美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三河島~南千住ぶらぶら紀行(その2)円通寺

2014年09月02日 22時43分24秒 | 報告
JR常磐線と五〇〇メートルほど隔たった並行な通りを歩いているうちに、南千住警察署を通りかかりました。すると、柄シャツを着たあんちゃん風な人物と数名の若い警察署員との間で、いささか剣呑なやりとりをしています。どうやら、あんちゃん風が警察署の前の歩道に自転車をとめているのをおまわりさんから咎められているようです。あんちゃん風のセリフがふるっています。「オレが子どもンころは、別にとめてもよかったんだけどよぉ」。お前たちより顔が古いんだぞと言いたいのでしょう。おまわりさんも苦笑するほかありません。なんとなく、このあたりの土地柄がにじみでているような珍事でした。少なくとも高級住宅街では決して見られない光景です。

そのあたりを歩いていると、ちょっと風変わりなお寺が後ろ向きに見えてきました。タイの寺院風な尖塔が空高く突き出ているのです。タイ・フリークのIが興味を示したので、日光街道に出て表に回ってみることにしました。すると私たちの目に、墨で書かれた大きな「円通寺」の文字が飛び込んできました。Iはおもわず「ここだったのか」とつぶやきました。彼にとって円通寺は、今回の散策のお目当てのひとつだったのです。

Wikipediaによれば円通寺は、寺伝によれば、七九一年(延暦十年)坂上田村麻呂によって開かれた由緒あるお寺です。明治維新のとき、一八六八年(慶応四年)の上野戦争で亡くなった彰義隊(幕府側)の隊員を、このお寺の住職が弔ったのが縁で、弔った場所の近くにあった上野寛永寺の黒門(総門)を円通寺に移築し、彰義隊員の墓もそこにあります。私たちはその門に入り、榎本武揚の名が刻印された墓碑を確認しました。そのまわりには、私たちが耳にしたことのない隊員たちの名が刻まれた墓が少なくとも三〇くらいはありました。またそこは、一九六三年に起こった吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体が発見された場所でもあります。敷地内に、同事件にちなんだ立派な慰霊地蔵がありました。いまでは交通量の多い通りに面していますが、当時は閑散とした場所だったのでしょう。吉展ちゃん事件については、私が幼少のころ親たちが話題にしていたのを覚えています。私の本名の「ヨシ」と同音だということを、母は何度も私に言った記憶があります。

円通寺から歩いて五〇〇メートルもないところに浄閑寺があるのですが、今回は行きませんでした。このお寺は、安政二年(一八五五年)の大地震で犠牲となった、新吉原の遊女たちの遺体が投げ込まれたとの伝承から「投込寺」とも呼ばれています。そのお寺から目と鼻の先にかつての吉原があったのです。Iと私は、大江戸が果てる北東あたりをさまよっていることになります。そこに漂っている歴史の濃密な空気にあてられながら、私たちはぶらぶら紀行を続けましょう。(この稿、つづく)

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