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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

『古事記』に登場する神々について(その4)イザナキ・イザナミ神話完結編

2014年03月22日 05時34分27秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その4)イザナキ・イザナミ神話完結編


島根県の東出雲町にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の千引石(ちびきいわ)

前回に提示したふたつの疑問のうち、「我をな視たまいそ」というイザナミの言葉にまつわっての禁室話型に触れずじまいでした。

禁室話型のパターンは次のとおりです。

① 女主人公が、男に対して自分の部屋を覗くことを禁止する。
② 男がその禁を破って部屋を覗く。
③ 正体がばれた女主人公と男とが離別する。

イザナキ・イザナミ神話も、このパターンをほぼそのまま踏襲します。ほかには、昔話の『鶴の恩返し』や木下順二の『夕鶴』がこのパターンの話としては有名でしょう(『鶴の恩返し』は話素が異なります)。また、ギリシャ神話のオルフェウス・エウリュディケの話も、細かい違いを除けば、ほぼそのパターンを踏襲しています。詳しくは知りませんが、中国にも似たような神話があるそうです。

私は、ユングのように、ここで集合的無意識の存在を主張するつもりはありません。が、この事実から最低限、人の心を動かす話のパターンに民族の違いや国境はないとは言えるのではないかと考えます。いいかえれば、話型は通時的に普遍性を有すると同時に共時的にもそれを有する、となりましょう。

では、なにゆえ禁室話型が、地域や民族や時代の違いを超えて、人々の心を深く揺さぶるのでしょうか。

それは、エロスにまつわる失敗や挫折に対する痛切な思いやその記憶が普遍的なものだからではないかと、私は考えます。卑近な例を挙げます。気の置けない友と深酒をして心理的に武装解除をしたとき、私たちは、自分にとってのかけがえのない人をめぐっての思いの丈をお互いに腹を割ってしみじみと伝え合わないでしょうか。そのときに湧き出てくる思いは、たいていの場合、取り戻しようのない過去についての後悔や愚痴や儚い望みだったりしないでしょうか。こういう言い方をされて、そういうことはまったくないとシラを切れる人がいることを、私は想像ができません(あるいはそういう人がいるのかもしれませんが、そういう人は、もっと根本的なところでとても不幸な境遇にあるのではないかと私は考えます)。

そのとき私たちは、心のとても深い処に降りて言葉を繰り出しているはずです。おそらくそこが、禁室話型を受け入れる情緒的な基盤なのでしょう。そこを、鬼の目にも涙の致命的な弱点と言ってもいいでしょう。

生きているうえでの失敗や挫折は、エロス的なものに限らないだろう、という反論がありえますね。しかし、そのほかの失敗にはない特徴が、エロス的な失敗や挫折にはあります。それは、エロス的な失敗や挫折は、かけがえのない人をめぐってのものであるということです。それゆえその記憶は、とりわけ痛切なものとして感じられ、そういうものとして記憶に残りやすい。

では、禁室話型において、なぜ女性が禁止する側で、男性が禁止される側なのでしょうか。直観的にそれを理解するのはそれほどむずかしくないのですが、それをきちんと言葉にするのはけっこうむずかしいような気がします。いまの私に言えるのは、次のようなことです。

当論考の(その2)で、私は男女のエロス関係について次のように申し上げました。

″男女間のエロスにおいて、女はあくまでも誘惑者であることによってその魅力が最大限に発揮されます。男は、その誘惑の力に抗しきれなくなってやむをえずアクションを起こす。つまり、誘惑という前言語的かつ身体的な次元において、女は能動的であり男は受動的である。そうであるがゆえに、言動の次元においては、男が能動的であるのに対して、女は受動的である、という形をとる。″

その場合、アクションを起こす男の方が、おおむねエロス上の失敗を犯しやすい。フラレるのはたいがい男の側ですし、付き合ったりさらには結婚したりしたふたりの仲がうまくいかなくなった場合も、なんとなく男の方が部が悪いですね。エロスの窮状において、女はたいがい「あんたのせいでこうなった」というスタンスをくずしません(場合によっては、女は命懸けでそのスタンスを守ることもあります)。私は、別に個人的な愚痴をこぼしたいわけではありません。そいうことは、男女間のエロスのあり方の本質から不可避的に導き出されるのではないかと言いたいわけです。

とするならば、おのずと女よりも男の方が「オレはなにかイケナイことをしでかしてしまったのだろうか」と自問自答する頻度や深度がはなはだしくなります。それが、「女性が禁止する側で、男性が禁止される側」というエロスの構図を受け入れる心理的な基盤になるのではないかと思うのです。いまの私に言えるのはここまでです。

ちょっと個人的な経験をしゃべりたくなったので許してください。私は、中学三年生のときに、重度の恋愛病を患ってしまいました。相手は、O・Rという子でした。性格はあくまでも明朗ではあるのですが、どこかとてもしっとりとした柔らかい雰囲気があり、色白で色艶のいい黒髪の、相手を温かく包みこむような響きの声がとても素敵な女性だった、という記憶が残っています。また、穏やかに笑ったときの唇の形がとても綺麗でした。どうしてあんなに歯が白いのかとても不思議でもありました。五〇の大台を越えた男がいうようなことなのかどうかはなはだこころもとないのですが、これまでの人生のなかでいちばん好きだった女性なのではないかと思っています。どうもそういう感じなのです。受験を控えた大事な時期なのに、勉強にまったく身が入らない状態が続いて、私は困り果てたものでした。

それは救いようのないほどの片想いでした。やむにやまれず公衆電話から彼女の自宅に電話をかけたこともあります。あまり覚えていないのですが、おそらくそのときはじめて告白したのでしょう。手応えはまったくありませんでした。それから何日か経って、諦めきれずに学校の階段のところであらためて思いを伝えたような気がします。そのときたしかその子はうつむきながら「ごめんなさい」と言ったような気がします。万事休すです。私は思いを残しながらも、その場を離れるよりしかたがありませんでした。その日のことだったと思いますが、その子が教室でほかの数人の女の子に囲まれて泣いているのを目にしました。

どういうやりとりがなされているのかまるで分からなかったのですが、私の言動が原因で泣いているのは明らかでした。しかし、私を責めるような攻撃的な雰囲気は伝わってきません。私は不思議でなりませんでした。告白した相手(つまり私)を振ったのですから、相手を好きではないことは確かです。しかし、好きではないにしろ、相手から熱心に好意を示されたことそれ自体は、自分に女性としての魅力がある証拠なのですから、うれしくないはずがない。「なのに、どうして泣いたりするんだ。オレはなにかとんでもないことを彼女に対してしでかしてしまったにちがいない。何をやってしまったんだろう。」そういう思いで頭がいっぱいになってしまいました。

いまなら、おおむねそのときの事情が分かります。彼女は、電話でやんわりと断ったつもりだったのです。しかし、それをそれとして受けとめられるほどに私の心は成熟していなかったし、なにやら急いてもいた。それでもっとはっきりした言葉がほしくて、直接行動に出た。彼女は、やむをえずはっきりとした言葉を私に伝えるほかなかった。そのとき、伏し目がちになりながらも、私の悲しそうな表情を盗み見したにちがいありません。

そうした一切が、一五歳の彼女のデリケートな心にとって耐え難かったのでしょう。仲間に囲まれて張り詰めていたものがほどけるにつれて、おのずと涙が湧いてきた。そういうことだったのでしょう。やはり私は「これ以上は踏み込まないで」という彼女の禁室のメッセージを無視し、禁を破ってしてしまったのです。

閑話休題。黄泉国神話を進めましょう。

イザナミがなかなか戻ってこないので、イザナキはしびれを切らしてしまいました。それで、左のみずら(髪を左右に分け、耳のあたりでくくって垂らす貴族男子の髪形)に刺した湯津々間櫛(ゆつつまくし・「ゆつ」は神聖なの意。「つま櫛」は爪の形をした櫛の意)の男柱(ほとりは・櫛の両端にある太い歯)を一本折り取りそれに火をともして建物の中に入っていきました。すると、生前のイザナキとは似ても似つかぬ姿が目に飛び込んできたのです。その体中に、蛆(うじ)がたかってごそごそとうごめいています。また、体のあちらこちらに次のような八柱の雷神が宿っているのでした。

・大雷(おほいかづち):頭に宿る
・火雷(ほのいかづち):胸に宿る
・黒雷(くろいかづち):腹に宿る
・析雷(さくいかづち):性器に宿る。物を裂く威力のある雷。
・若雷(わかいかずち):左手に宿る。
・土雷(つちいかづち):右手に宿る。
・鳴雷(なるいかづち):左足に宿る。
・伏雷(ふすいかづち):右足に宿る。

それを見て、イザナキは恐れおののき逃げ帰ろうとします。そのとき、イザナミが(おそらくすごい形相で)「私に恥をかかせたのね」と恨みごとを言って、ヨモツシコメ(ヨモは「ヨミ」の交替形。黄泉の国のみにくい女。死の穢の恐ろしさ・醜さを擬人化したもの)を遣わして逃げるイザナキを追いかけさせます。

ここは、本当におそろしい光景ですね。これまで貞淑な妻だったイザナミが、禁を破ったイザナキが自分の醜い姿を見た瞬間に、鬼女の形相に変わるのです。太安万侶は、女のおそろしさとはどういうものであるのかよく分かっていたのでしょう。

それはそれとして、実はさきほどから、私は頭を抱え込んでしまっています。というのは、雷神がなぜ地下世界にいるのか、どうしても分からないからです(「黄泉の国」は、地下深いところにある死後の世界ということでしたね)。だって、雷は肉眼で観察するかぎり、空で派手に暴れまわってときおり地上にズドンと落ちるものですよね。その神が地下にいるというのは、相当にアクロバティックな小理屈をコネ回さないかぎり、うまくつながらないのではないかと思ったわけです。

苦し紛れに、「雷:いかづち」の語源をインターネットの「語源由来辞典」で調べてみたところ次のように出ていました。
「語源由来辞典」http://gogen-allguide.com/ (これ、便利ですよ)

「いかづち」の「いか」は、「たけだけしい」「荒々しい」「立派」などを意味する形容詞「厳し(いかめし)」の語幹。「づ」は助詞の「つ」。「ち」は「みずち(水霊)」「おろち(大蛇)」の「ち」と同じで、霊的な力を持つものを表す言葉。だから、「厳(いか)つ霊(ち)」が語源である。本来「いかづち」は、鬼や蛇、恐ろしい神などを表す言葉であったが、自然現象のなかでも特に恐ろしく、神と関わりが深いと考えられていた「雷」を意味するようになった。

語源的な観点からすれば、「いかづち」は、雷の意味に限定されるものではないことが分かります。だから、地下に「いかづちの神」がいたとしてもそれほど悩む必要がない、となってくれれば、一件落着と相成るのでしょうが、残念ながら、太安万侶は、「いかづち」にちゃんと中国語の「雷」(らい)の字を当てているのです。明らかにここでの「雷神」は、「かみなりのかみさま」なのです。これでふりだしに戻ってしまいます。

こういうときは、背理法の考え方が役に立つのではないかと思います。つまり、矛盾のある結論が導き出された場合、基本的前提が誤っている、とする考え方です。この場合の基本的前提とは、「黄泉国は、『地下深くにある』死後の世界である」です。これが誤っていると考えてみる必要があります。つまり、黄泉の国は地下になどない、としてみるのです。

では、どこにあるのか。前回の(その3)で、無文字社会以来の日本人の伝統的死生観においては山に死者の霊魂が宿るという考え方がむしろ一般的だったという意味のことを申し上げました。それをここで敷衍すれば、「黄泉国は、地下などにはなくて、実は、山にある」となります。これは、太安万侶の目論見とは矛盾する仮説です。そのことについては、のちほど触れることにします。ここでは、その仮説を前提とした場合、『古事記』の読みにおいて不都合が生じないかどうか確かめてみましょう。

黄泉の国が山にあるのだとすれば、雷神もまた山にいることになる。これは実に納得のいくイメージです。雷は空で活躍するから、ふだんは山で待機しているというのはとても素直な連想ですね。さらに、イザナキの遺体が比婆山に葬られたこととも見事に符合します。また、黄泉の国が地下にあるのだとすれば、イザナキはのろのろとしか走れませんが、山にあるのだとすれば、一目散に駆け下りることができます。その方が、逃げろや逃げろのシーンにふさわしいのではないでしょうか。また、後に出てくる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、読んで字のごとく「坂」です。黄泉国が地下にあるのならば、ここは、「坂」ではなくて大きな「洞穴」のようなものが登場するのが自然でしょう。「坂」である以上、イザナキは、山から駆け下りてきたとするほうが妥当なのではないでしょうか。また、大きな千引の石(ちびきのいわ)を「坂」に「引き塞(さ)へ」(引きずって据えた)とは言っていますが、穴を塞いだようなニュアンスはあまり感じられません。さらには、「黄泉比良坂の坂本」という言い方があり、「坂本」とは、ふもとの意です。

ここまでのところ、黄泉国は山にある、という仮説とつじつまあわないところはありません。

では、黄泉国は地下ではなくて山にある、という仮説を別の角度から検証しましょう。

ここで登場する雷神は、いったいどんな姿をしているのでしょうか。一般的に雷神といえば、次のようなイメージが定着しているものと思われます(おそらく俵屋宗達の屏風絵『風神雷神図』の影響でしょうね)。




しかし、こんな神様が八つも体にまとわりついていたら、イザナミの姿がかすんでしまって、怖いもなにもあったものではありませんね。大の男のイザナキが総毛立つほどの恐怖を味わって、百年の恋もいっぺんで吹っ飛んでしまったのですから、イザナミの姿はよほど怖くて薄気味の悪いものだったにちがいありません。図のような神様は力強くはありますが、どこかユーモアが漂っていて、そういうイメージにはふさわしくありません。

とするならば(これは、先ほど引いた「いかづち」の語源から思いついたことですが)、八匹のヘビが、蛆虫だらけのイザナミの死体のそこらじゅうに巻きついているというのがどうやらいちばん怖くて薄気味が悪い、ということになるでしょう。つまり、『古事記』の雷神は蛇である。

これは、黄泉国が山にあることと見事に符合します。だって、蛇というのは、人里離れた山の中にいるというイメージがありますからね。

古代人にとって、蛇は特異な霊力を有する動物として、恐れられながらも、神聖視されていました。というより、古代人にとって、恐れ忌み嫌うことと、神聖視することとは、まったく矛盾しなかったのです。神とは、そういう存在だったのです。

ちなみに、私の生まれ故郷の対馬(大八島のひつとの、あの「津島」)では、少なくとも私が生まれ育った五〇年ほど前まで、蛇は神聖視されていました。噛まれると命を失う危険のある毒性の強いマムシを殺すことはやむを得ないこととされていましたが、大蛇のアオダイショウ(青大将)を殺すことはタブー視されていたのです。というのは、アオダイショウは、家の守り神であると信じられていたからです。

それで、この仮説に一定の妥当性があるとして、太安万侶の目論見との矛盾をどう考えるのかという課題が残ります。

太安万侶の目論見は、『古事記』の世界を、高天の原-葦原の中国(なかつくに)-黄泉国という垂直構造として構築することでした。そのために「ヨミノクニ」という和語に、中国の「黄泉」(こうせん)という外来語を当てたのです。

しかし、その目論見がいつも成功するとは限らないのです。新たな世界観を構築するには、伝統的な死生観に裏付けられた伝承的な神話を統合し再編し別のものに仕立て上げることが必要です。しかし、その作業を完遂するには、論理的に考えれば、自らが依って立つ土着的な価値観や死生観から自分を根こそぎにしてしまうことが必要となります。

しかしそれは、たかだかひとりの人間に出来うるワザではありません(自分がそれを完遂しようとすることを想像してみてください。無理でしょう?)。如何に強固な意志で自分を固めたとしても、そういう意志によって固めた世界は、必ず、一万年以上をかけ、無名の数知れぬひとびとによって培われてきた感覚・価値観・死生観の浸潤を受けることになります。意識は、歴史的無意識の自律性の作用を受ける。そういう当たり前の事態を、私は、黄泉国をめぐる安万侶の目論見と実際に構築された表現世界とのギャップに見る思いがします。そこをきちんと見ることが、『古事記』を読むうえでのはずせないポイントの少なくともひとつになるのではないでしょうか。そこのところで私は、いわゆる左翼的な『古事記』解釈とは袂を分かつことになるのではないかと思われます。

『古事記』の本文に戻りましょう。

よもつしこめが追いかけてくるのを防ごうとして、イザナキは、黒御縵(くろみかづら・黒い蔓性植物の髪飾り)を髪から抜いて投げ捨てると、それがたちまちエビカズラ(山葡萄)になりました。よもつしこめが、それを拾って食べている間に、イザナキは逃げて行きました。食べ終わった後に、なおも追っ手が追いかけてきます。それで、右の御かづらに刺していた湯津々間櫛(ゆつつまくし)を引き抜いて投げ捨てるとタカナミ(筍・たけのこ)になりました。追っ手がそれを引き抜いて食べている間に、イザナキは逃げて行きます。追っ手の援軍として、八柱の雷神と、千五百の黄泉軍(よもついくさ)が加わりました(おそらく、八匹の大蛇と多数の小蛇のことでしょう)。イザナキは、身に着けていた十拳(とつか)の劔(つるぎ)を抜いて、後ろ手に振りながら逃げて来ます(これは、相手を忌み嫌う所作と解されていますが、坂を下ってくる蛇の軍勢を追い払うには、合理的な行動なのではないでしょうか)。        



  エビカズラ (山葡萄)

古代人が、山葡萄や筍などの植物の有する邪気祓いの力を信じていたことがうかがわれて興味深いですね。現代人でも、心が安らぐからとかなんとか言って、室内や店内に植物を置くところを見ると、古代人の感性と無縁だとは言い切れません。

本文に戻りましょう。

イザナキが、黄泉比良坂(よもつひらさか・「ひら」は崖の意。黄泉国とこの世の境界を示す斜面状の坂)の坂本(「ふもと」の意)に到着して、そこにある桃を三個もぎ取って追っ手に投げつけたところ、軍勢はことごとく退散しました。
そこでイザナキは、桃の果実に言いました。「お前よ、私を助けたように、葦原中国(あしはらのなかつくに)に住んでいるあらゆる世間の人びとが、苦しい目にあって呆然としているときに、彼らを助けてやってくれ」。そうして桃に意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)という名を賜りました。

イザナキが桃に賜わたった名のなかの「おほかむづ」を、次田真幸氏の『古事記(上)全訳注』(講談社学芸文庫)は、「大神(おおかむ)つ霊(み)」の意であろうと言っています。植物に神の名を賜ることは、『古事記』のなかではじめてのことです。このことは、古代人が桃には鬼神をも恐れさせる強い呪力・霊力が宿っていると信じていたことを雄弁に物語っています。桃についてのこういう考え方や感じ方は日本独自ものではなく、桃の原産国支那大陸から桃といっしょに伝来したものです。それに加えて、桃の見た目のふくよかさと上品な香りと色の美しさが、そういう考え方を定着させるうえで大きかったような気もします。

イザナキ・イザナミ神話は、いよいよクライマックスを迎えます。

最後にイザナミ自らが追いかけて来ます。イザナキは、千引の岩(ちびきのいわ。千人力でなければ引き動かせないほどの大きな岩の意)を黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き据えました。それを間にはさんで、イザナキとイザナミは、向かい合います。そうして、事戸(「ことど」。離婚の言葉の意。「ど」は呪言)を交わします。

イザナミ:愛(うつく)しき我(あ)がなせの命(みこと)、かく為(し)たまわば、汝(いまし)の国の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺さむ。
イザナキ:愛しき我がなに妹(も)の命、汝(なれ)然(しか)為(せ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいひ)の産屋(うぶや。出産のために新しく立てる小屋)を立てむ。

夫婦の離別の言葉として、凄まじくも美しいこと、限りがありません。と同時に、これは単なる離別のことばではなくて、神として人間世界の生死の別を立てた言葉でもあります。あるいは、愛別離苦の宿命を引き受ける言葉でもあります。

批評家・故小林秀雄は、スワンソング『本居宣長』の終末部に近いところで、上記のやり取りを引いたあとに次のように言っています。

もう宣長とともにいえるだろう、――「千引岩(チビキイハ)を其(ソ)の黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に引き塞(サ)へて、其の石を中に置きて、各(ア)ひ立(タタ)」す、――生死について語ろうとして、これ以上直な表現を思い附く事は、物語の作者等には出来ない相談であった、と。万葉歌人が歌ったように「神社(もり)に神酒(みわ)すゑ 禱祈(いのれ)ども」、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じ事(ワザ)なのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生まれて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。(中略)死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、何もない。

ここがおそらく、最晩年の小林が到達した思想的な場所なのでしょう。私からすれば、これだけのまともなことが言えたのならば、小林の長かった批評家人生もまんざら無駄ではなかったという感想が湧いてきます。これは、最大の褒め言葉なのですが、その意味がお分かりいただけるでしょうか。思想にとってもっとも重要なことは、ごく普通の人々が、自分たちにごく普通(であるかのよう)におとずれる悲しみや苦しみをどうやってしのいで生きているのかということに、やわらかい眼差しをまっとうに振り向けうる言葉を持つことであるからです。最晩年の小林は、そういうことがわりとすんなりとできたのでしょう。

私はまだまだですが、小林のような、さかしらやこざかしいはからいをのびやかに超えたところで、物を考えたり、言葉を紡いだりできる思想の自然体を身につけえた者だけに、『古事記』はその素顔を見せるような気がします。 

『古事記』の主人公は、この後、イザナキ・イザナミからアマテラス・スサノオコンビにバトンタッチされることになります。    
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『古事記』に登場する神々について(その3)

2014年03月20日 02時42分06秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その3)


比婆山。イザナミ埋葬の地。

あらかじめ申し上げておいた方がよろしいかと思われます。今回は、地名や神の名がたくさん出てきます。そういうことはなるべくしたくないというのが偽らざる本音ではあるのですが(だって退屈ですものね)、それらをひとつひとつ丹念に文字として刻み込んだいにしえびとの深い思いが、実はどうしようもなく押し寄せてきて、それを見て見ないふりをするのが難しくなってきてしまったのです。たまには、それにのんびりとお付き合いしてみてもバチは当たらないだろうと。そういうわけですので、その旨をご了承願ったうえで、それにお付き合いいただける奇特な方がいらっしゃることを信じて書き進めようと思います。

イザナキ・イザナミ神話を続けましょう。前回(その2)の冒頭に掲げたポイントのうち③の大八島を生む話ですね。天つ神のアドバイスに従って、まずイザナキのほうから声をかけ、次にそれにイザナミが応える、という手順をふんだところ、国生みが順調に進みます。生まれた順にそれを並べましょう。

・淡道(あはぢ)の穂の狭別(さわけの)島 
・伊予の二名(ふたな)の島 
・隠伎(おき)の三子(みつご)の島 
・筑紫の島 
・伊岐島 
・津島 
・佐度島 
・大倭富秋津島(おほやまととよあきづしま) 

それらは、いまのどこを指しているのでしょうか。淡道の穂の狭別島は淡路島、伊予の二名の島は四国と見て問題はないようです。しかし、三つ目の隠伎の三子の島に関しては、隠岐諸島という定説に対して異論があるようです。隠岐諸島は四島からできているのに三つ子の島という言い方は変ではないかというわけです。その詳細に首を突っ込むと、それはそれで面倒なので、異論があるそうだ、というあたりでとどまります。筑紫の島は九州、伊岐島は壱岐、津島は対馬、佐渡島はもちろん佐渡島で問題はなさそうです。最後の大倭富秋津島はばくぜんと本州を指しているとされるのですが、ぐっとしぼって畿内とその周辺くらいにとどめておいたほうが無難なような気がします。東北地方なんてあまり意識してはいなかったでしょうから。

以上八つで大八島と呼ばれています。本州や四国や九州をその他の島と同列に並べているのは、現代の私たちの地理感覚には合いませんが、日本地図を見たことのない彼らからすれば、ごく自然なことだったのでしょう。筆頭に淡路島が来るのは、畿内中心の地理感を物語るようで分かりやすいですね。その次に四国が来るのも自然な感じがします。その次に隠岐諸島が来るのは、『古事記』の執筆者兼編集者の太安万侶が終始気にし続けた出雲との関連かもしれませんが、よくは分かりません。その次に九州、壱岐、対馬と続くのは、当時の日本と朝鮮半島とのつながりがおのずと連想されて興味深いですね。最後に、「横綱」の大倭富秋津島が登場するのは、国生みという大仕事の締めとしてふさわしい感じがするので、問題がないような気がします。

ちょっと奇妙な感じがしたのは、佐渡島です。なぜなら、当時の航海技術では、佐渡は絶海の孤島だったはずであって、その存在を知ってはいても、日本の代表的な島のひとつと呼ぶほどの近しい感覚が、畿内にいる人々によくもあったものだと感じるからです。いまのところ、それに対する明快な答えは見つからないのですが、一応疑問は疑問として提示しておきます。

イザナキとイザナミは、その次に、以下の六つの小島を生みます。

・吉備(きび)の児島 〔別名、建日方別(たけひかたわけ)〕
・小豆(あづき)島 〔別名、大野手比売(おほのてひめ)〕
・大島 〔別名、大多麻流別(おほたまるわけ)〕
・女(をみな)島 〔別名、天一根(あめひとつね)〕
・知訶(ちかの)島 〔別名、天之忍男(あめのおしを)〕
・両児(ふたご)の島 〔別名、天両屋(あめのふたや)〕

吉備の児島は岡山県の児島半島、小豆島は淡路島の西にある小豆(しょうど)島、大島は山口県柳井の東にある大島(あるいは同県周防大島町に当たる屋代島)、女島は大分県国東市沖の姫島、知訶島は長崎県五島列島、両児の島は五島列島の南にある男女群島であると、それぞれされているようです。大八島のひとつの大倭富秋津島を本州としてしまうと、吉備の児島の存在とのつじつまが合わなくなるので、それはやはり畿内とその周辺としておいたほうがよさそうです。

大八島と六つの小島を生んだ後、イザナキ・イザナミは、たくさんの神々を生みます。それらを生んだ順に列挙してみましょう。退屈な思いが去来なさる方もいらっしゃるとは思いますが、それを一歩踏み越えて、それぞれの神の名を丁寧にゆっくりと声を出して読んでみると、古代人の思いがじかに少しずつ伝わってくるのではないでしょうか。それが、『古事記』を読む、ということの重要な一側面であると私は思っています。言霊なるものは、頭だけで解釈するものではなくて、身体で掴むという側面がはずせない、という議論にもつながるでしょう。

まずは、神代七代を引き継ぐ純粋な神ともいえる抽象化された七柱の神と三柱の具象的な神が生まれます。

・大事忍男神(おほことおしをのかみ)
「大事を終えた男神」の意のようです。
・石土毘古神(いはつちびこのかみ)
石や土を神格化したもののようです。
・石巣比売神(いはすひめのかみ)
石や砂を神格化したもののようです。
・大戸日別神(おほとひわけのかみ)
 人の居所や門戸を掌る神のようです。
・天之吹男神(あめのふきおのかみ)
屋根を葺くことの神格化のようです。
・大屋毘古神(おほやびこのかみ)
 屋根の神格化のようです。
・風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)

以上が「抽象化された七柱の神」です。以下が、それと比べると具象的な三柱の神です。

・大綿津見神(おほわたつみのかみ)
 海を司る神です。
・速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)
・速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)
 最後の「速秋津」二神は、以下の十二柱の神を生みます。イザナギ・イザナミからすればお孫さんですね。

・沫那藝神(あはなぎのかみ)
・沫那美神(あはなみのかみ)
・頬那藝神(つらなぎのかみ)
・頬那美神(つらなみのかみ)
 以上の四柱の神は、水面がなぐことと波立つこととを神格化したもののようです。
・天之水分神(あめのみくまりのかみ)
・国之水分神(くにのみくまりのかみ)
「水分」とは、分水嶺を指すようです。
・天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)
・国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)
「久比奢母智」とは、ヒサゴで水を汲んで施すことのようです。

 以上、八柱の孫神はすべて水に関係があります。
 
 以下四柱は、イザナキ・イザナミの子神に戻ります。
・志那都比古神(しなつひこのかみ)
 風の神です。「し」は息・風。「な」は穴のことのようです。「つ」は風の出口。
・久久能智神(くくのちのかみ)
 木の神です。「くく」は茎。「ち」は精霊。
・大山津見神(おほやまつみのかみ)
 山の神です。
・鹿屋野比売神(かやのひめのかみ) 別名は野椎神(のづちのかみ)
 野の神です。

大山津見神と野椎神は以下の八柱の孫神を生みました。読んで字のごとく、山と野原関係の神々です。

・天之狭土神(あめのさづちのかみ)
・国之狭土神(くにのさづちのかみ)
 山地の狭くなったところを掌る神々のようです。
・天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)
・国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)
霧を掌る神々のようです。
・天之闇戸神(あめのくらどのかみ)
・国之闇戸神(くにのくらどのかみ)
 谿谷を掌る神々。
・大戸惑子神(おほとまとひこのかみ)
・大戸惑女神(おほとまとひめのかみ)
 名義不詳とされていますが、山地に迷う意の神という解釈もあるようです。「惑」には、乱れるという意味もあるそうですから、山嵐の神格化 というのはどうでしょうか。乱気流のイメージもいいかもしれません。

 以下、子神に戻ります。いよいよイザナミの悲劇が近づいてきます。

・鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ) 別名は天鳥船(あめのとりふね)
 鳥のように天空や海上を通う楠製の丈夫な船の神ということ。ここではじめて人間の営みを指し示す神の名が登場しました。
・大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
 食物を掌る女神。「げ」は穀物のこと。いかにも娑婆のにおいがしますね。
・火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)
別名は火之毘古神(ひのかがびこのかみ)。また別名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)。
 火の神。「火之夜藝速」は火が物を焼く激しさを表しています。「」は揺れ光の意。「火之迦具土」は物の焼けるにおいを表しています。
 
火の神を生んだところで、イザナミの身にたいへんなことが起こります。火の神によって、女陰(ほと)が火傷を負い、病に伏してしまったのです。ところが、病に苦しむイザナミの吐瀉物などから、神々が次々に生まれます。

・金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
・金山毘売神(かなやまびめのかみ、同上)
 以上二神は鉱山を神格化したもの。
・波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる)
・波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、同上)
 以上二神はねば土を神格化したもの。「はに」は埴で粘土のこと。
・彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる)
 灌漑用の水の神。あるいは水中の神。背がかがまり手足が突き出た龍体の女神。
・和久産巣日神(わくむすひのかみ、同じくイザナミの尿から生まれる)
 若々しい生産の神、あるいは竈(かまど)の神の意。和久産巣日神には以下の一柱の子がいます。
・豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
 食物を掌る女神。「うけ」は穀物(稲)、食物。

カナヤマビコ以下の神々の系譜は、冶金・窯業・農業等における火の効用を示したものですが、火・金・土・水・木の中国の五行思想の影響も見受けられます。

イザナミは、断末魔の苦しみのなかで人間世界に文明とその豊かさをもたらす神々を生み続けた末に、「火の神を生みしによりて、遂に神避(かみさり)ましき」。つまり、あの世に行ってしまいます。

私は、ここに文明をめぐる深い思想が込められていることに驚いています。それを端的に述べるならば、「人間は、文明とその豊かさを手に入れるために神殺しを敢行した」となります。

人間は、山火事などによって自然発生した火を利用する段階から、自分たちが必要なときに自由自在に火を利用できる段階に飛躍したとき、文明の確かな基礎を築いたと言っても過言ではないと思われます。ここで、火をエネルギーと言いかえると事態はもっとはっきりするでしょう。私たちは、自然界から自分たちが必要とするだけのエネルギーを好きなときに自由に取り出せる技術を会得しています。そのことが、今日の豊かな文明社会の土台であることは、何びとも否定し得ない事実です。もしも何かしらの事情で、化石燃料と原子力エネルギーの使用を禁じられてしまったとしたら、その瞬間に、私たちが今日享受している豊かさなど夢幻のように跡形もなく消えてしまいますものね。

その歴史的な端緒・起源は、自然界の偶発性に依存した火の使用の段階からの脱却です。それを神話の次元に移しかえると、神殺しとなります。私たちは、力まかせに、私たちに恵みを与える神を殺し、自然の諸力の束縛から自己存在を引き離し、そのこととひきかえに、今日の豊かな文明社会を獲得する道筋の第一歩を踏み出したのでした。つまり、人間社会の根にあるのは、自然の諸力からの自由の衝動なのです。私は人間の本質を共同性に求める考え方に同意をする者ですが、その共同性の根には、自然の諸力からの訣別への同意があるのではないかと考えます。つまり私たちは、神殺しの古い記憶を共有しさらには忘却することにおいて共同性を獲得するのです。

別に私は、自分の観念を『古事記』に投影しようなどと思ってはいません。同書をはじめからゆっくりと自分なりに読み進めると、おのずとそういう認識が浮かんでくるのです。太安万侶自身、ことさらにそういう思想を表現しようと思っていたはずはなくて、神話の形式で人間を大もとから捉えようとしていたら、おのずとそういう表現になったというだけのことだったのでしょう。私たちは、古代人の直観的な認識力をゆめゆめ侮ってはならないのではないでしょうか。

イザナキ・イザナミ神話の最後のポイント⑥の、イザナキがイザナミを慕って黄泉国へ行くくだりに移りましょう。

イザナキは、「いとしいわが妻よ。たかがひとりの子のためにお前の命を失おうとは」と嘆き、仲睦まじくいっしょに寝た寝床の枕の方に身をよじらせ、あるいは足の方に身をよじらせて哭いていたときに、その涙から生まれたのは、次の神です。

・泣沢女神(なきさはめのかみ)
 この神は、天の香具山の小高いところに生えている木の根本に鎮座している、とあります。橿原シ木之本町の畝尾(うねお)郡本多神社に祀られています。

イザナミは、出雲国と伯伎(ははきの)国との境の比婆の山に葬られました。広島県比婆郡に伝承地があるようです(余談ですが、比婆郡というと、私は世代的にどうしても「ヒバゴン」騒動を思い出してしまいます。ヒバゴンはたしか途中からツチノコと呼び名が変わりましたよね?)

*本文の流れからすればどうでもいいことのようにも思われますが、ヒバゴンとツチノコとは別物であることがその後判明しました。ほぼ同じ時期に騒がれたので、混同してしまったのでしょう。誤認したことを含めて、「歴史の証言」(笑)としてそのまま残しておきます。

イザナギは、火の神であるわが子がどうしても許せなくて、ついに「十拳(とつか)の釼(つるぎ)」でその首を斬ってしまいました。そのほとばしる血しぶきから次のような神々が生まれました。

・石析神(いはさくのかみ)
 岩石を引き裂くほどの威力のある神の意。
・根析神(ねさくのかみ)
・石筒之男神(いはつつのおのかみ)
 名義不詳の神のようです。福永武彦氏は、以上三柱の神を、刀剣を鍛えるときの石槌を称える神であろうと推察しています。
・甕速日神(みかはやひのかみ)
・桶速日神(ひはやひのかみ)
 「みかはやひ」「ひはやひ」は火の威力を示す言葉。以上二神は火の根源である太陽をたたえた神名。
・建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)
 またの名は建布都神(たけふつのかみ)。あるいは豊布都神(とよふつのかみ)。勇猛な雷の男神の意で、剣の威力をたたえたもの。
「ふつ」 は剣の切断音。この神は、大国主神の国譲りのところで再登場します。
・闇淤加美神(くらおかみのかみ)
・闇御津羽神(くらみつはのかみ)
 「くら」は谿谷。「みつは」は水中の意。いずれも溪谷の水を掌る神。

また、父神に殺された迦具土神の体からも次のような神々が生まれました(神話って、倫理を超えたところがあるとつくづく思います)。以下のすべての神の名に出てくる「やまつみ」は山の精霊の意。

・正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる)
・淤縢山津見神(おどやまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる)
・奥山津見神(おくやまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる)
・闇山津見神(くらやまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる)
・志藝山津見神(しぎやまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる)
「しぎ」は茂る意。
・羽山津見神(はやまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる)
「はやま」は麓の意。
・原山津見神(はらやまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる)
「はら」は開けた台地状の場所。
・戸山津見神(とやまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる)
 「と」は外側の意。

刀剣の原料である鉄鉱石や燃料の木は、すべて山の精霊の賜物です。つまり、刀剣は山の精霊の化身であると言っても過言ではないでしょう。だから、火の神と山の精霊とをつなぐのは、刀剣の存在であると言っていいのではないかと思われます。ちなみに、イザナキの手にした剣は、天之尾羽張(あめのおわばり)(別名、伊都之尾羽張・いつのおわばり)といいます。「剣から発する光が尾を引いて走る」の意です。この釼は、大国主神の国譲りのところで、神格化されて再登場します。

では、神話のストーリーにもどりましょう。以上のように、イザナキの悲しみはついに癒されることがありませんでした。そこでイザナギは、もう一度イザナミに会いたいと思って、黄泉国(よもつくに)に行きます。そうして、建物の閉じてある戸の外から中にいるイザナミに向かって、「愛しい妻よ、私とお前とで作った国を、まだ作り終えていないではないか。さあ、いっしょに帰ろう」と言いました。するとイザナミは、「悔しいことです。もっと早く来て欲しかった。私は、黄泉国の竈(かまど)で炊いた食べ物を口にしてしまいました。でも、愛しい旦那様がわざわざいらっしゃったのはとてもありがたいことです。だから、帰ることができるのならばぜひいっしょに帰りたいものです。黄泉神に相談します。私の姿をぜったいに見ないでください。」と言いました。

このなかで気になることが、ふたつあります。ひとつは、黄泉国とは何かということ。もうひとつは、原文を挙げれば「我をな視たまいそ」というイザナミの言葉。

神話の話型との関連でいえば、黄泉国往還譚は主人公が別世界に行く異郷訪問型であり、イザナミの言葉は禁室型であるといえるでしょう。さらに言えば、イザナミが黄泉国のものを食べるのは共食儀礼型、イザナギが追ってから逃れる工夫は三枚のお札型であるとも言えます。つまり、イザナギ・イザナミの黄泉国神話は話型の宝庫であるという意味で、とても神話らしい神話なのです。

話型とは、無文字の口承時代からの決まりきった話のことです。神話や昔話は、ほとんどお決まりのパターンからできていますね。そういう意味では、黄泉国往還譚は、お決まりのパターンのかたまりであるといえるでしょう。別にこれは、イザナキ・イザナミ神話を貶めているわけではありません。私たち人間が心を動かされるパターンには限りがあって、時代がどう変わろうと、それ自体にはほとんど変化がないということです。ここに、話素の変化(兄妹が恋人に入れかわる、など)という要素を導き入れれば、「ほとんど」というより「まったく」変化がないと言いかえても過言ではないでしょう。変わるのは話型の組み合わせ方と話素であるということです。

(その1)で、『古事記』の執筆者・編者が、オオナムチ・スクナヒコナのコンビによる口承的な世界創成神話を意図的に解体し、二神を分離し、オオナムチを独神オオクニヌシとして新たな主人公に仕立て上げた「日本」神話を立ち上げたと申し上げました。話型に着目するならば、太安万侶は、口承時代の自然発生的な話型をなるべく多く集めて、それらを整理し再編成し統合することによって、全く新しい神話を作り上げようとしたのです。そこに、天武朝を筆頭とする当時における国家の強い意志が反映されていることはいうまでもないでしょう。

同じことは、黄泉国の設定についても言えます。

黄泉国は、通常「死者の行く穢れた地下世界」と解されます(岩波文庫や角川ソフィア文庫の『古事記』の注)。しかし、死後の世界が地下にあるという観念はそれほど自明なものではありません。

例えば柳田国男は、『先祖の話』等で、日本人の無文字社会以来の伝統的な生死観を述べています。彼によれば、日本人の観念には死者が別の遠い国に行くという考えはなくて、身近な死者の霊は近くの山にとどまって、祖霊として子や孫などを見守り、農耕の折り目ごとに里に下りてくるという考えをします。つまり、日本人にとって、死後の世界は垂直方向の地下にあるのではなくて、おおむね水平方向にある、ということになります。里の近くの山は、仰ぎ見るというよりも、ひょいと視線をななめうえに上げるというイメージの方が強いですからね。

また『万葉集』には、山に死者の霊魂が宿るという歌が少なからずあります。

豊国の鏡の山の岩戸立て隠(こも)りにけらし待てど来まさず

手持女王(たもちのおほきみ)の作。「豊国(福岡県東部と大分県北部)の鏡の山に、愛しい私の夫は、岩戸を立ててお隠りになっていらっしゃるのでしょう。お会いしたいと思い、いくら待っても姿を現しません。」

こもりくの泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ

柿本人麻呂の作。土形娘子(ひぢかたのをとめ・伝不詳)を泊瀬の山に火葬したときに作った歌です。もうひとつ、人麻呂が別の人物のために作った挽歌を引いておきます。いたって平易なので解説は不要でしょう。

山の際(ま)ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺(みね)にたなびく

佐保山にたなびく霞見るごとに妹(いも)を思ひ出で泣かぬ日はなし

大伴家持の作。歌の意味を解説する必要はないでしょう。佐保山は、奈良市北部、佐保川の北側にある丘陵です。京都府との境を成します。

地下に死後の世界があるとは、いにしえびとがあまり考えなかったことがおわかりいただけたでしょうか。

しかし、『古事記』の編者・執筆者すなわち太安万侶は、死後の世界として山のイメージを使っていません。それを拒否し、死後の世界を表す言葉として「黄泉」の文字を使っています。「黄泉」(こうせん)は中国語です。中国において、黄泉は死者の赴く泉であって、地下にあるとされていました。安万侶は、水平的な山のイメージを拒否し、大陸風の垂直的なイメージの他界観を古事記神話のなかに意識的自覚的に取り込もうとしたのです。そのあたりのことについて、前回名を挙げた西條勉氏からふたたびその卓見を引きましょう。

古事記の神話では、「天地初発」にすでに高天の原があった。天地を軸とする垂直的な世界イメージである。高天の原の主神に、太陽神がおさまるのも、「日本」神話が垂直的な枠組みをもつからである。この構造に、民間の水平的な世界像が押し込められるとき、死者の世界は垂直的なものに変化せざるをえない。かりに民間信仰のヨモツクニが水平的な山中他界であっても、「日本」神話の黄泉の国は垂直化されているのだ。古事記のねらいは、伝承的な死者の世界を作ることではなかった。それだったら、民間の創成神話をもってくればよい。たとえば、スクナヒコナあたりの話にちょっと手を加えれば、死者の逝く世界など容易に作れたはずだ。それをしなかったのは、神話の枠組みを替えることにねらいがあったからである。死者の世界を垂直化すること。そこに「日本」神話の主題があった。

『古事記』の世界を、高天の原-葦原の中国(なかつくに)-黄泉国という垂直構造として構築することによって、太陽神である天照大御神を最高神として祭り上げ、それが国津神を睥睨するかのようなイメージを作り上げることが、編者・執筆者としての太安万侶の狙いであったということです。そうすることによって、天孫降臨と皇室の権威を確固たるものにしようとしたことはいうまでもないでしょう。『古事記』を読む楽しみとは、その編集・執筆方針を具体相においてきっちりと掴むことと、そういう編者・執筆者の意図・意識では包み込み切れなかった作品の無意識、すなわち遠く無文字文化時代から長いときをかけて醸成・蓄積されてきた世界観・生死観が顔を覗かせたいわば「露頭」のようなところをていねいに掬い取ることなのではないかと思います。

読み手の皆さまにだいぶご負担をおかけしたような気がしますので、とりあえずこのあたりで筆を置き、イザナキ・イザナミ神話の残りについては次回にお話しさせていただきます。



参考文献
『古事記』(倉野憲治校注・岩波文庫)
『古事記 現代語訳』(福永武彦訳 河出文庫)
『新版 古事記』(中村啓信 角川ソフィア文庫)
『「古事記」神話の謎を解く かくされた裏面』(西條勉 中公新書)
『古事記誕生 「日本像」の源流を探る』(工藤隆 中公新書)
『古事記の宇宙(コスモス)――神と自然』(千田稔 中公新書)
『「古事記」と壬申の乱』(関裕二・PHP新書)
『図説 古事記と日本書紀』(坂本勝監修 青春出版)
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『古事記』に登場する神々について(その2)

2014年03月16日 11時11分41秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その2) 

前回の終わりのところで申し上げたように、今回はイザナキ・イザナミ神話について述べようと思います。

イザナキ・イザナミ神話のポイントは、以下の通りです。

① オノゴロ島ができる。
② ヒルコを生む。
③ 大八島を生む。
④ 六つの小島を生む。
⑤ 神々を生み、火の神を生む。
⑥ 死んだイザナミを慕って、イザナキが黄泉国へ行く。

西條勉氏の『「古事記」神話の謎を解く』によれば、これらの話の特色は、伝承的な来歴をまったくもたないことだそうです。民間に伝えられていた古い話は、おそらくひとつもない、とのこと。つまり、おおかたのストーリーは、朝廷の知識人たちが机上で作ったというのです。ただし、イザナキとイザナミという神名だけは存在しました。というのは、この神を祭る神社が、今も淡路島にあるからです。そのあたりの漁民が、ほそぼそと信仰していたのを、太安万侶を筆頭とする知識人たちが、「日本」神話に大抜擢したのです。逆から言えば、民間で山川創成の神話をもつほどに有力だった地方神は、かえって新しい神話に不向きだったということです。平たく言えば、都合が悪い。

イザナギ・イザナミ神話の話からやや脱線しますが、いま述べた「民間で山川創成の神話をもつほどに有力だった地方神」について、ここで触れておきましょう。というのは、その話は、『古事記』の本質にかかわる重要なものであるからです。以下は、先ほど挙げた西條勉氏の『「古事記」神話の謎を解く』で展開されている議論を私なりにリライトしたものです。

当時、国土創成の神といえば、それは、オオナムチ・スクナヒコでした。この二神は、民間神話ではコンビで登場するのですが、記紀神話では分離されています。『古事記』では、オオナムチは、国作りをしたオオクニヌシの別名になっています。

オオナムチ(オオクニヌシ)の相方のスクナヒコは、『古事記』の次の場面で登場します。福永武彦氏の現代語訳から引きましょう。

かのオホクニヌシノ神、別名はオホナムヂノ神が、出雲の国の、のちの美保である御大(みほ)の岬(島根半島先端にある)にいた時のこと、波がしらの白く立ち騒ぐ沖のほうから、ががいもの実(小さな豆殻のようなもの――引用者注)の二つに割れたのを船として、みそさざいの皮を丸剥ぎにしたものを着物に着て(別に「蛾のぬいぐるみをかぶって」という訳もある――引用者注)、しだいに波の上をこちらのほうに近寄ってくる、小人のような神があった。そこで名前を尋ねてみたけれども、答えない。お伴に附き従っている神々に名前を聞いたけれども、誰一人、知っているという者がいない。そこへ蟾蜍(ひきがえる)が現れて、こう言った。「これはきっと、案山子(かがし)のくえびこの奴(やつ)が存じておりましょう。」そこで案山子を召し寄せて、その名前を尋ねたところ、「これはカミムスビノ神の御子(みこ)である、少名毘古那神(スクナビコナノカミ)でございます。」こう答えた。

ここを読んだとき、私はなんともいえない奇妙な感触がありました。それをあえて言葉にすれば「安万侶さんよ、あんた、何が言いたいのかね。よく分からないよ」という言い方になります。

西條氏によれば、この話は、スクナヒコナをわざと無名の神にするために作られたものだそうです。実際には、この神は、民間でもっとも人気のある神だったとのこと。たとえば、『万葉集』には、このコンビの神をモチーフにした歌が四首あります。それらを引いておきましょう。なお神名は、煩雑さを避けるためにカタカナとします。

オオナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも 
(柿本人麻呂)

「その大昔、オオナムチノミコトとスクナヒコナノミコトがお作りになった妹背の山は、見ているとなんともいえずすばらしい」というほどの意味でしょう。妹背の山とは、和歌山県北部、かつらぎ町を流れる紀ノ川の北岸の背山と南岸の妹山のことです(この歌においては吉野川の妹背山がモチーフである、という説もあるようです)。「妹」(いも)は親しい女性(恋人)を、「背(兄)」(せ)は親しい男性を呼ぶ愛称ですから、「妹背」で夫婦の意味になります。二山が寄り添って立つその姿から仲睦まじい夫婦のイメージが想起され、「妹背の山」と名付けられたのではないでしょうか。

オオナムチ スクナヒコナの神こそば 名付けそめけめ 名のみを名児山と負ひて 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに  
(大友坂上郎女・おおとものさかのうえのいらつめ)

「オオナムチノミコトとスクナヒコノミコトが神代の昔にはじめて名付けたのでしょう、名前だけは『名児山』とあたかも和むかのようではありますが、そんなことはなくて、私の恋の苦しみの幾重もの重なりのごく一部分だけでさえも慰められることは決してありません」というほどの意味でしょうか。この歌は、天平二(七三〇)年十一月に、大伴旅人の帰京より一足早く出発した大伴坂上郎女が名児山越えの峠道で詠んだものだそうです。名児山越えは、いまの福岡県福津市奴山から宗像市田島へぬける峠越えの道ですが、郎女は、宗像大社に参拝するためにその道を通ったものと思われます。郎女は、大友旅人の異母妹であり、家持の叔母でもあります。

オオムナチ スクナヒコナの いましけむ 志都の岩屋は 幾世経ぬらむ                  (生石村主真人・おおしのすぐりまひと)

「オオムナチノミコトとスクナヒコナノミコトがいらっしゃったという志都の岩屋はいまでもあるが、そこにふた柱の神がいらっしゃらなくなってから、ずいぶんと長い月日が経ったことだろう」という意味でしょうか。「村主」や「真人」という言葉から、渡来人であることがうかがわれます。「オオムナチノミコトとスクナヒコナノミコト」の昔を懐かしむ姿勢の裏になんとなく深刻な思いが秘められているような風情の歌ですね。「志都の岩屋」の場所はいまだに特定されていないようですが、島根県か兵庫県ではないかとは言われているようです。

オオムナチ スクナヒコナの 神代より 言ひ継ぎけらく 父母を 見れば貴く 妻子(めこ)見れば かなしくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の児と 朝夕(よい)に 笑みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや 天地の 神言寄せて 春花の 盛りもあらむと 待たしけむ 時の盛りそ 離れ居て 嘆かす妹が いつしかも 使の来むと 待たすらむ 心寂(さぶ)しく 南風(みなみ)吹き 雪消(け)溢(はふ)りて 射水川(いみづがは) 浮ぶ水沫(みなわ)の 寄るへなみ 左夫流(さぶる)その児に 紐の緒の いつがり合ひて にほ鳥の 二人並び居 奈呉の海の 奥(おき)を深めて さどはせる 君が心の すべもすべなさ                              (大伴家持)

「オオムナチノミコトとスクナヒコナノミコトが活躍していらっしゃった神代からの言い伝えに『父母を 見れば貴く 妻子を見れば せつなくいとしい。これが世間の道理だ」とある。このように言ってきたのに、これが世の人の守る約束であるのに、ちさの花が咲いている盛りに、いとしいその妻と子どもが、朝夕に、機嫌が良かったり悪かったりして、嘆いて語ったであろうことは『いつまでもこういう状態なのだろうか。天地の神のご加護で、これからは春花のような栄えの時期もあるだろう』。そう言って待った、その真っ盛りなのだぞ今は。お前さんと離れ住み、嘆いて日々を過ごすお前さんの細君が、いつになったらお前さんからの使いが来るかと心待ちしていることだろう、寂しさを我慢しながら。南風が吹き、雪解け水が溢れ、射水川に浮かぶ水泡のように、寄るべないままに左夫流という名の遊女と、まるで紐の緒のようにくっつき合って、にほ鳥のように二人並んで、奈呉の海の奥底のようにどこまでも血迷った君の心の、なんともしようのないなさけなさであることよ。」これは、天平感宝元年(七四九年)当時、越中(富山県)の国守だった大伴家持が、部下である史生(ししょう・役職名)の尾張少昨(をはりのをくひ)が佐夫流兒(さぶるこ)という遊女に夢中になって妻を顧みなくなったので、彼を教え諭すために作った歌だそうです。

これらの歌の存在は、オオムナチ・スクナヒコのコンビが民間に根付いていたことを物語っています。「オオムナチ・スクナヒコナ」が、まるで「大昔」の枕詞のような働きをしています。特に、大伴家持の歌がそうですね。しかも場所が、和歌山・福岡・島根あるいは兵庫と広範囲です。風土記などでも、オオナムチ・スクナヒコナのコンビは、山川を作ったり、稲種をもたらしたり、温泉を引いたりして活躍しているそうです。スクナヒコは、全国的な知名度をもつ神だったのですね。西條勉氏の言葉を引きましょう。

このように民間神話では、国土と文化の起源が、オオナムチ・スクナヒコナで語られていたのである。一方、イザナキ・イザナミの創成活動を詠み込んだ歌は万葉集になく、風土記にもイザナキ・イザナミ二神は登場しない。当然である。無名なのは、イザナキとイザナミのほうだった。古事記のなかで、スクナヒコが無名の神になっているのにはわけがある。人気のある神をだれも知らない存在にすることによって、民間の神話を否定し、排除したのである。こうして、創成神話の主人公は、オオナムチ・スクナヒコナからイザナキ・イザナミに書きかえられた。新しい「日本」にふさわしいのは、多くの人々によって長く語られてきた民族の神話ではなかった。民間にないオオクニヌシという神を作り、その別名をオオナムチにすることで、オオナムチ・スクナヒコのコンビを解消したのだ。

いかがでしょうか。私はここを読んで、少なからず衝撃を受けました。こういう視点をちゃんとふまえないと、『古事記』読みの『古事記』知らずみたいなことになってしまうぞ、と思ったのですね。オオクニヌシ神話については、ふたたび触れることがあるでしょう。

これでやっと、イザナキ・イザナミ神話の入口にたどりつきました。では、冒頭の①オノゴロ島について語りましょう。

アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの三柱の天つ神から「是のただよへる国を修理(おさ)め固め成せ」と命じられ、「天の沼矛(ぬほこ)」をいただいたイザナキ・イザナミは、天の浮橋に立って、沼矛を海に指し入れ、海水をコロコロとかき鳴らして、それを引き上げるときに、その矛の先から滴り落ちた塩がおのずと重なって島になりました。それがオノコロ島です。二人はその島に天降って、「天の御柱を立て八尋殿」を作りました。「八尋」は「とても広い」という意味です。

この神話からは、磯の香りがぶんぶんと漂ってきます。つまり、海洋民族の神話が取り入れられていることをうかがわせるのです。また、「沼矛を海に指し入れ、海水をコロコロとかき鳴らして、それを引き上げるときに、その矛の先から滴り落ちた塩がおのずと重なって」というくだりから、性的なイメージが喚起されるのは、私だけではないでしょう。その性的なイメージは、次の二神の結婚の場面で、もっと鮮烈に打ち出されます。

では次に、②のヒルコを生む場面に移りましょう。ここは、二人の掛け合いが生き生きと描かれています。試しに、対話形式で現代語訳をしてみましょう。ただし、原文のままがいいと判断したところはそのままにしてあります。

イザナキ:お前の身体は、いったいどうなっているのだい。
イザナミ:私の身体は、じゅうぶんに成長していますが、ただひとところだけ「成り合わぬ処」があります。
イザナキ:そうかい。私の身体もじゅうぶんに成長したのだが、ただひとところだけ「成り余れる処」があるのだよ。だったら、私の身体の「成り余れる処」を、お前の身体の「成り合わぬ処」に差し入れてそれを塞いで、国生みをしようと思うのだが、どうだね。
イザナミ:それは善いことです。
イザナキ:だったら、私とお前とで、この天の御柱を両方から回って、出会ったところで、寝床で「まぐわい」をしようではないか。お前は右から回りなさい。私は左から回ることにしよう。
(そう約束して回るときに)
イザナミ:ああ、なんといい男でしょう。
イザナキ:ああ、なんていい女なんだろう。
(ふたりがそう言い終わった後に)
イザナキ:女のほうからまず言い出すのは良くない。

イザナキの不吉な予感は当たってしまいました。やがて生まれてきたのは、「水蛭子」(ひるこ)でした。ヒルコは、手足のなえた子、国土に相応しない子の意。二人は、それを葦船に入れて流し去ってしまいました。葦船は、葦を編んで作った船のこと。葦は邪気祓いの効果があるとされていたので、ヒルコの邪気から悪影響を受けないように処置したのでしょう。また、葦には霊妙な生命力があるともされていたので、その生命力を宿して五体満足な子どもとして生まれて欲しかったという願いを込めているのかもしれません。その次には、淡島(あはしま)を生んだのですが、これも生んだ子どもとはしなかった。「あは」は、心に不満がある状態の意。

二人は困ってしまって、高天の原の天つ神のところに行き、太占(ふとまに)で占ってもらいました。その結果を見て、天つ神は、「女のほうが先に言葉を発したのが、間違いの元なのだ。もう一度戻って、今度は間違いがないように言い直しなさい」と申し渡しました。

ここで、疑問が湧きます。二人が男唱女和の逆の振る舞いをしたことと国生みがうまくいかなかったこととの因果関係をどう理解すればいいのか、と。

男女関係を権力関係としてしか捉えようとしないフェミニストならば、ここに、『古事記』における男尊女卑あるいは女性差別の思想の現れを読み取ろうとするのではないかと思われます。当時の日本には中国の仏教・道教・儒教などの諸思想がかなりの程度伝わってきていて、そのなかに男尊女卑の考え方もおのずと含まれていたでしょう。だから、特に知識人の間にそういう考え方が一定程度定着していたことと思われるので、そのような四角ばった解釈もあながち誤りではないのかもしれません。

しかしそれだけでは、この神話のおおらかで明るい雰囲気がこぼれ落ちてしまいますし、また、それ自体あまり魅力的な解釈であるとも思えません。

私はむしろ、そこに、男女間のエロスの摂理とでもいうべきものに対する、古代人の無類に率直な直観を読み取りたい思いが強くあります。

男女間のエロスにおいて、女はあくまでも誘惑者であることによってその魅力が最大限に発揮されます。男は、その誘惑の力に抗しきれなくなってやむをえずアクションを起こす。つまり、誘惑という前言語的かつ身体的な次元において、女は能動的であり男は受動的である。そうであるがゆえに、言動の次元においては、男が能動的であるのに対して、女は受動的である、という形をとる。

経験から、女はそういう構図に乗るほうが得をするし、男はエロス的な意味で発奮するということをお互いよく分かっています。私は、上記の神話に、エロスのそういう相互了解的な在り方に対する古代人の健全で率直な直観の所在を感じるのです。そういう理解の仕方のほうが、なんだか元気が出てきませんか。

そういうことを踏まえたうえで、上記の国生みの失敗を私なりに解釈しなおしてみます。女の方から先に声をかけられたことで、イザナキはどこか男として気が萎えたのだと思うのです。そうして、その心理的な綾に霊妙なエロスの摂理が働いている。こちらになんとなく骨なしのぐにゃぐにゃなナマコのようなイメージを抱かせてしまうヒルコは、率直に言ってしまえば、「フニャチン」を想起させるところがあるのではありませんか。また、淡島の「あは」は、先ほど申し上げたように、心に不満がある状態を意味します。それは、イザナキからすれば、男としてのエロス的な意味での不全感という意味合いになるでしょう。とすれば、淡島もまた、フニャチン状態の心理的な表現であるという解釈が成り立つのではないでしょうか。少なくとも、そういうイメージが含まれているような気がするのです。

いろいろと回り道をして、さらには言いたいことを言ってしまったような気がするので、今回は、ここいらで終わりにします。イザナキ・イザナミ神話の続きは、次回に回しましょう。


参考文献
『古事記』(倉野憲治校注・岩波文庫)
『古事記 現代語訳』(福永武彦訳 河出文庫)
『新版 古事記』(中村啓信 角川ソフィア文庫)
『「古事記」神話の謎を解く かくされた裏面』(西條勉 中公新書)
『古事記誕生 「日本像」の源流を探る』(工藤隆 中公新書)
『古事記の宇宙(コスモス)――神と自然』(千田稔 中公新書)
『「古事記」と壬申の乱』(関裕二・PHP新書)
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『古事記』に登場する神々について(その1)

2014年03月15日 01時54分42秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その1)

今回からしばらくの間、『古事記』に触れてみようかと思っています。そのなかでもとりわけ、同書に登場する神々の意味ありげな名前が気になってしかたないので、それを話の中心に据えてみようかと考えています。むろん私は、『古事記』に関してズブの素人です。お話しすることのほとんどは、専門家の受け売りにほかなりません。だから、いちいちどこからの引用なのか明示していたら、キリがなくなって、書く方も読む方も煩わしくなるだけでしょうから、そういうことは必要最小限にするつもりです。

しかしながら、妄想が膨らんできて、どうにも我慢ができなくなったら、いろいろと言い出すかもしれません。そのときは、笑ってお見逃しください。なお、本文からの引用は、基本的には『現代語訳 古事記』(福永武彦訳 河出書房新社)からで、原文からはなるべく控えたいと思っています。原文を読みこなすのって、なかなか大変ですからね。

いきなり『古事記』の神々に触れる前に、『古事記』の成立をめぐってのエピソードをひとつ取り上げておきましょう。

『古事記』の「序」によれば、同書は、和銅五年(七一二年)一月二八日に太安万侶によって元明天皇に提出されたことになっています。

ところが、現存する同書の最古の写本は、室町時代の応安四、五年(一三七一~二年)筆写の真福寺本古事記であって、原本は今のところ見つかっていません。とすると、「序」に記載された同書の成立の年から約六六〇年の歳月が流れていることになります。

それゆえ、真福寺本古事記の筆写内容や文字遣いが、七一二年のそれに忠実なものかどうかについて疑念が生じることになります。それゆえ、『古事記』(あるいはその「序」のみの)偽書説が、江戸時代から今日まで入れ代わり立ち代わり登場することになります。

その論点に首を突っ込むと、実はかなり面倒なことにもなるし、私に、偽書説の是非を論じる力量があるわけでもありません。だから、これ以上その論点には触れません。ただ、その事実をお伝えしたいと思ってお話しした次第です。

では、同書の本文に入りましょう。

『古事記』の本文は、「天地初発之時」という六文字ではじまります。読みくだせば、「天地初めて発けし時」となります。「あめつち、はじめて、ひらけしとき」と訓読します。

「天地」は、和語にはなかったとても抽象的な観念であって、宇宙のすべてをあらわす言葉です。ここには、というよりむしろ、『古事記』全体を通して、中国の道教の影響が色濃いと言われています。当時の天皇家は、道教と深い関わりを持っていたのですね。

『古事記』の発案者であり企画者であった天武天皇自身、道教に深く傾倒していたようです。天武天皇の死後に与えられた諡(おくりな)が、「天渟中原 瀛真人天皇」(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)であったことが、そのことをよく物語っています。「天渟中原」とは、天上の瓊(たま・美しい赤色の球という意味)を敷きつめた原、「瀛」は瀛州(えいしゅう・中国の東の海に浮かぶ不老長寿の薬のある三神山のひとつ)という意味で、「真人」とは、位の高い仙人をいいます。どの言葉も、道教の神仙思想とのつながりを示しているのです。ほかにも天武天皇と道教とのつながりを示す事実がありますが、煩雑に過ぎるといけないので、これくらいにしておきます。

道教においては古くから、天は万物を覆い地は万物を載せるものと認識されていました。つまり、「天地」=宇宙となります。それに太安万侶は、和語の「あめつち」という読みを当てたものと思われます。それは、安万侶の独創といえば独創と言えましょう(『古事記』の編者はおそらく複数いたのでしょうが、これから、「安万侶」という固有名詞でそれらの存在を代表させることにします)。また、「天地」という言葉には、「宇宙は『陰』と『陽』からなる」という考え方が含まれてもいます。その「陰」と「陽」の論理は、次に登場する「ムスヒ」の神にも、さらには、イザナキ・イザナミ神話にも当てはまります。そのように、『古事記』の神話は仕組まれているのです。太安万侶は、天武天皇の意向や思想的な好みを最大限に同書に織り込んだのでしょうね。

「天地」という、たった二文字の言葉に、これだけの字数を使ってしまいました。この言葉について実はまだまだお伝えしたいことがあるのですが、読んでいらっしゃる方々にうんざりされると困るので、これくらいにして、次に移ります(こんな調子で、ゆっくりと進みますので、のんびりとおつきあい願えれば幸いです)。

「発(ひら)ける」は、「動かなかったものが動きはじめる」という意味合いの言葉です。だからここは、「止まっていた宇宙のすべてが動きはじめたとき」というほどの意味になります。神話に「天地開闢(かいびゃく)」という言い方がありますね。「天」と「地」が、広大な扉のように開くイメージです。とてもドラマテックではありますが、『古事記』の場合そういう感じではなくて、宇宙はあるにはあったのだが動いてはいなかった、それがなんの前触れもなく動きはじめた、と言っているわけです。そのニュアンスを最大限に大事にするとすれば、「序」の「大抵(おおかた)記す所は、天地開闢(あめつちひらけしとき)より始めて小治田(おはりだ)の御世に訖(おわ)る」のなかの「天地開闢」という言い方は(安万侶には大変恐縮な言い方になりますが)、やや不適切なものを含んでいると言わざるをえなくなります。ちなみに、「小治田の御世」とは、推古天皇の時代を指しています。小治田は、今の奈良県高市郡明日香村のことだそうです。

「天地初発之時」の次に、「於高天原」という言葉が登場します。むろん「高天の原に」と読み下します。「高天の原」の訓読は、「たかまのはら」です。

「たかまのはら」の構成に触れておきましょう。「たか」は美称で、「たか・あま」がひとびとによって発音を繰り返されるうちに「あ」音が除かれて「たかま」となったようです。「の」はもちろん助詞。「はら」は、『岩波古語辞典」には「手入れせずに、広くつづいた平地」とありますが、「墾(は)る」と語源を同じくすると考えれば、「ひとびとの手によって切り開かれた平地」と解することもできるでしょう。その方が、神の誕生する聖地としてはふさわしいイメージですね。

『古事記伝』の本居宣長は、「たかまのはら」を次のように解釈しています。『古事記の宇宙(コスモス)』(千田稔・中公新書)から、現代語訳を引きましょう。

高天の原は、天(あめ)である。そこでただ天(あめ)というのと、高天の原というのとのちがいは、天は天つ神の坐(ま)します御国であるので、山川木草の類、宮殿などその他よろずの物も、事も、天皇によって治められているこの国土のようであって、(中略)高天の原というのは、それが天にあることを語るときの言い方である。その理由は、「高」とは、天についての言い方で、ただ、高いという意味をいうのとは、ちがう。「日」の枕詞に「高光る」というのも「天照らす」と同じ意味で、「高御座(たかみくら)」も「天」(あめ)の御座ということで、これらの「高」も同じ意味である。

つまり宣長は、端的に言えば、「高天の原とは天つ神のいる天である」と言っているのです。

『古事記』からあたうかぎり「漢意(からごころ)」を排除しようとした宣長なら目を剥くものと思われるのですが、「高天」に神が住むという信仰は、実は、中国道教の神学教理書に数多く見えるそうです。ここではそれらの文献を具体的に取り上げることはしませんが、高天の原は、中国のそういう教理書を参考にして作られた言葉であるとのことです。

動きはじめた世界はまだすべてが、いま述べた「高天(たかま)の原」とよばれる天上世界でした。そこに最初にあらわれたのは「天の御中主の神」でした。すなわち、「アメノミナカヌシノカミ」です。この神様は、読んで字のごとく、動きはじめたばかりの宇宙の中心それ自体を指し示すだけであって、とても抽象的でありまた幾何学的でもあります。

ここにも、どうやら道教の影響が見られるようです。隋唐時代の道教において、天の中心に居る元始天尊は、その最高神でした。それは、もともとは元始大王であり、仏教思想の影響で元始天尊になったとのことです。それらはともに北極星の化身です。太安万侶は、そのことを文献で学び、『古事記』に取り入れたのでしょう。

つまり太安万侶は、同書の冒頭で、最高神を規定したと言っていいでしょう。とするならば、後に現れるもう一柱の最高神・天照大神とのつじつまが合わなくなります。これをどう解釈すればいいのか。それについては、次回にでも触れましょう。

ところで、最高神「アメノミナカノヌシ」には神裔がいます。『伊勢国風土記』を紐解くと、「夫(そ)れ伊勢の国は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の十二世の孫、天日別命(あめのひのわけのみこと)の平治(ことむ)けし所なり」とあります。すなわち、アメノミナカヌシの末裔として位置づけられるアメノヒワケノミコトという神によって伊勢の国は治められているというのです。先ほど、アメノミナカヌシノミコトが道教の最高神で、北極星がそのシンボルであることを述べました。そうして、その末裔が伊勢の国を治めているという。とするならば、伊勢神宮の祭祀には道教的な意味合いがあることが推測されます。

一例を挙げれば、遷宮に携わる建築技術者たちのハッピの背に「大一」の文字が染め抜かれています。「大一」は、漢代の道教において、その最高神が「太一」と呼ばれていたことに由来するものと思われます。紀元前後に道教思想が渡来した土地柄であったからこそ、伊勢の地が、後代に伊勢神宮の鎮座地となった可能性が想定されます。

さて、『古事記』の本文に戻りましょう。「アメノミナカノヌシ」の次にあらわれたのは、「高御産巣日神」と「神産巣日神」、すなわち「タカミムスヒノカミ」と「カミムスヒノカミ」です。その名のなかの「ムスヒ」には、無視できない大きな意味があります。「ムス」は、育つ・生えるなど、生命活動が行われていることをいいます。また「ヒ」には「霊」の字が宛てられて、神秘的で超自然的な力を意味します。つまり「ムス・ヒ」は、生命活動そのものの神秘的な力をあらわす言葉なのです。

すなわち、動かなかった宇宙が動きはじめたそのど真ん中に、生命活動そのものの神秘的な力が生まれた、と『古事記』は言っているのです。端的に言えば、「宇宙は生命で満ち溢れている。生命こそが宇宙の根源である」。それが『古事記』の宇宙観なのです。とてもおおらかでのびやかな気分になりませんか。

この二柱の神を陰陽との関連で見てみましょう。まず、「カミムスヒノカミ」は「陰」の神であると考えられます。この神が登場するおもな舞台は、出雲神話です。それは、出雲地方が後に山「陰」地方と呼ばれたことと関連づけることができると考えられています。「陰」の「カミムスヒノカミ」が登場する場面を二つ取り上げてみましょう。

まず最初は五穀の起源神話について。アマテラス大御神が天の岩屋戸から出てきた後に語られる、出雲神話に属するオオゲツヒメ(大気都比売)の物語は次のようです。天上界を追われたスサノオの命は、食物をオオゲツヒメに乞います。するとオオゲツヒメは、鼻・口・尻から種々のおいしいものを取り出して、それらを調理して献上すると、スサノオの命は、けがれたものが進上されたと思ってオオゲツヒメを殺してしまいます。するとその頭に蚕が、二つの目には稲の種が、二つの耳には粟(あわ)が、鼻には小豆が、陰(ほと)には麦が、尻には大豆(まめ)が、それぞれ生成しました。そこでカミムスヒの神はこれらの穀物類を取らせて、それぞれの種子としました。種子が「地」すなわち「陰」のムスヒ=生命力が凝縮したものであることは言うまでもないでしょう。

次の神話においても、陰の土地・出雲にカミムスヒの神が登場します。稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)を助けたオオナムジ(オオクニヌシの神の別名)は、ほかの神々(八十神)の計略にひっかかって、イノシシに似た大きな焼き石を取ったために、死んでしまいます。それを見ていた母神は哭きうれえて、高天の原に上り、カミムスヒの神に懇願したところ、神は、サキガイヒメ(赤貝のヒメ)とウムガイヒメ(ハマグリのヒメ)とを遣わしてオオナムジを生き返らせました。ここに、ムスヒという偉大な生成の霊力を読み取るのはむずかしいことではありません。

次は、「陽」のタカミムスヒノ神にご登場願いましょう。日本古来の最高神とも言われるタカミムスヒノ神の名が最初に出るのは、アマテラスの大御神が天の岩屋戸に隠れたという場面です。世の中がまっくらになり、八百万の神が天の安の河原に集まり、そこでタカミムスヒの神の子であるオモイカネ(思金)の神にアマテラスの大御神を外に誘い出す思案をさせています。この場面の背後にタカミムスヒの神が隠れていると考えていいでしょう。

次にタカミムスヒの神があらわれるのは、アマテラス大御神とともに天の安の河原に八百万の神を集める場面です。ここから、話は天孫降臨の物語へと展開していきます。その過程で、タカミムスヒの神は、タカギ(高木)の神へと変貌を遂げ、単なる神の依代という一般的な神名に変わっています。それは、アマテラス大御神を皇祖神化し、天皇家の権威を高めるためにどうしても必要な操作であったものと思われます。その詳細については、次回にでも触れることにしましょう。いずれにしても、アマテラス大御神と関連した場面で登場するところに、「陽」の神としてのタカミムスヒの特徴がよく表れている、といえるのではないかと思われます。

ムスヒの神二柱の次に、「宇麻志阿斯訶備比古遅神」(ウマシアシカビヒコヂノカミ)と「天之常立神」(アメノトコタチノカミ)があらわれます。そのあたりの描写が、とても鮮烈なイメージなので、私はとても好きです。福永武彦氏の現代語訳を引いておきましょう。

その後に、天と地とのけじめのつかぬ、形らしい形もないこの地上は、水に脂を浮かべたように漂うばかりで、あたかも海月(くらげ)が水中を流れ流れてゆくように頼りのないものであったが、そこに水辺の葦(あし)が春さきにいっせいに芽ぶいてくるように、萌え上がってゆくものがあった。この葦の芽のように天に萌え上がったものから二柱の神が生まれた。

「ウマシアシカビヒコヂノカミ」と「アメノトコタチノカミ」が、その「二柱の神」なのです。前者の神の名のなかの「アシカビ」の「アシ」とは「葦」のことです。葦はイネ科の植物ですから、稲と生態が似ています。すぐ田んぼになる湿地の葦原は、古くから人びとの集まる目印でした。古来、葦は邪気祓いの植物でもありました。また、「カビ」は芽のことで、生命活動の象徴です。だから「アシカビ」は、生命の息吹を表していると考えていいでしょう。次に後者の神の名のなかの「トコタチ」の「トコ」は「床」で、空間的にも時間的にも変わらずがっちりしていることです。「タチ」は、この場合「あらわれる」という意味です。「噂がたつ」の「たつ」に近いですね。つまり「トコタチ」とは、永遠不動のものがあらわれるという意味です。

以上の、天にあらわれた五神を「別天(ことあま)つ神」といいます。「別」は、次にあらわれる神々とは別だよ、ということです。それに対して、地においても次々と神々があらわれます。ここから合計十二神があらわれることになりますが、それらをまとめて「神代七代」(かみよななよ)と呼びます。なぜ十二神なのに「七」なのかといえば、それは、十二神のうちの十神はペアなのでペアでひとつと数えるからです。つまり、五組+二神=七代というわけです。

五神の「別天つ神」が宇宙誕生のストーリーのキャラだったとすれば、「神代七代」の神々は、わたしたちが住む地球を作り上げる世界誕生のキャラといえるでしょう。また、「別天つ神」にはすべて「独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき」という文言が付け加えられました。五神すべて、要するに宇宙を成り立たせるエネルギーそのものなので、目に見えない神とするよりほかはなかったのでしょう。そのことは、「神代七代」に入っても、「国之常立神」(クニノトコタチノカミ)と「豊雲野神」(トヨクモノカミ)までつづきます(前者は大地を、後者は雲や野原のエレメントを表しているようです)。ところが、その次に「宇比地邇神」(ウヒジニノカミ)と「妹・須比智邇神」(イモ・スヒジニノカミ)の男女ペアの神があらわれると、「独神~」の文言は消えます(「ヒジ」は「泥」を表しているようです)。以下、五対の男女ペア神となり、その最後に「伊邪那岐命」(イザナキノミコト)と「伊邪那美命」(イザナミノミコト)が登場します。この男女ペアの神が「イザナ」い合って(誘い合って)、ふたりで国生みに勤しむことはみなさまよくご存知のことでしょう。ちなみに、ふたりに「地上の有様を見るに、まだ脂のように漂っているばかりであるから、お前たちはかの国を、人の住めるように作り上げなさい」と促したのは、冒頭の三柱の神々だったことは、ちょっと覚えておいていただければ幸いです。生命の根源的なエネルギーが、男女ペアの神を性行為の形で国生みという営みをするように促すのは、イメージとしてとても腑に落ちますね。

ここで、神代七代の神々と、それらを象徴するものをあらためて掲げておきましょう。西條勉氏の『「古事記」神話の謎を解く かくされた裏面』からの引用です。

① クニノトコタチ      大地
② トヨクモノ        雲・野原
③ ウヒジ二・妹スヒジニ   泥(ひじ)
④ ツノグイ・妹イクグイ   杭
⑤ オオトノジ・妹オオトノべ 場所→性器
⑥ オモダル・妹アヤカシコネ 出会い
⑦ イザナキ・妹イザナミ    誘い合い


『古事記』に登場する神々の名には、深い意味が込められています。同書がとてもよくできた仕組みの神話であることと、そのことの間には、浅からぬつながりがあることが、今回の拙文でいささかなりともお分かりいただけたら、それはとてもうれしいことです。

次回は、イザナキ・イザナミ神話を扱いたいと思っています。

参考文献
『古事記』(倉野憲治校注・岩波文庫)
『古事記 現代語訳』(福永武彦訳 河出文庫)
『新版 古事記』(中村啓信 角川ソフィア文庫)
『「古事記」神話の謎を解く かくされた裏面』(西條勉 中公新書)
『古事記誕生 「日本像」の源流を探る』(工藤隆 中公新書)
『古事記の宇宙(コスモス)――神と自然』(千田稔 中公新書)
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小野田少尉の三〇年戦争 (イザ!ブログ 2013・10・4,6,10 掲載)

2013年12月22日 06時51分04秒 | 歴史
小野田少尉の三〇年戦争



小野田寛郎(ひろお)氏が祖国日本に帰って来たのは、昭和四九年の三月十二日の午後四時過ぎでした。なんとなく記憶に残っているのは、その日のNHK7時のニュースで報じられた、記者会見に臨む小野田氏の姿です(もしかしたら実況中継だったかもしれません)。その二年ほど前に帰還した横井庄一氏の敗残兵然とした姿とくらべると、ずいぶん背筋のピンと伸びた軍人らしい人だと思ったことを覚えています。つい最近まで臨戦態勢にあったような風貌なのですね。たくさんの報道陣がしきりにフラッシュを焚いていたりするので緊張するせいか、記者たちの質問に答えながら口角に蟹のように泡がたまるのが痛ましくもありました。また、「~であります」という答え方に、軍人らしさが出ているような感じを持ちました。

それは、私が十五歳のときのことでした。私は、たしか合格した公立高校に入学するのを待つばかりの身だったのではないでしょうか。父がなかば鬱病のような状態になり、失職した後半年ほどずっと寝込んでいたので、家の中はお世辞にも明るいとはいえない雰囲気でした。きちんと病院に行こうとしないその髭ぼうぼうのだらしない態度に納得の行かないものを感じていて、私はうっすらとした不満を父に対して抱いていました。だから、父と会話らしい会話を交わす気分にはあまりなれませんでした。そんな父が、テレビで小野田氏がルバング島を歩く映像を観て「あれは大したものだ。五〇代なのに起伏のある地形をスッスッと歩いている」と褒めたのを覚えています。父は元海上自衛官なので、小野田氏の軍人としての力量をかいま見て心を動かされたのではないかと思います。

小野田氏が帰還した当時の私の記憶は、おおむねそんなところです。それから四〇年の歳月が流れました。私は、今回たまたまブック・オフで買った彼の『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読みました。そこには、私が漠然と想像していた小野田氏とはずいぶん異なる姿がありました。それをみなさんにお伝えしようと思って、筆を執ってみることにしました。私がお伝えしようと思うのは、小野田少尉がルバング島で三〇年間、どういう思いでどのように闘ったのか、ということです。そうして、日本に戻った小野田氏を待っていた日本の現実がどういうもので、それを小野田氏がどう思ったかということです。

昭和十六年十二月八日、日本は対米英開戦に突入します。満二十歳になった小野田氏は、昭和十七年五月、中国・漢口(いまの武漢)で徴兵検査を受けました。甲種合格でした。以下、フィリピン・ルバング島赴任までの略歴を簡潔に記します。ルバング島は、ルソン島のマニラ市をマニラ湾に向けて南西に200kmほど下ったところにある小さな島で、ルソン島をクジラに見立てると、ルバング島は小魚ほどの大きさです。

昭和十九年一月(二十一歳)、九州・久留米の第一予備視士官学校で訓練を受けるために日本に帰国。

同年八月(二十二歳)、陸軍中野学校二俣分校(静岡県天竜川)で第一期生として訓練開始。戦局の緊迫化により、謀報・謀略技術を三ヶ月で詰め込まれる。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓とは異なり、「死ぬなら捕虜になれ」と教えられた。

同年十一月三〇日、同校退校。「卒業」の字は、経歴に残るため。

同年十二月十七日、小野田氏を乗せた輸送機がフィリピンに向けて飛び立つ。

フィリピンで、谷口義美少佐から「小野田見習士官は、ルバング島へ赴き同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」との口頭命令を受ける。それを発令した横山師団長から「玉砕は一切まかりならぬ。三年でも、五年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか、重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と言われる。

昭和二〇年一月一日、ルバング島に到着。



貧弱な装備と警備隊長への指揮権はあるが命令権はないという指揮系統の不備に悩まされながらも、小野田少尉は、命令をなんとか遂行しようとします。

二十年二月二八日夜明け、ティリク沖合にいた敵艦の艦砲射撃開始。敵軍上陸。敵に速やかに制空権・制海権を握られ、自分たちは武器の補給すらない惨憺たる闘いを強いられます。三月半ばになると、生き残りの日本兵が山中の幕舎に集まってきます。約二〇〇人の日本兵が二二人になっていました(実際は四〇数名)。将校で残っていたのは小野田少尉だけでした。さらに、分散潜伏を採用したり、敵の掃討部隊と出くわして猛射を浴びたりしているうちに、分隊はばらばらになってしまい、隊は三人だけになってしまいました。すなわち、島田庄一伍長・三十二歳、妻帯者、埼玉県出身。小塚金七一等兵・二十四歳、東京都出身。小野田寛郎少尉・二十三歳、和歌山県出身の三人です。こうして、三人だけのゲリラ活動に明け暮れる生活が始まりました。途中、フィリピン軍に乱射された日本兵のグループの生き残りの赤津勇一一等兵が加わったものの、彼は後に″脱走″しました。日本に帰ってから、小野田氏は、周りから″脱走″という言葉使いを非難されたのですが、それに対して「命が尽きるまで闘い抜き″戦死″したほかの二人のことを考えたら、それ以外にどんな言葉を使えばいいのか。そう言わなければ、ふたりは浮かばれないではないか」という趣旨の言葉で逆に激しく問いかけています。

八月中旬になると、毎日威嚇射撃をしていた米兵の姿が見えなくなります。八月十四日に日本政府がポツダム宣言を受諾したのですから、それは当然のことです。しかし、その当然のことが、彼ら三人には伝わらない。投降勧告ビラに「八月十五日、戦争は終わった」の文字を見かけますが、彼らはそれを信じません。年末に「第十四方面軍司令官 山下奉文(ともゆき)」の名での戦闘行動の停止命令のビラを目にするも、文面におかしなところを発見してその信憑性を疑います。慎重な検討を重ねた結果、「山下将軍の名をかたった米軍の謀略だ」という結論になりました。小野田氏自身はこれについて次のように語っています

最初のボタンの掛け違いとは、恐ろしいものである。私は初めに矛盾の多い山下奉文将軍名の「投降命令」や「食物、衛生助(?)ヲ与へ、日本へ送(?)ス」などわけのわからない日本語のビラを見せられたため、どんな呼びかけにも米軍の謀略、宣伝だと頭から疑ってかかる習性が身についていた。

それに関連して、次のようにも言っています。

日本の敗戦が信じられなかった私は、友軍が反撃攻勢に転じる前、必ず連絡をとりにくると思っていた。そのときのために上陸地点の地形、敵の布陣、戦力など島内のあらゆる情報を収集しておかねばならない。

それだけではありません。小野田氏は、次のようにも言っています。

大規模な遊撃戦はあきらめざるを得なかったが、友軍が再上陸してくる日まで、私たちは″占領地区″を死守せねばならない。

だから、ときにはフィリピンの国家警察軍と激しく撃ち合うこともありました。また、自分たちによる占領の事実を知らせるために、畑仕事をしている農民に対してあえて威嚇射撃をすることもありました。

ジャングルでの生活は自然との厳しい闘いはあるものの、それ以外はのんびりしたものだったような勝手なイメージをなんとなく抱いていましたが、実際にはそんな生易しいものではありません。彼らは、自然に対しては当然のことながら、「敵」の動向に対しても、四六時中実に注意深く、そうして警戒を怠ることなく日々を過ごしているのでした。

「敵」に所在地を知られないように、煙を出さないで火を燃やす工夫をしたり、農民から食料を盗む場合も盗んだ事実が発覚しないように目立たぬ分量だけ盗んだり、ジャングル奥深く人が入り込んでくる乾季には、ねぐらを日替わりで変えたりと、気の休まるときはほとんどといっていいほどになかったようです。寝るときも、蚊に食われたり、さそりに刺されたり、蟻に鼓膜を破られたりしないように、細心の注意を払いました。事実、小野田氏の左耳は寝ている時に鼓膜を蟻に食い破られたせいでまったく聞こえないそうです。つまり、彼らにとってルバング島は、文字通りの戦場だったのです。いいかえれば、毎日が極限状況ということになります(小野田氏は、孤独な「三〇年戦争」で島民を含めて30名殺したとのことです)。それを耐え抜く精神力がどれほどのものか、太平の世に生を受けた私には想像もつきません。あとがきを書いた三枝貢という方が後年帰還した小野田氏に「ルバング島へ行ってみたいと思いませんか」と尋ねたところ、彼は暗く沈んだ声で「木一本、砂一粒を見るのも嫌です。何ひとつ、楽しいことはなかったですから・・・・・」と言ったそうです。むべなるかなと思うと同時に、ここで小野田氏はほのめかしてもいませんが、ルバング島が戦友二人を失った場所であるという思いが、小野田氏をしてそういう矯激な言葉を吐かしめているようにも感じられてなりません。

では、小野田氏にいまもなお痛憤の念を抱かしめ続けているにちがいない戦友たちの「戦死」に触れましょう。これが、この文章のなかでいちばん書きたかったことです。

その前に、三人の結束の固さを示すエピソードに触れておきます。途中参加の赤津一等兵が去った後、小野田少尉は二人にはじめて特殊任務を打ち明けました。おそらく小野田少尉は、赤津一等兵を心の底から信じることができなかったのでしょう。

「隊長殿、五年でも十年でもやるぞ。友軍が上陸してくるまでに、オレたち三人でこの島を完全占領だ」島田は顔を紅潮させていった。小塚はニヤっと笑っただけだった。勘のいい彼は、うすうす私の任務に気づいていたようだ。

それからの三人は、積極的なゲリラ戦に出ました。体力のない赤津一等兵を抱え隠忍自重を強いられたために、住民たちは、三人の″占領地区″である山に入り放題だったのですが、それを威嚇して追い払い、向かってくる敵には容赦なく発泡しました。フィリピンの国家警察隊は、それに対抗して戦力を増強し、約一〇〇人を動員して包囲作戦に出る日もありました。

昭和二八年五月の夜襲で重傷を負ったろから、豪放磊落だった島田伍長がなにかと気弱になってしまいました。やがて彼は、三人の間でタブーになっている家族のことを話すようになりました。次は、そんなころの彼のエピソードです。

「男の子か女の子か、どっちが生まれたかなあ」
降りしきる雨を眺めながら、島田伍長がつぶやいた。彼が出征するとき、奥さんは二人目の子を身ごもっていたという。長女はまだ、小学校にもあがっていなかったそうだ。
「あいつもそろそろ年ごろか」
ふっとため息まじりにいった。しんみりと話すのは、いつも子供のことであった。無理もない。彼は招集兵だ。めっきり白髪が増え、島田も四十歳が近かった。
(中略)
故郷や肉親の話は、私たちにはタブーであった。そんな話をしたあとは、なぜか不吉なことが待ち構えていた。
 島田が好んでしたのは盆踊りの思い出話だった。
(中略)
 「あんな楽しいものはなかったなあ。なにしろ年に一度の楽しみなんだから」
 島田は本当に楽しげに話した。
 しばらくして、私たちは家族の写真を載せたビラや手紙を拾った。島田は二人目の子が女の子であることを知った。
 夕食後、妻子の顔が載ったビラを島田はじっと見入っていた。
 不吉な予感は、数ヵ月後に現実になった。


次が、島田伍長戦死の場面です。島の西のゴンチン海岸でのことです。山の斜面でほかの二人が仮眠していて自分が見張りをしているとき、ふだんは慎重な島田伍長がなぜかそのときにかぎって無防備に、赤く熟したナンカの実をむき出しの岩の上に並べてしまいました。目を覚ました小野田少尉が、敵にそれを見つけられたら自分たちの命に関わる重大事に発展しかねないと危惧の念を抱くのとほぼ同時に、住民らしい男が駆け降りていきます。恐れていたことが現実のものになります。その男は、討伐隊の道案内だったのです。ほどなく激しい銃撃戦になります。

私は斜面に身を伏せ、小塚は三メートルほど離れたところで倒木の陰に身を隠し、応戦した。
島田はまだ一発も撃たない。見ると、立ったまま銃の装填動作をしている。
中隊の射撃大会で表彰状をもらったのが自慢の島田は、早撃ちでも三人のうちで一番だった。私と小塚が二発撃つ間に、五発は撃つ。
「島田、少しは弾を大事にしてくれよ」と、銃撃戦のあとでいつも文句をいったものだ。
「伏せろ!姿勢が高いぞ」
私は怒鳴ろうとしたが、声にはならなかった。
一斉射撃が谷いっぱいにこだました。
島田の体が頭からゆっくりと前のめりに倒れた。動かない。即死だった。
昭和二九年五月七日、島田庄一伍長は九年間の戦闘の末、戦死した。
のちに捜索隊が残していった新聞記事によると、島田は眉間を打ち拔かれたいたという。
私たち三人は、敵に突然、遭遇したとき、それぞれ一発ずつ敵を銃撃して出ばなを押さえ、間げきをついて離脱する取り決めになっていた。
島田はなぜ、あのとき発泡しなかったのか。なぜ、あんな高い姿勢をとり続けたのか。私はいまだにこの疑問が解けないでいる。


島田伍長の″戦死″が確認されたことで、厚生省引揚援護局が残る二人の救出に乗り出しました。小野田少尉の長兄・敏郎氏と小塚一等兵の弟・福治氏がそれに加わって、昭和二九年五月二五日に羽田を出発しました。島田伍長が″戦死″した十八日後のことです。小野田少尉は、長兄や母タマエの手紙を目にします。しかし、いま祖国は米軍の占領下にあり、日本政府はアメリカの傀儡(かいらい)に過ぎないというのが小野田少尉の認識ですから、それらは米兵に脅されて書いたものにちがいないとされるのでした。また、タマエさんは武家の出で、気丈な明治の女です。小野田少尉が出征するとき、短刀を渡して「武人として道にもとるときは、この短刀で自決しなさい」と申し渡しました。「そんな母が、投降をすすめるはずがない」と小野田少尉は考えるのでした。



昭和二九年五月、島田庄一伍長が″戦死″しました。残るは、小野田少尉と小塚一等兵のふたりとなりました。仲裁役のいない男ふたりだけの世界は、衝突した場合、抜き差しならない事態に発展しやすいところがあるようです。そのうえふたりは普段から戦闘態勢のまま日々を過ごすという極限状況にあったので、そうなりやすいという側面があったのではないかとも思われます。小野田氏によれば、「小塚と二人きりになって、私たちはどちらからともなく自分を「アコ」、相手を「イカオ」とタガログ語で呼び始めた。『貴様』とか『お前』という言葉は時と場所によっては相手の感情を損ねることがあると、無意識のうちに気を遣ったのかもしれない」そうです。衝突しないようにお互い細心の注意を払っているのが分かりますね。

しかしそれでもぶつかるときが来るのを避けられない場合があります。そうして、そのきっかけはほんの些細なことです。あるとき、ふたりで小学校から盗んできたトタン板をめぐってのちょっとしたやり取りがありました。トタン板を雨期を過ごすための場所に運ぶことになり、昼間トタンを背負って歩きます。トタンの光の反射をそのままにしておくと敵に自分たちの所在を知らせることになりかねないので、それに草やつるを巻きつける必要があります。小野田少尉は、つるを探しましたが、適当なのが見つからなかったので、細いつるを多めに巻きつけました。小塚一等兵は、それを見とがめて「横着するなよ。もっと丈夫なつるでなきゃダメだ。なぜ徹底的に探さないんだ」と文句を言います。小野田少尉は「これで十分間に合うさ」と軽く流そうとします。それが口火になって、ふたりは言い争うことになります。ふたりとも前夜遅くまで密林を歩き、疲れと睡眠不足でイライラしていたのも悪く働いたようです。小塚一等兵は、憤然として立ち上がり、山の中に入って行きます。ほどなく戻った彼は、蛮刀で小野田少尉が巻きつけたつるをバサっと切り、持ってきたつるで縛り直します。小野田少尉はその粗暴な振る舞いにもちろんカチンときますが、何か言えば激しい口論になると思い、黙ってトタンを背負って歩き出します。しかし、それで事態は収束しなかったのです。



小塚は前を歩きながら、「横着して」とまた私をなじった。私が黙っていると、そのうち彼は吐き捨てるようにいった。
「これからは、オレのあとについて歩けばいいんだ!」
「ついて歩け?」
私は思わず立ち止った。
「待て、小塚。いまの言葉は聞き捨てならんぞ」
背中の荷物を下ろし、その場に腰を据えて私はいった。「オレは一人でも歩ける。一人で任務も遂行できる。これまで貴様や戦死した島田からいろいろ助けてもらったことは感謝している。が、オレは将校だ。この島での戦闘については全責任をとる覚悟でやってきた」
小塚はフンといった顔でいい返した。
「陸軍少尉、文句はもうたくさんだ。能書きや説教は聞き飽きた!」
険悪な雰囲気でにらみ合いが続いた。


事態は、極限的な状況へとエスカレーションしていきます。戦闘態勢が解除されないことから来る緊張や孤立感が果てしなく続いていて、仲裁役がだれもいない閉鎖空間において、男ふたりが衝突するとそういうことになってしまいがちなのは、想像するのがそれほど難しいことではないでしょう。

(前略)私は立ち上がり、再びトタン板を背負って歩き出した。十歩も行かないうちに、足元に石が飛んできた。振り向くと、小塚がさらに石を投げようとしていた。
「バカ野郎、やめないか」
 これがかえって油を注いだ。「バカ野郎とは何だ!貴様は味方じゃねえ、殺してやる」
「殺す!? 殺したいなら殺してみろ。その前にひと言、いうことがある。よく聞け」
 私は小塚の目をにらみ据えていった。
「オレは貴様と一緒に長い間、国のため、民族のために戦ってきた。オレは同志である貴様を、自分の感情だけで傷つけないよう心を砕いてきたつもりだ。それなのに貴様は、オレの統率が悪いから、多くの投降者を出し、赤津を脱走させ、島田を戦死させたと、何度も同じことをいった。だが、貴様がそれを言い出すときは決まっている。一つ、敵の勢力が強いとき、二つ、天候が悪いとき、三つ、計画がうまく運ばず、心身ともに疲れているとき、四つ、ハラが減っているときだ。このうち何か一つにぶつかると、必ずオレを批判し、怒りっぽくなる。きょうの場合は三番目だ。なぜ、もっと冷静になれないんだ。オレたちはたった二人だけなんだぞ」
「うるせえッ! 説教なんてたくさんだ」
「そうか、これだけいってもわからんか。よし、命はくれてやる。オレを殺して、あとは貴様一人で生き抜け。そして、オレの分まで戦え!」
 裏海岸の断崖の下には南シナ海の荒海が打ち寄せていた。耳には何も聞こえなかった。いっさいの物音が途絶えてしまったような感じだった。
 静寂の中で私たちは対峙した。太陽がジリジリと焼きつけていた。長い時がたった。
「隊長殿」沈黙を小塚が破った。
「先を歩いてくれ」


いかがでしょうか。最後の二行は、男泣きを誘うとは思われませんか。この場面が映画なら、このセリフを役者さんがうまく言えるかどうかが、作品全体の出来に大きく関わると思われます。私は、なにか趣味的なことを言いたがっているのではありません。この最後の二行を深く味わうことで、極限状況における赤裸々な激しい姿をお互いにさらしながらなおも許し合い尊敬し合って、ふたりの戦友としての絆が人間としてこれ以上はないほどに深いものになっていくのがよく分かります。そういうことが申し上げたいのです。小野田氏自身、上の箇所に続けて、次のように言っています。

 私と小塚は、この南の島で初めて知り合った。
 戦争がもたらした運命が、私たちを実の兄弟以上に結びつけた。
 ろくに言葉を交わさなくてもお互いの考えが理解できた。敵と遭遇したときも、目と目でうなずき合っただけで次の行動を展開した。私は彼の勇気と、果敢な行動力を尊敬し、彼は私の判断力に一目おいてくれているようであった。私たちは何度も「任務を遂行したら、二人そろって元気に内地に帰還しよう」と誓い合った。


ラジオで競馬中継を聴きながら、ふたりは結果の予想をするのが趣味のようになっていましたが、その予想が不思議なほどによく当たるので、ふたりは内地に帰還したら競馬の予想屋になろうと約束していたそうです。

次に、私は小塚一等兵の戦死の場面を語らねばなりません。小野田氏は、「昭和四十七年十月一九日――小塚一等兵が撃ち殺された日を、私は生涯忘れることはない」と言って、その場面を語り始めます。昭和四十七年は西暦1972年ですから、日本が高度経済成長を経て豊かな社会を実現し、1971年のドルショックを境に安定成長の時代に移行しつつある時期に当たっています。日本経済は、成熟期を迎えることになったのです。ふたりは新聞や入手したラジオでそういう現実の一端を垣間見て、とにもかくにも喜ばしいことだと祝するのではありましたが、他方では、抵抗を続ける友軍が来る日に備えて、ルバング占領の既成事実を作り、それを外へ向けてアピールする遊撃戦を続行するのでした。

ふたりは、雨期明けに決行する存在誇示の″狼煙(のろし)作戦″を実行に移します。場所は、島一番の町であるテリックが見渡せる丘(ジャパニーズ・ヒル)です。威嚇射撃をし、稲むらにヤシ油を浸した布を突っ込み、マッチで火をかけます。畑の中を走りながら、小塚一等兵は、ドハの大樹のわきに米俵が積んであるのに目をつけます。

「ついでに、やるか」小塚は木に銃を立て掛け、近くにワラを取りに行こうとした。
「時間がないぞ」
「わかっている」
そのとき、私は、耳たぶが引き裂かれるような空気圧の衝撃を受けた。
しまった!至近距離だ。
私はドハの大樹わきのブッシュに頭から飛び込んだ。小塚も転がり込んできて、自分の銃をつかんだ。
 敵は激しく撃ってきた。 
 応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。いままで何度もあったことだ。 
 だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
「肩だ!」小塚が叫んだ。
 振り向くと、右肩から血が流れていた。
「銃はオレが持って行く、先に走れ!」
「胸だ!ダメだ」
私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
 敵の銃声が途絶えた。
 いまだ! 私は二丁の銃を持って後ずさった。退いたものと思っていた小塚がいた。
「小塚!小塚!」
 私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
 反応がない。顔を見た。見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
 私は両手に二丁の銃を持って、一気に潅木の斜面を駆け下りた。激しい銃声が後を追った。
 私は最後の戦友を失った。小塚、五十一歳であった。


小野田少尉は、とうとう一人ぼっちになってしまいました。次は自分の番だという恐怖感はなかったそうです。極限状況の連続で、命に執着するという平時の当たり前の心がはたらかなくなっていたのかもしれません。そういうことはなかったのですが、一番苦労したのは、折に触れ突き上げてくる激情を抑えることだったそうです。つまり、かけがえのない戦友・小塚一等兵を殺された復讐心がせり上がってくるのを如何ともしがたく思うのでした。

 「胸だ!ダメだ」
 小塚の最後の悲痛な叫びと、口から血を吐いた顔がいつも脳裏を離れなかった。
 畑の住民の姿を見ても憎悪がこみあげ、女性にまで銃口を向ける自分を抑えねばならなかった。
 私は感情におぼれ暴発を防ぐため、自分の年限を決めた。あと十年、六十歳で死ぬ。
 体力に衰えはなかった。視力は1.2、夜間も目はきいたが、やや老眼が出始めたのは自分でも気づいていた。(このときもなぜか、蒸気機関士の定年が四十五歳だから、と妙なものを計算の基準にしていた)
 六十歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃。保存している銃弾すべてを撃ち尽くして死に花を咲かそう・・・・・。


自分の人生に決定的な区切りをつけなければ、その噴出をどう処理していいのか分からなくなってしまうほどの激情とは、すさまじいものです。戦友の存在が、小野田少尉にとってどれほどにかけがえのないものであったのか、余人にはうかがい知れないところがあります。

とにもかくにも、そのようにして、小野田少尉のひとりぼっちの戦いは続行されることになります。


小野田寛郎氏と鈴木紀夫氏

小塚金七一等兵の″戦死″は、日本において衝撃的なニュースとして伝えられました。当時の東京新聞(昭和四十七年夕刊)は、一面トップニュースとして「元日本兵がゲリラに」「一人射殺一人逃走」「現地警察と撃ち合い」と7段見出しで報じられました。関係者は、「小野田少尉、生存す」の事実を決定づけられたのです。日本は大々的な捜索隊を組織し、現地に送り込みました。厚生省、マニラの日本大使館、小野田氏の家族、友人などに、武装したフィリピン空軍約二〇〇人が加わり、大型ヘリコプターや軍用犬も動員されました。

小野田少尉は、当時を振り返って「こんな大捜索隊を見たら、だれだって討伐隊、戦場の軍隊と思うに違いない」と言っています。また、「こんどの姉、兄弟まで動員した捜索隊は、昭和三十四年のそれとは違う。どうやら日本政府が派遣した可能性が強い。捜索隊というのはあくまで口実で、実体は日本の謀略機関が送り込んできた特殊任務者の集団ではないだろうか。私への救出の呼びかけは、アメリカの謀略機関を欺くためのトリックで、その裏で島の飛行機やレーダー基地を写真に撮ったり、兵要地誌を候察したり、情報収集をしているにちがいない」とも言っています。「兵要地誌の候察」とは聞きなれない言葉です。「兵要地誌」とは、軍事的な観点から地理・ 地誌・緊要地形などについて研究を行う学問のことで、現代では軍事地理学と呼ばれています。また、「候察」とは、対象物件の状態を詳細に把握することです。このような若い頃に叩きこまれた実践的な軍事学の知見と、「あくまでも死ぬな」という陸軍中野学校精神と、小野田少尉の生来の意志の強さと、孤独な環境と、二人の戦友の死への深いこだわりとが相まって、小野田少尉の戦闘態勢はどうしても解除されるには至りません。これでは、捜索隊の思いと小野田少尉のそれとはどこまで行っても平行線です。

その膠着状態を打破したのは、意外な人物でした。それは、小野田少尉を″発見″するためにルバング島にやってきた冒険家・鈴木紀夫氏(二十四歳・当時)です。彼の夢は「パンダと小野田さんと雪男に会うこと」で、彼は、その夢を果たすために小金を貯めてはふらりと世界旅行に出かける、気楽でのびやかな戦後青年でした。鈴木青年は、たったひとりで島にやってきて、小野田少尉の偵察巡回の要所だった「和歌山ポイント」にテントを張り、小野田少尉との遭遇を心待ちにしていたのです。小野田少尉は、鈴木青年の背後から「おいッ」と声をかけ、銃口を突きつけて出現しました。昭和四九年二月二十日のことです。なんと強烈な出会いでしょうか。

「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と鈴木君は繰り返し、ぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。このときの心境を彼は書く。「足がガタガタと震え出した。男が手にもっているモノが鉄砲だとわかったからだ。体中の毛がそうけだっているのがわかる。殺される。死ぬ。しかし、男の目がキョロキョロ動いているので、一瞬、これは勝てるという気もした。そうだ、ナイフだ、しまったあ、ナイフを忘れたあ。これはダメだ」
 鈴木君にとっても、私にとってもこれは幸運であった。もし、あのとき、鈴木君がナイフに手をかけたら、私は間違いなく彼を射殺してしまっただろう。私が鈴木君を殺さずにすんだ理由は、彼が丸腰だったこと、毛の靴下にサンダル履きという住民にはない珍妙なスタイルだったせいである。


小野田少尉と鈴木青年とは、徹夜で語り明かしました。鈴木青年は日本が戦争に負けたことを小野田氏に対してかきくどいたそうです。小野田少尉は、鈴木青年の話を信じる気持ちがわずかながら兆したようです。鈴木青年は、小野田少尉の「オレはいま五一歳だが、まだ三十七、八歳の体力だと思っている。人間というのは体が健康であるかぎり、生きていたいもんだ」という言葉を聞いて、「小野田さんにはぜひ日本へ帰ってもらいたい」という決意が固まったそうです。小野田氏によれば、「計画は行き当たりばったり、性格は天衣無縫な鈴木君だが、核心はズバリ突いてきた」そうです。

「小野田さん、本当に上官の命令があれば、山を下りてきてくれますね。何月何日何時何分、どこへと指定すれば、きますね」 
 私は「上官が命令下達にくれば、敵と撃ち合ってでも出る」と答えた。(中略)
 私は自分の上官として比島派遣軍参謀部情報班別班長・谷口義美少佐の名をあげた。(中略)私は鈴木君と別れぎわ「あてにしないで待ってるよ」といった。期待するものはなにもなかった。


それから二週間ほど後、小野田少尉は、連絡箱で鈴木氏の手紙を発見し、「山下奉文大将の命令書を持って、谷口義美少佐と島にきました」という文言と、「命令は口達す」という谷口少佐の文書を目にします。

昭和四九年三月九日の夕方、約束の場所に谷口少佐が現れ、小野田少尉は不動の姿勢で″投降命令″を受けます。それは表向きだけのことで、何かほかに本当の命令があるのではないかと思って少佐の目を見つめますが、少佐は、何も言わずに、ゆっくりと命令書をたたんだだけでした。そのとき小野田寛郎氏(この命令を受けた瞬間、小野田少尉は、一私人・小野田寛郎に戻ったのです)は、不意に背中の荷物が重くなり、夕闇が急に重くなったような気がしたそうです。そうして、心の中に(戦争は二十九年も前に終わっていた。それなら、なぜ島村伍長や小塚一等兵は死んだのか)という思いが湧いてきて、体の中をびょうびょうと風が吹き抜けていく思いを味わったと述懐しています。また、長兄の敏郎氏とも現地で三十年ぶりの再会を果たすのですが、なぜか懐かしいという人間的な感情が湧いてこなかったとも言っています。小野田氏が、戦争に払った代償の大きさがうかがえる言葉です。

とにもかくにも、以上のような数奇な経緯を経て、小野田氏は、祖国日本に帰還することになりました。

しかしながら、 三十年ぶりに戻った祖国日本は、小野田氏にとって決して居心地のいい場所ではなかったようです。それが証拠に、小野田氏は帰国してから一年足らずでブラジルに渡っています。そのころを、小野田氏は「頭の収拾のつかない混乱」の日々と形容しています。以下に、帰国してからのエピソードをいくつか掲げますが、そこには単純に「祖国へ生還できてよかったですね」と言い切れない悲劇的なトーンが感じられます。小野田氏は、ルバング島での戦いとは別の、もっと込み入った心理的な戦いを強いられることになったのです。

昭和四九年三月十二日、タラップを下りた小野田氏は、両親と三十年ぶりに対面しますが、(年をとったなあ)と思っただけで何の感激もなかったそうです。これはやはり、戦いの日々の後遺症ではないかと思います。彼自身、「肉親への思いを拒絶し続けた三十年が、私の習性になってしまっていたのかもしれない」と自己分析をしています。そのそばに、島田伍長の成長した長女が、父の遺影を両手で包みこむようにして持って立っていました。小野田氏は胸が詰まり「申しわけありませんでした」というほかに言葉がなかったそうです。

小野田氏は、その足で羽田東急ホテルでの記者会見に臨みます。「カメラのレンズが十字砲火のように向けられていた。私は黒い銃口を連想した」という口ぶりから、彼が漠然とした不安や身の危険さえも感じていたことが分かります。小野田氏は、そのときいわゆる不適応症状の噴出を抑えるのに苦慮していたのではないかと思われます。ある記者の、小塚伍長の死で山を降りる心境になったのか、という軍人の心を察しないぶしつけな質問に対して、小野田氏は次のように答えています。

「むしろ逆の方向です(ムッとした表情)。復しゅう心のほうが大きくなりました。二十七、八年も一緒にいたのに″露よりももろき人の身は″というものの、倒れた時の悔しさといったらありませんよ(くちびるをふるわせ、絶句)。男の性質、本性と申しますか、自然の感情としてだれだって復しゅう心の方が大きくなるんじゃないですか」

おそらく、会場に居合わせた記者のみならず、この会見をテレビで見ていた日本の多くの人々は、小野田氏のこの言葉に込められた真情が分からなかったのではないかと思います。かくいう私が分かっているのかどうかも怪しいものです。その無理解こそが、小野田氏が帰国してからの「頭の収拾のつかない混乱」の大きな原因だったのではないかと思われます。そうして、その無理解それ自体は、そのとき避けようがないものでもあったのではないかと思われます。それは、小野田氏に、口外するのをはばかるような辛い思いを強いることになりました。

羽田空港で小野田氏を乗せた車は、東京・新宿の国立東京第一病院へ向かいました。帰国第一夜を、小野田氏は病院のベッドの上で迎えることになりました。帰国時に精悍そのものだった小野田氏は、自分がなぜ入院させられているのかわけがわかりませんでした。彼は当然のことながら退院を申し出ますが、厚生省から「政府として責任を負うための必要な処置」との理由で却下されます。小野田氏は「三十年間の戦いは、私個人でしたこと。国に責任を負っていただく必要はない」と反論しますが、聞き入れてはもらえませんでした。不本意ながら入院しているうち、本当に体が衰弱してきました。検査のために食事を最低カロリーに抑えられたのと、運動不足のために体力が衰えて、病院の廊下を思い通り真っ直ぐに歩けなくなってしまったのです。

入院中の小野田氏は、当時の総理大臣・田中角栄から、お見舞い金をいただきます。記者会見で金額は「百万円」だと教えられます。記者から何に使うのかと尋ねられたので、小野田氏は、靖国神社に奉納すると答えました。記者会見でお金の使い途まで聞かれて内心穏やかでなかったうえに、「靖国神社への奉納」が報道されると、どっと抗議の手紙が来ました。その内容は、「百万円を靖国神社へ奉納することは軍国主義にくみする行為だ。あなたは間違っている」といったものでした。それに対して、小野田氏は次のような痛切な言葉を吐いています。

なぜ、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くしてはいけないのか。私は生きて帰り、仲間は戦死した。私は戦友たちにお詫びし、心の負担を少しでも軽くしなければ、これからの人生を生きていく自信がなかった。

そんな無為と絶望の日々を病院で過ごしている小野田氏に、厚生省からスケジュール表が示されます。それには、「三月三〇日午前退院。靖国神社参拝――千鳥が渕参詣――皇居参詣――田中首相表敬後、新幹線で和歌山に帰郷」とありました。小野田氏はがく然とします。なぜならそこには、島田伍長と小塚一等兵のお墓参りの予定がなかったからです。小野田氏は、抑えていた憤懣が一気に爆発しました。陸軍中野学校同期会″俣一会″の幹事長・末次一郎氏にその胸の内を打ち明けたところ、末次氏は、厚生省に掛け合ってくれて、首相表敬の後に戦友ふたりの墓参ができることになりました。次に掲げるのは、小野田氏が小塚一等兵の実家を訪ねて、彼がルバング島での二七年間片時も離さずに握りしめていた形見の三八式銃を、彼の両親に手渡す場面です。この銃は、小野田氏が自分の銃とともにマルコス大統領から特別の許しを得て持ち帰った物で、厚生省に「国の支給品」として保管されていましたが、小野田氏がお願いしてもらい受けたのでした。小野田氏は、小塚一等兵の死後一年五ヶ月間、この銃をルバング島の「ヘビ山」の岩壁の割れ目にいつでも使えるように錆びない工夫をして隠していました。だから、銃床は古色蒼然としていたけれど、銃身や機関部は、小塚一等兵が毎日手入れをしていたときと同じように黒光りしていました。

「これしかお返しするものがありません」
が三八式小銃をお渡しすると、父上は突然、立ち上がって「金七!金七!」と息子の名を呼びながら銃を手に仏壇の前に倒れ込まれた。
 父上の両手に握られた銃は、激しく震えていた。
私は思わず目を閉じた。
ドハの大樹のわきで、右肩から血を流しながら銃を取ろうとして取り落とした小塚の顔が、涙ににじんで揺れていた。


四月三日、小野田氏は三十年ぶりに故郷・和歌山に帰ります。新大阪からバスで向かう沿道は人の波で埋まっていたそうです。歓迎の人々に頭を下げ、手を振って応えながらも、小野田氏は胸が苦しかったと言います。なぜなら、生きて帰った自分だけが歓迎されるのに対して、戦争で死んだ仲間は、非道な戦争の加害者のような扱いを受けている。その扱いのギャップが、小野田氏をして堪らない気分にさせるからです。

小野田氏の実家は、氏神さまのそばにありました。小野田氏は、出征のときその神社に参拝し、兵営に向かいました。だから、氏神さまに「帰還」の報告をすれば自分の公式行事はすべて終わり、やっと私人に戻れる。もうひと息で自分は自由だ。わがままもできる。そう思って、小野田氏は神社の石段を二段跳びに駆け上がります。

ところが、鳥居の前で弟の滋郎氏が、小野田氏を通せんぼします。叔父の喪中だから鳥居をくぐってはいけない、鳥居の前から参拝するようにとの父親の指示があったというのです。小野田氏は、帰国してすぐに叔父が亡くなったことを知ってはいましたが、その指示に従ったのではどうにも心の収まりがつきません。小野田氏は、思わず弟を怒鳴りつけて、自分の意志を押し通します。

「お父さん、寛郎、ただいま帰りました」
 あいさつしたとたん、頭から雷が落ちた。
「大勢の人さまの前でただいまの行為はなにごとか。お前は、恥と思わぬか。郷に入らば郷に従えだ!」
父は、私と弟のいい争いをテレビで見ていたらしのだ。敷居をまたぎ、ホッと気が緩んでいた私は、父のお目玉に逆上した。
「命が惜しくて未練たらしく生きていたのではありません。死ぬに死ねずに生きていたのです。だれがこんなうるさい世の中に生きていたいと思うもんか。もうすべては終わったのだ」
 私は床の間にあった軍刀をわしずかみにして引き抜こうとした。割腹するつもりだった。
 次兄の格郎と力ずくでもみ合った。
「父上、寛郎は気違いです。そうでなければ、戦場で三十年も生き抜けなかったと思います。そして帰ってきて日本の姿を見た寛郎が、なんと感じているかおわかりですか。父上はそばにいなかったからわからないのです。寛郎ももう少し時間がたてば、常人に戻るでしょう。どうか許してやってください」
 父は両手をついて父に詫びた。父は黙っていた。


家族にも自分の孤独な思いをまったく分かってもらえないのか。小野田氏は、そう思ったにちがいありません。こらえにこらえていた思いが一気に噴出しているのが分かります。小野田氏は、このときほど、戦後の日本と自分との間に立ちはだかる分厚い壁を感じたことはなかったでしょう。小野田氏自身、その当時の自分の気持ちを「やり場のない憤怒の渦の中で、たいへん心が高ぶっていた」と述懐しています。また、端的に「私は、平和で豊かな日本に帰ってきながら、生きる目的を失い、虚脱状態に陥っていた」とも述べています。

実は次兄の格郎は、中国からの復員兵で、「特攻隊は犬死だ」と小学校の娘に教えた教師に象徴される戦後の日本に絶望してブラジルに移住した人です。そんな彼が、弟の寛郎の気持ちを分からないはずがありません。痛いほどによく分かるのです。

だから、何度も小野田氏に「休養がてらブラジルへ遊びに来い」と声をかけたのです。昭和四九年十月、祖国に帰還して七ヶ月後に、小野田氏はブラジル・サンパウロへ旅立ちました。そうして、ブラジル移住を決心します。ジャングルを伐開して牧場をつくることにしたのです。小野田氏は、そのことに生きる意味を見出そうとしました。小野田氏によれば、「ブラジルでの牧場開拓は、私の″生きる証し″であった」とのことです。

ブラジルでの牧場開拓は、小野田氏のもう一つの「三十年戦争」となりました。しかし、それは孤独な戦いではなく、心優しい「戦友」との三〇年でもありました。ここで私が「戦友」と呼ぶのは、小野田氏の奥さんの町枝さんのことです。彼女との夫唱婦随の「三十年戦争」がどういうものであったのか。彼女は、2002年に『私は戦友になれたかしら---小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(青流出版)という本を書いています。その著書の編集者・臼井雅観氏が、次のような文章を書いていて、それが、そのことを垣間見るのにいいかもしれないと思いました。

実際、執筆依頼してから刊行に至るまでに2年半かかった。それも無理はない。初めての著書なのだから。

20年ほど前、小野田町枝さんは某大手出版社から単行本執筆を依頼されたことがある。その時は多少のメモ書きを残しただけで、 結局、書き上げることはできなかった。

それが今回のこの本につながったのである。

どうしても出版したいと、渋る著者を説得したのには、わけがある。著者・町枝さんの人生が、「事実は小説より奇なり」を正に地でいく人生だったからである。

天の時も味方した。寛郎さんが今年三月、八十歳を迎えたのだ。この機を逃したら、恐らく本を書くことは叶わない。そう町枝さんも思ったからこそ、 執筆を快諾してくれたのだった。

町枝さんの人生は、38歳の時、大きく転換を始めた。

30年間ルバング島で戦い続け、 日本に帰還した小野田寛郎さんの記者会見をテレビで見たのがきっかけだった。偶然が重なって寛郎さんと婚約・結婚、30年に及ぶブラジルでの牧場開拓の生活が始まった。

これが夫婦二人して命懸けの30年になった。

町枝さんは3ケ月で日本に逃げ帰るだろうと言われたというが、それほど過酷な開拓作業であった。便利で快適だった東京での生活からは想像もできない、ブラジルでの日々の生活。気候が違う。風習が違う。食べ物が違う。広大な荒野にポツンとある一軒家で、 近くに知った人もいない。電気も通っていないランプだけの生活。

毒虫、毒蛇、大蛇、ワニ、蜂、ピラニア、豹にアリ食い。荒野は危険な動物がいっぱいである。自分の身は自分で守らなければならない。 銃が必携の土地柄といえばおわかりいただけるだろう。

私も知らなかったのだが、牧場からの収入は8年目位から。7年間はまったく無収入なのだという。経済的に困窮して、明日の食べ物に事欠いたこともあった。

その時は、窮余の一策で、ブルドーザーで出稼ぎをし、 糊口をしのいでいる。
信頼する牧童が殺人者だったり、メイドに大金を持ち逃げされたこともある。

牧場がようやく軌道に乗り始めたのは10年を過ぎてから。そこまで頑張れたのは、やはり夫婦の絆の強さである。ご夫妻に何度かお会いしているが、確かに仲がいいのだ。元気印で饒舌な町枝さんを、横で優しく見守る寛郎さん。寛郎さんの庇護あればこそ、町枝さんもこの開拓生活を耐え忍べたのである。
(中略)
そんな中にあって、 寛郎さんから「戦友を得た」と表された町枝さん。「戦友」とは、人間的な結びつきも半端ではない。 希有なケースではなかろうか。今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻。
(後略)



「今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻」。この箇所を読んで――小野田氏がどう思っているのかは分かりませんが――何があろうと歯を食いしばって生き抜くのは、まんざら悪いことではないなと思いました。そこには、心温まるものがあるからです。今回の五〇代半ばからの「三十年戦争」には、小野田氏はどうやら勝利したようです。そのことに他人ながらほっとすると同時に、これはなかなかできることではないと感心することしきりです。

最後に無骨なお話を少々。

消費増税の決定やTPP交渉における事実上の公約破りによって、安倍政権が高く掲げた「戦後レジームからの脱却」は、俄然雲行きが怪しくなってきました。しかしながら、そのことにガックリきてばかりもいられません。安倍政権がどうなろうとも、その課題の重要性にはいささかの変わりもないからです。

私は、小野田氏の戦いの連続の人生を追いかけながら、「戦後レジームからの脱却」の根底に置くべきものがよく分かるようになりました。それは、端的に言えば、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くそうとする生き残った者のやむにやまれぬ素直な心を最大限に尊重することです。それは、戦争を美化することでも、小野田氏を崇めることでもなく、国家が国家であるための心的な土台を踏み固める厳粛な営為です。それが、「戦後レジームからの脱却」の理念に背骨を通すことにどうやら深くつながるのではないかと思えてきました。たとえ安倍政権がダメだったとしても、その理念を鍛え上げることはひとりでもできます。そのことが、結局は二番手三番手の旗手を誕生させる原動力になるのではないかと、私は考えます。
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