした気分になりました。大人でも、けっこう大変なことになるのだろうなぁ、自力で這い上がれるのだろうか、などと妄想が尽きませんでした。「こんなに流れが速いのは、雪解け水がふんだんに流れ込んでいるからなのか」などとぼんやり考えましたが、それ以上は深く考えませんでした。春先ではなかったような気がするので、自分でも、脳裏に浮かんだその答えにあまり納得しなかったことをなんとなくですが覚えています。

最近、元建設省官僚・竹内公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』(PHP文庫)を読んで、その本当の理由を知ると同時に、インフラなるものについての自分の認識がいかに浅薄なものであったのかを思い知ることにもなりました。以下、初めて知ったことを前から知っていたかのような話し方をしますが、それは、知ったかぶりをしたいのではなくて、引用を繰り返すことで読み手であるみなさまを煩わせたくないからです。

話は、一八六九(明治二)年、開拓使が設置され、蝦夷(えぞ)が北海道と改められ入植が始まったころにさかのぼります。北海道は北緯四二度以上に位置する亜寒帯気候域です。だから、入植を支援した政府は西欧式の大規模な畑作農業を目指していました。ところが、入植者たちは「米」にこだわりました。生まれ育った内地を後にして、いわゆる「化外の地」というよりほかのない北海道に流れ着いたことが、彼らをして「米」にこだわらしめた、という側面があったのかもしれません。竹村氏の言い方を借りれば、「米は日本人にとってかけがえのない宝であり、生きる希望であった」となります。

北海道の太平洋側の、夏の平均気温が十六~七度で霧深く北東の風が吹く、という厳しい気候は米作りにまったく適していませんでした。それに対して、日本海側の石狩川流域の夏の平均気温は札幌で二一度だったので、どうにか米を作ることができました。それで入植者は、米作りを目指して石狩平野の石狩、空知(そらち)、上川流域へと入っていきました。

ところが、とんでもない障害が入植者たちを待ち構えていました。それは、みなさまも中学生のころに地理の授業で教わったにちがいないと思われますが、「泥炭層」です。では泥炭層とはいったいなんなのでしょうか。

六〇〇〇年前の縄文前期、海面はいまよりも五メートル高く、石狩平野一帯は遠浅の内湾でした。その後、寒冷化とともに海水面が低下し、かつて海だったところが石狩川の土砂によって沖積平野、すなわち石狩平野に姿を変えていきました。残念なことに、寒冷地である北海道では、堆積した植物の分解が進まず、炭化した状態のまま蓄積されることになりました。それが泥炭層です。六〇〇〇年間に堆積した泥炭層の深さは二〇メートルを超えました。

泥炭は燃料にするには適していますが、稲作には適しません。入植者たちは表土の農作土を他から搬入するという重労働を繰り返すほかはありませんでした。しかし、下層の泥炭層はいやというほどに水分を含んでいて、搬入した農作土はすぐ腐食して使い物にならなくなりました。水分を含む泥炭層は雪が解けてもなかなか乾かず、初夏になり乾燥しかけてもわずかな降雨で元の泥炭湿地に逆戻りしてしまうのでした。

泥炭層の水を抜くこと。泥炭層の地下水を低下させること。それが入植者たちの死活問題となりました。それを実現するには、石狩川の河口まで徹底的に川底をさらう浚渫(しゅんせつ:港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事のこと)をしなければならないのですが、当時の開拓庁も入植者たちもあまりにも貧しかったので、弥縫策に終始するよりほかはありませんでした。根本的な解決は、先延ばしされるほかなかったのです。

一八九八(明治三一)年、未曾有の大洪水が石狩平野を襲いました。そのため、入植者たちのたくさんの命と彼らが開発したわずかばかりの田畑とが濁流にのみこまれました。そのままでは北海道開拓事業は全滅、という危機的状況でした。それで、さすがに中央政府も、石狩川の治水に乗り出さざるをえなくなりました。日露戦争の勃発が現実味を帯びてきたので北海道の国防上の重要性が浮上してきた、という事情もありました。

とはいうものの、当時の日本政府は借金をしなければ戦争もできないほどに貧しかった。それゆえ、北海道に派遣された土木技術者たちは、乏しい予算で石狩川の洪水を防ぎ、泥炭層の地下水を下げるという二つの課題を同時に達成しなければならなかったのです。

彼らは徹底的な石狩川のショートカット、すなわち捷(しょう)水路計画を策定しました。流れにくい蛇行部をショートカットして直線にするのです。この計画は内地でも実施されている一般的な手法です。しかし、石狩川のショートカット計画には別の狙いが秘められていました。

蛇行部を直線にすると流れは一気に速くなり、洪水は短時間で流れ去ります。ショートカットの一般的な効果はそれだけです。ところが石狩川の場合、その先があります。

石狩川の川底は柔らかい泥炭層です。だから、流れが速くなると川底の泥炭は削られていきます。川底が削られると石狩川の水位は下がります。水位が下がると泥炭層の地下水は石狩川に吸い出され、低下していきます。

その狙いは見事に当たりました。ショートカットによって石狩川の流れが早くなり、川底は水流で削られて低下していきました。川底が下がると、泥炭層の地下水は次々と川に吸い出されて低下していきました。徹底的なショートカットによって、全長三六〇kmあった石狩川が、なんと二六八kmにまで短縮されたのです。その結果、石狩川の各地にはショートカットされた蛇行部の三ケ月湖が残されています。それらのすべてが石狩川より高い位置に浮くように存在していることが、石狩川の川底が削られて低下したことの証となっているのです。竹村氏は、土木技術屋としての熱い思いをこめて次のように言っています。「土木技術者たちは、今まで苦しめられてきた石狩川の流れの力を逆に利用したのだ。この執念のショートカットが進むにつれ、悪夢の泥炭地が希望の大地に生まれ変わっていった。彼らは生死の瀬戸際の戦いで勝った。石狩川ショートカットの図面で感じた執念は、彼らの生への執念であった」と。

私は、以上のことを知り、打ちのめされてしまったと言っても過言ではないほどの衝撃を受けました。単なる自然現象だと思っていた石狩川の速い流れが、実は、高度な知に裏付けられた、人間の執念のたまものであったからです。まさしく、「知と汗をあつめて速し石狩川」なのです(字余り、失礼)。インフラをめぐるこのような壮絶なドラマが、北海道に限らず日本列島のあちらこちらに数え切れないくらいあるに違いありません。それを思うと私は、日本列島のインフラ整備のために注ぎ込まれた先人の叡智と深い思いに対して、黙って頭を垂れるほかはありません。自分たちが当然のことのように享受している豊かさなるものは、実は、さまざまな自然条件と格闘することでインフラを整備し続けてきた先人たちの知と汗の結晶なのです。

そのことに思いを致せば、私たちは謙虚であるほかはないでしょう。インフラ整備、すなわち、公共事業を軽々しくバラマキなどと批判して貶めることなどできうるはずがありません。そういう振る舞いは、インフラなるものについての無知と、自分の無知を悟らぬ愚かさ・軽率さと、先人に対する傲慢な態度とによってもたらされるものであると断じざるをえないのではないでしょうか。

一八五九年以前には一〇〇軒たらずの貧しい寒村にすぎなかった横浜村が、その三〇年後の一八八九年には人口一二万人の近代港湾都市に変貌し、近代日本の表玄関に成長していくうえでの、水関連インフラ整備をめぐる横浜の「格闘」とも称しうる営みの果たした役割の意義など、ほかにも触れたいことがいろいろとあるのですが、それはまた別の機会に譲りましょう。

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