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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

『古事記』に登場する神々について(その9)スサノオ・アマテラス神話⑤

2014年05月21日 18時50分38秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その9)スサノオ・アマテラス神話⑤

今回は、天の石屋戸(あまのいわやど)の場面の後段を扱います。前回の冒頭で申し上げたように、天の石屋戸は、スサノオ・アマテラス神話の最大のヤマ場であると同時に、『古事記』神代(かみよ)篇のそれでもあります。そのなかでも後段はとりわけ重要である、という感触があります。なぜそうなのかを含めて、今回いろいろとお話ができればと思っています。

『古事記』に関連する本を少しずつ読み進めていて、それなりに知識が蓄えられてきた感がなきにしもあらずですから、場合によっては細かい話が出てくることもあるとは思われますが、いたずらにトリビアリズムに陥るつもりはありません。『古事記』の本質に少しでも近づくことができればと思っての試みであることをご了承ください。

前置きはこれくらいにして、そろそろ本文に入っていきましょう。

弟スサノオの、高天原における乱暴狼藉の限りを尽くした振る舞いをかばいきれなくなった姉アマテラスは、天の石屋戸にこもってしまいました。すると、高天原はすっかり暗くなり、葦原中つ国のどこもかしこも暗闇になってしまいました。それゆえ、常夜(とこよ)が続くことになり、悪い神々の声がそこらじゅうに蠅の羽音のように満ち、禍がいろいろと起こります。とんでもないことになってしまったわけですね。

ここで注意したいのは、「石屋戸」とあるからといって、すぐに洞穴のようなものを連想してしまっては、ちょっと行き過ぎた解釈になってしまうということです(さっそく細かい話が出てきました)。というのは、「石」(いは)というのは、「天の磐盾(いはたて)」「天の磐船(いはふね)」「天の磐靫(いはゆぎ)」などの例があるように、呪言、すなわち、まじないに唱える言葉であるからです。いずれも、「岩でできた、石でできた」としてしまうのはどこかおかしいですよね。意味的には、「立派な」とか「ゆるぎない」とかいったニュアンスを添える言葉として受けとめるのが妥当のように思われます。本居宣長は、「石屋戸」について、次のように言っています。

必ずしも実の岩窟(いはや)には非じ、石(いは)とはただ堅固(かたき)を云るにて、天之石位(いはくら)・天之石靫(いはゆぎ)・天之磐船(いはふね)などの類にて、ただ尋常の殿(との)をかく云るなるべし。
(『古事記伝』)

また、西郷信綱氏は、宣長の上の言葉を踏まえて、次のように言っています。

「石屋戸」という語のという語の本体はヤドである。ただ、そういってしまったのではやはり片手落ちになろう。「天の石屋戸」という語がかたがた岩窟をも暗示していることは否めない(中略)。つまり「天の石屋戸」は両義にわたっているわけで、それは祭式のレベルと物語のレベルとがこの段では重なりあっていることに、関係がある。
(『古事記 注釈 第二巻』)

最後の方の、「それは祭式のレベルと物語のレベルとがこの段では重なりあっていることに、関係がある」という言い方になにやら聞き流し難いものを感じられた方は、なかなか勘が鋭いと思います。というのは、これは、『古事記』の根幹に婉曲に触れている言葉であるからです。「祭式のレベルと物語のレベルとがこの段では重なりあっている」とは、いったいどういう事態を指しているのでしょうか。さしあたり、氏の次の言葉を引きましょう。

天の石屋戸にしても、実際の岩窟ではない。天の岩屋戸の本体はヤドであり、やはり大嘗宮を下地にした表象であると考えられる。
(『古事記研究』)

氏は、天の石屋戸が、「大嘗宮を下地にした表象である」と言い切っています。それは、天の石屋戸神話と大嘗祭との間に深いつながりがあることを指し示しています。氏の、この主張を目にしてからというもの、私は頭のどこかでいつもそのことを考えている状態が続いています。そうして、考えるほどに、この主張あるいは指摘が、『古事記』神話の最深部に達するものであるという印象が強まってくるのです。言いかえればそこには、神話とは何か、神話と祭式との関係はいかなるものか、古代王権とは何か、さらには、天皇とは、日本とは何かという問題に深くつながるものがある。

このまま突き進んでもいいのですが、それでは(書き手と読み手の双方にとって)肩が凝ってくるような思いに襲われそうなので、いささか話の角度を変えましょう。

科学の洗礼を受けた私たち現代人の目に、この天の石屋戸神話は、日食現象をモチーフにしているものとして映ります。神話は、詩と同様に、意味の多義性や多層性を特徴としています。だから、そういう科学的な解釈を無下に否定するにはおよびません。

問題は、そういう解釈や理解によって何が導かれるか、ということでしょう。その解釈に従えば、神話とは、自然現象を科学的に理解し解明する知的レベルに達していなかった古代人が、彼らなりの原始的なやり方で自然現象を説明しようとした言語的試みの集積である、となるでしょう。それは、端的に言えば、十九世紀の西欧人がアジア人やアフリカ人に対して向けた眼差しと同質のものを含んでいます。そこには、自分たちの、科学に対する手放しの信頼を相対化する契機がまったくありません。そうして、私たち現代人は、十九世紀の西欧人の末裔です。それゆえ、私たち現代人にとっては、科学こそが信仰の対象なのです。私たち現代人はみな、多かれ少なかれ、科学教の信者であるほかはないのです。そのことが死角になってはじめて、先の神話観が出てくるのです。それではつまらないですね。猿山の猿たちが、彼らを眺めている観客を眺めながら、自分たちを観客だと勘違いしているのと変わりはないのですから。

だから私は、石屋戸神話日食現象説を無下に否定しませんが、それほど重宝する気にもなれないのです。

その点、天の石屋戸神話と大嘗祭との間の深いつながりに目を凝らそうとする西郷説は、実り多いものがもたらされそうな予感があるので、私は惹かれてしまうのです。

ということでふたたび西郷説に戻りましょう。氏は、「かくる」と「こもる」の違いに着目します。というのは、原文に、アマテラスが天の石屋戸に「刺(さし)こもり坐(ま)しき」とあるからです。この段は、俗に天の岩戸がくれの神話と呼ばれます。しかし、原文では記紀ともに、あくまでも「かくる」ではなくて「こもる」が使われているのです。その違いについて、氏は次のように述べています。

「こもる」は外界との関係を遮断することであり、今でもオコモリとか参籠(さんろう)とか使われているが、こうした語感を「かくる」は全く持っていない。ただの岩窟なら「かくる」でいい。しかし大嘗宮ならどうしても「こもる」でなければおかしい。
(『古事記研究』)

「カクルは視界内から外に去るという動きをあらわし、コモルは対象が奥に入りかくれた状態をあらわす」 
(『時代別国語大辞典』:『古事記 注釈』より孫引き)

「かくる」と「こもる」の違いに着目しているうちに、おのずと天の岩屋戸神話と大嘗祭の関係に目がいざなわれますね。そのことを確認したうえで、本文に戻りましょう。

深刻な事態をなんとかしようとして、八百万(やおよろず)の神々が、天の安河原に集まってきます。彼らは、この局面を打開する知恵者として思金神(おもひかねのかみ・あれこれの思慮を兼ね備えた神の意)を抜擢します。オモヒカネは、みなさまご存知のタカミムスヒの子どもです。この設定は、これから展開されるドラマのシナリオはすべてオモヒカネが作ったものであることを意味しているのと同時に、その背後で、タカミムスヒの神が鎮座して事態を見守っていることを暗示してもいます。タカミムスヒはとてもエライ神様だ、というわけですね。

「とてもエライ」どころではない、という言い方を西郷氏はしています。


タカミムスヒは、天之御中主、神産巣日とともにいわゆる造化三神にぞくし、天地の始め高天の原に成った神である。そしてこの段以降、タカミムスヒは天照大神と対になって、天孫降臨のことをはじめ大事をとりしきる神としてしばしば登場してくる。書紀の方ではむしろ、タカミムスヒが天照大神を出しぬき単独の司令者になっている傾向さえ強い。これらはいったい何を意味するか。その解答を今すぐ出すことはできぬが、以下の物語を読み進むうえで、また記紀を比較する上で、これは一つの大事な問題点になるはずである。
(『古事記 注釈』)

それにここで即答することは控えておいて、そういう問題点があるということを頭の片隅に置いて、本文を読み進むことにしましょう。

アマテラスを天の石屋戸からおびき出して、闇で覆われた世界に光を取り戻すために、オモイノカネは、どういう仕掛けをしたのでしょうか。

まずは、常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めてきて鳴かせました。夜が明けたというわけで、アマテラスに「あれ?」といぶかしがらせようとしたのではないでしょうか。
常世は、光明に満ちた世界のことで、常夜とはむしろ正反対の意味を有します。また、長鳴鳥とは鶏のことです。

それから後のドラマの展開は、以下のとおりです。三浦佑之氏の口語訳が生き生きとしていて優れていると感じられるので、そこから引いてきます。氏の訳は、村の長老の語りという設定ですから、その口調はおのずからそういうものになっています。「~の」の畳み掛けが、この箇所の次第に熱をおびていくシャーマニスティックな息づかいをよく伝ええていると思います。引用者注が多くてわずらわしく感じられるかもしれないので、「注」とだけ記します。

天の安の河の河上にある天の堅石(かたしわ:錬鉄のための石――注)を取ってきての、天の金山の真金(まがね:鉄のことを指す――注)も取ってきての、鍛人(かぬち:鍛冶屋のこと――注)のアマツマラを探してきての、イシコリドメに言いつけて鏡を作らせての、つぎには、タマノオヤに言いつけて、八尺(やさか)の勾玉(まがたま)の五百箇(いつほ)のみすまるの玉飾りを作らせての、つぎには、アメノコヤネとフトダマとを呼び出しての、天の香山(あまのかぐやま)に棲む大きな男鹿の肩骨をソック抜き取っての、ハハカ(桜桃のこと――注)を取ってきての、その男鹿の肩骨をハハカの火で焼いて占わせての、天の香山に生えている大きなマサカキ(神事に用いられる常緑樹を広く指す――注)を根つきのままにこじ抜いての、そのマサカキの上の枝には八尺の勾玉の五百箇のみすまるの玉を取りつけての、中の枝には八尺の鏡を取り掛けての、下に垂れた枝には、白和幣(しろにきて)、青和幣(あおにきて)を取り垂らしての、そのいろいろな物を付けた根付きマサカキは、フトダマが太御幣(ふとみてぐら:立派な神への捧げ物の意――注)として手に捧げ持っての、アメノコヤネが太詔戸言(ふとのりとごと:立派な神への唱え言、祝詞――注)を言祝(ことほ)ぎ唱えあげての、アメノタジカラヲが、天の岩屋戸の戸のわきに隠れ立っての、アメノウズメが、天の香山の天のヒカゲ(ヒカゲカズラ科の常緑羊歯植物――注)を襷(たすき)にして肩に掛けての、天のマサキ(マサキノカズラ・テイカカズラの古名――注)をかずらにして頭に巻いての、天の香山の小竹(ささ)の葉を束ねて手草(たくさ)として手に持っての、天の岩屋戸の戸の前に桶を伏せて置いての、その上に立っての、足踏みして音を響かせながら神懸かりしての、二つの乳房を掻き出しての、解いた裳(も)の緒を、秀処(ほと)のあたりまで押し垂らしたのじゃ。
(『口語訳 古事記[神代篇]』)

すると、「爾(ここ)に高天の原動(とよ)みて、八百万の神共に咲(わら)ひき」という事態になりました。

まずは、オモイノカネのシナリオに登場する神々に触れておきましょう。

アマツマラ(天津麻羅):「麻羅」については、三浦佑之氏が次にように言っています。「鍛冶屋のアマツマラという名前については、あまり明確には論じられてこなかったように思われます。それは、研究者たちの多くが、マラを男根の意味だと断定するのをためらっているからではないかと勘ぐってしまいたくなるほどです。しかし、アマツマラの「麻羅」は、男根をさすとみる以外に解釈のしようがありません。」(『古事記講義』)ほかの注釈書にも当たってはみましたが、三浦氏の男根説ほどにすっきりとしたものは見当たりませんでした。
イシコリドメ(伊斯許理度売命):名義不詳とされることが多いようですが、西郷氏は「溶けた鉄を堅石(かたしは)の上できたえて凝り固めて鏡を作るという意ではなかろうか」(『古事記 注釈』第二巻)と言っています。それに関連して、氏は「神名は物語そのものと不可分に結びついているのであり、それを分からぬままにしておくのは物語の読みを中断することに、ほぼ等しい。その点、このごろの諸注が「名義不詳」を乱発するのは、良心的に見えて実はそうではないことになる。神名解釈は一種の暗号解読に似ているわけで、何とか解こうと及ばずながらも努力すべきだと思う」とも言っています。この言葉を目にして、『古事記』に登場する神々の名の意味が気になってしょうがないというのがこの文章を書き始めた動機だったのにもそれなりの意義があったことになるなと思われ、腑に落ちるところがありました。

ところで三浦氏は、アマツマラとイシコリドメのペアについて、とても面白いことを言っています。

鏡は、溶けた金属を固め鍛える鍛人(かぬち)アマツマラと相槌のイシコリドメとによって作られた最高の作品でなければならないのです。アマテラスを引き出すためにもっとも重要な役割をはたす祭具なのですから。そして、溶けた金属が固められるのは、鍛人のマラが石のように固くなるからだと考えられているのです。もう少し想像をたくましくすれば、立派な鏡は、マラを石のように凝り固める女神の力で鍛人のマラが鉄槌のごとくに固くなることによって作り上げられるのだと考えているのです。そして、オモヒカネの演出では、その神話的な幻想が、そのまま演技として舞台の上に引き出されているのです。そのさまは、ウズメの神懸かり同様に、観衆を歓喜の渦の中に投げ込みます。
(『古事記講義』)

これは大胆ではありますが、なかなかいい線をいっている解釈ではなかろうかと思われます。

タマノオヤ(玉祖命):玉作部の祖。玉作部とは、勾玉,管玉,丸玉等の玉類の製作に従事した大和朝廷の職業部のこと。弥生時代以来存在した各地の玉作集団を部として組織したもので,その部民化の時期は五世紀後半以降と考えられています。
アメノコヤネ(天児屋命):中臣連の祖。中臣氏は、宮廷祭祀に与る最強力の氏です。中臣氏のなかで歴史上もっとも有名なのは、中臣鎌足です。彼は六四五年の大化の改新の功労者であり、六六九年の死に臨んで、藤原姓を賜りました。以後その子孫は藤原氏を名乗りますが、本系は依然として中臣を称しました。中臣氏には、当然藤原氏の後ろ盾がありました。
フトダマ(布刀玉命):忌部の祖。西郷氏が「フトタマとは玉作のタマノオヤより一枚上という意味ではなかろうか」(『古事記注釈』)と言っているのが妥当であるような気がします。忌部とは、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族です。狭義には各地の部民としての忌部を率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含めます。平安時代前期には、名を「斎部」と改め、斎部広成により『古語拾遺』が著され上書されました。同書は、藤原氏を後ろ盾としてのしてきた中臣氏に対する巻き返しを図って書かれたのですが、それをもってしても、祭祀氏族の座が中臣氏に占有される事態を押しとどめることはできませんでした。

中臣氏と忌部氏とは、大嘗祭の祭式を中心的に担った氏々です。『古事記』の当場面では、それらの祖が、アマテラス再臨の儀式を担っています。その一事からだけでも、私は、天の石屋戸神話と大嘗祭との関連について、きちんと検討する必要があると言いうるのではないかと考えます。大嘗祭については、その詳細について後ほど触れることにしましょう。

アメノタジカラヲ(天手力男神):高天原にいる、強い腕力を持った神。腕力それ自体を神格化したもののようです。
アメノウズメ(天宇受売命):〈ウズは、「命の、全けむ人は、畳薦(たたみこも)、平群(へぐり)の山の、 熊白儔(くまかし)が葉を、ウズに插せ、その子」(景行記)(中略)とあるウズで、木の枝葉や花などを頭に挿したものをいう。ウズメはウズを頭に挿した女、すなわち神女・巫女のいいである。(中略)ウズメは猿女(さるめ)の祖である。〉(西郷信綱『古事記 注釈』)西郷信綱氏によれば、アメノウズメの系譜をたどっていくと稗田阿礼に行き着きます。そのことについては、いずれ触れましょう(天孫降臨神話のところで触れる予定です)。

天の石屋戸神話に登場するアメノコヤネ・フトダマ・アメノウズメ・イシコリドメ・タマノオヤの五柱の神は、天孫降臨神話で五伴緒(いつとものを)としてふたたび登場することになります。それは、西郷信綱氏によれば、天の石屋戸神話と天孫降臨神話とが、大嘗祭をモチーフにしたひとつづきの神話であるからです。この議論は、『古事記』の根幹に関わるものなので、しかるべきところで非才を顧みずにこころゆくまで展開するつもりでいます。

神々については以上のとおりです。次に気にかかるのは、いわゆる小道具関係ですね。

アマツマラとイシコリドメが作った鏡は、青銅製ではなくて鉄製です。そのことの意味を考えてみましょう。

世界史においては、青銅器の時代の次は鉄器の時代だと教えられます。ところが、日本では青銅器と鉄器が弥生時代に同時に入ってきました。するとどうなるか。青銅器は、実用の武器ではなくお祭りの道具となります。鉄の方がはるかに実用的であるからです。たとえば、銅の刀剣は、「斬る」ことがほとんどできません。だから、銅は銅刀ではなくて祭祀に使われる銅剣になります。銅鏡もまた銅剣と同じように祭祀に使われます。ところが上で述べたように、『古事記』に登場する鏡は、祭祀用であるのにもかかわらず、青銅製ではなくて鉄製です。それは、どうしてなのか。工藤隆氏は、『古事記誕生』(中公新書)で次のように述べています。

これはおそらく、弥生時代の終了と共に青銅器崇拝の時代が終わり、古墳時代の戦争の時代を経るなかで、武器や諸道具における実用性としての鉄の優位性が広く認識されて、徐々に「銅」より「鉄」に価値を置く観念が支配的になり、古伝承の「銅」がやがて「鉄」へと座を譲ったということなのではないか。

とするならば、少なくとも鉄製の鏡の箇所に関しては、古墳時代を背景にしているといいうるのではないでしょうか。

次に着目したい小道具は、占いに用いる鹿の肩胛骨です。この占い方について、『魏志倭人伝』(岩波文庫)に次のようなくだりがあります。

その俗、拳事行来に、云為(うんい)する所あれば、輒(すなわ)ち骨を灼(や)きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タク(かたく)を視て兆を占う。

このくだりから、三世紀のころの日本の占いがどのように行われていたのか、垣間見ることができます。引用文は、”なにか大きな事業を立ち上げるときなどに迷いがあれば、当時の日本では、動物の骨を灼いて吉凶を占った。中国では、亀の甲に焼けた鉄串などを当ててできる裂け目で吉凶を占っているが、日本では骨で行っている”というほどの意味です。また、弥生時代の遺跡からは、焼かれたいくつもの穴を持つ鹿の肩胛骨が発掘されています。ところが、700年初頭のヤマト国家の占い法は、中国と同じように亀の甲を用いるものに転じています(工藤隆氏『古事記誕生』)。

以上のことから、天の石屋戸神話には、弥生時代から続くとても古い占い法が保存されていると言いうるのではないかと思われます。小道具に着目すると、天の石屋戸神話には複数の違った時代が層を成して存在していることが分かります。

その次に気になるのは、白和幣(しろにきて)と青和幣(あおにきて)です。これは、何なのでしょう。正直、さっぱりわかりません。西郷信綱氏は、次のように言っています。

白二キテは楮(「かぢ」とルビをふってあるが、「コウゾ」の方が人口に膾炙しているのではないか――引用者注)の木の皮の繊維で作ったヌサ(幣)、白味を帯びているのでかく称する。青二キテは麻で作ったヌサ、青味を帯びているのでかく称する。(中略)『時代別国語大辞典』が、「二キテのテはタヘ(栲)の約とするのが通説である。しかし、テは、ヒラデ・ナガテのテなどのテと同様の、~なるものの意の接尾語と考える方が穏やかであろう。・・・
ニキは素材のやわらかさではなく、神を安める意の一種のほめ詞で、それゆえ、二キテは対になるアラ~の形をもたないのであろう」といっているのは、傾聴すべき見解である。

(『古事記 注釈』)

ヌサというのは、下の写真のようなものをイメージすればよいのでしょうか。ちょっと洗練されすぎているような気がしないでもありませんが。


幣(ぬさ)

パッとその姿が浮かんでこない植物の名前がけっこうありますね。写真を、二枚だけですが、かかげておきましょう。

まずは、アメノウズメが、たすき掛けにしている「ヒカゲ」すなわちヒカゲカズラの写真です。


http://nononn.sakura.ne.jp/2005072/2005-7-2.htm より転載させていただきました。)

次に、同じくアメノウズメが、かずらにして頭に巻いている「マサキ」、すなわちマサキノカズラあるいはテイカカズラの写真です。


http://plaza.rakuten.co.jp/dai24dai/diary/201106170000/ より転載させていただきました。)

いかがでしょうか。これらの写真をながめていると、アメノウズメの姿がおぼろげながらも浮びあがってくるような気がするのは私だけでしょうか。

アメノウズメが踊って活躍する場面は、とても印象に残りますし、描写がとりわけ生き生きとしていて迫力がありますね。その箇所を原文で引いてみましょう。

天宇受売命(あめのうずめのみこと)、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋(か)けて、天の真拆(まさき)を蔓(かずら)と為(し)て、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の石屋戸にうけ伏せて蹈(ふ)みとどろこし神懸(かむがか)り為て、胸乳(むなち)を掛き出で裳緒(もひも)をほとに忍(お)し垂(た)れき。爾に高天の原動(とよ)みて、八百万の神共に咲(わら)ひき。
(西郷信綱『古事記 注釈』より)

私は、この場面に、尋常ではないほどのエネルギーが渦を巻くようにして横溢しているのを感じます。その中心にアメノウズメがいる。そのことの意味を、西郷信綱氏の「稗田阿礼」(『古事記研究』所収)を導きの糸にして、いささかなりとも掘り下げて考えてみようと思います。

まずは、そのコスチュームをもう一度眺めてみましょう。何を着ていたのかについては書かれていないので、想像するよりほかはないのですが、薄手の生地の着物を身にまとってヒカゲカズラをたすき掛けにするとチクチクするのではないかと思うので、麻生地のような、ある程度厚みのある生地の着物を着ていたのではないかと思われます。ヒカゲカズラの緑が映える色は白ですから、着物の色はたぶん白色系なのでしょう。また、頭にはマサキノカズラ(テイカカズラ)をかずらとして巻き、両手に笹の葉の束ねたものを持っている。それを振って、葉の触れ合う音を発していることは間違いありません。それは、生命力に満ちた自然霊の霊妙な声と表象されていたのではないかと思われます。

そんなコスチュームを身にまとって、アメノウズメは、岩屋戸の前に桶を伏せて置き、その上に立ち、足踏みして音を響かせながら神懸かりし、二つの乳房を掻き出して、解いた裳の緒を、陰部のあたりまで垂らしているのです。

神懸かりして、思わず狂乱の振る舞いにおよんだ、というわけではなさそうです。なぜなら、すべては、オモイノカネのシナリオ通りなのですから。アメノウズメの振る舞いだけがその例外というのは、ちょっと理解しがたい。

西郷氏によれば、それは自然界の邪神たちを追い払う所作なのです。その意味で、それはとても攻撃的な所作であります。私自身、どうもそういう感じがしています。西郷氏は、その説を補強するために、日本書紀の一書を引きます。天孫降臨神話のくだりです。ここで、アメノウズメは、ほとんど同じ所作をするのです。

已にして降(あまくだ)りまさむとする間に、先駆の者還りて白(マウ)さく、「一の神ありて、天の八達之衢(やちまた)に居り。その鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り。また口尻(くちわき)耀(て)れり。目は八咫鏡の如くして、てりかかやけること赤酸醤(かがち)に似れり」とまをす。即ち従(みもと)の神を遣して、往きて問わしむ。時に八十万の神有れど、皆目勝(まか)ちて相問ふこと得ず。故、特に天鈿女に勅して曰はく、「汝は是、目人に勝ちたる者なり。徃きて問ふべし」とのたまふ。天鈿女、乃ちその胸乳をあらはにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほぞ)の下におしたれて、咲(あざ)わらひて向きて立つ。云々。

天の八達之衢(やちまた)に立つ面貌怪異な神とは猿田彦のことです。この神についてはいろいろと触れるべきことがあるのですが、いまは、アメノウズメの所作の意味と彼女のイメージについて話を絞り込みたいので、措いておきます。

アメノウズメの一見色っぽい所作が、挑みかかるようなものであることがこの箇所からはっきりと見て取れますね。何に挑みかかっているのか。それは、邪神に対してである、ということになりましょう。言葉にすれば「なめんなよ」となるのでしょうか。

また、ここでもう一点注目したいのは、「汝は是、目人に勝ちたる者なり」の文言です。また、古事記にも「汝は手弱女人(たわやめ)にはあれど、いむかふ神、面(おも)勝つ神なり」とあります。アメノウズメは、目が異様にきらきらと輝いていて、強いインパクトを与える風貌であることが、これらの言い方から分かります。これを西郷氏は、シャーマンの目であり、闇の中でも精霊たちを凝める力を有する目である、という言い方をしています。女優でいうならば、ちょっと古くなりますが、故高峰秀子が思い出されます。画家の梅原龍三郎が、彼女の肖像画を描こうとしたとき、その目が顔からはみ出してしまうほどに大きくなってしまうので、訝しがっていましたが、彼女の目の光が異様に強いことに気づいてようやく納得したというエピソードが、彼女の『私の渡世日記』に書かれています。高峰秀子は、人の心を救う女シャーマンだったのでしょう。

アメノウズメは、たとえば、下にかかげたような、棟方志巧が好んでよく描く女性像によく似ているのではないでしょうか。どうも、そんな感じがしてきました。言いかえれば、アメノウズメは、日本人の心の奥深くに潜在する女性の聖なる力を形象化している。それは、縄文時代の土偶に示されている力に通じるものです。棟方志巧は、そういうものを描こうと熱中しているうち、あっという間に人生が過ぎていってしまった。そういうことなのかもしれません。柳田国男は、それを「妹(いも)の力」と呼んで、日本人の心の宝物としてとても大事にしています。



シャーマンとしてのアメノウズメの力は、実に、圧倒的なものです。なぜならそれは、高天原から邪気を一掃し、八百万の神々の曇りのない朗らかな笑い声の渦を惹起し、それをきっかけに、アマテラスがお籠りをやめ、闇の世界がふたたび光を取り戻すことになったのですから。

アマテラスが、神々の笑い声を訝しく思い、天の石屋戸を細めに空けてから、ついに外界に引き出されるまでの、神々の連繋プレーは確かに鮮やかです。しかし、それについて触れるのは控えておきましょう。ここまででけっこうな字数になっていて、これ以上読み進めるのは、みなさま大変でしょうから。

一方、一連の騒ぎを起こした張本人のスサノオは、どうなったか。当然、追放です。次回は、そのあたりから話をしましょう。

大嘗祭のこと、猿田彦と猿目の女のことなど、いろいろと言い残したことがあるような気もしますが、あれもこれも一気に言い切るのが必ずしも良いこととは言い切れないでしょうから、今回はこのあたりで筆を置きます。
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『古事記』に登場する神々について(その8)スサノオ・アマテラス神話④

2014年05月09日 12時55分42秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その8)スサノオ・アマテラス神話④


スサノヲノミコト絵 島根県松江市の八重垣神社にある

今回は、天の岩屋戸(あまのいわやど)の場面の前段を扱います。この場面は、スサノオ・アマテラス神話のヤマ場であると同時に、『古事記』神代(かみよ)篇のそれでもあると言われています。それで、私としてもそれなりに下準備をしようとして、けっこう時間がかかってしまうことになりました。前回アップしたのが、四月半ばですから、今回はおおよそ一ヶ月弱ぶりのアップです。

その約一ヶ月の間に読んだ古事記関連本でとくに印象に残ったのは、西郷信綱氏の『古事記の世界』(岩波新書 一九六七年)です。というより、最近はほとんどこの200ページちょっとの一冊にかかりっきりだったと言っても過言ではありません。『古事記』の叙述と歴史的事実との対応関係を過度に気にする、戦後の実証主義的な風潮を力技で押し返し、あくまでも神話の固有性から『古事記』の叙述内容を読み解こうとする西郷氏の真摯な姿勢に、私は魅了されてしまったのです。その姿勢には、政治の関与から、文学の固有性をあくまでも守り抜こうとした小林秀雄のそれに深く通じるものがあるのではないでしょうか。ふたりともに、文学の本質について深い洞察を有していることは、いうまでもないでしょう。

いま私は、不用意にも「文学の本質」と言ってしまいました。言ってしまった以上、それについてすこしだけでもふれておきましょう。たとえば、吉本隆明氏の次の言葉を引いてみます。


「政治と文学」とか「政治と芸術」といって、文学や芸術は芸術的価値と同時に政治的価値も具えていなければいけないんだと言い出す人たちがいました。でも、ぼくらにいわせれば、どう考えてもその考え方には「人間が人間である」ことや「人間性」の問題が入ってこないわけです。(中略)「人間が人間である」ことや「人間性」が入ってこないような芸術あるいは文学というのはもともと成り立たないのです。
(『日本語のゆくえ』吉本隆明 光文社知恵の森文庫 2012年)


この文章のなかの、「人間が人間である」こと、とか「人間性」といった言葉が、文学が立脚すべきものを指し示しているのは間違いないでしょう。では、「人間が人間である」ことや「人間性」とは、いったい何なのでしょうか。端的に言ってしまいましょう。それは、身体性に深く浸潤された観念領域のことです。それをいささか具体的に、ドストエフスキーが『地下生活者の手記』で語ったような、一本の煙草と世界を引き換えにすることも辞さないと臆面もなく言ってしまえる人間の心の偽らざるリアルな一側面のことである、と言ってもいいでしょうし、既婚者がひとりの女を得るために自分の社会的地位をかなぐり捨てたり家族などの身近な人々の幸福を犠牲にしたり彼らを悲惨な目にあわせたりするところに露呈されるエロスの暴力性を指していると言ってもいいでしょう。文学の本領は、人間のそういう赤裸々な姿を少なくとも絶対に敵に回さないという覚悟を決めるところにあるのではないでしょうか。吉本氏が言いたいのは、そういうことだと思います。その意味で、人間の赤裸々な姿を無視したりさらには敵に回すことさえをも辞さない社会倫理と文学の倫理とは最後のところで絶対に相容れない一点を有するのではないかと思われます。

いささか脱線が過ぎたような気がします。西郷信綱氏の古事記論に話を元に戻しましょう。

彼の、強い磁力を有する卓越した古事記論を、当拙論に取り込むことがどこまでできるのか、ちょっと分からないところがあります。というのは、その磁力があまりにも強いので、つまみ食い的な取り込みをしようとしても、あまりうまくいかないような気がするからです。かといって、氏の古事記論に全面屈服したような話を展開してみても、あまり面白そうな読み物にはならないような気もするのです。

そこで、というわけでもないのですが、いささかなりとも分かってきたのは、前回取り上げた三浦佑之氏が、西郷信綱氏の影響を深く受けながらも、その磁場から抜け出す自分なりの道筋を見つけ出そうとして試行錯誤しているということです。そのことは、例えば、次のような物言いからもうかがうことができるのではないかと思われます。

この神話(『古事記』一般ではなくて、そのなかの天の岩屋戸神話を指している―――引用者注)には、冬至の頃に行われる鎮魂祭や大嘗祭(天皇の即位儀礼)が反映していると指摘されている。冬至の頃に、さまざまな民族の間で太陽の死と再生にかかわる祭儀が行われており、この神話にもそうした性格があるだろう。ところが一方、この神話はエロと笑いのドタバタ劇という性格ももっているわけだが、それは、冬至における祭儀という側面と矛盾するものではない。祭儀には、ここに描かれているような喧騒が必要だったのであり、あまり真面目一方に考えたのでは神話の本質を見誤る危険があるということにもなる。(三浦佑之『口語訳・古事記・神代篇』(文春文庫)


西郷信綱氏は、『古事記の世界』において、天の岩屋戸神話に冬至の頃に行われる鎮魂祭や大嘗祭が反映しているという主張を、神話の本質論として展開しています(ここは、本書の白眉のひとつでもあります)。三浦氏は、当然そのことを踏まえたうえで、上に引いた文章を書いています。そのうえで、当神話の「エロと笑いのドタバタ劇という性格」にスポット・ライトを当てて、「あまり真面目一方に考えたのでは神話の本質を見誤る危険がある」という言い方で、西郷古事記論と一定の距離をとろうとしています。そうすることで、その論の成す強力な磁場に吸い寄せられるのを回避しようとしている気がするのです。

これ以上の具体論は、後ほど展開することにしましょう。

要するに、ゆったりとした論調の三浦古事記論に触れるときに、ときおり、西郷古事記論を引き合いに出すほうが、大上段に構えて西郷古事記論を論じるよりも、話の流れがスムーズになるような気がするので、そうしたいと言いたいわけです。言いかえれば、自分の力量に合ったやり方をするに越したことはなかろうと思うのですね。

そろそろ本題に入りましょう。

前提条件のない、風変わりなウケヒをした後、スサノオは「自(おのづか)ら我勝ちぬ」と一方的に勝利を宣言します。やはり自分にやましいところはない、というわけです。それで収まればよかったのですが、そうはいかないところがスサノオのスサノオたるゆえんなのですね。スサノオはスサブ神、つまりやり過ぎてしまう神なのですから。彼は、勝った勢いに乗じて、高天の原で乱暴狼藉の限りを尽くします。それを以下にリスト・アップしてみましょう。まずは、次のふたつの悪業をなします。

・アマテラスが営んでいた田の畔(あぜ)を壊し、その溝を埋める
・アマテラスが大嘗(おおにえ)を召し上がる殿に入って糞をし、それを撒き散らす

しかしアマテラスは、それを咎めず、かえってかばおうとさえするのでした。「糞をしたのは、祭りの酒に喜び酔うて吐き散らす愛しい弟の振る舞いが、そう見えただけでしょう。また、田の畔を壊し、溝を埋めたのは、稲を植えるところが狭くなって惜しいというので、そんな振る舞いをしたのでしょう」というふうに。けれど、スサノオの乱暴狼藉はいっこうにやみません。スサノオは、次のような悪業をかさねてしまうのです。

アマテラスが、忌服屋(いみはたや。神聖な機織小屋)に入って、機織り女たちに神御衣(かんみそ。神のお召し物として神に捧げる衣)を織らせていたときに、スサノオは、その服屋の棟に穴を空け、逆さ剥ぎに剥いだ斑(まだ)ら馬の皮を、そこから落し入れたのでした。すると、布を織っていた機織り女がそれを見て(あるいは、被ってしまって)驚きのあまり、放り出した梭(ひ)で思わず陰上(ほと)を突いて死んでしまったのです。

ここは、分かりにくいところ満載ですね。少しずつ解きほぐしましょう。

まず、おやっと目を疑うのは、アマテラスが機織り女たちに神のお召し物を織らせているというくだりです。アマテラスは、高天原に君臨する最高神だったはずです。なにせ、父のイザナキから、高天原の統治を任されたのですから。そのアマテラスが、目下たちに神のお召し物を織らせているということは、自分がそれを着ると明言する言葉がない以上、アマテラスのほかに最高神がいるということになってしまいますね。その神のために織っている、と。このつじつまのあわなさに関しては、本居宣長や平田篤胤や鈴木重胤といった国学の超大物たちでさえも少々閉口したようです。では、それをどう考えればいいのでしょうか。西郷信綱氏は、その点について、次のように言っています。

天照大神の亦の名は大ヒルメ(紀)(日本書「紀」の意―――引用者注)で、これが太陽神の妻つまり巫女のいいであるゆえんを説いたが、忌御屋で神御衣を織る天照大神には、まさしくこうした巫女の面影がうかがえる。果たしてこの段の紀一書には、稚日女(わかひるめ)なるもの、斎服殿で神御衣を織っており、スサノヲが斑駒を逆剥ぎにして投げこむや機から落ちて死んだとある。稚ヒルメは大ヒルメの妹だなどと昔は考えられていたが、「大」と「稚」は巫女の位づけを示すもので、稚ヒルメは下にいう「服織女」にあたる。何れにせよ、ここにうかがえるのは紛れもなく巫女としての天照大神の姿である。ところが、これも前に指摘したように天照大神はもはやたんなるヒルメではく、“solarization”とともに光りかがやく日神として天上に持ち上げられた、新たな至上神なのである。(神の代理人である巫女が神そのものになる例は少くない。)(中略)しかしこの神には閲歴があり、天空にかがやく至上神と化した後もなお古いヒルメの影がつきまとっているわけで、神衣を織るのがすなわちヒルメとしての姿だとすれば、「大嘗きこしめす」のは高天の原の至上神としてであったと見ていい。 (西郷信綱『古事記注釈 第二巻』)


西郷信綱氏は、端的に「こうだ」という言い方はなるべく避けて、「こう読める」という言い方を好んでします。より良い読みに向けて開かれた読みを心がけているからこそ、そうなるのでしょう。それはそれでできうるかぎり尊重されるべきこととは思われますが、私なりに、彼が言わんとするところをまとめると、「神はその出自を引きずる」となります。あるいは、「神はその出自を引きずることにおいて神たりえる」と。アマテラスは、太陽神の妻としての巫女、すなわち、ヒルメという出自を引きずっているし、また、それを引きずることにおいて、アマテラスたりえている。だから、″アマテラスが機織り女たちに神のお召し物を織らせる″という言い方になる。とりあえず、そういうふうに言うことができるのではないでしょうか。

次に、原文で「天の斑馬(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎ」とありますが、「逆剥ぎ」とは何なのでしょうか。どうやら、獣の皮を尻の方からさかさまに頭の方に剥ぐことのようです。

そこで疑問が湧いてきます。天井から、獣の血まみれの大きな皮が落ちてきて、それが自分の身に降りかかったら、さぞかし驚くだろうとは思います。しかし、驚きのあまり放り出した梭(ひ)で思わず陰上(ほと)すなわち女性器を突いてしまうとは、ちょっと大げさ過ぎるしまた不自然なのではなかろうか。さらには、それで死んでしまうのはありえないことなのではなかろうか。正直にいえば、そう感じられてしまうのです。


機織り機の梭

ちょっとだけ言葉の説明をしておくと、梭(ひ)とは、機織り機で、張られた縦糸に横糸を通す道具です。尖った船のような形をしていて、糸が巻きつけてあるそうです。ここで想像を逞しくすると、馬→巨大な男性器→梭→陰上(ほと)への突き刺さり→性交となります。それで死ぬというのですから、そこには、タブーの侵犯という罪の存在が想定されることになるでしょう。書紀本文では、服織女ではなくアマテラス自身が傷ついたことになっています。そのことと、上記の連想とをすり合わせると、近親相姦の匂いがそこはかとなく立ち込めてくるような気がしてきます。すくなくとも、その痕跡が感じられることは間違いありません。

ここで、話の角度を変えましょう。

スサノオが、ウケヒの「勝ちさび」に高天原でなした悪業の数々は、「天(あま)つ罪」としてひとくくりにできるものです。天つ罪という言葉は、『祝詞』(のりと)の中の「大祓の詞」(おほはらへのことば)に出てきます(そのことの重要性に着目したのは、国文学学者・折口信夫氏で、それをきちんと評価したのは、吉本隆明氏です)。天つ罪の内容に入るまえに、『祝詞』に触れておきましょう。以下は、藤永芳純氏の「日本古代思想における悪」という論考を大いに参考にさせていただきました。https://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/14627/1/doukyr_4_061.pdf

『祝詞』は現存のものとしては、『延喜式』〔延喜五年(905)下命、延長五年(927)成立〕の巻八にあるのが主なものです。『古事記』成立の約200年後に作られたことになりますね。だれが作ったのかについては何も記述がないそうです。なお、その中の「大祓の詞」には、罪の名前が書かれているだけで、それが何を意味するかについては諸説があることをおことわりしておきます。

「大祓の詞」で天つ罪としてあげられているのは、次の九つです。(記)は『古事記』に記載があるもの、(紀)は『日本書紀』に記載があるもの、です。

① 畔放(あはなち):田のあぜをこわすこと。(記紀)
② 溝埋(みぞうめ):用水路をこわすこと。(記紀)
③ 桶放(ひはなち):木で作った用水路をこわすこと。(紀)
④ 頻蒔(しきまき):他人が種を蒔いたうえに重ねて自分の種を蒔くこと。(紀)
⑤ 串刺(くしさし):他人の田に棒を立てて所有権を主張すること。あるいは、他人の田に串を刺して人を傷つけようとすること。(紀)
⑥ 生剥(いけはぎ):生きている馬の皮を剥ぐこと。(紀)
⑦ 逆剥(さかはぎ):馬の皮を逆から剥ぐこと。(記紀)
⑧ 屎戸(くそへ):神聖な場所に大小便をまき散らして汚すこと(記紀)
⑨ 許多太久の罪:その他多くの罪

以上九つのうち、スサノオは、①②⑦⑧の四つの罪を犯したことになります。では、天つ罪とは、いったいどんな罪なのでしょうか。これらの罪のうち、①~⑤は農耕に支障をきたしたり、農耕にまつわる所有権を侵害したりする振る舞いであって、農耕社会において到底見逃すことのできない罪といえるでしょう。また、それらの振る舞いは、共同体の秩序のみならず、支配者層の権力の源泉に対する看過しがたい脅威でもありました。古代史家の石母田正氏が、「大化前代における灌漑施設が、共同体または族長に所有・規制される公的財産であったとみるほかはなく、それに対する侵害が『国之大祓』の罪のなかで、性的タブーとならぶもっとも基本的な罪とされているのは当然であろう」(「古代法」『日本歴史4』)と言っているのは極めて妥当というよりほかはないでしょう。また、⑥~⑧は神聖なものを汚すことであり、祭を冒涜することです。さらには、そのことを通じて、祭祀王としての支配者すなわち天皇に対する反逆を意味する行為であると言っていいでしょう。

⑥⑦から、馬に対する支配層の強いこだわりが感じられます。そのことにちょっと触れておきましょう。

わが国に馬が渡来したのは古くても弥生時代末期ではないかといわれています。四世紀末から五世紀の初頭には乗馬の風習も伝わっていたようです。馬の用途は、主に軍事・輸送・農耕の三つですが、当初は軍事(儀礼用を含む)が中心であったようです。首長が死ぬとその愛馬を殉葬する風習もあったようですが、後になるとその代わりに土人形の馬(埴輪)を葬るようになりました。六四五年の大化の改新以降、駅馬・伝馬の制度がつくられ、公的通信手段としての馬の利用が制度化されています。六六三年、百済救援のために朝鮮半島に出兵し、新羅と唐の連合軍に大敗したこと(白村江の戦)をきっかけに馬の軍事的利用が政策課題となりました。http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/umabunka/04-shiru/01-ningen-history/01-nihon-history/01-denrai-kamakura/index.htm

以上、古代における馬の歴史をざっと振り返ってみましたが、この一瞥からだけでも、古代の支配層にとって馬がいかに貴重なものであったのかが分かるでしょう。馬を愚弄することは、支配者の権威に挑戦する振る舞いであったのです。

天つ罪に触れたついでに、国つ罪にも触れておきましょう。「大祓の詞」は、国つ罪として次のものをあげています。

(1)生膚断(いきはだたち):ひとを傷つけること
(2)死膚断(しにはだたち):ひとを殺すこと。あるいは、死人を傷つけること。
(3)白人(しらひと):肌の色が白くなる病気で、いわゆるハンセン病の一種。
(4)胡久美(こくみ):背中に大きな瘤ができること(所謂せむし)
(5)己(おの)が母犯せる罪 :実母との相姦(近親相姦)
(6)己が子犯せる罪 :実子との相姦
(7)母と子と犯せる罪 :ある女と性交し、その娘とも相姦すること
(8)子と母と犯せる罪 :ある女と性交し、その母とも相姦すること
(9)畜犯せる罪 :獣姦
(10)昆虫(はうむし)の災 : 地面を這う昆虫による災難
(11)高つ神の災 :落雷による災害
(12)高つ鳥の災 :猛禽類による家屋損傷などの災難とされる
(13)畜仆し(けものたおし):家畜を呪い殺すこと
(14) 蠱物(まじもの)する罪 :ひとに呪いをかけること
(15)許多太久の罪:その他多くの罪

(1) は傷害罪、(2)は殺人罪と死体損傷に当たります。これを罪とするのは、私たち現代人の罪感覚になじみます。(3)と(4)は、病気・障害なので、私たちの罪感覚にはなじみませんが、ここが古代に特有なところです。個人の責任でどうにかなるものではないのですが、健常ではないものを、生を阻害する穢れとしてしりぞけるのです。(5)~(9)には、近親相姦・乱倫・獣姦など性的に忌避すべきものがリスト・アップされています。なお、『古事記』人代篇・仲哀天皇段に、それらが罪として掲げられています。(10)~(12)は天災であり、これらもまた、個人の力ではどうにもならないものではあるのですが、古代人にとっては、生を阻害する災いとして罪になります。(13)~(14)は呪術です。古代人が、呪術の力を大いに恐れていたことがうかがわれて、とても興味深いですね。もっとも、いまでも「人を呪わば穴ふたつ」という諺が残っていますから、その力を軽く見過ぎないほうがいいような気がしないでもないですけれど。

仏教では、五悪として殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)・妄語(もうご)・飲酒(おんじゅ)が挙げられます。それらと国つ罪とを比べると、重なるのは、殺生と邪淫だけです。偸盗と妄語と飲酒とが、国つ罪には見当たりません。あるいは、それらは(15)の許多太久の罪に入るのかもしれませんが、明記された項目として見当たらないのは、もしかしたら特筆すべきことなのかもしれませんね。つまり、偸盗と妄語とを禁止しなくて済むほどに、古代日本は平和な社会だったのかもしれないと思うからです。

私は別に古代日本社会を美化するつもりはありません。ここでちょっとだけ個人的なお話しをします。私は、長崎県の対馬で生まれ育ちましたが、小学校の低学年の頃(一九六七年)まで、我が家は縁側を開けっ放しにして寝ていました。それは、当時の田舎ではそれほど珍しいことではなかったのではないでしょうか。泥棒などの侵入者を心配していたら、そんな無防備な振る舞いはできませんね。そういう牧歌的な記憶が残っているので、けっこうすんなりと、古代日本はとても平和な社会だったのではなかろうかと想像してしまうのですね。

話を戻しましょう。スサノオは、ウケヒの勝ちに乗じて調子に乗りすぎたあまり、天つ罪を犯し、高天原の神聖さを汚し、その秩序を乱したがゆえに、結局、贖罪の品物を科され、鬚と手足の爪とを切って祓えを科され、高天原から追放されてしまうことになります。それはしかたのないこととは一応思いはしますが、どこかしっくりきません。なぜでしょうか。

よくよく考えてみれば、そもそもスサノオは、イザナキから神やらひされて根の堅洲国に行く前に、アマテラスにお別れの挨拶をするために高天原に立ち寄っただけだったのですから、高天原からあらためて追放されるいわれは実のところまったくないのです。スサノオからすれば、スサノオの痛くない腹をさぐって馬鹿げた大騒ぎをやらかし、事を大きくしたのはアマテラスの方なのです。すべては、アマテラスの疑心が招いた災いである、といえなくもない。おまけに、ウケヒの成立要件を欠いたウケヒをすることを余儀なくされてもいるのです。さらには、「男神は、私の子ども」というアマテラスの「詔り別け」だって、どことなくあわてて横槍を入れられた感触があって、スサノオとしては、これまたすっきりとしません。読み手としてもすっきりしません。

どこがどうとは細かく言えないけれど、どうにも腹の虫が納まらない気分に陥ったスサノオの乱暴狼藉ぶりは、深い同情に値するものだと言えなくないのではないでしょうか。ウケヒに勝って喜んでいる者が、あそこまで自滅的な振る舞いに及ぶとは、私には到底考えられないのです。そういうひっかかりを、三浦佑之氏は、次のように述べることでうまく言い表しています。

日本書紀では、男が生まれたら清、女が生まれたら濁、という前提がきっちりと語られている。また、オシホミミの名が、マサカツアカツ(正に勝つ我が勝つ)という冠辞を持っているのをみても、男が生まれたら勝ちというのが自然である。とすれば、スサノヲは負けたことになり、濁心があったということになるが、もう一つ厄介なのは、子を生み終えた後の、アマテラスの「詔り別け」である。考えようによっては、アマテラスが横やりを入れてスサノヲの吹き出した男神を奪い取ってしまったとも読めるわけで、もともとは「詔り別け」はなかったのかもしれない。そうだとすれば、男神を生んだのはスサノヲということになり、スサノヲの心は清かったということになる。どうも、この神話は本来の形からねじまげられているように思えてならない。そして、そのねじ曲げは、天皇家の、アマテラスから男系への接続を語るためにこそ必要だったのではないか。
                                     (三浦佑之『口語訳 古事記〔神代篇〕』)


そのねじ曲げは、アマテラスにとっては能動的な意識です。いっぽう、スサノオにとっては受動的な無意識です。それゆえ、スサノオは我知らず乱暴狼藉を働き、アマテラスはそれを甘受し、甘受しきれなくなると、天の岩屋戸のなかに姿を隠し籠もってしまったのでした。アマテラスのその弱々しげな姿に、私は、勝利者の抜け目なき狡知を感じとってしまいます。その狡知が、あくまでも意識的なものであるのかどうか、いまの私にはちょっと見通せないところがあります。それは、アマテラスが、岩屋戸の薄暗がりで、太陽神に仕える巫女であった自らの出自をどこかで懐かしんでいるところがあるのかどうかよく分からないという言い方と重なるものです。あまり分かりやす言い方になっていないような気がしますけれど、現状では、これでいっぱいいっぱいです。
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『古事記』に登場する神々について(その7)スサノオ・アマテラス神話③

2014年04月15日 23時09分26秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その7)スサノオ・アマテラス神話③

当『古事記』シリーズの最新アップから二週間あまりが経ちました。その間に『古事記』関連の著書を新たに二冊読みました。三浦佑之氏の『古事記講義』(文春文庫)と『口語訳 古事記[神代篇]』(同文庫)です。そこには、説得力のある議論がいくつかありました。ド素人なりに書き進めていくうちに、『古事記』解釈をめぐる、それなりの方向性がおのずと生じてきたような気がしていたのですけれど、三浦氏の著書を読み進めるうちに、それにかなり影響されてしまいまして、なんというか、かなりの軌道修正が必要かもしれないと思い始めています。

私のような『古事記』の若葉マーク・ホルダーにとって、同書を読み進めることには、未知の大洋を航海するときのような茫洋としたものがつきまとわざるをえません。だから、より性能の高い羅針盤を見つけたと思ったならば、ためらわずに、それまでの羅針盤を捨て去るべきなのでしょう(万巻の書を読み抜いてから書き始めることなど、浅学非才の私には到底不可能ですし)。ただしその場合、それまでの(あるかなきかの)航路を、なぜ、どのように変更するのかを、なるべく明瞭に述べることが必要となるでしょう。でなければ、自分の愚かしい迷走に、読み手のみなさまを付き合わせるというはた迷惑な振る舞いをしているだけのことになるでしょうから。そのマナーをしっかりと守ることができれば、いささかなりとも、未知の世界を探求する冒険のような楽しさを、みなさまと分かち合うことができるのかもしれない、などと思っております。

今回は、アマテラスとスサノオがウケヒ(宇気比)をする場面です。イザナキによって豊葦原の中つ国からの追放を申し渡されたスサノオは次のように言います。

「分かりました。そういうことであれば、姉の天照大御神にご挨拶にうかがうことにしましょう」。

そう言って、スサノオは高天原に昇っていきました。そのとき、国土が激しく振動したというのですから、すさまじいエネルギーです。そこでアマテラスは、こうつぶやきます。「弟が昇ってくるのは、絶対に良い心からではあるまい。私の国を奪おうと思っているにちがにない」と。そこでアマテラスは、スサノオに対する戦闘姿勢を誇示するかのように、女らしく結っていた髪を解き、みずらに編み上げて男の姿になり、その左のみずらにも右のみずらにも、あたまにかぶったかずらにも、左の手にも右の手にも、それぞれに大きな勾玉(まがたま)をたくさん緒につないだものを巻きつけて、肩には千本もの矢が入る武具である靫(ゆき)を背負い、脇腹から腹部にかけては五百本の矢が入る靫を付け、また、弓を射るとき相手を威圧する音を立てる竹鞆(たかとも)を左の臂(ひじ)に巻きつけ、弓の中ほどを握りしめて振り立て、固い地面を両股で踏みつけ続け、土を淡雪のように蹴散らして、おそろしい雄叫びをあげるのでした。



みずら結

ここで気になるのは、アマテラスのスサノオに対する過剰なまでの警戒心です。どうしてこうまでもアマテラスがスサノオを疑うのか、私を含むふつうの読み手には分かり兼ねるところがありますね。とりあえずは、それを指摘するにとどめて、本文に戻りましょう。

アマテラスは、スサノオに問いかけます。「お前は、どうして私が治めている高天原に昇ってきたのだ」と。するとスサノオは、「自分には邪な心などありません」と言って、高天原に昇ってくるまでの経緯を述べます。そうして重ねて「異(け)しき心無し」と謀反心などないことを強調します。すると、アマテラスは「だったら、お前の心が清くて晴れ晴れとしていることを、どうやって証し立てしようというのだ」と言います。それに対してスサノオは、「あなたと私とふたりともにウケヒをして子どもを生み成そうではありませんか」と答えます。

ここから有名なウケヒの場面に入っていくのではありますが、ここでちょっと不思議なことに気づきます。

ウケヒをすると言っているのに、どちらからも、「男の子を産んだら、あるいは、女の子を産んだら、スサノオには謀反心がない」という条件提示がなされていないのです。条件提示がないままに占ってみても、事態が混乱するだけなのは火を見るより明らかです。事態を混乱させるために、同書の編者・執筆者は、まるでワザと条件提示を省いたかのようであります。これでは、この占いはウケヒにはなりえません。

ウケヒというのは、まず前提となる条件を定めておいて、ある行為をすることによって神の判断を仰ぐことです。だから、前提条件を定めておかないことには、ウケヒのしようがないのです。こんな簡単な理屈は、ちょっとかしこい小学生でも分かることでしょう。

のんびり屋の太安万侶さんは、そのことをうっかり忘れてしまったのでしょうか。残念ながらというかなんというか、その可能性は、限りなくゼロに近いと言わざるをえません。

『古事記』のちょっと後のところになりますが、葦原中国平定のために遣わされたアメノワカヒコに与えられた矢が、高天原に飛んで来たのを見て、それが蘆原中国を平定するために射られた矢なのかどうかを判断するために、高木神は、「もしそうならアメノワカヒコに当たるな、そうでないならアメノワカヒコに当たれ」と宣言しているのです。そのうえで、矢を下界に投げ返しました。ちなみに、矢はアメノワカヒコの胸に当たり、その濁った心が災いして死んでしまいました。

ここから察するに、太安万侶は、ウケヒがいかなるものであるのかをよく分かっていたのです。にもかかわらず、アマテラスとスサノオのウケヒの場面には、ウケヒを成り立たせるための前提条件がない。ということは、太安万侶は、意図的に前提条件を設定しなかった、となります。この話は、後ほど再び取り上げることにして、とりあえず本文に戻りましょう。

天(あま)の安河(やすのかわ)を間にはさんで、まずアマテラスが、スサノオの刷(は)いていた十拳(とつか)の釼(つるぎ)を受け取って、これを三つに折り、それに神聖な井戸の水をふりかけて、噛みに噛みます。そうして、吐き出す息の霧から生まれた神は、次の三柱です。

・多紀理毘売命(タキリビメノミコト) 別名・奥津島比売命(おきつしまひめのみこと) 霧にちなんだ女神だそうです。福岡県宗像市大島沖ノ島に鎮座の由。沖ノ島は、海の正倉院と呼ばれています。
・市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト) 別名・狭依毘売命(さよりびめのみこと)「いちき島」は「斎き島」の意で、神を祀った神聖な島のこと。同宗像市大島に鎮座の由。
・多岐都比売命(タキツヒメノミコト) 「たきつ」は、水が激しく流れること。水神であると思われます。同宗像市田島に鎮座の由。

『古事記』によれば、三柱いずれも宗像氏の祭祀する宗像神社の祭神です。宗像氏は、福岡県宗像郡を本拠とした海人(あま)系の豪族で、宗像神社の神主を務めました。九州北部の沿岸部と玄界灘の島々に勢力を持っていて、航海や漁労などにとどまらず、荒々しい外洋を乗り越えることのできる操船術や航海術に長けていたようです。

次はスサノオの番です。彼は、アマテラスが身体のいろいろな部分に巻いていた玉の緒を受け取って、アマテラスと同じような所作によって、それらから次の五柱の男の神々を生み出しました。

・正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト) 左のみずらに巻いていた玉の緒から生まれた神。「正勝吾勝」は、正しく吾勝ちぬの意。「勝速日」は、速やかに勝つ神霊の意。「忍穂」は、多くの稲穂の意。この神は、皇室の祖神として天孫降臨の段にも現れます。「勝」の字が三つもあることに注意したいものです。このことには、後にふたたび触れましょう。
・天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)右のみずらに巻いていた玉の緒から生まれた神。「天穂日命」とも記す。稲穂の神霊の意。出雲系諸氏族の祖神。後に、地上平定に差し向けられるが失敗します。
・天津日子根命(アマツヒコネノミコト)かずらに巻かれていた玉の緒から生まれた神。「日子根」は、日神の子の意。アマテラスの子どもということでしょう。
・活津日子根命(イクツヒコネノミコト)左手に巻かれていた玉の緒から生まれた神。所伝未詳とされています。
・熊野久須毘命(クマノクスビコノミコト)右手に巻かれていた玉の緒から生まれた神。同じく所伝未詳とされています。

ウケイで生まれた神が出揃ったところで、アマテラスが言います。「後に生まれた五柱の男の子は私の玉を物実(ものざね・種あるいは因子)として生まれて来た神であるから、当然私の子ですよ。先に生まれた三柱の女の子は、お前の釼を物実として生まれて来たのだから、お前の子です。」と。

これ、いかがでしょうか。ちょっと唐突というか、取って付けた感じというか、なんだか変な印象ですね。私たちがそういう印象を抱いてしまう根本の原因は、ウケヒ成立のための前提条件の提示抜きに、事が進行してしまったことであります。言いかえれば、あらかじめ提示されるべきものが、後付で提示されてしまったので、私たちは、それを素直に受け入れることができないのです。

その後の展開は、ハチャメチャといえばハチャメチャです。というのは、スサノオは、一方的に自分が勝ったと言い張って、乱暴狼藉を働きはじめるのですから。そうなると、アマテラスの言葉がますます奇妙なものに思えてきます。事態を収拾するために発した言葉が、かえって、事態を混乱させてしまったように感じられるからですね。神様に向かって礼を失した言い方になってしまいますが、アマテラスは、頭の弱い神様なのでしょうか。読み手にそんな印象を抱かせるために、安万侶さんは、わざわざ、前提条件の提示を提示しないウケイを描写したのでしょうか。

こうやってつらつら考えてくると、次のことが浮びあがってくるように思われます。すなわち、スサノオとアマテラスとでは、この「ウケヒ」をする上での思惑が異なっているのではなかろうか、あるいは、ふたりの思惑はすれ違ってしまっているのではなかろうか、ということが、です。

スサノオの考えはいたって単純です。自分には「きたなき心」や「異なる心」などまったくないことを証し立てしたい思いでいっぱいなのです。

それに対して、アマテラスの思いはけっこう複雑です。アマテラスがいちばん気にしているのは、自分が治めている高天原をスサノオから奪われることでは、実はありません。それはかりそめの話であって、豊葦原の中つ国がスサノオのものになってしまうことをこそ、アマテラスは心底恐れているのです。

豊葦原の中つ国を治めるためにこそ、アマテラスは、高天原を治めていなければなりません。というのは、アマテラスが高天原を治めているからこそ、後の天孫降臨神話が威光を放ちえるのであり、天孫降臨神話が威光を放ちえているからこそ、オオクニヌシの国譲り神話が説得力を持ち得るからです。

ざっくりと言ってしまえば、要するに『古事記』の神代篇全体は、天皇家が豊葦原の中つ国を治めることのオーソドキシィ(正統性)をゆるぎなく確立するという大和朝廷のミッションを遂行するための壮大なフィクションなのです。

ところが、もともと豊葦原の中つ国がスサノオのシロシめすべき国であることがはっきりしてしまえば、せっかくの壮大な神話の体系が無駄になることを超えて、その存在自体が崩壊してしまいかねないことになるでしょう。そうなれば、一巻の終わりです。

スサノオに対する、アマテラスの、過剰なまでの警戒心と武装には、そういう不安やさらには怯えのようなものが影を落としているように、私には感じられてならないのです。

そのこととの関連で、生々しく思い出されるのは、当論考シリーズ「その5」で、次田真幸氏の『古事記(上)全訳注』(講談社学術文庫)から引いた次のふたつの文章です。

建速須佐之男命 「建速」は勇猛迅速の意で、この神の荒々しい性格を表わす称辞。「須佐」は、元来出雲国(島根県)飯石郡の地名で、この神は本来、出雲地方で祖神として信仰されていた神である。
      
スサノオノ命が天照大御神と姉弟の関係で結ばれているのは、注目すべき点である。日神と月神が、天父神の左右の目から生まれたとする神話は、日本神話以外にも例があるが、鼻からスサオノ命が生まれたとするのは異例である。スサオノ命は、元来出雲神話の祖神であって、皇室神話の祖神である天照大御神との間には、血縁的関係はなかったはずである。それが共にイザナキノ命の子として結合されたのは、皇室神話と出雲系神話とを統合するために採られた方法であったと思われる。

編者にして執筆者の太安万侶にとって、豊葦原の中つ国の中心的な存在は、出雲です。それは、『古事記』をふつうに読めば、だれでも分かることです。そうして、スサノオは、出雲地方で祖神として信仰されていた神であるというのですから、スサノオの末裔こそは、豊葦原の中つ国を治めるにふさわしい存在である、となるでしょう。むろん、太安万侶にとって、ということです。

その当然の理をふまえながら、なおもアマテラスの末裔こそが、豊葦原の中つ国を治めるにふさわしい存在であるとするには、アマテラスとスサノオとの間に血のつながりがある、つまり、両者は姉と弟の関係である、とするフィクションを設定する必要が生じます。また、ウケイは、子産みをめぐっての両者のつながりを暗示しつつも(ウケイの場面には神話の話型としての姉弟婚の痕跡があります)、アマテラスが優位に立つことが絶対条件となるはずです。

大和朝廷の正統性を確立するための、そういうさまざまな要請やその圧力が、ウケヒの場面をめぐってのさきほど指摘したいくつかの不自然さをもたらしている、という印象を、私は抱かざるをえないのです。

この問題を、ちょっと違った角度から考えてみましょう。取り上げたいのは、オシホミミの名前です。彼は、スサノオがウケヒで生み出した一番目の神で、その名前の冒頭が「正勝吾勝勝速」となっていて、勝の字が三つもあります。ここを素直に読めば、男の子が生まれて、スサノオが心の中で放った「オレは勝った」という躍りだしたいような喜びの快哉がおのずから反映されていると感じられます。アマテラスの勝利の喜びの声が反映されていると解するのは、不自然に過ぎると思われます。

ここで、スサノオが勝ったと思ったと解すれば、その後の展開がすとんと腑に落ちるのです。つまり、スサノオのウケヒが終わったところで、アマテラスが取って付けたように、男の神は自分の物実(ものざね)から生まれたので自分のものだと宣言したことの収まりの悪さ・不自然さは、スサノオがオシホミミを生み出したことに彼女が狼狽したがゆえに生じていると考えればごくすんなりと分かることになります。

また、ウケヒが終わった後に、スサノオが一方的に勝ちを宣言したことも、その直後に、勝ったと言いながら突然乱暴狼藉を働き始めたことも、アマテラスの、自然なことの成り行きを捻じ曲げるかのような不自然な言動によって、スサノオが、どこかはぐらかされたような腑に落ちない思いを抱いて憤懣やるかたない烈しい情動が惹起してきたのだと考えれば、これまたすんなりと分かるようになるのです。

ここまで論を進めてくれば、太安万侶がウケヒの前提条件をあえて提示しなかった理由が、おぼろげながらも浮かんでくるのではないでしょうか。安万侶は、スサノオの神としての出自と、そのことの重さとを知悉していたからこそ、それを提示しようにも提示しえなかったのではないか。私には、そういうふうに感じられます。とりあえずの答えは、これくらいにしておいて、これからさらに『古事記』を読み進めるうちに、その理由がおのずとより鮮明になるのを待ちましょう。

以上述べてきた、ウケヒをめぐる一筋縄ではいかない機微を、当論の冒頭でその名前を出した三浦佑之氏は、次のような口語訳で上手にすくい取っているように感じられます。三浦氏の『口語訳 古事記』は、村の古老の語りという設定で訳されていて、ときおり、述懐という形で、三浦氏の見解が織り込まれています。以下に引くのは、述懐の部分です。

それにしてものう、スサノヲの心はいかばかりじゃったろうの。オシホミミを吹き出したのはスサノヲじゃったのに、アマテラスはおのれの子じゃと言うて、詔(の)り別けてしもうたでのう。それに、ウケヒの答えをいかに取ればいいものか。マサカツアカツという名をもつ神は(お)の子のオシホミミじゃて、男の子を生んだ神が正しいというのは間違いなかろうがのう。それにしても、男の子を生み成したのはどちらじゃろうのう。やはり、物実を持っておったアマテラスなのかのう。なにせ、遠い遠い神の振る舞いじゃで、この老いぼれにも、しかとわからぬのじゃ。それでものう、この老いぼれは、スサノヲがいとしうてのう、いくたびも異(け)しき心は持たぬと言うてござったじゃろうが・・・・・。あの言葉にいつわりはなかったと思いたいのじゃ。そもそも、ウケヒ生みの前に、なんの取り決めもなさらなかったというのは、なぜじゃろうのう。それがないとウケヒは成りたたんのじゃが・・・・・。いや、どうにも、この老いぼれにはわからんわい。神の代のことじゃでのう。

いかがでしょうか。なかなか味わい深い口語訳であるとは思われませんか。
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『古事記』に登場する神々について(その6) スサノオ・アマテラス神話②

2014年03月26日 22時29分57秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その6)スサノオ・アマテラス神話②

先日(三月二三日・日曜日)の読書会で、福永武彦現代語訳『古事記』を扱いました。その際、当論考の(その1)から(その5)までをレジュメとして使いました。参加者のみなさまから、当論考のさまざまな論点についていろいろと貴重なご意見をいただきました。また、それらの論点からからさまざまな方向に話が発展することもたびたびありました。有益で楽しいことときを過ごせたことを、参加者のみなさまに感謝します。『古事記』には、なにやら不思議なパワーもしくは魔力が秘められているようです。私の思い込みでなければ、私のみならず参加者のみなさまもそれぞれにそれを感じ取っていらっしゃったようです。

この論考は、古事記上巻までを扱おうかと思っています。余力があれば、所収の歌謡をいくつか扱いたいとも思っていますし、歌物語としてのヤマトタケル神話を扱いたいとも思っています。最初は、なんの気なしに書き始めただけなのですが、いまでは、せめてそこまで書き進めてみたいものだと思うまでになりました。

では、スサノオ・アマテラス神話の続きに入りましょう。イザナキが禊をして、三貴子を生みました。そこでイザナキは、とても喜んでこう言います。「私は、子どもを次々に生んで、最後に三柱の貴い子を生んだ」。それから、首にかけていたネックレスの玉をゆらゆらと触れ合わせてアマテラスに授けながらいいました。「お前は、高天原を『知らせ』」。そのネックレスは、御倉板挙神(みくらたなのかみ)と言います。次にツクヨミには、「お前は、夜之食国(よるのおすくに)を『知らせ』」と申し渡しました。次にスサノオには、「お前は海原を『知らせ』」と言いました。

ここで注目したいのは、『知らす』です。

八木秀次氏の『明治憲法の思想』(PHP新書)によれば、伊藤博文や金子堅太郎とともに明治憲法を制定するうえで中心的な役割を果たした井上毅(こわし)は、日本古典の研究に没頭し、『古事記』に「うしはく」と「知らす」という二つの対照的な統治理念があることに着目しました。井上が注目したのは、上記に引いたところではなくて、オオクニヌシの国譲り神話の次の箇所でした。

汝(な・オオクニヌシのことを指している)がうしはける葦原中国(はしからなかつくに)は、我(あ・アマテラスのこと)が御子(みこ)の知らす国と言依(ことよ)さし賜へり。

井上は、「ウシハク」と「シラス」の違いに注目したのです。では、両者はどう違いのか。先ず「ウシハク」について、井上は次のように言っています(『明治憲法の思想』からの孫引きです)。

ウシハクという詞は本居(宣長)氏の解釈に従えば、すなわち領すということにして欧羅巴人の『オキュパイド』と称え、支那人の富有庵有と称えたる意義と全く同じ。こは一(ひとつ)の土豪の所作にして土地人民を我が私産として取入れたる大国主のしわざを画いたるあるべし。
                        (「古言」『井上毅伝・史料編第五』より)

それに対して、「シラス」についてはどう言っているのか。観念的で晦渋な井上の説明を、八木氏はかみくだいて次のように説明しています。

「ウシハク」の方が支配者が公私を混同して、国土国民を自分の私有財産と考えるというタイプの統治理念であるのに対して、「シラス」のほうは支配者が公私を混同せず、国と家とを明確に区別し、さらに支配者自らの利益のために統治するのではなく、むしろ支配者の方が国民の心を汲み取り、国民の利益を図るべくして行うという統治理念だと言っているのである。

私はここで、井上の字義解釈の是非を問おうとか、あるいは、井上が日本独特の統治概念を打ち出したとナショナリスティックに拳を突き上げようとかしているわけではありません(井上は当時のヨーロッパ事情に精通する西洋型知識人です)。そうではなくて、立憲主義に基づく近代憲法を立ち上げようとするときに、ただひたすらに、欧米列強の憲法をお手本にするだけではなくて、一度は、民族精神の深みに降りて、そこから汲み取れるものは汲み取って、近代憲法に歴史的無意識に裏付けられた精神的な息吹を吹き込もうとする彼の姿勢に、いまの私たちが学ぶべき多くのものがいまにおいてもなお含まれていると申し上げたいだけです。端的に言ってしまうと、いまの私は、そういう姿勢を持とうとしない、あるいは、それを軽んじようとする知識人などは、少なくとも加地伸行氏が言う意味での「君子」=教養人ではありえず、たかだか、彼によって「小人」と読み替えられた知識人にしかすぎない、と思っています。

本文に戻りましょう。アマテラスとツクヨミは、イザナキの言葉に素直に従うのですが、スサノオだけは、そうしようとしません。治めるように言われた夜之食国をほったらかして、泣きわめいてばかりいます。ヒゲもじゃの大男がおいおいと泣き続けている様は、どこかしらユーモラスなところがありますね。スサノオが泣き続けたせいで、青山は枯れ山となり、川や海の水がなくなり、森羅万象がことごとく妖気を発したというのですから、すさまじいばかりです。

そこで、イザナキが問います、「お前はなぜ私が頼んだ国を収めようとせずに、哭いてばかりいるのだ」と。すると、スサノオが答えます、「私は、妣(はは・亡くなった母にこの字を当てる)の国根之堅州国(ねのかたすくに)に行きたいと思い、それで哭いているのです」と。すると、イザナキは大いに怒って「そうならば、お前はこの国に住んではいけない」と申し渡して、スサノオを放逐してしまいました。

ここで気になるのは、根之堅州国はどこにあるのか、ということです。一般的な注釈書には、「根は地下のイメージ。堅洲は東北方の地=死者世界。黄泉の国」とか「根の国は『底の国』の国ともいうとおり、地の底にあるとされた下界」とか、あるいは「地底の片隅の地の意か」といった記載が見られます。つまり、黄泉の国=死後の世界=根の国=根の堅洲国、という解釈がどうやら一般的なようです。そうして、それが編者・執筆者である太安万侶の意図した解釈でもあるのでしょう。

しかし私は、当論考(その4)で、そういった一般論や安万侶の意図に反して、黄泉の国=死後の世界は山にあるとしたほうが、『古事記』のそのほかの記載内容との矛盾のない解釈である、という意味のことを申し上げました。これを是とするならば、原文のなかで妣の国根之堅州国と併記されていて、「妣」が死んだ母を意味するのですから、根之堅州国=死後の世界とするほかありません。つまり、根之堅州国もまた地下などにはなくて、日本人の伝統的な死生観を踏まえるならば、山にあるとする方が妥当である、となるでしょう。しかし、山にこだわりすぎることにも注意する必要があるようです。ここで、たびたびご登場願っている西條勉氏にふたたびご登場願いましょう。

根の国はもともと、海上彼方の理想郷を指した。沖縄には「ニライカナイ」ということばが今でもあり、水平線の彼方にあると信じられている理想世界のことを指す。「根」は、沖縄のことばで「ニール」とか「ニーラ」という。ものごとの根源という意味である。それがスサノオのいう亡母の国だった。ところが、古事記では「根の堅洲国」となっている。「堅洲国」が文字通りに、堅い中洲と見るのは形容矛盾だ。川の中洲はほどよく柔らかい。ここは、あえてイメージを結ばない文字遣いを選んで、根の国が、片隅の国であることを隠そうとしたふしがある。根の国は、もともと、根源の国として世界の中心を占めていた。それが、本来のかたちがそこなわれ、隅っこに追いやられた片隅の国になっている。                
                      (『「古事記」神話の謎を解く』中公新書)

つまり、根の国は、死後の世界ではなくて、水平線の彼方にあると信じられている理想世界のことを指しているというのです。その場合は、妣の国=死んだ母の国=死後の世界、と狭く解釈するのではなくて、妣を母霊とすると、ユングの太母(グレート・マザー)のイメージが浮びあがってきて、西條説がけっこうすんなりと入ってくることになります。太母の坐す根の国が根源の国であるというのは、理解のし易いイメージですからね。

いずれにしても、『古事記』の世界を、高天の原‐地上の葦原の中つ国‐地下の黄泉の国という垂直構造として構築しようとした太安万侶の目論見は、伝統的な死生観によって強度の歪みを蒙っているというよりほかはありません。

故西郷信綱氏は、『古事記』の世界観を壮大なコスモロジーとしてとらえ、次のように述べています。

中心としての聖所は、大和王権の政治的発展、天たかき高天の原の形成とともに分化し、さらに東に進み、日出ずる海にじかに接した伊勢の地にあらたな定着をとげるに至るわけで、伊勢神宮の位置が香具山のほぼま東にあたるのは、この宇宙軸の意味するところを考えにいれなければ解けないだろう。(中略)出雲が雲にとざされた、日の没する西の果てなる国であるのにたいし、伊勢は東の海からじきじきに日ののぼるウマシ国であった。前者が暗の死者の国に接しているとすれば、後者の接するのは陽としての高天の原であった。                                 (『古事記の世界』岩波新書)

柳田国男などのように、日本人の伝統的死生観という観点からではありませんが、『古事記』の生死をめぐっての世界観が、垂直的なイメージというよりも、むしろ、壮大なコスモロジーとして、東‐西という太陽の出没を中心とする方向感覚に、生死の観念を重ね合わせた水平方向のイメージの色濃いものであったことが語られているのではないでしょうか。

スサノオを葦原の中つ国から放逐したイザナキは、「淡海の多賀に坐(いま)す」という記載があります。「淡海の多賀」は、滋賀県犬上郡多賀町の多賀神社の地とされているようです。多賀神社では、イザナキ・イザナミの二柱の神を祀っているとの由です。
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『古事記』に登場する神々について(その5) スサノオ・アマテラス神話①

2014年03月23日 06時49分23秒 | 歴史
『古事記』に登場する神々について(その5) スサノオ・アマテラス神話①

今回から、スサノオ・アマテラス神話について述べようと思います。

同神話は、『古事記』のなかでいちばん人口に膾炙しているのではないかと思われます。もっとも、「天照大御神」を「てんてるだいじん」と読んだ若者がいる、などということが、現代の若者の無知ぶりを物語る逸話として話題になったこともある(けっこう古いネタです)くらいですから、現在どこまでそうなのかこころもとない気もしないわけではありません。

『古事記』の本文に入りましょう。

追いすがるイザナミを振り切り、やっとのことで黄泉国から戻ってきたイザナキは、「私はいやというほど醜悪な、醜いきたない国に行ってきてしまった」と言って、身を清めるために禊祓(みそぎはらえ)を執り行います。

イザナキは、黄泉国のことを「いなしこめしこめ穢き国」と吐き捨てるように言っています。露骨な嫌悪感の表出です。離別したとはいえ、かつては心から愛したイザナミが黄泉津大神として君臨する国を、そこまで罵倒することはないではないかと、思わないわけではありませんが、そこが神様と人間の違うところ。神話に対して下手に感情移入をすることはことの本質を見誤る愚挙である、とはよく言われることです。イザナキは、生死の別を立てることでこの世は成り立っている、という世界観を決然として打ち立てたのですから、黄泉国をケレン味なく嫌悪し忌み嫌ってもまったく問題はないのです。

禊祓については、こういう記載があります。

古代の重要な宗教的儀礼であった禊は、海に向かって水の流れる河口で行われたり、また川原でも行われたが、要するに水の浄化力によって、罪・穢・禍など、いっさいの災禍を洗い清めるための呪儀である。
             (次田真幸『古事記(上)全訳注』・講談社学術文庫)

『古事記』が書かれるずっと前から、禊の儀式はあったようですね。どうやら、もともとは海人集団の宗教的儀礼のようです。『古事記』と海、というのはひとつの大きなテーマになりそうです。

イザナキは、「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)」(宮崎県宮崎市に阿波岐原が実在しますが、未詳もしくは架空の地名とされているようです)で禊を執り行ったときに、またもやたくさんの神々を生みます。列挙することをお許しください。神々の名の意味や由来が気になってしかたがないのです。

まずは、身につけていた着物を脱ぐことによって十二柱の神が生まれます。

・衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)
イザナキが投げ捨てた杖から生まれた神。「ふなと」は入口を越えて来るなの意の「くなと」が転じたもの。分かれ道に立つ道祖神です。イザナ キはイザナミに「そこからこちらへは来るな」と申し渡したのでした。
・道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)
 投げ捨てた帯から生まれた神。「道之長乳歯」長い道行きの末の意。「ながち」は「ながて」の音転。福永武彦氏は、道中の安全を守る神としています。
・時量師神(ときはかしのかみ)
 投げ捨てた御囊(みふくろ)から生まれた神。時間を掌る神などとされていますが、ここで突然抽象的になるのはちょっと変な感じがします。福永武彦氏は、神の名そのものを「時置師神」(ときおかしのかみ)と大胆に読み替え、「解き置く」の意味に解しています。そのために、御囊を裳(も・腰から下に着る女性の衣服)としています。かなり強引なことをしていますが、これで、突然抽象的になるという難を避けています。なかなかむずかしいですね。
・和豆良比能宇斯神(わづらひのうしのかみ)
 投げ捨てた御衣(みけし・着るの尊敬語「けす」の名詞形)から生まれた神。
 「うし」は主(ぬし)で、支配する者の意。厄介なもの、煩いの神。福永武彦は、「煩いからまぬがれた」の意に解しています。こちらが素直な解釈ですね。
・道俣神(ちまたのかみ)
 投げ捨てた袴(はかま)から生まれた神。道の分岐点にいる神。これも道祖神系ですね。
・飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)
 投げ捨てた冠から生まれた神。諸説あるようです。蛇のイメージというのが妥当なところでしょうか。
・奥疎神(おきざかるのかみ)
 投げ捨てた左の手の手纏(たまき・手にまく飾り、あるいは武具)から生まれた神。奥=沖、疎=遠ざかるの意。
・奥津那芸佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)
 同上。「那芸佐」=渚で禊の儀式を行う場所。
・奥津甲斐弁羅神(おきつかひべらのかみ)
 同上。沖と渚の間を掌る神という解釈があります。「かひべら」は語義未詳、というのが本当のところのようです。
・辺疎神(へざかるのかみ)
 投げ捨てた右の手の手纏から生まれた神。辺は海辺で、沖に対する言葉。
・辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)
 同上。辺=海辺、那芸佐=渚。
・辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ)
 同上。辺=海辺。

意味のよく分からない神々がたくさん登場しましたが、水や海と深くつながっていることがわかればとりあえずよしとしましょう。

次にイザナキは、「上流は流れが速いし、下流は流れがおそい」と言って、中流に身を沈めて、身体を清めます。そのときに、またもやたくさんの神が生まれます。

・八十禍津日神(やそまがつひのかみ)
 「八十」は「たくさんの」の意。「禍津日」は「災禍を起こす神霊」の意。
・大禍津日神(おほまがつひのかみ)
 「禍」(まが)は「曲」(まが)と同様に「直」(なほ)の反対語。

本文に、「この二柱の神は、イザナキノミコトが穢れに満ちた黄泉国に行ったときの汚垢(けがれ)によって生まれた」とちゃんと説明がなされています。おそらくここが欧米社会の神概念といちじるしく隔たったところではないかと思われます。欧米社会からすれば、穢を神格化するなどとんでもないことであって、それは、悪魔か、土着的なタチの悪い妖精にほかならない、ということになるでしょう。日本人の神概念は、神に対する冒涜であるとさえ考えるかもしれません。欧米社会のGODを「神」と訳すのは、多くの誤解を招くモトなのかもしれませんね。今後日本人は、自分たちの神概念もしくは神感覚を、欧米社会に向けて、彼らが誤解をしない形で説明することができるようにならなければならなくなるような気がします。それができなければ、彼らから心からの尊敬を勝ち得ることはないでしょう。クール・ジャパンなどと浮かれていないで、そういうことをもっと真面目に考えるべきではないでしょうか。そういうことの実現こそが、ソフト・パワーなるものの基礎になるはずです。かなり脱線してしまいました。

いま登場した二神の「禍」を元の状態にするために次の三柱の神が登場します。

・神直毘神(かむなほびのかみ)
・大直毘神(おほなほびのかみ)

毘(び)は神霊の意です。なお、その次に、伊豆能売(いづのめ)が登場しますが、これは、わざわいの神とわざわいを直す神との間に立つ巫女のようです。だから、「神」の字がないのでしょう。しかし、『古事記』ではちゃんと神としてカウントしていますから、それに従いましょう。

次にイザナキが水底で身体を清めたとき、二柱の神が生まれます。「綿」は仮訓字で海の意。「箇」は「筒」に通じ、最初の「つ」は助詞の「の」、次の「つ」は津=港の意だそうです。

・底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
・底箇之男命(そこつつのをのみこと)

次に水の中ほどで洗い清めたとき、二柱の神が生まれます。

・中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
・中箇之男命(なかつつのをのみこと)

次に水の上のあたりで洗い清めたとき、二柱の神が生まれます。

・上津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
・上箇之男命(うはつつのをのみこと)

ここで、上記の「綿津見神」は安曇系の神で、「箇之男命」は住吉系の神であると、『古事記』の編者兼執筆者(太安万侶)は断り書きを入れています。太安万侶がなにゆえ海の神に関して安曇系と住吉系とを併記したのか、インターネットで調べてみたら、いろいろと議論があるようですが、いまの私には歯が立ちません。勘で言ってしまえば、そこには複雑な政治的配慮があったような気がします。こういうことに深く首を突っ込むと、いわゆる「古代史オタク」になってしまうのでしょうが、とりあえずは、古代史の謎のひとつとしておきましょう。

さて、いよいよ「三貴子」を生む有名なシーンが登場します。原文の訓読み文を引きましょう。

是に左の御目(みめ)を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月読命(つくよみのみこと)。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)。

イザナキは、黄泉の国で被ってしまった穢れをすっかりと洗い清め、大海原の清々しい潮風が吹き寄せてくる胸のすくような状態で、「三貴子」を生んだのですね。

このシーンに関して注をいくつか引いておきましょう。

天照大御神 天高く照り給う大御神の意で、太陽神としての面と、皇祖神としての面とがある。女神とされているのは、この神が巫女神の性格をも有するからであろう。

月読命 「月読」は月齢を数えるの意。月の神。


建速須佐之男命 「建速」は勇猛迅速の意で、この神の荒々しい性格を表わす称辞。「須佐」は、元来出雲国(島根県)飯石郡の地名で、この神は本来、出雲地方で祖神として信仰されていた神である。
        (以上、次田真幸『古事記(上)全訳注』講談社学術文庫)

スサノオが、「本来、出雲地方で祖神として信仰されていた神である」という指摘との関わりで、次田氏は、次のような重要な指摘をしています。

スサノオノ命が天照大御神と姉弟の関係で結ばれているのは、注目すべき点である。日神と月神が、天父神の左右の目から生まれたとする神話は、日本神話以外にも例があるが、鼻からスサオノ命が生まれたとするのは異例である。スサオノ命は、元来出雲神話の祖神であって、皇室神話の祖神である天照大御神との間には、血縁的関係はなかったはずである。それが共にイザナキノ命の子として結合されたのは、皇室神話と出雲系神話とを統合するために採られた方法であったと思われる。

皇室を筆頭とする当時の国家意思を体現した太安万侶(ら)が、異なる神話をつなぎ目がわからないようにつなごうとした手元に強い光が当てられています。こういうところで、編者・太安万侶の姿が躍如として鮮やかにあぶりだされますね。
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