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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

玉音放送  (イザ!ブログ 2013・8・18 掲載)

2013年12月19日 08時20分34秒 | 歴史
玉音放送

玉音放送


玉音放送は、1945年(昭和二〇年)八月一五日正午に、全国民にラジオを通じて届けられました。昭和天皇みずから、大東亜戦争における日本の降伏を国民に伝えるものでありました。日本国民は、当戦争へのそれぞれの関わり方が異なるのに応じて、それの受けとめ方にいささかのニュアンスの違いが当然のことながらあったでしょうが、それを厳粛な心持ちで受けとめる姿勢において共通するものがあったこともまた事実だったのではないか、と私は思っています。

私はこれまで、その全文を読んだことなら何度かありました。しかし、音声で全体を通して聞いたことはありませんでした。

今回心静かに通して聴いてみてあらためて思ったのは、この玉音放送には昭和天皇の、国民のこれからの茨の歩みを共苦の念で受けとめようとする万感の思いが込められていること、また、そういう避けようのない経緯が、六八年の時空を隔てたところにいて、なおかつ戦争の「せ」の字さえ知らない私ごとき者の胸にも迫るものをもたらしている、ということです。特に「今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾(なんじ)臣民ノ衷情(ちゅうじょう)モ朕(ちん)善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」の箇所にさしかかると、どうしようもなくこみ上げてくるものがあります。天皇陛下ご自身も、ここで図らずも乱れがちになりそうな語気をようやくのことで抑制しているような趣があります。その心中は、心ある国民にじかに伝わったことでしょう。ここで、国民と天皇とは確かに心をひとつにしたのでした。その意味でこの肉声は、やはり戦後史の原点に位置するものなのです。そのことは、何度でも肝に銘じられてしかるべきであると考えます。

東郷茂徳の『時代の一面』に、いま述べたことに深く関わる記述があります。そっくりそのまま掲げておきましょう。一九四五年八月十四日、鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾の最終確認をするための御前会議を開きました。陸軍大臣がそれに対する反対意見を述べた後、天皇は次のように発言します。

そこで陛下は、《この前(八月九日の御前会議のことを指している――引用者注)「ポツダム」宣言を受諾する旨決意せるは軽々に為せるにあらず、内外の情勢殊(こと)に戦局の推移に鑑みて決意せるものなり、右は今に至るも変わることなし、今次回答につき色々議論ある由なるも、自分は先方(連合軍諸国のこと――引用者注)は大体に於(お)いてこれ(国体の護持を条件に降伏するという当方の意向を指している――引用者注)を容れたりと認む、第四項に就いては外相(東郷茂徳のこと――引用者注)の云う通り、日本の国体を先方が毀損せんとする意図を持ちおるものとは考えられず、なおこのさい戦局を収拾せざるに於いては、国体を破壊すると共に民族も絶滅することになると思う。故にこの際は難きを忍んでこれを受諾し、国家を国家として残し、また国民の艱(かん)苦を緩(やわら)げたしと思う、皆その気持ちになりてやって貰いたい、なお自分の意思あるところを明らかにするために勅語を用意せよ、今陸海軍大臣(陸軍大臣・阿南惟幾、海軍大臣・米内光政――引用者注)より聴くところによれば、陸海軍内に異論ある由なるが、これらにも良く判らせるよう致せ》との仰せであった。

このくだりから、閣僚たちに向かって吐露された天皇の真情がほとんどそのまま終戦の詔勅に盛り込まれたことが分かるでしょう。

天皇の真情に接した閣僚たちの様子を、本書は次のように伝えている。

一同はこの条理を尽くした有難い御言葉を拝し、かつまた御心中を察して嗚咽、慟哭した。誠に感激このうえもなき場面であった。退出の途次長い地下道、自動車の中、閣議室に於いても凡(すべ)ての人が思い思いに泪を新たにした。

閣僚たちは、天皇の発言をやみくもに有り難がっているのではありません。「自分はどうなってもよい。我が身を挺してでも、これ以上の戦禍は食い止めたい」という天皇の言外の思いに触れて、感極まっているのです。東郷茂徳は、そのときの自分自身の思いにも触れます。

今日なおその時を想うと、はっきりした場面が眼の前に浮かび泪が自ずとにじみ出る。日本の将来は無窮であるが、ここに今次戦争を終了に導き日本の苦悩を和らげ数百万の人命を至幸とし、自分の仕事はあれで畢(おわ)った、これから先自分はどうなっても差支えないとの気持がまた甦る。

終戦の詔勅には、このように、天皇をめぐる迫真のドラマが織り込まれているのです。



〈コメント〉

☆Commented by hasimoto214take さん
「宰相鈴木貫太郎」(小堀圭一朗)では
この場面が大変印象的に語られている.
同時に, どうしてこのような結末に
陥ったのかと思う.

上の本では近衛文麿が訳知り顔にニヤニヤ
している記述が幾度か自伝から引用される.

鈴木首相は自伝には直接には述べていないもの,
誰が責任者と考えていたかは推測できる.
(小堀圭一朗の考えはもっと直接的だが.)

いわゆる「昭和史家」には近衛文麿が
やった事・やらなかった事をきっちりと
研究して欲しいのだ.

中川八洋は厳しく批判しているが,
彼の本は書店には中々現れない運命である.
近衛文麿批判には, 敗戦時に利益を得た者達と
日本史における藤原一族の力が壁になって
いると推測される. 中川は山本五十六も
批判するが, これも敗戦受益者と水交会の
圧力があって評価されていないようだ.

山本五十六には様々な評価はあるが,
彼の真珠湾攻撃で日本が国民国家として
策定してきた南方進攻計画が最初から
狂ったのは事実である. 彼には南方で
戦死/餓死/病死/水死した陸軍兵士に
直接の責任があると思う.


☆Commented by 美津島明 さん
To hasimoto214takeさん

私が暗い方面のことをいろいろと教えていただいて、ありがとうございます。私があらためて玉音放送に着目したのは、長谷川三千子氏が最近上梓なさった『神やぶれたまわず』(中央公論社)を読んだのが直接のきっかけです。この印象的なタイトルは、折口信夫が敗戦日本を目の当たりにして作った「神 やぶれたまふ」への反歌という意味合いが込められています。「折口さん、あなたがおっしゃるようには、神は敗れてはいません。八月十五日の玉音放送を聴いたとき、心ある国民にひそやかに、人類史的な意味での神学的な奇跡が起こったのです」という強烈なメッセージが、本書には込められています。それに心動かされて、あらためて玉音放送に耳を傾けてみた、ということなのです。
コメント (2)
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東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』覚書(その1) (イザ!ブログ 2013・7・15,18)

2013年12月18日 02時43分49秒 | 歴史
はじめに

東郷茂徳は、日米開戦時と終戦時に外務大臣を務めた、外交官出身の人です。また、極東軍事裁判で二〇年の禁固刑に処され、病躯に鞭打って手記を書き上げた後、巣鴨拘置所で獄死した人でもあります。出身地は、鹿児島県日置郡苗代川村(現在は美山と呼ばれている)です。

私が、そういう劇的なキャリアを持つ東郷茂徳について何か書こうと心に決めたのは、四年ほど前のことです。自分が主宰している日本近代思想研究会で、彼の手記――すなわち『時代の一面』――を取り上げ、深く感銘を受けたのが、そのきっかけでした。

そのことを、書き手としての私の今後を気づかっていただいている幾人かに口ごもりながら打ち分けました。そのなかのほとんどの方は、それはいい考えだと賛意を表してくれ、また励ましてもくれました。ひとりからだけ「君には、東郷茂徳論より、菅谷規矩雄論を書いてほしい」と言われ難色を示されました。そのひとに対しても、悪い気はしませんでした。自分が菅谷規矩雄を論じられるほどの書き手であるともくされるのは、正直に言えば、なけなしの自尊心をくすぐられるからです。それほどに、菅谷規矩雄は文学論の対象としてハードルが非常に高い表現者なのです。

私のすべてのポテンシャルを燃焼しつくせば、あるいは、菅谷規矩雄を論じ切ることが可能なのかもしれません。そんな気もします。また、そういうことに興味がないわけではありません。

しかし、文学に没頭しそれに殉じる(菅谷規矩雄を論じ尽くすには、それほどのエネルギーを要します)には、私はあまりにも公的なことへの関心が強すぎます。日本が滅びても文学に没頭していられるほどに、私はどうやら人が悪くないようなのです。同じことですが、私は、自分の好きな女のことが四六時中気になってしかたがないように、日本のいまとその行く末が気になって仕方のない人間のようなのです。端的にいえば、自分のことが気になってしかたがないのと同じくらいに日本のことが気になってしかたがない。

そういう自分をいやおうなく受け入れるとすれば、私が自分の書き手としてのすべてのポテンシャルを燃焼し尽くす「奉献」の対象は、「菅谷規矩雄」の形で現れた文学の神ではなく、「東郷茂徳」の形で現れた歴史の神である、という結論が得られます。私は、いろいろと考えたうえで、その結論を甘受することにしました。

実は、その結論を甘受してからが大変だったのです。普段は、誰に頼まれなくても、書きたいことを勝手にスラスラとのんきに書き進めている私が、東郷茂徳に関しては、一文字も書けなくなってしまったのです。そういう状態がいまに至るまでずっと続いてきた。情けないことです。おそらく、東郷成徳を論じるうえでの思い込みの激しさと、自分の力量不足という現実とのギャップが、無言の圧力として迫ってくる事態に尻尾を巻いて逃げ出していた、ということなのでしょう。平たくいえば、「構えてしまった」のです。私は、自分のどこをどう啄(つつ)いてみても、外交とはまったく無縁の人生を歩んできたのですから。

しかし、いつまでもそういう状態を続けている場合ではない。小浜逸郎氏の『日本の七大思想家』 (幻冬舎新書)からそういうメッセージを受け取り、最近刊行された長谷川三千子氏の『神やぶれたまはず』(中央公論新社)から「早く書きなさい」とダメを押されたような格好になりました。それはもちろん、私の勝手な妄想です。しかしながら、この勝手な妄想に、いまは素直に従うべきときである、と歴史の神が、声なき声で告げているような気がします。非才をかえりみずに「ここがロードス」と腹を括りました。ここでどこまで跳べるものやら。書き手として、「命懸けの飛躍」をするよりほかはなくなってしまったことだけは、どうやら確かなことのようです。

とにかく、一歩を踏み出そうと思います。そのために、『時代の一面』の気にかかる箇所をひとつひとつページ順に取り上げて、それにコメントをつけてみようと思います。方法論はただひとつ、「歩きながら考える」。それ以上のことは、いまの段階では申し上げかねます。これからどう展開されるのか、自分がなにをどう考えるのか、まるで分からないからです。どれだけの分量になるのかもまったく分かりません。ただし、私たちが共同性において抱えている現在の諸問題の解答は、戦中期を丁寧にたどることによって得られるにちがいないという勘が働いている、とだけは申し上げておきます。この仮説を、それが擦り切れて破れてしまうまで、握りしめていようと思っています。

東郷茂徳への具体的な言及は、次回からにします。その前に、私の腹の中をお伝えしておこうと思った次第です。


〈コメント〉

Commented by kohamaitsuo さん
いよいよ始めますか。強い覚悟のほど、しかと伝わりました。心から応援の拍手を送りたいと思います。どうぞがんばってください。


Commented by 美津島明 さん
To kohamaitsuoさん

どうもありがとうございます。非力・非才をふりしぼって、やれるだけのことはやってみようと思っています。ただし、変に力んだりしないようにしようとも思っています。人は、どう逆立ちしても、自分にできるだけのことしかできないのですから。


*****

本書の「序に代えて」を書いた東郷いせは、東郷茂徳とドイツ人の母エディータとの間に生まれたひとり娘です。「序に代えて」は二ページのごく短い文章にすぎません。しかしながら、彼女は、そのなかで本書についての貴重な証言をいくつもしています。

彼女は、昭和二五年(1950年)七月十八日、父親からこの手記の原稿を手渡されました。当時の東郷茂徳は、巣鴨拘置所に拘禁中の身で重い病を得て、蔵前橋のアメリカ陸軍病院に入院加療中でした。しかしながら、完治するまでずっと入院していられたわけではありません。いせによれば、「(父は――引用者補)いくつもの持病をかかえた身体で拘置所の冷たい床に寝起きしなければならなかった。病状が悪化すると病院に送られ、少しでも回復すればまた拘置所に戻される」(東郷いせ『色無花火・いろなきはなび』)というのが実情だったようです。これは、実質的には虐待というべき扱いでした。東郷茂徳は、そういう扱いに日々耐え、なおかつ自尊心を強靭に保ち続けたのでした。その精神力は常人のものではありません。

東郷茂徳は、娘にノート二冊と数十枚の用紙に鉛筆でびっしり書いたものを手渡しながら、「いせ。なるべく早くこれを読んでお前の意見を聞かせてくれ」と言ったそうです。ところが、その五日後の七月二三日、入院先から麻生の自宅に父の訃報が伝えられました。突然といえば突然のことではありましたが、「なるべく早く」という言い方に、死期が間近に迫っていることの自覚がにじみ出ています。

いせは、父親に成り代わって、本書にこめられた東郷茂徳の思いを次のように読み手に伝えようとします。

父は一生を外務省生活に捧げ、殊に今度の戦争の開戦と終戦と双方に外務大臣を務めると云う、恐らく外交官としても最も働き甲斐のある機会に際会しました。父が終始自分の一身を顧みずひたすら国のため国民のためと働いておりました様子は、私も傍からよく見て参りましたが、特に今度の戦争がどうして始まり、またどうして終わったかと云うことについては、これを精しく正確に国民に伝えることが残された自分の義務であると、折に触れ私にも語っておりました。しかし巣鴨に参りましてからは何分にも不自由な環境であり、必要な参考書類とて何一つない事情で思うに委せずするうち、健康の衰頽著しく、恐らくこの分では生きて巣鴨を出ることも望めないとの気持ちも起こったのでしょうか、亡くなる半歳前、一月の五日から筆を執って三月十四日までの二月余りの間に一気に書き下したのがこの『時代の一面』であります。しかも最後の面会となるとも知らぬ亡くなる五日前に父が私に手渡しましたことを考えると誠にいいようのない感に打たれます。

いせの、心をこめた筆致に、娘と父親との心の通い合いが感じられて、読み手もまた、誠にいいようのない感に打たれます。父亡き後においても、いせの心には父親の姿がありありと生きていて、その姿に幾度も幾度も語りかけたことが、その書き記された文字の間から、読み手におのずと伝わってくるではありませんか。

東郷茂徳は、ひとり娘のいせをこよなく愛していたようです。そのことが、獄中でいせに宛てて詠まれた短歌からよく分かります。いくつか引用しましょう。

二年(ふたとせ)を住み慣れし身にはあれど淋しみ襲ふ春の日永に

「巣鴨プリズンに拘禁されて二年になり、ここでの不自由な暮らしにもどうやら慣れてきたが、このようなのどかな春の日には、おのずと娘のいせの面影が浮かんできて、会いたいという思いがこんこんと湧いて来る。淋しいことだ。これにはどうにも慣れることができない。参った」。父茂徳は、自分の強靭な精神力の泣き所を素直に詠っています。次の一首も、それと同じ心を詠っています。

日毎日毎(ひごとひごと)と會ひたるものを此のしばし會はねば淋し一(ひと)とせと覚ゆ

私の解釈は、次のとおり。「以前は毎日いせの顔を見ていて、それは当たり前のことだったのだが、いまでは、たまにしか会えない。だから、次に会うまでのあいだが、まるで一年間会っていないかのように長く感じられる。淋しいことよ」。淋しい、淋しいのオンパレードですね。

次の二首は、それらとやや趣を異にします。娘への強い愛情に裏付けられたものとしての、父茂徳の昂然とした気分の立ち上がりが感じられます。

我さとのつなぎをたちしくろがねの八重の門(と)高く立ち繞(めぐ)らせば
くろがねの八重の門如何に固くとも魂の通ひ路などか絶ゑなむ


一首目。「我さとのつなぎ」とは、自分と娘のいせとのつながりという意味。「くろがねの八重の門」とは、巣鴨プリズンと外界とを隔てるひときわ高い門扉のこと。

二首目。「巣鴨プリズンの門扉がどれほど邪魔をしようとしても、私といせとの魂の通い路を断つことなどできようか。いや、できはしない」。「魂の通ひ路」。とても強い言葉です。通常の父娘の精神的なつながりをどこか逸脱していると感じさせるほどに、ふたりの精神的な紐帯は強いものであったのでしょう。「魂の通ひ路」、これこそが、いせをして鮮烈な印象の文章を書かしめたものなのでしょう。それは、先ほど述べた東郷茂徳の「強靭な精神力」を根のところで支えていたものの所在を示してもいるように思われます。


(続く)

*このシリーズは、どれほど長い時間がかかろうと、最後まで書ききる所存です。(2013・12・18 記す)
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武士イメージが刷新された経験について語ろうと思う (イザ!ブログ 2013・6・26 掲載)

2013年12月17日 04時59分31秒 | 歴史
まず、この文章を書くにいたったきっかけに触れておきます。

新宿駅東南口の階段を降りて、一分かかるかどうかという近距離にある雑居ビルの五階に「サムライ」というジャズ・バーがあります。そこの店主・宮崎二健(みやざき じけん)さんは、ご自身のフェイス・ブックを開設なさっていて、私とは、FB友達です。客としては、思い出したときにひょいと行く程度なのですが、FBでは、お互いけっこう頻繁に「いいね!」ボタンを押し合ったりしています(もっとお店に行って、売上に貢献しなけりゃいけませんね)。

で、六月一九日(水)のご自身のFBに「おお、何と言う日本精神の極致よ!」

というキャッチを付けて、次の写真が掲げられていました。




それで、この写真をめぐって、彼と私との間で、次のようなごく短いやり取りがありました。

美津島明 :「日本精神の極致」。こういう心温まるお国柄を守りたいものですね。

宮崎 二健 :これぞ武士道の鏡です。弱きを助け…。女子供を守る男www

美津島明 :本当の武士は、女・子供に対して非常に優しく接しますね。中公文庫の『城下の人』(石光真光)という作品で、神風連事件に加わったサムライが、事件の直前に、たまたま通りかかった少年時代の真清(真光の父)と対等に接し、心を通わせるシーンを読んで、私は心が温まり、ほんとうの武士のイメージが刷新される経験をしたことがあります。

宮崎 二健 :美津島さん、初めて聞くお話、感無量です。武士のエピソードを集めて、その意識を分析し研究して、武士道なるものが只ならないものだということが見えてきたと思われます。日本において、日本人によって、武事上で培われた究極の生(行)き方だと思います。形も心も生死も全ては美に帰結します。義務教育に武士道を入れるべきだと思います。武士道は国粋主義とか民族主義とかの狭いものではなく、人としての生き方です。


彼の熱い語りに心を動かされて、「ぜひ、二健さんに、私に武士イメージの刷新をもたらしたくだりをご紹介したいものだ」という思いが湧いてきたのです。ちなみに、二健さんは前衛派の俳人で、その語り口は速射砲のようです。純粋の日本人とのことですが、どこかあのビン・ラディン似の日本人離れをした風貌の持ち主です。思想云々はとにかくとして、ビン・ラディンのルックスは、カリスマにふさわしい魅力があったと、私は思っています。

では、以下にそれをご紹介いたします。二健さん以外の方も、「俺には関係ねぇ」などと言わずに、まあ、お付き合いください。

上の引用でふれた『城下の人』は、石光真清の自伝四部作の一冊目です。二冊目以降は、『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』で、全部で1000ページ以上の膨大な量の自伝です。これを読みとおすことで、私は日本近代の理解を少なからず深めることができました。

神風連の乱に少しだけ触れておきます。神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、一九七六年(明治九年)に熊本市で起こった士族による反乱です。敬神党の乱とも言います。旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら、約一七〇名によって結成された「敬神党」が政府の廃刀令に憤りを発して起した反乱とされています。敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたので、神風連の乱と呼ばれ、それがその後一般化しました。この決起に触発されて、秋月の乱、萩の乱と、氏族の反乱が続きました。

神風連は、自らの決起を「宇気比」(うけい)によって決めたことを、私は三島由紀夫の『奔馬』で知りました。三島の思い詰めたような筆致とも相まって、私は、その時以来、神風連に対して、神経質でオカルト的でおどろおどろしいイメージを抱くことになりました。それ以前から、時代おくれの古めかしいコチコチ頭の連中の集まり、という漠然としたイメージは抱いていましたが。ところが、私は、『城下の人』のつぎのくだりを目にすることによって、それらが心地よく木っ端微塵にされる経験を持つことになりました。長々と引用することをご容赦ください。

(著者の真清のこと――引用者注)の八歳の時、即ち明治八年三月の日曜日(乱決起のおよそ一年七ヶ月前――引用者注)であった。

私は友達の吉武半次、三郎の兄弟と祇園山(花岡山)に遊びに行って戻ると、兄の真澄(後、三井物産社員、恵比寿麦酒支配人――引用者注)と一緒に浮田、下村の従姉も見えていて両親(父・真民〈熊本藩士産物方頭取〉、母・守家〔もりえ〕)や姉の真佐子と座敷で話をしていた。

何気ない描写ですが、休日に親族が集ってなごやかに語らっているさまがおのずと浮かんできます。いいですねぇ。

私は井戸端で手足を洗い、姉に髪を撫でつけて貰いながら「お姉さま、今日は髪が固く結えていた
(少年真清はまげ姿である――引用者注)ので少しも弛みませんでした」と礼を述べて座敷に入り、従兄や兄に挨拶をしてから、

「お父さま、きょうは敬神党(神風連)の加屋先生
(上記の加屋霽堅〔かやはるかた〕のこと――引用者注)にお目にかかって、清正公(加藤清正。肥後国熊本藩初代藩主――引用者注)のお話を聞かせていただきました」

と私はとても嬉しかったので、そう話すと、父は驚いて、
「ほう、そうか、それはよかった。加屋先生はお偉い方だ。偉い先生から偉い方のお話を聞いたのだから面白かったろう」
と微笑した。事実私にとっては忘れ難い思い出となった日である。


ここから、真清少年と加屋霽堅の出会いのシーンとなります。

吉武兄弟と祇園山の中腹の清水(俗称「乳水」と言う)の湧いているところで、水いたずらをしていると、突然山の上から、紋付の羽織袴に大刀を差した、高髷の堂々たる武士が下りて来た。私はびっくりして三郎と一緒に年長の半次の後へ退いた。半次は武士の姿を見ると、姿勢を正して「これは先生でいらしゃいますか」と丁寧にお辞儀をした。その武士は足を停めて、じっと半次の顔を見ていたが、思い出せない様子で、
「あんたはどなたでしたかな」
と訊ねた。
「本山村の吉武次郎太の長男半次でございます」
「おお、吉武氏の御子息か、それは失礼した。中々の元気者らしいな。して、その二人はどなたかな」
「これは石光真民の子息正三
(真清の幼名――引用者注)、これはわたくしの弟三郎と申します。皆、平川塾の塾生でございます」
半次はそう答えてから私たちの方を見て、
「加藤社(錦山神社ともいい、現在の加藤神社で清正公を祀る)の加屋先生です。御挨拶をなさい」
と言った。私たちは二、三歩前に進み出て丁寧にお辞儀をすると、
「そうか、そうか。平川先生の塾生はみな元気者ばかりだ」
と笑みを湛えながら、私たちの稚児髷(ちごまげ)と刀を差した昔に変わらぬ姿を、満足そうに眺めて、
「どら来てごらん」
と三郎を抱き上げた。
「中々重い。次は正三君か、これは腕節が強そうだ。剣道をやっとるな」
「はい、森源右衛門殿の門下です」
「おお、そうか、では一刀流の使い手だな。どうだ、一本やろうか」
私はすぐ足元から竹刀代わりの棒切れを拾って身構えた。加屋先生は大きな声で笑って、
「その元気だ。きょうは戦わずして加屋が負けた。立合うに及ばぬ。正三君に勝を譲っておこう」
と笑ってから、
「今日の記念に頂上に行って、清正公のお話をして上げようか」
と加屋先生は今下りて来た道をまた登りはじめたので私たちも後に従った。
頂上に登ると、熊本城が眼前に、阿蘇の山々を背にして春の空に聳え立ち、蒼瓦、白壁が美しく映えていた。いつもながら私たちはお城の偉容に打たれ、加屋先生と肩を並べて静かに礼をしてから、そのまま眺めていた。


加屋霽堅は、三人に加藤清正のあらましを話した後、そのまま黙ってお城を眺めてから、年長の半次を振り返って次のように言います。

「凡衆は水に浮かぶ木の葉のようなものだ。大勢に押流されて赴くところに従うが、憂国の士はそうは出来ぬ。いつかは大勢を率いるか、あるいはこれを支えるものだ。それを忘れてはなりませんぞ」と声は低いが力強く言葉を結んだ。

このときすでに、加屋霽堅は、来るべき未来へ向けて期するものがあったようです。時流に流されるがままで終わるわけにはいかないものを心中に抱えて、それを自覚していたのでしょう。

「結構なお話、ありがとうございました」
半次が立ち上がって礼を述べると、加屋先生は微笑して、
「長話をして気の毒だったな。今年の加藤社のお祭りには揃ってお詣りにおいで」と機嫌よく腰を上げて、颯爽と山を下りて行った。


以上が、神風連のイメージはもとより、私にとっての武士のそれが刷新されるきっかけを与えてくれた場面です。

調べてみたら、霽堅(はるかた)の生年月日は一八三六年二月二十九日です。それを起点に数えてみると、真清少年たちと出会ったのは四〇歳のときです。数え年で四二歳。その頃の四二歳と言えば、老境にさしかかった年代と言っても過言ではないでしょう。彼は、そのときすでに武士としての自分の死に場所を思案しはじめていたのかもしれません。明治の世になって、四民平等が唱えられているが、自分は、あくまでも武士として生きぬき、武士として死のうと腹を決めていたにちがいありませんから。

そういうシリアスな面は確かにあったのでしょうが(というか、むしろ、あったからこそ)、この場面での霽堅(はるかた)は、あくまでも明朗で、おおらかで、子どもたちと誠(まこと)をこめて接しています。おそらく女性に対しても、そうだったことでしょう。私は、そこに馥郁(ふくいく)とした武士道の精華を見たいと思います。いくら馬鹿気た武士の実例を挙げられても、私のそういう思いは、さしあたり変わらないような気がします。いつの世にも、バカとお利口とは共存していますので。共栄している、とまでは言いませんが。この世はいつも、バカと利口とその他多勢なんですね。

霽堅(はるかた)によって形象化された武士の魂は、冒頭の写真の、カルガモ親子の横断を守りきろうとする警官たちの心中にも、宿っているのかもしれません。「武士道は国粋主義とか民族主義とかの狭いものではなく、人としての生き方です」。二健さんがおっしゃるとおりなのかもしれない、と思います。



小峯墓地(熊本市中央区)にある加屋霽堅の墓

〔付記〕
以上の記事を読んでいただいたFB友達の勝又珠子さんと、以下のようなやり取りがありました。お伝えしておきます。

勝又 珠子 :石光真清の手記は何度も読み直したい作品で、最近新しいものを買い揃えたところです。父親の親友に野田男爵の孫にあたる方がいたことから勧められ、まだ学生でしたがスリリングな内容にぐんぐん引き込まれたのを覚えています。またアムール川の虐殺事件を目撃した唯一の日本人であることから、歴史的な資料として価値の高いものと聞いています。ぜひ今度は武士道を考えながら読み直したいと思います。貴重なお話を有難うございました。

美津島明 :そうなのですか。お父様は、すごい方を親友としてお持ちなのですね。野田男爵って、あの野田 豁通(のだ ひろみち)のことですよね?石光真清の父・真民の末弟の。知らない人は、何のことだか皆目見当がつかないでしょうから、ちょっと説明を加えておくと、豁通は、一五歳のとき、熊本藩勘定方の野田淳平の養子となったので、野田姓を名乗ることになり、陸軍で最終的に監督総監(のちの陸軍主計総監)にまで昇りつめ、貴族院議員も務めたほどの人です。勝又さんは、そのお孫さんに、石光真光の手記を勧められのですね。運命的な出会いと言っていいのではないでしょうか。感動的なお話です。真清が、アムール川の虐殺事件を目撃した唯一の日本人であることは、私も承知していました。確かに彼の見聞は貴重ですね。日露戦争が、侵略戦争でもなんでもなくて、ロシアの南進に対抗するためのやむをえないものであったことが、ごく自然に分かりますものね。加屋霽堅との交流は、真清が「私にとっては忘れ難い思い出」と言っているくらいですから、強烈な印象が残ったのでしょうね。ご感想、ありがとうございます。

勝又 珠子 :石光真清の存在は近代史を学ぶ上で大変重要だと思うのですが、ご存じない方が多いですね。知人にもぜひ勧めたいと思います。私自身ももっと勉強します。有難うございました。




〈コメント〉

Commented by tengu さん
いやはや、
畏れ多くも我が法螺話を真面に受けて頂き、
なおかつ輪をかけて論述して下さりまして、
何とも忝く存じます。
武士道と言う人の履み行うべき道義たるものは、
武勇伝もさることながら、日常のささやかな
逸話から語られると承知しております。
あの時代にあの場所で、あの人が誰と何と、どうして、
どう思われたかのお話の伝承に見る武士の心意気ですね。

その、我が未知なる数頁を拝読奉り感得させて頂きました。
今改めてカルガモ母子を守る警官たちを見ますと、
江戸にワープして婦女子を守る侍の姿に見えます。
実に微笑ましく、滑稽でもありますが、
小さくて弱い命にとっては深刻な事態でもあります。
対象が人間様ではなく、手柄にもならないそれらを
職務として、かつ道義として守る警官には、
先人からの武士の魂が
宿っているのだと思ったことでした。

(当Facebookの記事のコメントと同文です)

Commented by 美津島明 さん
To tenguさん

二健さん、コメントをどうもありがとうございます。

テレビの時代劇でも、腐女子を震え上がらせる剣豪より、強きをくじき弱きを助けるヒーローにより強く武士道を感じますね。みんなそう感じるから、そういうタイプのサムライが主人公になるのでしょうね。そうしないと、視聴率が取れないのでしょう。

それと、潔さも武士道の大事な要素でしょうね。たとえば、死に際の悪いいまの民主党なんかには、武士道のカケラも感じられません。あれは、腐女子そのものです。だから、民主党は支持率が下がるばかりなのでしょう。

そう考えると、武士道は、テレビの視聴率や政党支持率の重要な要素でもあるようですW

Commented by 美津島明 さん
〔誤記〕
上記三行目の「腐女子」→「婦女子」です。「腐女子を震え上がらせる」のは、良いことですから、意味が通らなくなってしまいますねWW

Commented by tengu さん
たいへん結構な話に発展させて
頂きまして有難うございました。
つきましては、わがアメブロ「天狗仮面俳句怒号」に
記事として転載させて頂きました。
http://ameblo.jp/tengux/entry-11564129998.html
コメント
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