goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

日本軍の失敗から私たちが学べること(その5) 沖縄戦② 集団自決と大東亜戦争の義(2)結語

2014年07月15日 17時59分08秒 | 歴史
*ブログ主人より:同日に、(その4)と(その5)を連続アップしました。もしも(その4)をお読みでなければ、まずはそちらからお読みいただければ幸いです。→(その4)http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/8254988c34d9b3def33e9ba402acf69d



沖縄タイムス社の『鉄の暴風』や大江健三郎氏の『沖縄ノート』が主張する軍の命令説に対して、曽野氏が深い疑問を抱くに至った理由を以下に列挙します。なお、一九七三年に文芸春秋から出版された『ある神話の背景』は、一九九二年にPHP研究所からPHP文庫として出版されました。それが、二〇〇六年にWACからタイトルを『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』と変えて出版し直されました。私が読んだのは、それです。

〔1〕軍の命令説の原典にして原点でもある『鉄の暴風』は、沖縄タイムス社によって、やっと捕らえられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で固定された。

昭和二五年当時、政府に勤めていた太田良博氏は、沖縄タイムス理事・豊平良顕(りょうけん)氏から、『鉄の暴風』の企画出版の手伝いを乞われました。当時は、渡嘉敷島に渡るのも一苦労で、漁船さえまともにない状態でしたから、太田氏は、島から二人の証言者に来てもらいました。そのうちの一人は、当時の助役でありその後沖縄テレビ社長になった山城安次郎氏。もう一人は、南方から復員して島に帰ってきていた宮平栄治氏。宮平氏は事件当時南方にいました。山城氏が目撃したのは、渡嘉敷島ではなくてとなりの座間味島の集団自殺でした。もちろん、二人ともに渡嘉敷島の話はほかの人から詳しく聞いていましたが、直接の体験者や目撃者ではありませんでした。本書から興味深い箇所を引きましょう。

太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。太田氏によれば、この戦記は、当時の空気を反映しているという。当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその盡、記録することもまた、筆者としての当然の義務であったと思われる。

『鉄の暴風』の企画執筆の担当者がみずから、日本軍を絶対悪として描き出すフィクションの創作に加担したことを事実上認めてしまっているのは注目に値します。

〔2〕事件当時渡嘉敷村の村長で集団自決の現場にいた古波蔵惟好氏によれば、彼が軍から集団自決の命令を直接受けることはありえず、軍からのあらゆる命令は、当時の駐在巡査の安里喜順氏を通じて受け取ることになっていた。だから、赤松隊長から自決命令が出されたかどうかをいちばんはっきりと知っているのは、安里氏であるということになる。それで曽野氏は、安里氏に直接会って確認してみたところ、彼の口から軍の命令があったという話は出てこなかった。

出てこなかったどころか、それとは正反対の事実を示唆するような話が飛び出してきました。それを次に引きましょう。なお、安里氏が渡嘉敷島に来て赤松隊長とはじめて会ったのは、集団自決の日だったそうです。

(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、又、捕虜になる可能性はありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。

安里氏の話しぶりからは、極限状況において、自らの死の覚悟を決めた上で、なおも戦闘員と非戦闘員との区別をきちんとするだけの正常な判断力を残している赤松隊長の姿が浮かび上がります。ただし古波蔵元村長が、「そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいた」と発言していることは記しておきます。しかしそれは、赤松隊長から直接伝えられたものでないことは彼自身が言っていることなので、信憑性の点で、安里氏に軍配が上がることはいうまでもないでしょう。

〔3〕曽野氏と取材時の渡嘉敷村の村長の玉井氏と事件当時若い娘であり若い主婦であった四人の女性とのざっくばらんな会話のなかで、軍の命令の話がまったくでてこないこと。

軍の命令説との関連で核心部分と思われる会話は次の箇所です。

曽野「私、本島のほうで、最後の時の話を伺うと誰か一人、わりとはっきりと《死のう》と言っている人がいるというんですよ」
B「あのね、みんな家族のうちで、家庭内のうちで誰かが・・・・・」
玉井「それを一番最初にやったのは・・・・・」
皆「(くちぐちに)わからんよ」
A「軍から命令しないうちに、家族、家族のただ話し合い」
B「海ゆかば、うたい出して」
C「芝居みるように人を殺したですね、天皇陛下万歳も」
玉井「そのとき、天皇陛下万歳という音頭は、誰がとったの?」
B「わからん、だれかがとったいね。あんとき、あれ《日本魂》だもの」


〔4〕旧厚生省援護局調査課沖縄班によれば、戦傷病者戦没者遺族等援護法ができたのは昭和二七年で、渡嘉敷の場合は軍の要請で気の毒にも戦闘に参加したということで、島民全員が準軍属とみなされ、戦闘中の死亡は、非戦闘員でも戦死とみなされた。そこで、渡嘉敷をめぐる周囲の空気が「軍命令による玉砕」を主張することは、遺族年金を得るために必要であり、自然であり、賢明でもあった、といえること。

軍命令説賛成派からすれば、赤松部隊の生き残り組の発言を取り上げるのは、泥棒の釈明を聞いてやるようなものだと言われてしまいそうですが、ここは、大江健三郎氏が全否定してみせた、赤松隊長の人間性に関わる大切なところなので、取り上げることにします。

この点に関しては、もと赤松部隊の連下政一氏と谷本小次郎氏からの回答があった。
「軍が命令を出していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけない、と思ったからです。我々が口をつぐんでいた理由はたった一つそれだけです」
厚生省の話によると、一旦調査が決定したものは再びその資格を剥奪されることはない、というから、今やその点も伏せておく必要は全くなくなったのである。


赤松部隊は、戦後においても、赤松隊長を中心とする強い絆で結ばれています。赤松隊長の一声で、全国に散らばっている元隊員たちが、万難を排して集結するのですから。それゆえ、もしも連下氏と谷本氏の回答が事実であるのならば、そこには、赤松隊長の強い意向が反映されていると見るほかないと思われます。つまり赤松隊長は、渡嘉敷島の集団自決に対して痛切に責任を感じ続けている、と。なぜなら、軍命令であることを甘受して、世間の冷眼視を背中に感じ続ける茨の人生を甘受することと引き換えに、集団自決によって亡くなった島民の遺族に年金がきちっと行き渡るようにするという振る舞いの動機は、赤松隊長の強い責任意識に求めるよりほかはないと思われるからです。大江健三郎氏が、妄想を逞しくして描き出そうとした「極悪人赤松」とは、かけ離れた人間像が、そこから浮びあがってきます。私には、それこそがまともな文学者が抱く赤松隊長のイメージなのではないかと感じられて仕方がありません。大江氏の赤松像は、修羅場をくぐり抜けた現場の指導者のそれとして、あまりにも幼稚な感じがします。彼が思っているほどに、世間の人々は単純ではないのです。私は、赤松部隊の元隊員たちの詐術に引っかかっているのでしょうか。どうも、そうではないような気がします。その傍証をひとつだけ挙げておきます。

巻末の解説で、石川水穂氏(産経新聞論説委員)は、次のように述べています。

同島(渡嘉敷島のとなりの座間味島のことを指している――引用者注)を守備していた日本軍は、梅沢裕少佐が率いる海上挺身隊第一戦隊だ。沖縄タイムス社の『鉄の暴風』はこう書いていた。

「米軍上陸の前日(昭和二十年三月二十五日)、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた」「村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である」「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」

だが、座間味島の集団自決から三十二年後の命日(三十三回忌)にあたる昭和五十二年三月二十六日、生き残った元女子青年団員は娘に「梅沢隊長の自決命令はなかった」と告白した。梅沢少佐のもとに玉砕のための弾薬をもらいにいったが帰されたことや、遺族が援護法に基づく年金を受け取れるように事実と違う証言をしたことも打ち明けた。

また、昭和六十二年三月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し、「集団自決は兄の命令で行われた。私は遺族年金のため、やむを得ず、隊長命令として(旧厚生省に)申請した」と証言した。

これらの事実は神戸新聞が取材し、昭和六十年七月三十日付、六十一年六月六日付、六十二年四月十八日付で伝えている。


年金の話が出ていますね。集団自決において軍命令があったとされていることやとなりの島であることや同じ日に米軍が上陸してきたことや海上挺進隊が出発をひかえていたことなど、渡嘉敷島と座間味島には、類似点が多い。だから、座間味島における年金事情と同じような事情が渡嘉敷島にもあったと考えるのが自然でしょう。ましてや、座間味島の事情が明るみに出るはるか前に赤松隊員の口から年金の話が洩れていたのですから、彼らが神戸新聞を読んであわててそれを猿真似した可能性はゼロです。

赤松部隊の元隊員たちの証言のなかで、無視し難い重要なものが、ほかにひとつあります。それは、赤松部隊には『鉄の暴風』が強調した「安全な地下壕」などなかったということです。『鉄の暴風』によれば、その地下壕のなかで将校会議が開かれ、赤松隊長は、「事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」と言って、渡嘉敷島の住民の集団自決を示唆しました。同書には、「これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と書き添えられています。曽野氏は、昭和四六年七月十一日、知念元少尉に会い、次のような会話を交わしています。

「地下壕はございましたか?」
私は質問した。
「ないですよ、ありません」
知念氏はきっぱりと否定した。
「この本の中に出て来るような将校会議というのはありませんか」
「いやあ、ぜんぜんしていません。只、配備のための将校会議というのはありました。一中隊どへ行け、二中隊どこへ行けという式のね。全部稜線に配置しておりましたんでね」


私たちは、「安全な地下壕」が、渡嘉敷島の現地日本軍をなるべく貶めて描き出すためのフィクテシャスな舞台装置であったことが、白日の下に晒された瞬間を目撃したことになります。

そのほか、『鉄の暴風』が執拗に暴き立てた赤松隊長の悪行三昧の数々について、曽野氏は、ひとつひとつ丁寧に取り上げて検証しているのですが、いまはその詳細について触れるのは控えます。事実は、『鉄の暴風』が主張したがっているほどに単純ではない、とだけ申し上げておきます。

軍命令説の是非について長々と論じてきましたが、このあたりでやめておきます。その説は、限りなく疑わしいことが判明しただけで、私としてはよしとします。左翼リベラル派は、「広義の強制性」などという言葉を持ち出して、いつかどこかで聞いたような議論の仕切り直しをしたがっているようですが、それはこの際、どうでもいいことです。彼らは日本が滅びるその日まで、そういうことを言い続けるのでしょう。

大本営が「国民総玉砕」「本土決戦」などと嘯くことで、我知らず手放そうとした大東亜戦争の義を、住民の集団自決が頻発するような極限状況において、沖縄戦を戦う現場の隊長クラスは、放り出すようなバカなマネはしなかった可能性が高いことを、とりあえず確認しました。しかし、私が言いたいのは、実はそういうことにとどまりません。

沖縄戦における島民の「献身的な」というレベルを超えた命がけの軍への協力ぶりを、言いかえれば、不可避的に集団自決にまで自分たちを追い込むほどの協力ぶりを、いまに生きる私たちがどう受けとめたらよいのか、という問題について、わずかながらでもいいから、触れてみたいのです。おそらく、そのことに対してきちんとした言葉を発することができなければ、戦後レジームからの脱却もなにもあったものではないのだろうと、私はぼんやりとではありますが感じています。

曽野氏も、同書でそのことをめぐってあれこれと考えています。そのなかで、氏によって引用されたある文章が、私にはもっとも鮮やかな印象を残しています。曽野氏によれば、それは新里恵二、喜久里峰夫、石川明の三氏によって『歴史評論』昭和二十二年一月号に書かれたものです。氏は、それを「昭和二十年の空気を最もよくあらわした文章」と評しています。孫引きしましょう。

「私たちは、ここで(戦場へ)かりだされたと書いておきました。それは事がらの本質においてそのとおりでした。然し、私達はこみあげてくる悲憤をおさえつつ、次のように書きとめておかねばならないと思います。これらの行為は、その殆どが、特に青年層の場合には百%までが『自発的な意志』に基づいてなされていた、と。軍隊の中でも、沖縄出身の初年兵は、『斬込み』の先頭に立っていました。『護郷』『郷土防衛』、それが当時、帝国主義戦争の本質に関する知識は欠きながらも、自らの生まれ育った地を荒らす兇暴な戦争に抗議するために、沖縄県民がとりえた唯一つの態度だったのです。この合言葉の下に、多くの若い生命が惜しげもなく捨てられ、有為の人々がむざむざと非命に斃れてゆきました。・・・・・歴史の上で常に異民族ででもあるかのように扱われ『忠君愛国の志乏しき』ことを、ことごとにあげつらわれ、一種の劣等感、民族意識における特殊のコンプレックスをすら抱かされていた沖縄青少年にとって、『醜(しこ)の御楯(みたて)』たることに疑問を持つのは道徳に反することでした。沖縄戦は『吾々もまた帝国の忠良たる臣民である』ことを、身をもってあかしする格好の機会とすら考えられたのです」

今日から振り返れば、「帝国主義戦争の本質に関する知識は欠きながらも」の箇所は、敗戦直後という、左翼全盛期の痕跡として受けとめるのが妥当で、カッコに入れて読む方がよいでしょう。その手続きを経たうえでのことではありますが、これらの言葉は沖縄戦の最中の沖縄県民の心を忌憚なく吐露したものとして私たちの胸に迫ってきます。また、これらは、児島襄氏『太平洋戦争』の「沖縄戦の最後に勇戦したのは、本来の兵士を除けば、鉄血勤皇隊の少年たちだった」という言葉と符合しますし、「沖縄県民五七万人のうち、約一〇万人は島外に疎開し、老幼者の一部は北部に避難したが、大半の約三〇万人は南部に残り、多くは陣地構築、補給作業に従事した」というくだりにおける県民の秘められた心を明らかにしてもくれるような気がします。先に私が離島コンプレクスという言葉で舌っ足らずながらも言おうとしたのは、要するにそういうことだったのです。

ここで私の脳裏に、次の文章がおのずと浮かんできます。それは、一九四五年六月十三日に拳銃で自決した、海軍・沖縄方面根拠地隊司令官大田実少将が、その七日前の六月六日に、海軍次官に宛てた電文です。知っていらっしゃる方も少なくないのではないでしょうか。

沖縄県民斯(か)く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、三二軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。

 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。


私が、この電文にはじめて接したのは、いまから十七年前、沖縄那覇市南部の小禄にある海軍壕においてでした。そのとき私は、一種名状し難い感情に襲われて、それをどういう言葉で表したらいいのか、皆目見当がつきませんでした。すっかり混乱してしまったのです。一語一語をかみしめるようにして読み進めると、おのずと熱いものがこみ上げてくるのです。大田少将自身、死の覚悟を決めたうえで、これだけは書き留めて残しておかなければ、死ぬに死ねないという、やむにやまれぬ切迫感に突き動かされて、これを書いているのではないかと思われます。

大田少将は、沖縄県民が日米軍の熾烈な戦いによって被っている、筆舌に尽くしがたい惨状を訴えているのでしょうか。「風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり」「一木一草焦土と化せん」とあるとおり、それを訴えているのも間違いないでしょう。しかし大田少将は、沖縄県民を戦争の被害者としてのみ描いているわけではありません。それらすべてを無言で引き受けて、命を供するようにして、それぞれの立場で沖縄戦を戦い抜く県民の姿に、太田少将は、畏敬の念すら覚えて、これを書き記したのではないでしょうか。「沖縄県民斯く戦えり」という一文には、少将の万感の思いが込められている。そう感じられます。死に臨み、太田少将は、あらためて県民の″『吾々もまた帝国の忠良たる臣民である』ことを、身をもってあかしする″という思いの深さと大きさに触れて、絶句する思いを味わったのではないかと思います。「沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき」という書き出しの文には、いままでそのことにはっきりと気づかずにまことにかたじけないという少将の思いがおのずとにじみだしています。

「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」という言葉は、直接的には当時の海軍次官に向けられていますが、実は私たち本土の心ある人間すべてに向けられていると考えるよりほかにない、といまでは考えています。慌てて先回りしておきますが、私は、これを機に不戦の誓いを新たにしたいなどという寝ぼけた綺麗事を言いたがっているわけではありません。

ここからは、端的に、本土決戦を覚悟していたが結局は戦わなかった「やまとんちゅ」の末裔として話します。

沖縄県民は、本土の人々が潜在的に覚悟していた本土決戦を、沖縄の地で本当に戦い切ってしまったのです。そこには当然、集団自決をした人々も含まれます。親から頭を痛打されて絶命した赤ん坊も含まれます。そうして、沖縄県民に「一種の劣等感、民族意識における特殊のコンプレックス」があり、彼らが「沖縄戦は『吾々もまた帝国の忠良たる臣民である』ことを、身をもってあかしする格好の機会」と考えて戦い切ったのだとしても、彼らが「戦い切った」事実それ自体には、いささかの瑕疵も生じません。人間は、常に時代に制約された不完全な存在として、あることを成し遂げるのです。

では沖縄県民が、本土の人々が潜在的に覚悟していた本土決戦を、沖縄の地で本当に戦い切ってしまったことの意味とはいったい何なのでしょうか。それをうまく言い当てるには、大東亜戦争の本質について押さえておく必要があります。

私見によれば、大東亜戦争には、ざっくりと言ってしまえば、大きくふたつの意味があります。ひとつは、身も蓋もないパワー・ポリティクスとしての国際政治の、極限状況における姿としての近代戦争という意味です。これは、要するに強いほうが勝つというドラスティックな世界であって、時の政府と軍首脳が戦略的思考のありったけを振り絞って敵国に臨むべき世界です。この面で、日本が英米との戦いにおいてボロ負けの惨状を呈するに至ったことは、当論考の「その1」から「その3」までで、しつこいほどに申し上げました。

国際政治学者・高坂正堯氏が述べる、国家の三つの体系に即すならば、以上は、おもに「力の体系」と「利益の体系」に関わる領域であると一応言うことができるのではないでしょうか。

大東亜戦争には、もうひとつ、欧米と日本という歴史的にまったく異なるふたつの価値の体系の、避けようにもどうにも避け得なかった衝突、思想戦としての文明の衝突という意味があります。この戦いは、たかだか時の権力を手中にしたに過ぎない一政府によって担い切れるものではありません。心ある国民が民族の記憶のすべてを動員して担うよりほかにないものです。つまり、この戦いの主体は、共同体の良き伝統・慣習を体現した総体としての国民なのです。戦争において、時の権力者は、この「価値の体系」に関してあくまでも謙虚かつ禁欲的でなければなりません。それゆえ、″自分たちは、あくまでも、「力の体系」と「利益の体系」に関する責任を全うするに過ぎない″という自覚こそが、ノーブレス・オブリージュの根拠なのです。そこを踏み外すと、権力者は、醜くて情けない姿を晒すことになります。その典型例として、私は、大本営がサイパン島陥落の衝撃によって呆然自失状態になり、「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」などと口走って、自分たちの失敗を国民の命を弄ぶことでカモフラージュしようとした事実を挙げました。だから、時の権力者にとって、戦争の義とはどこまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりにおいて存すると考えるべきなのです。それは、繰り返しになりますが、国家の「価値の体系」の側面に関して、時の権力者はあくまでも脇役に徹し、主役は、良き伝統や慣習それ自体であることを肝に銘じなければならない、ということでもあります。これは、″国家権力なるものは、国民道徳や道徳教育に容喙することにあくまでも慎重であるべきだ″という見解につながっていきます。むろん私は、そうあるべきだと考えています(このことがきちんと理解できない政治家や思想家を、私はあまり高く評価できません)。

以上のことから、戦争には、それにふたつの意味が存することに対応して、もうひとつの義があることに私たちは気づかされます。共同体の良き伝統・慣習を体現した総体としての国民が戦いの主体となる、思想戦としての文明の衝突において、無辜の一般国民の生命を守ることがすなわち戦争の義とは言い切れなくなるのです。この戦いにおいて、義を守る主体が、時の権力者から総体としての国民に移るのですから、そういうよりほかはありません。端的に言えば、この意味での戦争においては、国民がみずから自発的に命を賭けてでも戦い抜くことによって義を守る局面が存する可能性を排除できないのです。そうして、その局面が表面化し顕在化してきたのが、サイパン陥落を機に、軍首脳の戦略的思考の欠如に起因する総体としての戦争の失敗が誰の目にも明らかになってきた大東亜戦争末期なのでした。この場合、命を賭しても主体的に戦い抜くことそれ自体が、戦いの義そのものの様相を帯びることになります。なぜなら、共同体が長い時間をかけて培ってきた良き伝統・慣習なるものは、結局のところ言葉に表し得ないものとして存在するからです。

心ある国民は、そういう深刻な事態の現出を暗黙のうちに感じ取っていました。児島襄氏が『太平洋戦争』に、敗戦の色が濃厚になってきた状況下で「国民の多くは、一方で″諦観自棄″の風を生みながらも、最後の戦いの覚悟は捨てていなかった」と書き記しているのには、そういう意味があるのではないかと思われます。また、吉本隆明氏や桶谷秀昭氏が、必敗の悲惨な状況下でまったくひるまなかったのは、"自分は本土決戦で死ぬ"という覚悟が定まっていたからである、という意味のことを言っているのも、そのことと大いに関わりがあると、私は考えます。

長谷川三千子氏は、『神やぶれたまはず』に、吉本隆明氏の次の言葉を書き記しています。

戦後すぐに、児玉誉士夫と宮本顕治と鈴木茂三郎が大学に来て、勝手なことを講演して帰っていったことがあるんです。なかで、もっとも感心したのは児玉誉士夫の話で、米軍が日本に侵攻してきた時に日本人はみんな死んでいて焦土にひゅうひゅうと風が吹き渡っているのを見たら連中はどう思っただろう(笑)、と発言して、ああいいことを言うなと僕は感心して聞きました。

吉本氏はここで、自分を含めた日本国民が、思想戦としての大東亜戦争を戦い切った後の荒涼としていて底知れぬ迫力に満ちたイメージを、戦後においても心の奥底に存する、実現できなかったみずからの秘められた願望をそこに重ね合わせながら素直に語っています(こういう無類の率直さが、思想家・吉本氏の掛け値なしの美質です)。

ところが天皇の決断によって、日本国民は、本土決戦を目の前にしながらそれを戦う機会を永遠に失うことになりました。私は、そういう決断をした天皇を決して非難しようとは思いません。「おおみたから」としての国民を守るためのやむを得ざる現実的な決断であったと思っています。しかし、それが日本国民にとってきわめて大きな精神史的事件をもたらしたこともまた、確かなのです。つまり、そのことによって、国民の心のど真ん中にポッカリと虚ろな穴が空き、戦前と戦後がうまくつながらなくなってしまったのです。それが、敗戦トラウマの核心を成すものです。GHQのウォー・ギルド・インフォメーション・プログラムによって、それが強化されたことは確かですが、そういう洗脳政策を受け入れる精神状態があらかじめ十分に存在したことも確かなのです。

本土の人々は、精神的な空白状態と戦後のどさくさによって我を忘れ、沖縄の存在をすっかり忘れてしまったのです。それと同時に、沖縄県民が、あの小さな島で民族精神としての本土決戦を戦い抜くことによって、図らずも思想戦としての大東亜戦争の義を命がけで守り抜くことになったこともすっかり忘れてしまったのです。

本土の人々の情けないほどの健忘症によって精神的な孤立を余儀なくされた沖縄は、戦後、左翼勢力の巣窟となり、彼らの被害者史観が猖獗を極めることになります。大田実少将が訴えた沖縄県民の悲惨にして崇高な戦いぶりは、県民に寄り添ったふりをする連中によって、見事に泥塗られ貶められてしまったのです。

また、精神的な空白を抱えた本土では、その間隙を突くことで、いわゆる自虐史観が大手を振ってまかり通り、相も変わらず時代の支配思想で有り続けています。決定的な場面で義を貫けなかったという集合的記憶が、そういう病んだ歴史観を呼び寄せたのでしょう。つまり、敗戦トラウマを仲立ちにして、沖縄の被害者史観と本土の自虐史観とは、合わせ鏡の関係にあるのです。大江健三郎氏などは、そういう悲惨で病んだ精神状況にどっかりと胡座をかいて、ちょっと深刻ぶった表情をしてみせるだけで、けっこう大した力を発揮できたりしてしまうわけです。戦後民主主義とは、要するにそういうものです。

結論です。私を含めた本土の人々が、敗戦トラウマや自虐史観から脱却し、新たな歴史観を力強く未知の地平に切り開いてゆくには、沖縄県民が、あの小さな島でかつて思想戦としての大東亜戦争の義を命がけで守り抜いたという精神史的な、ある意味で神学的な事実を、一度は無条件に、素直に、全面的に、身体の隅々に行き渡るまで受け入れることが必須となります。これが、大田実少将が本土の人々に送ったメッセージに、いまの私が応えうるもののすべてであります。それは同時に、沖縄の人々が、病んだ被害者史観から脱却し精神的に自由になる道筋でもあることは言うまでもありません。なぜ、「ある意味で神学的」なのか。端的に申し上げましょう。沖縄戦における沖縄県民は、『旧約聖書』の「イサク奉献」におけるイサクそのものであるからです。その意味で沖縄戦は、イサク問題でもあるのです。これはこれで、きちんと話そうとするとけっこう長くなってしまうような気がしますので、未完の、『神やぶれたまはず』についての論考の続きを書くときにでも、あらためて触れようと思います。(この稿、終わり)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本軍の失敗から私たちが学べること(その4) 沖縄戦② 集団自決と大東亜戦争の義(1)

2014年07月15日 14時57分37秒 | 歴史


沖縄に配置された第三二軍が、沖縄県民と一体となり、死力を尽くして約三ヶ月におよぶ長期持久戦を戦い抜いたことは、前回申し上げました。それゆえ、米軍の物量に物を言わせた熾烈極まる攻撃は、将兵のみならず、沖縄県民にも多大な犠牲を強いることになりました。そのなかでも集団自決の問題は、とりわけなにかと取り沙汰されることの多い論点であるようです。たしかに、その悲惨さ・救いがたさは、聞く者をして言葉を失なわしめるほどの重さ・深刻さを有しています。ましてや、それが軍に強制されたものであったとすれば、上級統帥のみならず、現地の第三二軍も、大東亜戦争の義を自らの手で扼殺したと断じざるをえなくなるほどの深刻な事態である、ということになりましょう。

当論考の「その2」で、私は、戦争の義に関して次のように申し上げました。

″近代国民国家の戦争は、それが追い詰められてやむを得ず始めたられたものであろうと、なんであろうと、国益を守るためになされるべきものです。君主の私権のためになされるべきものではない、ということです。そうして、国益の核心には、無辜の一般国民の生命を守ることがあります。つまり、無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを絶った戦争に、義はない。だから、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければなりません。″

そういう言い方にそれなりの理があるのだとすれば、沖縄県民に対する集団自決の命令や強制は、軍が自分たちの戦いと無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを断ってしまうことで、その戦いの義を喪失することを意味します。“いや、自分たちには天皇のために戦っているという義がある”と言い張ってもダメです。臣民を「おおみたから」として慈しむところに天皇の御心があるのですから、そういう振る舞いが、天皇の御心を踏みにじるものであることは明らかだからです。その御心が国体の本義であるのだから、“自分たちは、国体護持のために戦っている”と言ってみてもやはりどうにもなりません。

さらに言えば、たとえ沖縄県民の集団自決が軍の命令や強制ではなかったとしても、その重みを私たちは十二分に感じ取り、そこからなにものかを取り出さなければならないことには変わりありません(そのことについては、集団自決の話の後に触れましょう)。

これから沖縄県民の集団自決に非力をかえりみずに触れてみようと思います。しかしながら、一口に集団自決と言っても、主だったものだけでも、列挙すれば、伊江村のアハシャガマなど約百人、恩納村(おんなそん)十一人、読谷村(よみたんそん)のチビチリガマなど百二十一人以上、沖縄市美里三十三人、うるま市具志川十四人、八重瀬町玉城(たまぐす)七人、糸満市、カミントウ壕など八十人、座間味島二三四人、慶留間島五三人、渡嘉敷島三二九人と十件ほどあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA より

そのなかから、読谷村のチビチリガマと渡嘉敷島の事例に触れてみようと思います(座間味島のケースにも後に少しだけ触れます)。両者ともに規模が大きいことと、読谷村の場合には軍からの直接の命令がなかったのに対して、渡嘉敷島の場合それがあったとされているという違いがあることが選び出した理由です。

読谷村のチビチリガマの集団自決については、読谷村HPにきちんとした記載があるので、まずは、それからの引用をご覧ください。その前に、昭和二〇年(一九四五年)四月一日の米軍上陸前後の様子に触れておきましょう。




上の図から分かるとおり、読谷村は、四月一日午前八時三〇分に米軍が押し寄せた海岸沿いの村です。夜の明け切らない午前五時半から、沖合に並んだ戦艦十、巡洋艦九、駆逐艦二十三、砲艦百七十七が、いっせいに砲門を開きました。二十センチ以上の大型砲弾四万四千八百二十五発、ロケット弾三万三千発、臼砲弾二万二千五百発が、第一陣が上陸する一、二分前までの約三時間内に、渡具知海岸地帯に撃ち込まれました。よく晴れた、抜けるような青空がたちまち黒い空に一変したといいます。住民がどれほど身の縮む思いをしたか、想像するにあまりあります。

チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ五〇〇メートルほど行った所の、深さ一〇メートルほどのV字型をした谷の底にあります。米軍が上陸した海岸からは八〇〇メートルほど奥まったところにありました。集落内に源をもつ湧水が流れ出て小さな川をなし、それが流れ込む所に位置し、川が尻切れる所なので「チビチリ」(尻切れ)という名が付いたそうです。「ガマ」は鍾乳洞のことです。HPから引きましょう。

チビチリガマの悲劇は、一九四五年四月二日に起きた。生か死か――騒然とする中、一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けた。中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んで「決死」の覚悟だったようだ。当然のように壕内は混乱した。「自決」を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、結局多くの犠牲者を出した。燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。

日本軍の中国戦線での「残虐非道ぶり」とチビチリガマでの集団自決を結びつけようとする強引な手つきはちょっと気になるところですが、それはとりあえず措いておくとして、ある男の先導によって、周りの人々が自決に追いやられていく状況が、よく分かります。

「集団自決」に至るまでには幾つかの伏線があった。四月一日、米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。上陸直後のため敵の人数もそう多くはないと思い込んだのが間違いだった。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。

避難民が、竹槍を持って、米兵に立ち向かおうとしている点は見逃せません。避難民のすべてが恐怖で縮み上がっているわけではなくて、軍の保護のない状態で、なおも敵と戦おうとしている者もいたことは、注目すべきでしょう。

米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。

第一次大戦後日本の委任統治領となったサイパン島には、沖縄からたくさんの人々が出稼ぎに行きました。だから、サイパン島における民間人の集団自決の事実が、沖縄県民の間でよく知られていたのは、うなずけるお話しです。そのことが、沖縄での集団自決を促したという側面があるのでしょう。しかし、みながみな、自決に即座に賛成したわけではないことが分かります。わが子を目の前で死に追いやることをためらうのは、親として当然のことですから。

結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま二日を迎えた。前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。その間にもいくつかの悲劇は起きていた。十八歳の少女が母の手にかかり死亡したり、看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。横たわる死体。そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた

まともに睡眠をとりえない状況は、人間を心理的に極限にまで追い詰めます。極端な睡眠不足は、精神状態を平常に保ち正常な判断を下すことを著しく困難にするのです。

そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。煙で苦しんで死ぬより、アメリカに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。

大半の人々は、精も根も尽き果てたところで、やむをえず集団自決を受け入れた様子がうかがえます。

避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。波平の人々が、知っていても語ることなく、口を閉ざしたのは、チビチリガマの遺族の人々自らが語り出すまでは、黙っておこうといった、地域の人々の思いを反映したものであったと言われる。

ガマ(鍾乳洞)のなかは、いわば密室です。そこにじっとうずくまっている状態で命の危険に晒されても、そこから逃れる術はないのです。あえてそこから逃げ出せば、雨あられのように降り注ぐ、米軍の銃弾や砲弾の餌食になるだけ、という極限状況を私たちは思い浮かべなければなりません。「ならば」と、戦後に生きる私たちは考えます、「集団投降すればよかったではないか」。しかし、当時の沖縄県民の立場と精神状態を考えれば、それはきわめてむずかしいことではなかったかと思われます。

沖縄県民が、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓の影響を強く受けていたという事情があったのは、もとよりそうでしょう。そこに、″捕虜になれば、女たちは犯され、男たちはひどい目にあう″という鬼畜米英のイメージが重なれば、投降しようにも投降できなくなってしまうのは、理の当然です。

しかし、私が気にかかっているのはそういうことといささか異なります。

誤解を恐れずに言いましょう。離島に住む人は、本土に対して、根深いコンプレクスを抱いているという事情が、投降をいちじるしく困難にしたのではないかということです。

これは、他人事として言っているのではありません。私自身、対馬という離島の出身なので、そういう感情について自分なりによく分かるところがあります。田舎者の都会人に対するコンプレクスと、文化の辺境で生まれ育ったことをめぐるコンプレクスと、貧しい者が抱くコンプレクス(離島は貧しいのです)とが、離島人コンプレクスを構成しているのではないかと思われます。戦前であれば、本土の沖縄に対する差別意識が露骨でしたから、沖縄県民はそういう心性を抱きやすい状況にあったといえるでしょう。

当時の沖縄県民が独自の文化圏を有していたことはもとよりそのとおりではありますが、地理的歴史的経済的事情から、彼らが根深い離島人コンプレクスを抱いていたこともまた間違いないものと思われます。私が申し上げたいのは、″だからこそ彼らは、本土へのあこがれや、立派な日本人として振舞いたいという思いがほかのどの日本の地域の人々よりも強かった。そのことが、県民の軍への深い信頼や献身をもたらしたのではないか。そうして、そうしたものが、ほかの諸要因とともに集団自決の悲劇を余儀なくさせたのではないか。″ということです。投降など日本人として恥ずかしくてとてもできたものではない、という思いが、それを口に出すかどうかは別として、あったのではなかろうか、ということです。引用文中の、少なからぬ「天皇陛下バンザイ」の叫びには、島民のそういう思いが込められているように感じられてなりません。

軍が彼らに集団自決を命令・強要したのだとすれば、それは、沖縄県民の信頼や献身的な協力を悪用し裏切るとんでもない振る舞いであると断じるよりほかはないでしょう。つまり、沖縄戦は、戦術的に一定の効果をもたらしたかもしれませんが、義なき非道の戦いであった、となります。

それを検証するために、渡嘉敷島の集団自決に話を移しましょう。差し当たりそれは、集団自決における軍の命令の有無をめぐって展開されることになります。しかし、私の関心それ自体は、実はその先にあることをあらかじめ申し上げておきます。

渡嘉敷島の集団自決が軍の命令によって実行されたことをはじめて主張したのは、『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社編 一九五〇年初版発行)です。そこから文章を引く前に、渡嘉敷島の地理と同島上陸前後の日本軍の動向を確認しておきましょう。

渡嘉敷島は、慶良間諸島のなかの一つの島です。慶良間諸島は、現在の那覇空港から東に35kmのところに位置します。渡嘉敷島は、当諸島のほぼ中央部に位置する諸島内最大の島です。ほかには、座間味島や阿嘉島や慶留間(げるま)島があります。






三月二六日午前九時ごろ、沖縄本島の軍司令部の目が、沖縄本島に撃ち込まれる艦砲射撃と爆撃に釘付けになっていたとき、誰も気付かないうちに、水陸両用戦車を先頭に立てた米上陸部隊が、座間味、阿嘉、慶留間の三島に襲いかかりました。ほどなく、渡嘉敷島にも、艦砲射撃がなされ始めました。

″こんな山ばかりの島に、米軍がわざわざ上陸してくるはずがない″と考えていたのは、軍司令部だけではありませんでした。慶留間諸島に配置された海上挺進戦隊の誰もが、島を守る手筈には、注意を向けていなかったのです。というのは、彼らは自分たちが「死ぬこと」だけを考えていたからです。彼らは事実上の海の特攻隊員だったのです。それが、渡嘉敷島の悲劇につながっていきます。

それだけではありません。一九四四年(昭和十九年)九月七日以来、慶良間の各港は、海の特攻隊としての海上挺進戦隊の機密保持のために、軍の命令で閉鎖され、住民四〇〇〇人は外界と完全に隔絶されました。そういう環境下で、住民たちは、慶良間の名誉のために、国防婦人会総動員で接待に当たりました。もともと慶良間は、日本軍への協力と参加を誇っていた土地柄で、島の出身者から将校も出しており、軍に対して、よろこんで寄与し協力しようとする気風がありました。文字通り、軍と島民が一体となって戦いに臨む体制を作り上げていたのです。そのことも、渡嘉敷島の悲劇につながっていくことになります。

では、『沖縄戦記 鉄の暴風』から引きましょう。

渡嘉敷島の入江や谷深くに(特攻用の――引用者補)舟艇をかくして、待機していた日本軍の船舶特攻隊は急遽出撃準備をした。米軍の斥候(せっこう・敵情偵察兵のこと――引用者注)らしいものが、トカクシ山と阿波連山に、みとめられた日の朝まだき(三月二六日。本書では二五日と誤記されている――引用者注)、艦砲の音をききつつ、午前四時、防衛隊員(沖縄防衛のため現地在住の男性により組織された軍事集団。沖縄全体では約二万人。島内では七〇人――引用者注)協力の下に、渡嘉敷から五十隻、阿波連から三十隻の舟艇がおろされた。それにエンジンを取りつけ、大型爆弾を二発宛抱えた人間魚雷の特攻隊員が一人ずつ乗り込んだ。赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の濠深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、刻々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。

渡嘉敷島・島民の集団自決を命令した張本人とされる海上挺進第三戦隊・戦隊長赤松大尉は、本書において、特攻を拒み我が命を惜しむ卑怯者の特攻隊長として登場します。衝撃的といえば衝撃的な登場の仕方ではありますけれど、これは、どうやら事実ではないようです。吉田俊雄氏の『最後の決戦 沖縄』(NF文庫)によれば、海上挺進第三戦隊の出撃を中止させたのは、赤松隊長ではなくて、海上挺身隊の総指揮官・軍船舶隊長大町茂陸軍大佐です。赤松隊長は、むしろ出陣を阻止されたショックで顔面蒼白の状態になりながら「昨日来、空襲を受け、本日はまた艦砲射撃を受けております」と事態の急迫を訴え、上官の命令に抗おうとして、激しく叱責されています。この一事からだけでも、私たちは、沖縄タイムス社が編集した『鉄の暴風』が作り上げようとした「物語」がどういうものか察することができると思われるのですが、それについては後ほど触れることにして、いまは、同書からの引用によって、集団自決の顛末を確認する作業を進めましょう。

翌二十六日(二十七日の誤り――引用者注)の午前六時頃、米軍の一部が(中略)上陸した。(中略)赤松大尉は、島の駐在を通じて、民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。

集団自決命令の予告ともとれるメッセージが、この段階で、赤松隊長から発信されている、というわけです。しかし、「保護してやる」とは、ずいぶん傲慢な口ぶりです。それに加えて、集結命令は無残な形で撤回されます。

住民は喜んで軍の指示に従い、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。

もちろん住民たちは、あっけにとられました。しかたなく、西山A高地のふもとの恩納河原に下って、思い思いに、避難場所を探しました。ここでの赤松隊長は、住民たちを右往左往させるだけの横暴でダメなリーダーという姿で描かれています。ところが、それだけではありませんでした。その翌日に、赤松隊長から「住民は、速やかに、軍陣地附近を去り、渡嘉敷に避難しろ」という無慈悲な命令が下されました。なぜ無慈悲なのかと言えば、渡嘉敷にはすでに米軍が上陸していたからです。端的に言えば、「死ね」と命令しているに等しいのです。むろん、住民はその指示に従うことをためらいます。そうしてついに、恩納河原付近で途方にくれている住民たちに対して、決定的な命令が下されることになります。

同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである。(中略)米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。(中略)最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に迫っていた。

いよいよ集団自決が決行されることになります。次は、その生々しい描写です。あまり気が進まないのではありますが、ここまで進んできた以上、書き写すのはやむをえないでしょう。私は、歴史の神様に両の掌を合わせる気持ちで、書き写します。

住民たちは死(原文ママ)場所を選んで、各親族同志が一塊一塊になって、集まった。手榴弾を手にした族長や、家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、――男、女、老人、子供、嬰児――の肉(原文ママ)四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頸部を切ったり、鍬で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、世にも恐しい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまった。

その結果、三二九人が集団自決で亡くなり、敵の迫撃砲による戦死者が三二人、手榴弾の不発で死をまぬがれたのが、渡嘉敷一二六人、阿波連が二〇三人、前島民が七人だったそうです。

同書は、そのほかの赤松隊長の悪業を暴き立てます。すなわち、飢餓線上をさまよう島民を尻目に、島の食料の50%を軍に供出することを義務付ける強制徴発命令を出したり、スパイ容疑に基づく島民の不必要な虐殺を幾度も実行したりしたことを、です。

これらすべてが事実だとすれば、赤松許すまじ、の気持ちが嵩じてくるのは、渡嘉敷島の人々や沖縄県民ばかりではないでしょう。少なくとも、赤松部隊の戦いぶりに義はない、となりましょう。というより、他から隔絶されたごく狭い場所で起こったことだけに、かえって日本軍の悪しき本性を純粋に浮かびあがらせる事例である、という見方も成り立ちうるでしょう。そうなると、義もなにもあったものではありません。

大江健三郎氏の『沖縄ノート』(岩波新書・一九七〇年)は、『鉄の暴風』が渡嘉敷島の惨事に関して描き出したものをほぼそのまま踏襲したうえで、あらためてその惨事に触れています。どういう触れ方をしているのか、見てみましょう。意味をきちんとたどるのがけっこうしんどい文章ですが、おつきあい願えれば幸いです。

『創造』を支えているもうひとりの中心人物たる高校教師は、なおも直截に、それを聞く本土の人間の胸のうちに血と泥にまみれた手をつっこんでくるような事実を、すなわち一九三五年生まれのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島でおこなわれた集団自殺を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で、祖父と共にひそんでいたひとりの幼児が、隣りあった防空壕で、子供の胸を踏みつけ、兇器を、すぐにもかれ自身の自殺のためのそれとなる兇器をふるうひとりの父親を覗き見てしまい、祖父と共に山へ逃げこむ。そのようにして集団自殺の強制と、抗命による日本軍からの射殺と、そして米軍の砲撃という、三重の死の罠を辛くも生き延びたところの、まさに慶良間におこった事件の、その核心のところに居合わせた人間の経験についてかれは篤実に語るのであった。

引用文中の『創造』とは、大江氏自身の言葉によれば、「一九六一年四月、《沖縄劇団の不毛を克服すると同時に、演劇を通じて現実変革のビジョンを構築していこう》という呼びかけをかこむようにして集まり、ふじた・あさや作の『太陽の影』を上演して出発した」劇団です。「ふじた・あさや」をインターネットで検索してみたら、彼の「平和憲法を持つ日本が、『憲法9条があるので仕方がない』と軍隊を送るのを拒む姿は、少なくとも平和の役に立つ。仕方なくても何でもいい。『これは置いておこう』とみんなが思うことを心から願う」(09年2月インタビュー)という内容の発言が見つかりました。どうやらいまにいたるまで、戦後民主主義をほぼ無傷の状態で保持し続けてきた人のようです。そういう人の作品を上演して出発した劇団の「もうひとりの中心人物たる高校教師」なる人物は、渡嘉敷島の「集団自殺」が「軍人によって強制された」ものであったと証言しています。ただしこの人物は、証言内容のなかの「幼児」ではありません。つまり、伝聞したことがその証言内容のすべてです。また、「抗命による日本軍からの射殺」が「幼児」によって目撃されたものなのかどうかもはっきりしません。さらには、どのような事実に基づいた指摘なのかもはっきりとしません。大江氏の物々しくて深刻めいた言い方のわりには、その証言の内容は具体性に乏しいと言わざるをえません。大江氏が、″渡嘉敷島で、軍の強制による住民の集団自決というひどい事実があった″ことを告発したがっていることだけは分かる文章であるというよりほかはありません。

本書は、もう一箇所、渡嘉敷島の惨事にふれています。こちらは、もっと長い文章です。

(前略)新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしずかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。

同書において、赤松隊長が「米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否」し、「投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑」し、「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいた」と断定しているのは、先ほど取り上げた『鉄の暴風』を踏襲しているものと見て間違いないでしょう。それに加えて大江氏は、赤松元隊長の、渡嘉敷島での慰霊祭に出席することをめぐっての発言をはなはだしく否定的に受けとめているようです。

おりがきたら(原文、以上傍点。以下、「おりがきた(ら)」にはすべて傍点あり)、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。僕は自分が、直接かれにインタヴィューする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的資質についてなにごとかを推測しようと思わない。むしろ彼個人は必要でない。

と言いながも、大江氏は、赤松元隊長の発した「おりがきたら」という一言をめぐって、想像力を逞しくします。″いかにおぞましく恐しい記憶でも、その具体的な実質の重さはしだいに軽減していく。ましてや、その人間ができるだけすみやかに厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはなおさらそうである″とした上で、大江氏は、なぜか唐突に強姦の事例を挙げます。

たとえば米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。このような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で(原文、傍点)犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛(原文、「つかのまの愛」に傍点)などとみずから表現しているのである。

要するに大江氏は、赤松元隊長が「おりがきたら」と発言した心持ちは、この強姦魔の兵隊と同じであると言っているのです。これは、『鉄の暴風』で描かれた「極悪人・赤松隊長」のイメージを前提としてのみ成り立つ心理分析です。

慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。(中略)誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。

このような調子が延々と続くのです。こういう、巨悪をなしたとみなされている人物に、人間としての最低・最悪の心理を、妄想を逞しくして延々と読み込み続けることを、(仮に彼が本当に巨悪をなしていたとしても)私は素直に受け入れることができません。どこかおかしいと思うのです。もっと踏み込んで言ってしまうと、大江氏の人間観は根のところで致命的に誤っている、人間の心は彼が思うほどには分かりやすくできていない、という私の人間観が、そういう振る舞いを拒否するのです。「この異様な経験をした人間の個人的資質についてなにごとかを推測しようと思わない」と言った舌の根も乾かぬうちに、赤松元隊長の人間性を全否定し、事実上の断罪をしていることも気に入りません。

文芸批評家・福田恆存氏は、″一匹と九九匹を目の前にして、一匹の側につくのが文学である″という意味のことを言っています。それを踏まえるならば、赤松元隊長をめぐる大江氏の振る舞いは、それとは逆なのです。彼は九九匹の側に就いて、集団で一匹に石を投げつけているのです。つまり大江氏は、ここで文学を捨ててしまって、政治的に振舞っている。そういう自覚もなく、この期に及んでも「想像力」などという言葉を振り回して文学者のふりをしているのは無残としか言いようがありません。

それに対して、大江氏を弁護する向きは当然あると思います。彼らは、おそらくこう言うのではないでしょうか。″お前は、間違っている。大江氏は、歴史的に本土によって虐げられ、差別され続けてきた犠牲者としての沖縄という「一匹」の側に就いているのだ。彼のすべての言葉は、その立場から発信されているのであるから、彼こそまさに文学の本道にかなったスタンスをとっている。そういう大江氏を批判しようとするお前こそ、九九匹の側に就いて、一匹に石を投げつけようとしているのだ″というふうに。

しかし、私はそう思いません。「歴史的に本土によって虐げられ、差別され続けてきた犠牲者としての沖縄」という言い方は、(厳しい言い方になりますが)実はひとつの政治的なフィクションであり、そういう立場を選択するのは、あくまでも擬制としての「一匹」に就くことにほかならないのです。さらにいえば、大江氏のように「一匹」の側に就いているというポーズをとるのは、文学的に言えば醜悪の極みであり、政治的には錯誤にほかならない、と私は思っています。もっとも、政治ゴロとして妥当な振る舞いであるとは思いますが(ここは、いまのところあまりうまく伝えられていないような気がします。もっと先のところで、もういちどここに立ち返りましょう)。

世間から鬼か悪魔のように言われて続けている赤松隊長とはいったいどういう人物なのか、という疑問や興味を抱くのが、まっとうな文学者としての自然な心の動き方なのではないでしょうか。

曽野綾子氏が、『ある神話の背景』(一九七三年)を上梓した動機は、そういうものだったのでしょう。事実曽野氏は、本書の「新版まえがき」で「赤松氏に関しては、渡嘉敷島の集団自決の歴史の中では、悪の権化のように描かれていた。そして本文中にも書いたように、私はそれまでの人生で、絵に描いたような悪人に出会ったことがなかったので、もし本当にそういう人物が現世にいるなら是非会ってみたい、と考えたのが作品の出発点である」と言っています。まっとうな文学者としてのごく自然な動機ですね。それに促されて、曽野氏は、赤松隊長に会い、存命の部下たちにも会い、さらに渡嘉敷島の惨事の関係者にも会いました。要するに氏は、渡嘉敷島集団自決事件の根本的再検討をするに至ったのです。その結果氏は、「『直接の経験から《赤松氏が、自決命令を出した》と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった』と言うより他はない」という結論に至りました。それがどれほど衝撃的なものであったか、そうしてあり続けているのかは、主に左派リベラルのひとびとのブログ等によるおびただしい数にのぼる、過剰なまでの寄ってたかっての「曽野バッシング」が明らかにしています。彼らにしてみれば、「痛いところ」を突かれたのですね。だから、必死になって否定しようとするのでしょう。あらん限りの憎悪を本書に注ごうとするのでしょう。それらの反応それ自体が、興味深いといえば興味深いのではありますが、それはひとまず措きます。(この稿、続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本軍の失敗から私たちが学べること(その3) 沖縄戦Ⅰ

2014年06月28日 04時25分03秒 | 歴史

                   沖縄戦 米軍上陸

当シリーズ(その2)をアップした六月九日から、かなりの日数が経過してしまいました。私は、シリーズ物に着手するといつもこうなのです。最初はスピーディに筆が進むのですが、次第に思ってもいなかった難所に突き当たり、それが次第に重みを増して、進むのに四苦八苦してしまう。どうしても、そうなってしまうのです。もっと器用にやれないものかと思うのですが、どうにもうまくいきません。

今回は、当時の沖縄の人々の振る舞いをどうやってイメージし、その心をどう理解し、それらをどう評価するのか、をめぐって苦慮しました。大東亜戦争の義の問題との絡みで沖縄戦を扱おうとすると、どうしても、その課題と取り組まざるをえないのです。というのは、沖縄の人々は、本土の日本人よりも献身的に軍に協力し、軍を深く信頼し、またそうであるがゆえに多大の犠牲を強いられたからです。

いずれ、その問題に舞い戻ってきましょう。

沖縄戦当時、日本の国力・戦力は枯渇の極にあり、一方アメリカは国力・戦力ともにきわめて充実した状態にありました。そういう状況で両者が激突したために、日本軍の種々の問題点が一挙に白日の下にさらされることになりました。とくに、作戦が成功するうえでの基本的な前提要件である作戦目的の統一に関して、決戦か持久か、航空優先か地上優先かという作戦の根本的性格をめぐる対立が存在したことは、致命的な問題点でした。大綱を掌握すべき上級統帥は、うかつにも、その対立の存在の深刻さを見過ごしたために、米軍上陸後の作戦指導の細部に干渉せざるをえない事態に陥ったのです。

以上を、まずは沖縄戦以前における第三二軍と大本営とのやりとりに即して述べましょう。

昭和十九年(一九四四年)三月二二日、大本営の直轄として第三二軍が創設され、同軍は南西諸島を担任地域とされました。当時の大本営の対米作戦構想の基本は航空決戦至上主義でしたから、創設当初の第三二軍は、決戦兵力である航空部隊の基地設定軍的な性格を持つにすぎませんでした。このため地上戦力は、米軍による航空基地奇襲攻撃に備えることを主眼とし、はなはだ弱体なものでした。第三二軍高級参謀の八原博道大佐は、紆余曲折を経て、大本営のそのような航空決戦至上主義に対して深い疑問を抱くようになっていきました。

大本営の作戦構想に基づいて航空基地群の設定整備に邁進中の第三二軍は、同年五月五日、突然に大本営直轄から西部軍の隷下に編入されることを告げられました。次に、同年七月九日、絶対国防圏の要衝であるサイパン島の日本軍が全滅したことを受けて、第三二軍は、西部軍の隷下から台湾軍(後の第一〇方面軍)の隷下に移されました。この二度にわたる隷下の変更によって、「大本営直轄」という軍の誇りを深く傷つけられたことも、第三二軍の大本営に対するわだかまりを大きくする要因となったようです。また、陣地のたびたびの変更命令も、同軍の士気に直接影響し、戦備の完成を阻むことになりました。同軍の陣地(兵力配備)は、昭和十九年の中ごろから二〇年四月一日の米軍沖縄本島上陸までに、大きく五回変わりました。固い珊瑚でできた沖縄の岩盤を掘り崩すのは、大変な重労働なのです。

サイパン島陥落後、「捷号作戦」を作成し乾坤一擲の作戦態勢をとった大本営は、台湾とともに西南諸島を捷二号作戦の決戦場と予定しました。そのため第三二軍に、四個師団、混成五個旅団の大兵力が充当されることになりました。その結果、第三二軍は空軍基地設定軍の地位を脱したので、その首脳は、高い戦意に燃えて決戦準備に邁進しました。軍の士気が大いに高まったのです。

ところが、レイテ戦が展開され捷一号作戦が発動されると、台湾から三個師団がレイテ戦に引き抜かれ、台湾は親編成の二個師団があるだけになりました。そこで大本営は、沖縄から一個師団を引き抜いて手薄になった台湾に送るほかはないと考え、昭和十九年(一九四四年)十一月四日、沖縄の八原高級参謀に宛てて、「第三十二軍ヨリ一兵団ヲ抽出シ、台湾方面ニ転用スル要ニ関シ協議シタキニツキ、台北ニ参集サレタシ」と電報を打ちました。

大本営の電報に少なからず衝撃を受けた第三二軍は、“沖縄本島と宮古島を、どちらも確実にわが軍の手に確保しようとする方針ならば、第三二軍から一兵団を抽出するのは不可である。もしもどうしてもそうするというのならば、宮古島か沖縄本島のどちらかを放棄しなければならない”という内容の「第三二軍司令官の意見書」を八原高級参謀に託し、同参謀は同日夕方からの台北会議に臨みました。そのときの会議の模様が、日本軍の弱点をさらけ出しているように感じるので、以下詳細にお伝えします。

同会議に臨むにあたって、八原高級参謀は、長勇(ちょう・いさむ)少将から「台北会議では、黙って当意見書を提出し、多く論じてはならぬ。牛島満軍司令官の決意はこの意見書のなかに強力に示されておる。沈黙こそ、全体の空気を第三二軍に有利に導く所以である」と強く訓示されています。結局八原高級参謀は、その訓示を固く守りました。

会議の席上八原高級参謀は、まず「意見書」を一同の面前で朗読し、「以上は軍司令官の固い決意である」と付言してから、これを諫山春樹(いさやまはるき)方面軍参謀長に手渡しました。その後八原大佐は、長参謀長の訓示に従ってかたくなに沈黙を守ったのです。この八原大佐の構えは、会議の空気を重苦しいものにしました。第三十二軍からの一兵団抽出の発案者である大本営陸軍部作戦課長・服部卓四郎大佐は、八原大佐のそっけない態度に驚き、具体的に論議する気分をそがれ、腹案にしていた「抽出兵団の後詰めは、後で考慮するからとりあえず兵団の転用を」という協議了解事項を発言する機会を失ってしまったと後に述べています。また諫山中将もこれといった発言はしませんでした。ただ方面軍作戦主任参謀の市川大佐だけは、台湾防衛の重要性と兵力不足を訴えました。市川大佐は、″第三二軍は第一〇方面軍の隷下にあるのだから、方面軍司令官にはその兵力運用を自由に裁量できる権限がある″といわんばかりでした。会議は夜半に及びましたが、積極的な論議はまったくと言っていいほどに交わされることなく、要領を得ないうちに終わってしまいました。

ここに見られるのは、山本七平のいわゆる“空気”の支配です。私たち日本人にはなじみのある場面ですね。“空気”とは、場の参加者にとってなんとなく抗いがたい雰囲気と言いかえられるでしょう。私たち日本人は、それに対してとても敏感です。そうであるがゆえに、それを踏まえない姿勢は、場の参加者から否定的な評価しか得られない。つまり、KYです。論理的思考に基づく言葉が力を持ちにくい、あるいは、それを発することがはばかられる。そういう雰囲気に私たちは、しょっちゅう取り巻かれますね。たとえば、脱原発なんかもそうです。脱原発は論理というよりも、脱原発という“空気”であると考えたほうが分かりやすい。それに絡め取られてしまった人たちに対して、いくら論理で迫ってもほとんど効力がありません。かえって、感情的な猛反発を喰らって不愉快な思いをするだけです。下手をすれば、人扱いをされかねない。それを分かっているから、「頭の回る」政治家は原発問題には当たらず触らずの対応しかしないのです。その結果、日本のエネルギー安全保障体制は、脆弱化を余儀なくされ潜在的な危機を深めています。なんと馬鹿げたことでしょうか。“空気”の問題は、過去のものではないのです。

台湾会議の場合、“空気”という観点からすると、ちょっと複雑です。なぜなら八原大佐は、重苦しい“空気”を作りほかのメンバーをそれに巻き込んだ張本人であると同時に、ほかのメンバーが共有したがっている妥協的な“空気”をかたくなに拒むKYでもあったからです。

沖縄本島から一兵団を抽出することは、第三二軍にとって、のみならず、実は日本軍全体にとっても、とても重要な案件でした。だから本当なら、お互い条理を尽くした意思の疎通を図らなければならなかったのです。しかし、参加メンバーは皆、変な“空気”に絡め取られることによって正常な思考力を奪われ、まともに発言することがかなわず、それがまったくといっていいほどに実現できませんでした。

この不毛な会議は、第三二軍に、“第一〇方面軍は、自分の裁量で沖縄から一兵団を台湾に転用させることができないため、大本営の威を借りて兵力を増強している”という印象を与えました。それゆえ、台湾会議は、会議そのものが要領を得なかったのに加えて、大本営や第一〇方面軍の統帥に対する不信感を第三二軍に植え付ける契機を与えることになってしまったと結論づけざるをえません。

その後、十一月一三日大本営は、第三二軍に対し「沖縄島ニ在ル兵団中最精鋭ノ一兵団ヲ抽出スルニ決セリ、ソノ兵団ノ選定ハ軍司令官ニ一任ス」と打電しました。第三二軍は、それを受けて、伝統ある最精鋭師団である第九師団を抽出転用することを余儀なくされました。台湾会議のだんまり作戦は何の成果ももたらさなかったわけです。のみならず、第九師団は、最初からもっとも長期間沖縄に駐留していて、県民との交流が深く、その抽出が県民の士気高揚にも大きな悪影響を及ぼしました。それは、第三二軍にとって、必勝の意気込みの支柱を失ったことを意味します。つまり、第九師団を失ったことで、第三二軍は、物質的のみならず心理的にも大きな打撃を受けることになってしまったのです。

このような踏んだり蹴ったりの状況においても、全兵力の約三分の一を失った第三二軍は、作戦構想を練り直す必要に迫られました。まず問題になったのは、軍の基本任務をどう解釈するかということでした。軍は、捷二号作戦計画の決戦準備任務は自然消滅し、その創設当初の「海軍と共同し南西諸島を防衛すべし」というきわめて包括的な任務のみが生きているものと解釈しました。軍の基本任務に関する解釈というきわめて重大な案件について、第三二軍と大本営・第一〇方面軍との間でのやり取りや調整が行われた形跡がまったくない、というのは驚きです。おそらく、相互不信が強かったのでしょう。

基本任務の再解釈に基づいて、第三二軍は、戦場を自主的に本島南部に限定し、それに対応して軍主力を島尻地区に集約しました。そうして、準備した陣地周辺に米軍が上陸した場合は極力これを撃退することとし、米軍の空海基地の設定を阻止するが、配備の及ばない北・中飛行場方面に米軍が上陸した場合は、主として長射程砲による妨害射撃に期待するとされたのです。これは、大本営の航空決戦至上主義の実質的な否定あるいは放棄を意味します。第三二軍が、この重大な意思決定を大本営に伝えなかったのは、繰り返しになりますが、唖然とするよりほかにありません。不信感という私情が命令指揮系統というパブリックな領域をすっかり虫食い状態にしてしまっているのです。第三二軍は、そのツケを後に戦闘状態でたっぷりと支払わされることになります。

米軍の沖縄上陸は昭和二〇年(一九四五年)四月一日ですが、その前哨戦として、B29による三月十日の東京大空襲がありました。目標として、焼夷攻撃の効果を最大限に発揮するために、木造家屋の密集する下町方面が選ばれました。その「狙い」はしっかりと当たり、東京は、焼失家屋約二六七〇〇〇棟、死者約八三八〇〇人、負傷者約四〇〇〇〇人、罹災者約一〇〇万人という甚大な被害を受けました。また、米機動部隊が九州、四国(一八日)、阪神、呉(一九日)を襲いました。そのため、四月一日の米軍上陸時に、上空を乱舞する爆撃機はアメリカのものだけ、という日本軍にとっては痛恨の事態となりました。さらに、硫黄島で栗林中将が最期を遂げる前日の三月二六日、沖縄本島南西の慶良間列島に米第七十七歩兵師団が上陸しました。それは想定外の事態でした。現地日本軍の後手後手の対応は、数日後の島民集団自決の悲劇につながっていきます。そのことについては、大東亜戦争における義の問題を考えるときに、あらためて真正面から取り上げることになるでしょう。

四月一日、米軍が沖縄に上陸を開始したとき、第三二軍はほとんど抵抗することなく、上陸第一日目に北・中両飛行場は米軍の手中に落ちました。しかしこれは、第三二軍にとって想定内の作戦展開であり、軍としてはその後の組織的陣地による持久作戦に大きな期待を抱いていました。しかし、大本営等は、あまりにも早い北・中飛行場の失陥に大きな衝撃を受け、第三二軍に対して両飛行場奪回のために「積極的な攻勢を」という要求・指導を執拗に重ねることになります。当論考の冒頭で「作戦が成功するうえでの基本的な前提要件である作戦目的の統一に関して、決戦か持久か、航空優先か地上優先かという作戦の根本的性格をめぐる対立が存在したことは、致命的な問題点でした。大綱を掌握すべき上級統帥は、その対立の存在の深刻さを見過ごしたために、米軍上陸後の作戦指導の細部に干渉せざるをえない事態に陥った」と申し上げた最悪の事態が露わになってきたのです。なぜ、最悪か。上級統帥のそういう執拗な干渉は、彼らにとっては当然のことなのかもしれませんが、命をかけて最前線で敵と戦っている現地の軍にしてみれば、ひたすら足を引っ張られているだけのことになってしまうからです。

大本営の「積極的な攻勢を」という要求は、一糸乱れることなく作戦準備に努力を傾注してきた第三二軍司令部の内部に、大きな亀裂を生むことになりました。上級司令部からの北・中飛行場奪回の要望電報が来信するたび、八原大佐は軍司令官・参謀長に対して、平素からの軍の戦略としての持久の方針こそが正しいことを強く具申します。長(ちょう)参謀長も、当初は既定の持久方針によって作戦を指導してきたのですが、国軍全般の作戦上の要求を無視して、あくまで第三二軍独自の持久作戦を遂行することは、軍司令官牛島満中将の立場としては出来得ないと感じるに至ったのです。参謀の大多数は、次第に長参謀長の攻勢転移(北・中飛行場奪回)の意見に賛成するようになり、八原大佐は、孤立無縁状態となりました。しかし、八原大佐は大勢に対してあくまでも反対の立場を貫こうとしました。彼は、腹の底で次のように考えていました。

北・中飛行場をそのままに残しておいたのが愚の骨頂だ。軍が徹底的に破壊すべきであると意見具申したときに許可しておれば、こういう問題は起こらずにすんだのであって、それをせずにおいて、今頃攻勢とは、馬鹿馬鹿しい限りだ。つい先ほど玉砕した硫黄島の栗林中将も『・・・・・殊ニ使用飛行場モ無キニ拘ラズ敵ノ上陸企図濃厚トナリシ時機ニ至リ第一、第二飛行場拡張ノ為兵力ヲ此ノ作業ニ吸引セラレシノミナラズ陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ』と戦訓を打電してきているではないか。    (『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』)

このように、意見は真っ向から対立しましたが、結局、牛島司令長官の忸怩たる胸の内を察した長参謀長の意見が幕僚のそれとして採択されることになりました。しかし情勢の変化によって、四月八日の攻撃は小部隊の斬込みに終わりました。また同月十二日に実施された総攻撃は、第二十二連隊が地形不明のために戦闘不参加、第二十三大隊は半数、第二百七十三大隊はほぼ全滅に近い打撃を受けて失敗に終わりました。さらに、五月三日からの攻勢決行も失敗し、第二十四師団は戦力の三分の二を失い、第三二軍は、一日一〇発に砲弾を節約しながら首里に立てこもることになりました。要するに上級統帥の要求は、現実的には実行不可能なもので、あえて実行しようとすれば、第三二軍の戦力を無意味に消耗させるだけだったのです。私はここに、戦争という特殊状況を超えて、日本官僚組織の病根を目の当たりにする思いを禁じえません。すなわち、日本官僚の最上層部は、一度決めた方針は、現場が悲鳴を上げようとどうしようと、あくまでも貫き通そうとする悪癖が抜き難くある、ということです。目下の政治問題の例を挙げれば、消費税問題しかり、放射線基準しかり、TPP参加問題しかり、教育行政しかり、と枚挙にいとまがありません。どんなに不都合な現実や理を尽くした議論を突きつけられたとしても、行政のパワー・エリートたちは、まるで狂ったコマンドをインプットされたロボットのように、一度決めたことをあくまでもゴリ押ししようとするのです。もしかしたら彼らは「自分たちは日本でいちばん優秀なはずだ」という思い込みやチンケなプライドに振り回されているのでしょうか。とても不思議です。

話を戻しましょう。

沖縄の錯綜した戦いを整理するために、四月七日から六月二三日の牛島軍司令官自決までの年表を掲げておきます。
(http://www.okinawabbtv.com/culture/battle_of_okinawa/battle_of_okinawa_history.htmを参照しました。ありがとうございます)

・四月七日 沖縄本島を目指した戦艦大和、撃沈される。連合艦隊の最期である。
・四月十二日 ルーズベルト大統領が死去。トルーマン副大統領が大統領に就任。
・四月十六日 米軍、伊江島に上陸。当時、伊江島には東洋一と言われた飛行場があったため、米軍占領の二〇日まで激しい戦闘が行われた。犠牲者四七〇六人、その内地元の住人は約一五〇〇人にのぼった。
・四月二〇日 米軍、伊江島を占領。
・四月二二日 米軍、本部半島を占領。(伊江島と本部半島とは、伊江水道を挟んで向き合う)
・四月二四日 嘉数(かかず)高地、陥落。十六日間におよぶ攻防戦が展開された。
・四月二六日 嘉数高地と首里の司令部との間に位置する前田高地での戦闘始まる。
・五月六日 前田高地、陥落。宜野湾から浦添(うらそえ)の約10キロの中部戦線は、太平洋戦争最大規模の砲爆撃が集中した。激戦地となった嘉数、前田、西原(にしはら)では約半数の住民が犠牲になり、一家全滅も三割を超えた。
・五月十一日 那覇市郊外にある「安里52高地(シュガーローフヒル)」(最後の首里防衛線)で戦闘始まる。地形を巧みに利用した日本軍と、圧倒的な兵力・戦力・物量の米軍の攻防戦は、ここでも熾烈を極めた。米軍は死者二六六二人。また、一二八九人の極度の精神疲労者を出すが、十八日、制圧に成功。米軍、首里に向けて総攻撃を開始する。
・五月二二日 第三二軍司令部、南部撤退。持久戦続行の作戦方針を決定する。
・五月二二日 米軍、那覇市を占拠。
・五月二五日 後に「ひめゆり部隊」と呼ばれる学徒看護隊が配属されていた南風原(はえばる)陸軍病院に南部撤退命令が下される。
・五月二七日 第三二軍司令部、残存兵約三〇〇〇〇人の南部撤退を開始する。
・五月二九日 首里、陥落。第三二軍司令部、沖縄本島の最南端、摩文仁(まぶに)の自然壕の中に撤退。徹底した持久戦に入る。既に南部一帯には多くの住民が避難しており、そこに南下して来た残存兵、軍と共に移動して来た住民とが入り混じって、沖縄最南端の喜屋武岬(きやんみさき)に追い込まれた。未曾有の悲劇、南部戦線の始まりである。
・六月十一日 海軍主力玉砕。
・六月十三日 大田実少将率いる海軍部隊、小禄の司令部で全滅する。大田実少将が最後に海軍次官宛に打った「沖縄県民斯ク戦エリ」の電報は、沖縄県民に対する国の配慮を訴えたもので、玉砕の電報では異例の電文として有名である。
・六月十七日 米軍、激戦の末、南部戦線の防衛線を突破する。これが日米最後の戦闘であった。米軍の沖縄作戦のバックナー軍司令官は、牛島軍司令官に降伏勧告。牛島司令官、黙殺。
・六月一九日 第三二軍牛島司令官は、「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と最後の命令を出し、指揮を放棄する。日本軍の組織的抵抗の終結。ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊などの学徒隊に解散命令。ひめゆり部隊がいた壕内に米軍のガス弾が投げ込まれ、教師・生徒四〇名が無残な最期を遂げる。
・六月二三日 牛島軍司令官、長参謀、摩文仁の司令部壕にて自決(二二日という説あり)。

牛島満陸軍中将麾下(きか)の第三二軍将兵約八万六四〇〇人と、バックナー陸軍中将麾下の米第一〇軍将兵約二三万八七〇〇人との沖縄の地における約三ヶ月間の激突によって、戦死者は日本軍約六五〇〇〇人、日本側住民約一〇万人、米軍一万二二八一人に達しました。

圧倒的な物量を誇り、絶対制空・制海権を確保してまるで巨大な津波が押し寄せるように来攻する米軍に対し、第三二軍将兵は沖縄県民と一体となり、死力を尽くして約三ヶ月におよぶ長期持久戦を戦い抜きました。その結果、米軍に予想以上の犠牲を強いることになり、硫黄島の戦いとともに、その心胆を寒からしめました。現地の第三二軍は、上級統帥の無理解や執拗な干渉によって少なからず打撃を受け、結局敗れてはしまいましたが、米軍に日本本土への侵攻を慎重にさせ、本土決戦準備のための貴重な時間をかせぐという少なからぬ貢献を果たしたといえるでしょう。だから、“沖縄の第三二軍は犬死をした”、などとは口が腐っても言えないと思います。また、“結局、広島・長崎に原爆が投下され、本土決戦に匹敵するほどの被害が出たのだから、「本土決戦準備のための時間稼ぎができた」というのは意味がなくなったのではないか”という批判は、結果論にすぎません。六月の段階では、トルーマン大統領の耳に、原爆実験成功の知らせは届いていないのですから、その段階で、硫黄島戦と沖縄戦での日本軍の戦闘ぶりが、米軍側に日本本土への侵攻を慎重にさせたことは間違いありません。現地の第三二軍を、さまざまな制約のなかでよく戦ったと評価するのは妥当なことなのです。大本営等の外圧に屈してしまうことなく、持久戦という基本を守り抜いたことが功を奏したというべきでしょう。

現実的で有効な作戦目的の設定をなしえたかどうかという観点から厳しく批判されるべきは、上級統帥としての大本営です。大本営は、沖縄戦のときだけではなく、実は、大東亜戦争のほぼ全過程を通じて、現実的で有効な作戦目的の設定をすることが基本的にはできませんでした。つまり、戦略的思考ができなかったのです。児島襄は、『太平洋戦争』の終末部近くで、日本軍の戦いぶりを振り返って、こう言っています。少々長くなることをお許しください。

日本を支えてきたのは、戦争即戦闘、戦闘即兵士の戦い、という戦争観だった。開戦そのものも、単純に戦闘の勝利を見込んで決定された。真珠湾攻撃から、ミッドウェー、比島沖海戦、そして沖縄特攻攻撃まで、海軍がつねに輸送船や施設攻撃を二の次にし、″艦隊決戦″を求めつづけたのも、この″戦術的戦争観″にもとづいている。陸軍もまた、戦闘に一勝をあげることをもって戦争と考えてきた。その結果は、決戦を呼号しながらも、いつもその後の一勝を期待して後退をつづけ、いまや文字どおり″絶対″国防圏たる本土を残すのみとなった。むろん、戦闘を第一とする戦争観に立脚する以上、戦場がある限り、戦士が存在する限り、戦いつづけるのは、論理の当然の結果といえる。だが、もはや戦場はあっても戦士は少なかった。サイパン戦において端緒的にみられ、沖縄戦において本格化したごとく、戦闘は直接、市民=非戦闘員に頼る国民戦争に転化しつつあったが、統帥部にはこの種の″新しい戦争″にたいする認識も用意もなかった。あるのは、かつて開戦時に永野軍令部総長がいった「たとえ一旦の亡国となるとも最後の一兵まで戦いぬけば、われら子孫はこの精神をうけついで再起、三起するであろう」という気概だけだった。

日本軍首脳は、その思考経路に戦略的思考を欠如させたまま戦争に突入することによって次第に窮地に追い込まれ(将兵を窮地に追い込み)、万事休すの状態に至りました。その、理の当然のツケを「本土決戦」「一億総玉砕」という形で国民に支払わせようとすることは、最高責任者としての失敗を事実上カモフラージュするに等しい破廉恥きわまる振る舞いと評するよりほかはありません。卑怯者の振る舞いであるとさえいえるでしょう。それは、その自覚の有無にかかわらずそうであると、私はあえて断言したい。特攻隊作戦についても、同じ観点から、上級統帥が現場の将兵に遂行させる作戦として、私はこれを全否定します。なぜなら、「戦略的思考なき戦術的戦争観」によって、貴重な熟練戦闘機操縦士の命を湯水のように使い果たした末に、未熟練戦闘機操縦士の命をむざむざと浪費することでなおも戦争を続行しようとする構えは、特攻隊の生みの親とされる大西滝治郎中将がいうように「統率の外道」にほかならないからです。大東亜戦争を肯定しようとするあまり、勢い余って特攻作戦までも許容しようと試みるのは、私からすれば、「歴史観の外道」です。そう思うので、本土決戦に向けての参謀本部の次のような振る舞いに対して、私は嫌悪と蔑み以外のなにも感じません。

参謀本部は、特攻機、人間乗りロケット爆弾(桜花)、人間魚雷(回天)、特殊潜航艇(蛟龍)、爆装小型潜水艦(海竜)、爆装機動艇(震洋)、人間機雷(伏竜)、人間地雷など、人間と爆薬を主とした決戦を計画していた。      (児島襄『太平洋戦争』)

ただし私は、特攻隊員たちの死を犬死だとは決して思いません。上級総帥の「統率の外道」によって無残に強いられた死を、彼らが葛藤の末に従容として(あるいは本心ではしぶしぶと、でも、陰惨な気分で、でもかまいません)引き受けることで、内面的に選択し直して、それぞれの個性に応じて精神の自由を獲得する場合、彼らの特攻による死に、私は、犯し難い威厳を感じざるをえません。彼らの遺書を読むとそのようにおのずから感じられるのです。たとえ、遺書を書いた後、彼が操縦桿を握りながら恐怖のあまりに正気を失ったとしても、その気持ちに変わりはありません。それは、特攻作戦を戦術として全否定することとはおのずと別の、言ってしまえば文学の問題です。その意味で、悲惨の極みであることと崇高であることとは同居しうるのです。それくらいには、人間は捨てたもんじゃないと私は思っています。だから私は、戦争を語るのに、二言目には、やれ犬死だ、犠牲者だ、被害者だ、と言挙げしたがる手合いとどうしても馴染めないのです。″お前たちは、人間のことがちっとも分かっていないんじゃないか″と思ってしまうのです。

上級統帥の戦略的思考の欠如について、『失敗の本質』はどう言っているのか。児島襄と問題意識を共有しながらも、おのずと別の光の当て方をしています。

日本軍は、近代的官僚制組織と集団主義を混合させることによって、高度に不確実な環境下で機能するようなダイナミズムをも有する本来の官僚制組織とは異質の、日本的ハイブリッド組織をつくり上げたのかもしれない。しかも日本軍エリートは、このような日本的官僚制組織の有する現場の自由裁量と微調整主義を許容する長所を、逆に階層構造を利用して圧殺してしまったのである。そして、(中略)日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己革新能力を失ってしまった、ということであった。

傾聴に値する考察であると思います。言い方を変えると、日本軍は、過去の成功例を祭壇に祭り上げて、硬直した一種のイデオロギー集団と化してしまったということです。そうなった場合、組織の戦略的な目的は、「天皇のため」とか「大東亜共栄圏のため」などといった抽象的なものにとどまらざるをえなくなります。それは、実は不明確な目的しか持ち得ないことを意味します。というのは、抽象的な目的を少しでも具体的な次元に落とした場合、多義性を免れえないからです。つまり、組織の成員間で、現実的具体的な意味での目的の共有ができないのです。その具体例と弊害を、私たちは、沖縄戦に即して見てきたところです。出発点からそういうことであると、戦略的思考など鼻からできないことになります。つまり、日本軍における戦略的思考の欠如の根本原因は、その組織が、硬直した一種のイデオロギー集団と化してしまったことに求められる、という結論が得られそうです。その結果、「日本的官僚制組織の有する現場の自由裁量と微調整主義を許容する長所を、逆に階層構造を利用して圧殺」するに至ったのです。これでは戦争に勝てるはずがありません。″日本はアメリカの物量に負けた″という言い方がありますが、それは物事の一側面であって、それを盲信し敗北の本質への洞察を怠るならば、私たちはふたたび別な形でアメリカに負けるだけです。あるいは、負け続けるだけです。いまの日本の行政府における硬直性の根本原因は、「アメリカの言うことに追随していれば日本は大丈夫」という過去の成功例へのしがみつきであると、私は思っています。過去の日本軍といまの行政府の体質は、基本的に変わっていないのです。

「日本軍の失敗から私たちが学べること」というタイトルからすれば、一応の結論が得られたような気がします。沖縄戦との絡みで、大東亜戦争の義の問題を論じることが、最後の課題として残りました。それを、沖縄島民の集団自決問題を論じることで、次回、果たそうと考えています。沖縄島民の顔の見えない沖縄戦の叙述というのは、おかしいですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本軍の失敗から私たちが学べること(その2) サイパン島陥落

2014年06月09日 02時50分15秒 | 歴史
日本軍の失敗から私たちが学べること(その2) サイパン島陥落

インパール作戦が行き詰まり中止された昭和十九年(一九四四年)七月四日、中部太平洋ではサイパン島が失陥しようとしていました。しかし、「サイパン島陥落」と言われて、ピンとくる現代日本人はおそらくほとんどいないのではないでしょうか。それ以前に、太平洋の地図をパッと広げられて「どこがサイパン島か指差してみろ」と言われるとまごつくだけでしょう。ましてや、「ガダルカナル島は?ラバウルは?」と詰め寄られると万事休すということになるのではないでしょうか。もちろん、身に覚えがあるので、そう言っているのです。太平洋の島々に思いを馳せることって、なかなかありませんからね。その意味で、まずは下の図をご覧いただいて、お互い地理感覚を養いましょう。常識的なレベルでの地理感覚抜きで歴史を論じてもしょうがないですからね。


太平洋戦争激戦地

上の図の赤い印が、日米軍の激戦地です。それらの戦いを時系列順に並べてみましょう。

まずは、図の右端中央のパール・ハーバーから。これはもちろん、昭和十六年(一九四一年)十二月八日ハワイ真珠湾奇襲攻撃です。ご存知のとおり、(空母を撃沈しなかったことなど問題点はいろいろとありますが)日本軍の圧勝でした。

次は、その左ななめ上のミッドウェー島です。昭和十七年(一九四二年)六月五日のミッドウェー海戦で、日本軍は、空母四隻を失って大敗を喫しました。この戦いが、大東亜戦争における海戦のターニング・ポイントとされています。

次は、図の真ん中下のガダルカナル島です。前回詳しく述べたガダルカナル島の死闘は、昭和十八年(一九四三年)二月一日日本軍の撤退開始という形で終結しました。この戦いが、大東亜戦争における陸戦のターニング・ポイントとされています。

次は、図のいちばん上のアッツ島です。昭和十八年(一九四三年)五月二九日、三〇〇〇人の日本軍守備隊が全滅しました。太平洋戦線における日本側のはじめての玉砕でした。

次は、図の左端中央のインパールです。インパール作戦については、前回詳述しました。昭和十九年(一九四四年)七月四日、大本営は同作戦を中止しました。

その次が、図のほぼ中央のマリアナ諸島です。マリアナ諸島全域が激戦地であったと言っても過言ではありませんが、サイパン島がその中心です。昭和十九年(一九四四年)七月九日、サイパン島の日本軍は全滅し、米軍スプルーアンス大将は勝利宣言を発しました。

以下、地図中の激戦について年表風に触れておきましょう。
昭和十九年(一九四四年)十月二十五日、日本海軍、レイテ沖海戦敗北
昭和二〇年(一九四五年)三月十七日、硫黄島の日本軍守備隊全滅
(同年三月十九~二〇日、東京大空襲)
同年六月二三日、沖縄の日本軍全滅

さらに、その後の大戦の流れを記しておきましょう。

同年八月六日、広島に原爆投下
同年同月八日、ソ連の対日参戦(スターリンによるヤルタ会談の密約実行)
同年同月九日、長崎に原爆投下
同年同月十四日、ポツダム宣言受諾決定
同年同月十五日、天皇、「戦争終結」の詔書を放送

話を、サイパン島陥落に戻しましょう。当たり前のことですが、反攻に転じた米軍は、いきなりサイパン島を攻撃してきたわけではありません。日本軍の、太平洋の西半分に伸びきった戦線を着実に縮小させるように、システマティックかつ計画的に攻めてきたのです。次の図をご覧ください。



                  勢力圏と戦線と絶対国防圏

米軍の反攻が、ガダルカナル島から始まったことは、前回申し上げました。反攻の第一手として、そこが絶妙のポイントであることが上の図から分かりますね。そこを攻略した後、米軍統合参謀本部は、ふたつの反攻ルートを検討しました。ひとつは、「ソロモン諸島→ラバウル→ニューギニア→フィリピン諸島→台湾→日本本土」ルートで、もうひとつは、「ギルバート諸島→マーシャル諸島→トラック諸島→マリアナ諸島→硫黄島→沖縄→日本本土」のルートです。前者は、南西太平洋方面軍を率いるマッカーサー陸軍大将の主張であり、後者は、それ以外のすべての太平洋地域の指揮権を持つニミッツ太平洋方面最高司令官やキング作戦部長の主張でした。マッカーサーとニミッツの対立関係は有名です。ガダルカナル島を巡る作戦の主導権はとりあえずニミッツが握ったのですが、その後の反攻ルートをめぐるふたりの主張は、平行線をたどっています。統合参謀本部はミニッツ寄りの姿勢を示し、“ラバウル攻略は物的人的資源の耐えがたい消耗を招く」と結論づけました。しかし、ニミッツ・反攻ルートについても、日本本土進攻計画は時期尚早としました。

いささか話が詳細に渡りましたけれど、要するに、ニミッツの反攻ルートとマッカーサー反攻ルートのいずれも、日本の膨張した戦線を着実に少しずつ縮小させる計画的なものであることを確認したかったのです。また、サイパン島攻略が、米軍にとって必然的なものであったことも、おおむねお分かりいただけるのではないでしょうか。

なかなかサイパン島攻略の話にストレートに入れなくて申し訳ありませんが、もう一点、図中の「絶対国防圏」に触れておきましょう。これに触れるには、まず、一九四三年(昭和十八年)九月五日のイタリア降伏の影響について話す必要があります。『太平洋戦争』から引きましょう。

イタリアの枢軸脱落で、ドイツはその下腹から連合軍の脅威を受ける形となり、日本が期待したドイツによる英国打倒、その結果にもとづく米国の戦意喪失という場面は、もはや望むべくもなくなった。イタリアの敗北は、地中海の制海権、制空権が、連合軍の掌中に落ちたことを意味する。(中略)さらに地中海で不要となった連合国艦隊、とくに英艦隊のインド洋回航が見込まれ、イタリアの降伏は、太平洋の戦局にも重大な影響をおよぼすことが予想された。

「電撃」ドイツ軍の足手まといのような存在で、ヒトラー総統の頭痛の種であり続けた弱いイタリア軍でしたが、降伏してしまうと、その影響は甚大だったのです。また日米の戦局も攻守ところを変えて、日本が守勢に回ることが確実でした。それに加えて、船舶事情・造船事情・陸上兵力・航空兵力もすべて憂慮すべき状態でした。長期展望なき(戦略なき)作戦計画のツケが回ってきたと言っていいでしょう。そこで、日本政府は、同年九月三〇日、従来の″長期不敗″を改め、「今明年内に戦局の大勢を決する」ことを目途とし、絶対確保すべき要域を「千島、小笠原、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む太平洋及び印度洋」と定めました。防衛戦を縮小して内を固めようとしたのです。それが、絶対国防線です。

絶対国防線に含められた「内南洋」とは、南洋諸島のことです。一九一八年一月十八日、ベルサイユで開かれた第一次世界大戦の講和会議で、日本は赤道以北の太平洋諸島の統治を委任されることになりました。南洋諸島は、日本の委任統治領になったのです。一般的な「南洋」という言葉と区別するために、 日本が統治する南洋群島を当時「内南洋」と呼びました。また、その外側のフィリピン、ボルネオ、ジャワ、シンガポール、ニューギニア、ソロモンなどを「外南洋」と呼びました。そうして、内南洋の主だった島に支庁が置かれました。当時の日本が、本気で内南洋を統治しようとしたことが、そのことからもうかがわれます。グアム島に支庁が置かれなかったのは、同島が、一八九八年以来ずっと米国領であったからです(一九四一年に日本軍が占領しましたが、一九四四年に奪還されました)。



               戦前における日本の委任統治領

サイパン支庁がマリアナ諸島を管轄し、パラオ支社・ヤップ支社・トラック支社・ポナペ支社がカロリン諸島を管轄し、ヤルート支社がマーシャル諸島を管轄しました。つまり内南洋は、マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島の三つの諸島で構成されていました。そのうち、マーシャル諸島は、絶対国防線から外されました。しかし、海軍のトラック確保のためには、マーシャル諸島という前衛拠点が必要となります。実際、日本が絶対国防線を設定した四ヶ月後にマーシャル諸島来攻を敢行した米軍を、日本軍は迎え撃っています。その意味で、絶対国防線はけっこうあいまいだったのです。

ところで、上の図を見ていると、サイパン島が、ほかの内南洋地域と日本本土とをつなぐ中継地の位置にあることが分かります。そういう位置にある地域は栄えることになっていますね。実際そうだったようで、Wikipediaは、当時のサイパン島の繁栄の様子を次のように伝えています(一部、表現・表記を変えてあります)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E5%B3%B6#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E7.B5.B1.E6.B2.BB.E6.99.82.E4.BB.A3

日本の委任統治領となった後、サイパン島は内地から南洋への玄関口として栄え、サイパンで産出された砂糖の積み出し港としての役割にとどまらず、同じく日本の委任統治領であるパラオやマーシャル諸島、カロリン諸島などとの間での貿易の中継地点としても発展した。この時期に、プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、日本(主に沖縄県出身者)や台湾、朝鮮からの移民が移住した。

その間、準国策会社の南洋興発株式会社(本社所在地はサイパン島・チャランカノア)がサイパン島、ロタ島、テニアン島に製糖所を建設し、アジア最大の製糖産地として発展させた。設立者(社長)の松江春次は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれ、彼の功績が称えられて、彩帆(さいぱん)神社境内に「彩帆公園(現砂糖王公園)」が造園され、現職社長としては異例の寿像が建立された。

一九四三年八月の時点での人口は日本人(台湾人、朝鮮人含む)29,348人、チャモロ人、カナカ人3,926人、外国人11人となっていた。


サイパン島には、約三〇〇〇〇人の無辜の民間人がいたのです。そこが、それまでの戦いと大きく異なる点です。内南洋全体で、一九三九年頃には七〇〇〇〇人以上の民間人がいたそうですから、本土帰還の流れを勘案すれば、一九四三年八月時点で、内南洋全体の約半分の人口がサイパン島に集中していたことになりそうです。その後、本土疎開がなされたので、戦闘開始段階での在留邦人は約二〇〇〇〇人と推計されています。

この二〇〇〇〇人がどうなったのか。サイパン島の戦いに関して、私はそれがいちばん気にかかります。というのは、私は以下のように考えるからです。近代国民国家の戦争は、それが追い詰められてやむを得ず始めたられたものであろうと、なんであろうと、国益を守るためになされるべきものです。君主の私権のためになされるべきものではない、ということです。そうして、国益の核心には、無辜の一般国民の生命を守ることがあります。つまり、無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを絶った戦争に、義はない。だから、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければなりません。つまり、私は大東亜戦争のそれぞれの局面にできうることならば義とのつながりを求めようとするがゆえに、二〇〇〇〇人の行方が気にかかるのです。言いかえれば、「速に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す」という開戦の詔勅の精神をあくまでも尊重しようということです。これは、大東亜戦争が、大和民族にとって壮大な失敗体験であったことと必ずしも矛盾しません。失敗経験を重ねたりそれに巻き込まれたりしながらも、義を求めようとすることは可能であるからです。そういう姿勢を保持しえたならば、私はそこに義を認めようと思っています。

たとえば、硫黄島の死闘における栗林忠道中将の作戦思想に、私は義を認めます。なぜなら彼は、兵隊たちの命を決して粗末にしないという原則を貫き通すことによって、理にかなった作戦を展開することができたからです。「兵隊たちは一般国民ではなかろう」というのは屁理屈にほかなりません。兵隊たちの命を決して粗末にしないという原則を貫き通す姿勢に、無辜の一般国民の生命を守る精神が保持されているのです。たとえ絶体絶命の閉塞状況においても、人は合理性を貫き通すことによって、義とのつながりをキープしうるのです。そうして、あくまでも合理性を貫こうとすることにおいて、精神の強靭さが発揮される。それこそが、本当の精神主義なのではないかと私は考えます。硫黄島の戦いについては、ほかの戦いと同様に、いろいろな議論があるようですが、私はそう考えます。



                 サイパン島

では、二〇〇〇〇人は日米両軍の死闘のなかで、いったいどうなったのでしょうか。ふたたび、Wikipediaから引きましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.B1.85.E7.95.99.E6.B0.91.E3.81.AE.E6.9C.AC.E5.9C.9F.E7.96.8E.E9.96.8B

戦闘の末期になると、多くの日本人居留民が島の北部に追い詰められ、アメリカ軍にとらえられることを避けるためバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。多いときでは1日に70人以上の民間人が自決したといわれる。民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、当時の多数の日本人が信じていた「残虐非道の鬼畜米英」や帰国船撃沈事件の恐怖イメージのためにほとんど効果がなかった。また退避中の民間人に米軍が無差別攻撃したため、民間人の死傷者が続出していたことも影響した。サイパン島の日本軍が民間人に対する配慮を欠いていたことも自決の原因として指摘される。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である。
(中略)
戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容した。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人となっている。逆算すると8,000人~10,000人の在留邦人が死亡したとみられる。

大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。(中略)半数以上の民間人がアメリカ軍によって保護されたことは一般国民には伝えられなかった 。

戦闘終了後にアメリカ軍が生存者に対して行ったアンケート調査では、サイパンの日本兵が民間人にガダルカナルの戦い(日本の民間人がいなかった)で民間人がアメリカ軍に虐殺され女子は暴行された話を語っていたことが、サイパンの日本人民間人がアメリカへの投降を躊躇わせた原因として挙げられている。


民間人二〇〇〇〇人のうち、約半数は米軍に保護されることによって一命を取り留めたのでした。ということは、単純な引き算ですが、約半数の一〇〇〇〇人が戦闘の犠牲になった。『太平洋戦争』によれば、スプルーアンス大将がサイパン占領を声明した一九四四年七月九日に、約四〇〇〇人の日本人(そのほとんどが民間人)がサイパン北端に追い詰められたそうですから、そのなかの少なからぬ人たちが、バンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決したことになります。

サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した、という主張がおもに保守系の論客からなされる場合があります。その場合の論拠は、どうやら田中徳祐氏の『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』のようです。私は未読ですが、実際にサイパン戦を戦った者の証言ですから、そこには、自ずからなる説得力があるのでしょう。

また、児島襄の『太平洋戦争』においても、サイパン戦における米軍の民家人に対する虐殺行為や米軍兵の日本人に対する憎悪の強さがきちんと書き記されています。

サイパン米軍の″掃討前進″は徹底的だった。どんな小さな洞穴、くぼみ、草むらも見逃さず、前方に動く影には容赦なく銃弾を浴びせた。このため、日本兵だけでなく、水を求め、かくれ場所をさがしてさまよう市民も、すくなからず射ち倒された。
                     *
七月三日、第二海兵師団第二連隊は、ガラパン町(精糖・水産・牧畜等で繁盛したサイパンの中心地で、料理飲食店が九五軒を数えた―――引用者注)に入った。かつて繁華を誇った町も、いまは焼け焦げた柱とトタン板が散乱する瓦礫の街だった。人間と動物の死体が路上にころがり、死臭が霧のようにたちこめていた。
                     *
米兵たちは、日本人を憎んでいた。その憎悪が、呵責ない掃討作戦を支えていた(後略)。


「鬼畜米英」のイメージを叩き込まれてそれを素直に信じていた人々が、兵と民間人の区別なく無慈悲に掃討作戦を繰り広げる、赤い顔をした阿修羅のような巨漢の群れに臨んで恐怖のどん底に叩き込まれ、パニックに陥ったとしても何の不思議もありません。また、戦場という命のやりとりをする極限状況において、圧倒的な優位にあることからくる不埒な征服感に突き上げられ、日本の女性たちを強姦する不届者の米兵もおそらくいたことでしょう。戦争には、人間の暗黒面を誘発する側面があることはつとに語られています。

だから、サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した、という主張には、たとえ田中徳祐氏の著書における数々の証言の真偽をカッコに入れたとしても、傾聴に値する側面があるものと思われます。

しかし、だからといって、″「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるなかれ」という戦陣訓の縛りによって、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺した、と私たち日本人が信じてきたのは誤りだった。それは、戦後のGHQに叩き込まれたウォー・ギルド・インフォメーション・プログラムによる洗脳にほかならない″と主張するのは、私には極論であるように感じられます(そうであってくれれば、分かりやすくていいのですが)。

私が申し上げたいのは、サイパン島民間人二〇〇〇〇人の約半数を死に至らしめたのは、米軍だけではないということです。むろん現象としては、そういう様相を呈します。敵味方に分かれて戦争をしているのですから、それは当然のことです。しかし、大東亜戦争の展開過程を見渡すならば、失敗に次ぐ失敗を積み重ねてきた軍の上層部こそが、彼らを追い詰め、死に至らしめた張本人たちである、という感慨を私は禁じえないのです。また、そこには、戦争の義の問題も深く絡んでいます。

こういうことを観念的にぐだぐだと言っていてもしょうがありません。具体的にお話ししましょう。

まずは、島にいたら戦争に巻き込まれていることが分かっているのに、なぜ二〇〇〇〇人もの人々が、米軍上陸時に島にいたのか、という点について。その点については、日本政府も気づいていました。米軍のサイパン島上陸(六月十五日)の四ヶ月ほど前に、兵員増強の輸送船の帰りの船を利用して、内南洋に住んでいる婦女子・老人の日本本土への帰国が計画されました(十六歳~六十歳の男性は防衛強化要員として帰国が禁止されました)。その計画によって、日本への帰国対象者はマリアナ諸島各島からサイパンへと集結しました。しかし、三月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、五〇〇名の民間人ほぼ全員が死亡する事件があったため疎開はなかなかはかどりませんでした。そのほか、六月四日沈没の「白山丸」などでも多数の民間人犠牲者が出ています。アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を実施していたのです。そのため、二〇〇〇〇人もの民間人が米軍上陸時に島にいることになってしまったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.B1.85.E7.95.99.E6.B0.91.E3.81.AE.E6.9C.AC.E5.9C.9F.E7.96.8E.E9.96.8B

では日本軍は、なにゆえ米軍の無制限潜水艦作戦に対処できなかったのでしょうか。それは、端的に言えば、米軍にマリアナ諸島近海の制海権と制空権を握られていたからです。

さらに、ではなぜ米軍にマリアナ諸島近海の制海権と制空権を握られていたのでしょうか。それは、昭和十七年(一九四二年)六月五日のミッドウェー海戦で空母四隻を失って大敗を喫してからずっと、太平洋の島々の攻防戦において負けがこみ、日本の勢力圏が着実に縮小し続けたからです。

つまり、サイパン島民間人の帰国がうまくいかなかったのは、負け戦が続いたことの当然の帰結であった、と結論づけざるをえないのです。

以上を踏まえたうえで、『太平洋戦争』からの次の引用をご覧ください。それは、六月二十四日に参謀本部が下した、サイパン放棄に関する記述が見られる「機密戦争日誌」からの孫引きです(ちなみに、「機密戦争日誌」は、大本営陸軍部の第二〇班(戦争指導班)の参謀が、毎日の業務を交代で記述し、庶務将校が清書した、第二〇班としての業務日誌です。第二〇班の業務は、戦争指導に関する事務と大本営政府連絡会議に関する事務でした。だから、当日誌には、当時の政府と陸軍さらには海軍が、戦争指導についていかに考え、いかに実行しようとしたかが記録されている、と言えるでしょう。これに類する記録は、政府側にも海軍側にも残されていません。だから、当日誌は、当時の政府と陸海軍の戦争指導について知り得る第一級史料であるといえるでしょう)。

海軍は『あ』号作戦に関し陸軍と協議の上、中止するに決す。即ち帝国はサイパン島を放棄することとなれり。来月上旬中にはサイパン守備隊は玉砕すべし。最早希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ。

継戦中の戦争指導者たちの口から、「最早希望ある戦争指導は遂行し得ず」という事実上の敗北宣言の言葉が洩れているのには、正直ビックリしてしまいます。また、なんと無責任な、という思いも禁じえません。そういうお話しをする前に、引用文中の海軍の「あ」号作戦に触れておきましょう。

軍令部によれば、「あ」号作戦とは「我が決戦兵力の大部を集中して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を撃滅して敵の反攻企図を挫折」させようとする決戦方針でした。小沢中将が、その任務を遂行する第一艦隊(空母九、戦艦七など)の総責任者となりました。当初決戦海面は、パラオ近海とされていましたが、米軍のサイパン攻略が明らかとなった段階で(上陸は六月十五日未明)、小沢部隊はサイパンに急進しました。

六月十九日午前10時に火蓋を切られたマリアナ沖海戦は、米軍側の″マリアナの七面鳥打ち″という俗称からもうかがわれるように、惨敗に終わりました。一年がかりで養成した日本母艦部隊は、わずか二日であっけなく壊滅してしまったのです。敗因は、いろいろとあるのでしょうが、航空部隊搭乗員の未熟さが決定的でした。これまでの戦いで、日本軍は、あまりにも多くの有能な熟練搭乗員の命を失ってしまっていたのです。

これで、サイパン島守備隊は、自国の艦砲射撃や航空部隊の援護を受けられなくなりました。それで、先の「機密戦争日誌」の文言が繰り出されることになるのです。しかし、東条参謀総長は「サイパンは難攻不落です」と海軍側に胸を張って言明していたのではなかったでしょうか。それを思うと、児島襄の次の激しい言葉はもっともであるという思いを禁じえません。

しかし「サイパン確保の自信あり」の公言はどうなったのか。参謀本部の自信は、海軍に頼ってのことではなく、陸軍独力で島を保持できる意味のはずだった。それなのに、かくもあっさり放棄を決めるとすれば、参謀本部の公言は世にも無責任な虚勢であり、サイパン三万人の将兵と二万人の市民は、ただその虚勢のために砲火にさらされたことになる。東条首相はサイパン邦人に対して激励電報を打つことを提案したが、あまりにしらじらしい措置だとして、大本営政府連絡会議で否決された。

私は、軍指導部が負うべき責任は、上の児島襄の激語にとどまるものではないと考えます。軍指導部は、「最早希望ある戦争指導は遂行し得ず」という事実上の敗北宣言をしています。とするならば、指導部が考えるべきは、自分たちの、指導者としての失敗の責任を深く反省した上で、この失敗した戦争をなるべく早く終わらせて、兵士と無辜の一般国民のこれ以上の犠牲を防ぐにはどうしたらよいのか、です。それは、国体の護持を図ることと結局は同義です。その実現のために、指導部は、身を挺するべきだったのです。

しかるに指導部は、敗北宣言を発した舌の根も乾かぬうちに、「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」と口走っているのです。これは、最高責任者としてのノーブレス・オブリージュ(高貴な者であるがゆえの責任)を放棄し、失敗のツケを国民に回そうとする恥知らずの言葉であるのみならず、大東亜戦争から義を奪う言葉でもあります。なぜなら、さきほど申し上げたとおり、戦争に義を求めるとすれば、あくまでも無辜の一般国民の生命を守ることとのつながりを保とうとしなければならないからです。「残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」という言葉を発する精神は、それと正反対のものです。

その「一億玉砕」には、当然、サイパン島民間人二〇〇〇〇人が含まれます。つまり軍指導部は、サイパン島民間人二〇〇〇〇人の玉砕を是としたことになります。だからこそ、約一〇〇〇〇の民間人がアメリカ軍によって保護され一命を取り留めたことは一般国民には伝えられなかったのです。アッツ島で玉砕したのは将兵でした。サイパンの戦いでは、将兵のみならず民間人まで玉砕し、かつ、そのことが称揚されたのでした。救いようのないほどの酷い敗北をあえて称揚しようとする構えは、ボロ負けの敗者に特有の倒錯的な精神勝利法であると認識したほうがよいのではないでしょうか。むろん、その死それ自体は、掛け値なしに悼まれるべきですが。

このように筋道を立てて考えれば、サイパン島民間人二〇〇〇〇人を追い詰め、その約半数を死に至らしめ、バンザイクリフやスーサイドクリフから身を躍らせることを余儀なくさせたものの正体は、上陸した米軍であるというよりも、むしろ当時の日本の戦争指導部であると結論づけるほうが、正鵠を射ていることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

そこから汲み上げることができるのは、日本人の(すくなくとも近代以降の)権力思想には、民草の命を奪うことを美名の下に是とする暗黒面が存するという認識ではないかと思われます(それは、デフレ期にブラック企業が猖獗を極めることと通じているような気がします)。にもかかわらず、われわれ近代人は、国家権力の存在を自らのものとして引き受けるほかないと考えるところで、おそらく、私は反権力思想なるものと袂を分かつのではないかと考えています。

ひとつ付け加えなければならないことがありました。サイパン島攻略の成功によって、米軍は、日本本土を戦闘機で爆撃することが可能になりました。それを技術的に可能としたのは、B29長距離爆撃機の登場です。B29は、三万フィート以上を飛び、高射砲弾を受ける心配が少なく、戦闘機による迎撃も困難なほどの高々度を飛びます。サイパン島から、新兵器のB29が飛び立ったならば、東京・大阪・名古屋・北九州を含む日本列島の約半分が、その射程に入ってしまうのです。当時の日本の戦争指導部は、「本土決戦による一億玉砕」などと沈痛な面持ちで妄想をふくらませて息巻いていましたが、サイパン陥落は、将棋のたとえを使うと、相手から大手を指されるに等しかったのです。
                                                                                     (この稿つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本軍の失敗から私たちが学べること(その1)

2014年06月06日 03時43分11秒 | 歴史
日本軍の失敗から私たちが学べること(その1)

ある読書会で、児島襄(のぼる)の『太平洋戦争』(上下・中公新書)を取り上げました。それをきっかけに、戸部良一らの編著『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫)も個人的に読んでみました。

いずれも、軽やかな気分でリズミカルにページをめくることができなくて、読むのに多大の時間がかかってしまいました。読み進めながら、自分のどうしようもないところを、執拗に見せつけられているような感じを噛みしめ続けたからです。私はどうやら被虐的な性格ではないようで、そういう気分を味わい続けると、気が重くなってくるのです。

だったら、読むのを途中でよしてしまえばよさそうなものですが、運が悪いことに、「大東亜戦争とはいったいどういう戦争だったのか」というテーマは、いつのころからか、私の脳裏の片隅に巣食ってしまったようで、これらの著書は、それに否応なく響くところがあるので、無視しようにも無視できなくなってしまったのです。

読み終えての感想をひとことで言えば、いずれも、日本人としての自己認識の書である、となります。「負け戦」を延々と戦い続けるという民族の極限状況において、私たち日本人の弱点が鮮明にあぶり出されたことが、これらの著書を読めばよく分かるのです。こんなふうに言うと、「日本人には、いいところだってたくさんあるだろう」という声が聞こえてきそうな気がします。それはそうでしょうが、いまは、それを語る気分にはなれません。

大東亜戦争とは、日本民族にとって、壮大な失敗経験であった。やりきれない気持ちに負けない胆力を発揮して、それを冷静に直視し、そこから教訓として掴み取ることができたものこそが、いまに生きる私たちにとっての千金の価値を有する知的財産となる。そんなふうに、私は考えるのです。そう信じたいのです。

児島襄の『太平洋戦争』を読んでいて、大東亜戦争が負け戦の様相を決定的に呈しはじめたと感じたのは、次の、ガダルカナル島の戦いにおけるある日本兵の描写を目にしたときです。

連隊長は海岸沿いに東に進んだ。飛行場の南側のアウステン山を占領するのである。途中、ジャングルから迷い出た一木支隊、海軍設営隊の生き残りに出会った。ボロボロの服、青ざめた顔、靴もなく、手をのばして食を乞うた。その悲惨な様相に岡連隊長は驚き、部下の背負う米を分け与えた。深々と頭を下げる姿に、もはや戦士の面影はなかった。連隊長は暗澹として顔をそむけたが、まさか旬日を出ないで同じ運命が自分たちを見舞おうとは、夢想さえできなかった。

一木(いちき)支隊は、昭和十七年(一九四二年)八月十八日にガダルカナル奪回作戦の尖兵として送り込まれたわずか二〇〇〇人の歩兵部隊でした(先遣隊は九〇〇人)。支隊長の一木清直大佐は、帝国陸軍の伝統的戦法である白兵銃剣による夜襲をもってすれば、米軍の撃破は容易であると信じていました。その自信のほどは、出撃に際し「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」と第十七軍参謀に尋ねたことにも表れています。彼は、百戦錬磨の武人だったのです。

同島に上陸した米軍は、海兵第一師団を中心とする一三〇〇〇人でした。これは、一木大佐の予想をはるかに超えていました。同大佐は、先遣隊九〇〇人の手勢と、小銃弾二五〇発、糧食七日分で、過去の戦史に例を見ない水陸両用作戦を短期間のうちに開発していた米海兵隊に立ち向かうことになったのです。当然のことながら、一木支隊は、苦戦に次ぐ苦戦を強いられることになりました。突撃を敢行しようとする同支隊に対して、米軍は、機関銃・自動小銃・迫撃砲・手榴弾そうして戦車六両と、あらゆる兵器を動員して応戦しました。戦車をめぐる光景に関して、バンデクリフト第一海兵師団長は、「戦車の後部は、まるで肉ひき器のようだった」と衝撃の証言をしています。結局一木大佐は、八月二一日の午後三時頃、万策尽きたと観念して、軍旗を奉焼し自決して果てました。一木支隊は全滅したのです。わずかに逃げのびた残兵約一〇〇人は、ジャングルに身を潜め、増援部隊の到着を待ちました。先に引いた文章のなかの、戦士としての誇りが崩壊し乞食のようになってしまった兵隊は、そのなかのひとりだったのです。

こういう悲惨な結末の全責任を、無謀な作戦を企てた一木支隊長に帰してしまうことはできません。上層部が何をどう考えていたのかを掴んだうえで、彼らの責任をこそ問わなければならないと思うのです。

昭和十七年(一九四二年)八月七日に、米軍がガダルカナル島とツラギ島へ上陸したという第一報が大本営陸軍部に入ったとき、同部内にその地名を知っていた者はひとりもいませんでした。ガダルカナル島は、南太平洋ソロモン海に浮かぶ、四国の約三分の一ほどの面積の小島です。そこに海軍陸戦隊一五〇人と人夫約二〇〇〇人が飛行場を建設していたのを知ったのも、そのときが初めてでした。その次を話す前に、ガナルカナルの戦いに至るまでの大東亜戦争の流れをざっと振り返ってみましょう。

昭和十六年(一九四一年)十二月八日の真珠湾奇襲以来、わずか半年たらずの間に、日本軍は、太平洋と東南アジア全域を支配下におさめました。それはまさに破竹の勢いと形容しても大袈裟ではないほどのものでした。しかし日本が用意していた戦争計画は、この第一段作戦までで、その後は、余勢をかって戦局の拡大を試みるだけでした。その意味で、日本は壮大な無計画の戦争を断行したと言っても過言ではない。それゆえ、昭和十七年(一九四二年)六月五日に日本の連合艦隊が、ミッドウェー海戦で、四隻の空母を失うというはじめての敗北を米海軍に対して喫したのは、不可避のできごとであったというほかはありません。つまり、遠からず起こるべきことがついに起こったということです。戦力的に劣勢にあった当時の米海軍にとって、日本海軍が広く用いていた戦略常務用の「海軍暗号書D」の解読に、戦いの直前に成功していたことが大きかったようです。これによって、太平洋艦隊ミニッツ司令長官は、ミッドウェー作戦の計画に関して日本側の作戦参加艦長や部隊長とほぼ同程度の知識を得ることになりました。孫子の「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」をまさに地で行ったわけです。ミッドウェーの戦いは、大東亜戦争の海戦のターニング・ポイントと言われています。

ミッドウェー海戦後の米国は、成功が比較的に容易で大損害を避けうる、ステップ・バイ・ステップの上陸作戦を敢行することを決めていました。反攻の第一段としてガダルカナルを選んだのは、日本軍が米豪連絡線を遮断する企図で、そこに飛行場を建設中であったからです。

元来、米国の対日戦略の基本は、日本本土直撃による戦争終結でした(結果論的にいえば、日本には、無条件降伏よりほかの選択肢はなかったのです)。ただし、中部太平洋諸島の制圧なくしては、米軍の対日進攻はありえないし、航空機の前進基地確保は困難でした。米軍は、このような長期構想のもとに、大本営の反攻予測時期より早く、日本軍の補給線の伸びきった先端としてのガダルカナル島を突いてきたのです。

大本営陸軍部の話に戻りましょう。同部は、米軍の反攻開始は早くても昭和一八年(一九四三年)以降であるという根拠薄弱な希望的観測に傾いていたので、“米軍のガダルカナル島上陸は一種の偵察作戦か飛行場の破壊作戦であるにちがいない。それゆえ、米軍の上陸兵力は著しく劣勢であり、そのうえ米陸軍は弱いから、ガダルカナル島奪回兵力は、小さくても早く派遣できる部隊がよい”と判断したのです。同部は、米国の長期戦略の所在もその本質も理解していませんでした。また、日本陸海軍ともに、その時点の米軍が海兵隊を中心とし陸海空の機能を統合して島から島へと逐次総反攻を進める水陸両用作戦という新たな戦法を開発していたことなど、夢にも想わなかったのです。

先に、『太平洋戦争』から引いた文章中の、乞食然としたひとりの日本兵士の登場には、以上のべたような深刻な背景、すなわち、軍上層部の救いがたいまでの錯誤があるのです。私が「大東亜戦争が負け戦の様相を決定的に呈しはじめたと感じた」のは、少なくとも無根拠ではないことがお分かりいただけたでしょうか。

日本軍は、一木支隊先遣隊九〇〇人の全滅後、次は六〇〇〇人の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退されるというパターンを繰り返しました。その間、二度の総攻撃を敢行したもののヘンダーソン飛行場基地の奪回は成らず、糧秣弾薬の補給が輸送船の沈没や駆逐艦の大量消耗により継続できなくなり、日本軍は同年十二月三一日の異例の御前会議でガダルカナル島からの撤退を決めました。撤退命令は翌昭和十八年(一九四三年)一月に伝達されました。第一七軍に対する撤退命令の伝達を担当した方面軍参謀井本熊男中佐の日誌に基づく、撤退命令伝達時の現地の生々しい状況の描写を『太平洋戦争』から引いてみます。いささか長くなります。



          ガダルカナル島

中佐はその夜(昭和一八年一月十二日の夜――引用者注)、ガ島西北端のエスペランス岬付近に上陸した。翌朝まず、中佐の目にうつったガ島の光景は、第一線からエスペランスの糧秣補給所に往復する兵士の群だった。青ざめた顔、のびたヒゲ、申し合わせたように抜身の銃剣をバンドにさしていた。三々五々、無表情でひょろひょろと歩いていた。帰途に向かう者は、各自一〇~二〇キロの糧食を背負ってよろめいていた。ぼんやりと道ばたに座りこみ、銃剣でヤシの実をほじっている兵もいた。セギロー川のほとりに第二師団、東海林連隊の野戦病院があった。病院といっても、ジャングルの下枝をはらい、樹木で床上げをしてテントを張っただけのものだった。カヤも毛布もない。患者たちの顔は、この世のものとは思えなかった。すぐ隣りにある便所は、激しい下痢便で充満し、そのあまりの臭気に中佐は吐き気をおぼえた。なんとか動ける者が、仲間の炊事の面倒をみる。水筒を六、七人分肩にかけ、木の枝につかまりながら、よろよろと水を汲みにいく。中隊長も、将校も、下士官も区別はなかった。いくらか気分のよい患者なのか、杖をつき、よぼよぼと現れて、中佐に言った。「参謀どの。もう四、五日飲まず食わずです。水筒のお湯をひとくち、飲ませていただけませんか」。水筒をはずして渡すと、「ああ、もったいない、もったいない」。そのことばは、まさに乞食そのままである。これが二二、三歳の皇軍の兵士か――井本中佐は思わず叱咤したくなったが、考えてみれば、このような姿にしたのは誰の責任か。中佐は頭をたれて歩いた。

このような地獄絵図が、まだまだ続くのですが、引くのはこれくらいにしておきます。これを読んでいるうちに、読み手の私たちも、井本中佐や著者の児島襄とともに「このような姿にしたのは誰の責任か」と問いかけたくなります。それは、もちろん、軍上層部の責任であります。戦場の最前線において命懸けで戦った兵士たちを、身も心もボロボロになり乞食同然になってしまうまでほったらかしたのは、現場の惨状を把握する能力を欠いた軍上層部にほかなりません。ここを読んでやりきれない思いと怒りが禁じ得なくなってくる自分の心の動きを凝めるうちに、私は、その怒りの矛先が、現在の自民党安倍政権に対しても向いていることに気づきました。どうしてそういうことになるのか。それは、消費増税を断行し、また、国内外のグローバル資本にのみ有利な成長戦略(第3の矢)という名の悪しき規制緩和を矢継ぎ早に実施しようとする安倍政権に決定的に欠けているのは、そういう施策を講じることで、国内の民草がいかに苦しい思いをすることになるか、ということについてのまっとうな想像力であるという点が、ガダルカナルの戦いで(も)誤った意思決定をし続けた軍の上層部とそっくりであるからです。安倍政権は、かつての小泉政権と同様に、欧米社会のパワー・エリートたちの頭脳を支配している誤った思想を後追いしているのです。ここは、安倍政権批判の場ではありませんから、これ以上筆鋒を同政権に差し向けるのは控えます。過去の歴史は常に現在である、という思いを強くします。

ガダルカナル島に投入された日本人将兵は、約三万二千人。そのうち戦死は一万二五〇〇人余り、戦傷死は一九〇〇人余り、戦病死は四二〇〇人余り、行方不明は二五〇〇人にのぼりました。それに対して、米軍の犠牲は、戦闘参加将兵六万人のうち戦死者は一〇〇〇人、負傷者は四二四五人を数えるだけです。餓死した米軍兵士はひとりもいませんでした。ちなみに、ガダルカナルの戦いは、大東亜戦争の陸戦のターニング・ポイントと言われています。

ガダルカナルの地獄絵図と同じような光景が、インパール作戦においても、拡大された形で再現されています。最初に、これもまた地獄絵図の一部を成すのではありますが、そういう状況においても、戦友を思いやる人間的な心が失われていないことを物語る描写を『太平洋戦争』から引きましょう。

日本軍は、山道にハシゴをかけ、木の根をつたって逃げた。飯盒を片手に、杖にすがって悄然と雨にうたれて歩いた。急ごしらえの馬そりにのった病兵、担架にのせられた傷兵も、沛然と降る雨にぬれつづけた。しかし飢えとマラリア、赤痢に苦しむ兵士の中で、傷病の戦友を運ぶことにグチをこぼす者はいなかった。第三十一師団歩兵団長宮崎少将は、作戦開始の直前、チンドウィン河畔の村長から贈られた小猿「チビ」を肩にのせて、病兵をはげましていた。

ここを読んで、竹山道雄の傑作戦争童話『ビルマの竪琴』を思い浮かべるのは、私だけではないでしょう。日本軍に通底していた戦友を大切にする心が、この童話が誕生する精神的な土台のひとつを成していたのではないか、という感想が浮かんできます。

次は、正真正銘の地獄絵図です。

道ばたには点々として負傷兵が横たわっていた。その眼、鼻、口にウジ虫がうごめいている。のびた髪の毛に真白にウジが集まり、白髪のように見える兵が歩いていた。木の枝に妻子の写真をかけ、その下でおがむように息絶えた死体、マラリアの高熱に冒されて譫言(うわごと)を口走る者、ぱっくりあいた腿の傷に指を入れてウジをほじくりだす兵士・・・・・泥のなかにうずくまったまま「兵隊さん、手榴弾を下さい・・・・・兵隊さん」と呼びかける兵士がいる。自分はもう「兵隊さん」ではないと思っているのだ。―――その兵士だけではない。戦闘から解き放された第十五軍は、もはや戦士の集団ではなく、疲れ果てた人間の群れに過ぎなかった。

何が、兵士たちをここまで追い込んだのか。それはもちろん敵軍ではなくて軍の上層部である、というべきです。どうしてそうなのかをはっきりさせるために、上のような惨状に至るまでの流れを追いかけてみましょう。ため息が出てくるような話ばかりが続きますが、お付き合い願えれば幸いです。

昭和十七年(一九四二年)十一月下旬に一度は立ち消えたはずの東部インド進攻作戦が再浮上してきたのは、翌年の三月下旬でした。その背景のひとつは、(日本側に立った場合の)戦争全体の悪化にともなうビルマをめぐる情勢の憂慮すべき方向への変化です。すなわち、連合軍のビルマ奪回のための準備が徐々に本格化するきざしを示したのです。連合軍のビルマ奪回作戦構想は、雲南・フーコン渓谷・インパールの三つの正面から事前に限定攻撃を行った後、この三正面からの攻勢とビルマ南西海岸(アキャブ)およびラングーンへの上陸作戦敢行とによって総反撃を実施しようとするものでした。


            インド・ビルマ国境

とくにフーコン方面では、在華米軍司令官スティルウェル中将の指揮下で、ビルマからインドに敗走した中国軍が米式訓練と米式装備をほどこされた新編第一軍として再建されるとともに、インドからビルマを経て中国にいたる輸送ルート(いわゆる援蒋ルート)の建設が進められ、昭和一八年(一九四三年)雨季入りまでにビルマ国境に達しました。

一方、昭和十七年(一九四二年)一〇月以来、英印軍はビルマの南西沿岸アキャブ方面に進出しました。日本軍(第五五師団)はようやくこれを撃退しましたが、その攻防のくりかえしと日本軍の航空戦力のシフトとによって、ビルマ上空の制空権が連合軍側に握られていることが明らかとなってきました。

この制空権を利用して、連合軍はビルマ北部に遠距離挺進作戦を敢行しました。旅団長の名をとってウィンゲート旅団と呼ばれたこの挺進部隊は、空中補給を受けつつ無線誘導によって指揮され、日本軍の占領地域内で戦線後方を攪乱することを目的として編成されたものでした。同旅団の神出鬼没の活躍ぶりには目覚しいものがありました。日本軍は、同旅団に対する掃討戦を展開することになるのですが、その過程で、次のことが判明しました。すなわち、ジュビュー山系からチンドウィン河畔に至る地域(上図参照)は、それまで大部隊の作戦行動至難と判断されていたのですが、ウィンゲート旅団の行動によって、必ずしもそうではないことが明らかとなったのです。それが、一度は立ち消えたはずの東部インド進攻作戦が再浮上してきたもうひとつの背景です。

以上の情勢の変化を背景にして、日本軍は、予想される連合軍の総反攻に対処するために、ビルマ防衛機構を刷新強化する措置をとりました。すなわち昭和一八年(一九四三年)三月下旬、ビルマ方面軍が新設され方面軍司令官には河辺正三中将が就任し、その隷下に第十五軍が入って軍司令官には牟田口 廉也(むたぐち れんや)中将が昇格しました。そして、北部および中部ビルマの防衛・作戦指導は第十五軍に任せ、方面軍はアキャブの第五五師団を直轄として、ビルマの独立準備や対インド工作など、政戦略全般にあたることになったのです。

この防衛機構の再編において注目されるのは、諸般の事情から、インパールをめぐる作戦構想が、幕僚補佐を受けることなく、牟田口軍司令官ひとりのイニシアチブによって切り回されるに至ったことです。つまり、インパール作戦の決定に至る過程は、牟田口を軸として展開されていくのです。


             牟田口廉也中将

では、牟田口のインド進攻構想とは、どういうものだったのでしょうか。それを語るには、昭和十七年(一九四二年)十一月下旬に、東部インド進攻作戦(二一号作戦)が一度立ち消えになったことにさかのぼらなければなりません。その当時牟田口は、同作戦の主力に予定されていた第十八師団の団長として、同作戦に反対しました。ところが、第十五軍司令官に就任してからの彼は、その判断が百八十度転換しています。連合軍の三正面からの総反攻準備が進んでいることを知り、ウィンゲート旅団の挺進作戦を見た彼は、従来の守勢的ビルマ防衛ではなく、攻勢防禦によるビルマ防衛論を唱えたのです。

しかし彼の構想は、それにとどまるものではありませんでした。それは、単なるビルマ防衛を超え、インド進攻にまで飛躍するものでした。彼は、同年五月中旬に第十五軍司令部を訪れた稲田正純南方軍総参謀副長に「アッサム州かベンガル州で死なせてくれ」と語っています。そこには、個人的な心情もからんでいたようです。日華事変勃発の直接の原因となった盧溝橋事件のときの現場の連隊長だった彼は、つねづね次のように述懐していました。

大東亜戦争は、いわば、わしの責任だ。盧溝橋で第一発を射って戦争を起こしたのはわしだから、わしが、この戦争のかたをつけねばならんと思うておる。                            (『太平洋戦争』より)

こういう、誇大自己感に起因する身勝手な責任感は、通常、周りに多大な迷惑をかけるものです。このような心の構え方をした人物が、なまじ権力を手にしてしまうと、手の付けられない事態を惹起してしまうのです。始末が悪いことに、方面軍司令官河辺中将は、奇しくも、盧溝橋事件当時の旅団長です。ふたりは、それ以来の親しい間柄だったのです。河辺中将は、牟田口中将の「責任感」にあふれた述懐に大きくうなずき、手に手を取って敗色濃厚な国運の打開に邁進しようと、支持を確約するのでした。河辺中将は「なんとかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、私情に動かされ、牟田口の言動をあえて抑制しようとはしませんでした。甘やかしたわけです。牟田口も大いに甘えたわけです。

昭和十八年(一九四三年)五月上旬にシンガポールの南方軍司令部(総司令官・寺内寿一)で開かれた軍司令官会同の後の六月下旬の段階で、インパール作戦自体に関しては、第十五軍(牟田口)、方面軍(河辺)、南方軍(寺内)の間に攻勢防禦という点での合意が形成されました。しかし、この作戦がアッサム進攻を含まない純然たるビルマ防衛のための限定作戦であること、補給を重視し南方に重点を移して作戦の柔軟性と堅実性を図るべきこと、という南方軍と方面軍の趣旨は第十五軍には徹底されませんでした。アッサム進攻の企図を秘め北方に重点を指向して敵を急襲撃破するという第十五軍(牟田口)の作戦は、少しも堅実なものに改められなかったのです。さらに憂慮すべきことに、南方軍および方面軍では、兵棋演習(へいぎえんしゅう・状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究)での検討と注意により第十五軍の作戦計画が修正されるはすだと期待して、第十五軍が中栄太郎方面軍参謀長や稲田正純南方軍総参謀副長の所見の趣旨を理解していないことになかなか気がつかなかったのです。要するに、頭の回る人たちにとって、牟田口の頭の硬さや頑なさの程度は想定外であったという側面が否めないようです。いくらなんでもそこまで馬鹿じゃあるまい、と。結果的には、彼らの見通しは甘かったというよりほかはありません。

では、大本営はどうだったのでしょうか。大本営では、インパール作戦自体に関して否定的な見方が有力でした。インパール作戦の兵棋演習に同席して帰国した竹田宮大本営参謀の報告によれば、「十五軍ノ考ハ徹底的ト云フヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」であり、作戦準備の現状からして実施はとうてい無理と見られました。しかし、現地軍が攻勢防禦の必要について合意している以上、大本営としてもこれを無視してしまうわけにもいかず、また、たとえインパールが取れなくてもインドの一角に日本が後押しするインド独立義勇軍の拠点をつくることができれば、東条政権の戦争指導に色をつけ、政治的効果を治めることも期待されました。こうして大本営は、作戦実施如何は将来にゆだねて(先送り、というわけです)、八月初旬、インパール作戦実施準備の指示を南方軍に発しました。

政治的効果、という観点からすれば、昭和十八年(一九四三年)十一月五日に東京で開かれた大東亜会議は重要です。それは、大東亜会議が東条内閣の目論んだ通りの成果を挙げたという意味においてではなくて、大東亜会議の結果をふまえて、東条英機が、インパール作戦を認可するに至った、という意味においてです。どういうことか。以下、説明します。

同会議に集まったのは、汪兆銘南京政府主席、張景恵満州国総理、ワンタイタイ国首相代理、ラウレルフィリピン大統領、バー・モウビルマ首相です。また、チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班はオブザーバーとして参加しました。同会議の成果について、児島襄は「内実はひどくお粗末なものだった」「大東亜の代表はただ集まったにすぎず、日本とはお互いに気持ちが離れた状態だった」とかなりの辛口評です。そのことの是非の検討は他の機会に譲りますが、次の指摘は重要です。

ボース首班は、自分の目的は日本の力を借りてインド独立を達成するにあると公言し、四三年十月、シンガポールで自由インド仮政府が発足。日本が十月二十四日承認すると、直ちに米英に宣戦した。大東亜会議に現れると、自由インド政府の領土を求めた。東条首相がアンダマン、ニコバル諸島を将来帰属させる措置をとると、ボース首班は、島ではなくインド領内の土地がほしいと答え、インパール作戦計画の存在を知るや、インパールを自由政府の本拠にしたい、みずから自由インド義勇軍を率いて参加すると、強硬に作戦実施を要求した。

ボースのこの態度が、東条英機首相の心にどのように響いたのかを想像するのは、それほど難しいことではないでしょう。長らくの戦争によって、経済活動が低迷し、町には木炭自動車が走り、陶製のアイロンや紙製の洗面器が出回るなど、国民生活の崩壊が誰の目にも明らかになってきたことにより、東条内閣に対する国民の不満が高まっていました。また、四三年十月には、戦争状態の悪化を背景として、明治神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が催され、戦局が困難になっていることが一般国民にも分かるようになっていました。さらには、政治の世界で東条降ろしの動きがあることも彼の耳に入っていたことでしょう。つまり、彼は色々な意味で孤立感を深めていた。そういう状況において、ボースの存在は、一筋の光明のように、東条の心をパッと明るくし、塞ぎがちな彼の心を奮い立たせた。事実彼は、次のような動きに出ました。

とにかく、戦争に積極的に協力する態度を示したのは、大東亜指導者の中でこのボース首班だけである。東条首相は、大東亜政略の見地からボース首班の希望に耳を傾け、さらに南方軍にインパール作戦の確度を念を押したうえで、四四年一月七日、作戦の認可を与えたのである。                                              (『太平洋戦争』より)

ついに、軍首脳部のみならず一国の首相までもが、牟田口の妄想じみた愚かで無謀な作戦にゴー・サインを送ってしまった、ということです。

牟田口のインパール作戦(「ウ号作戦」)の無謀さについて、さらに話を進めましょう。牟田口第十五軍の「ウ号作戦」計画は戦略的急襲を前提として成り立っていました。それは、急襲突進によって敵に指揮の混乱と士気の沮喪とを生ぜしめ、それに乗じて一気に勝敗を決しようとするものであり、急襲の効果に作戦の成否がかかっていました。では、もし急襲の効果が生じなかった場合はどうするのか。その場合の対処法がきわめて重要になってきます。すなわち、急襲作戦の場合、コンティンジェンシー・プラン(不測の事態に備えた計画)が事前に検討されていなければならないのです。しかるに、そういうものはまったくありませんでした。

牟田口は、“作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つことと同じであるがゆえに必勝の信念と矛盾する。そうであるがゆえに、それは部隊の士気に悪影響を及ぼす”と考えました。彼の思考経路には、コンティンジェンシー・プランを検討する余地などまったくなかったのです。

そのことを危ぶんで、昭和十九年(一九四四年)一月中旬、中方面軍参謀長は、第十五軍に攻勢命令を出す際、主攻勢方面と兵力量とを明記することによって方面軍の作戦構想を第十五軍に強要しようとしました。ところが川辺は、「そこまで決めつけては牟田口の立つ瀬はあるまい。また大軍の統帥としてもあまり格好がよくない」と、中の命令案を押さえてしまいました。この重大時に臨んで、「体面」や「人情」が軍事的合理性を凌駕してしまっているのです。

実は、第十五軍の急襲突進戦法の効果は、戦う以前にすでに失われていました。というのは、スリム中将指揮下のイギリス第十四軍が斥候や空中偵察によって日本軍の作戦準備状況をキャッチし、インパール作戦の概要をほぼ正確につかんでいたからです。それに基づいてスリムは、主力の戦場をチンドウィン河東岸に求めるという既定方針を放棄し、後退作戦に転換しました。つまり、敵に過酷な山越えを強要して消耗させ、その補給線が伸びきったところを、インパール周辺地区で叩く、というのがスリムの新たな作戦構想でした。

ところが牟田口は、敵をナメきっていました。次は、牟田口の言葉です。

英印軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する。補給を重視し、とやかく心配するのは誤りである。マレー作戦の体験に照らしても、果敢な突進こそ戦勝の近道である。                            (『失敗の本質』より)

自分の、僥倖に満ちた、ささやかな成功体験から割り出された急襲突破一辺倒の作戦構想と敵戦力の過小評価(相手をナメきった態度)が、情報軽視と補給・兵站の不備・軽視を生んでいるのがよく分かります。

牟田口の、(自分が認める者以外の)他人の意見に謙虚に耳を傾けようとしない依怙地な性格は、彼と第十五軍を構成する各師団長とのコミュニケーションをいちじるしく阻害することになりました。これが由々しき事態であることは、軍事の素人である私たちにもよく分かりますね。

インパール作戦を遂行する第十五軍の構成は、次のとおりです。
第十五軍(司令官・牟田口廉也中将)
同軍配下三師団
・第三十一師団(師団長・佐藤幸徳中将)
・第十五師団(師団長・山内正文中将)
・第三十三師団(師団長・柳田元三中将)

三人の師団長のなかで、柳田師団長は、当作戦緒戦段階の昭和十九年三月二七日に、インパール作戦の中止を牟田口司令官に対して具申しました。牟田口司令官は、驚くやら怒るやらで大変なことになりました。その四日後、柳田師団長は、ようやく前進を再開しましたが、その進撃は、一村をおとすたびに停止する「統制前進」に近いものでした。

柳田師団長は、陸大の優等生で(陸士第二六期)、なにごとにおいても理論と計算を重んじる合理主義者でした。それゆえ、非合理のかたまりのようなインパール作戦とは最初から肌が合わなかったのです。だから、緒戦の段階で早くも作戦中止を主張し、督促命令を受けながらなおも前進をしぶったのです。彼は、“太平洋の戦訓は、航空勢力と補給を欠く作戦は必敗であることを明示している。この二つをともなわないインパール作戦の前途も明らかである。また、インパールは攻略後の維持がむずかしい。そこを攻めるのは、単なる戦闘のための戦闘にほかならない”と考えました。その考え方は、山内師団長と佐藤師団長の共感を呼びました。その結果、第十五軍は、とんでもない事態に陥ってしまったのです。『太平洋戦争』から引きましょう。

このような三師団長の思想は、不可能を可能とすることが軍人の本務と信じている牟田口中将には不快だった。牟田口中将は師団長たちを避けた。(中略)一月末、メイミョウの第十五軍司令部で最後のインパール作戦兵棋演習が開かれたとき、集められたのは参謀長、作戦主任参謀たちで、三人の師団長は呼ばれなかった。このため、戦闘責任者の師団長が、軍司令官の意図も作戦内容も十分に納得しないで戦場に臨むという、致命的な欠陥をもたらした。この一点だけでも、インパール作戦の失敗は予告されていたといえるが、同時に疎外された師団長の胸には、軍司令官にたいする反感が強く植えつけられた。

これだけでも唖然としてしまうのですが、こういう険悪な状態を背景とし、糧食の補給の途絶という極限状況がそれに加味されたところで、佐藤師団長の独断退却という、軍として信じがたい下克上的な意思決定がなされることになります。英軍との、雨と泥のなかでの紛戦状態に巻き込まれた第三十一師団の守備隊長白石大佐は、五月三一日の夜、玉砕を決意して、佐藤師団長に告別の電話をしました。それを受けた佐藤師団長は、即座に退却を決意し、病兵一五〇〇人の後送を指示し、宮崎兵団長に六〇〇人を預けて後退援護を命じ、六月三日、第三十一師団はいっせいに退却を開始しました。

佐藤師団長の決断に激しいショックを受けた牟田口中将のもとを、六月六日、河辺方面軍司令官が訪れました。そのときの心境を、ふたりは後に述懐しています。『太平洋戦争』から引きます。

牟田口中将「私は河辺将軍の真の腹は、作戦継続に関する私の考えを察知すべく、脈をとりに来たことを十分察知したが、どうしても将軍に吐露することが出来なかった。私はただ、私の風貌によって察知して貰いたかったのである」
河辺中将「・・・・・ラングーンに帰った・・・・・予の瞼には鬼気ただよう陰雨の下、陣頭に立つ我が将兵、ことにパレル戦線で握手したインド国民軍将兵の顔が彷彿としてやまぬ・・・・・若し冷静にこの戦況を客観することが許されたならば、この時すでに予はこの作戦中止の決心に出たであろう。しかし、この作戦には私の視野以外さらに大きな性格があった。なんらか打つべき手の一つでも残っている限り、最後まで戦わねばならぬ。この作戦には、日印両国の運命がかかっている。そしてチャンドラ・ボースと心中するのだ、と予は自分自身に言い聞かせた」     
                                      (元歩兵第五十八連隊戦記『ビルマ戦線』)

ふたりの男の愚にもつかない浪花節的コミュニケーションと、能天気で陳腐な英雄気取りのセンチメンタリズムが災いして、第十五軍は、ふたたびインパールに向かうことになりました。その結果、兵士としてのプライドを徹底的に打ち砕かれ乞食然と化した若者の群れが生まれることになったのでした。日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれたことは有名なお話しです。

茶番劇は、それではすみませんでした。佐藤師団長の行為は明らかな命令違反です。軍法会議に付されるのは当然の措置でした。佐藤中将も、それを覚悟していました。しかし、河辺司令官は軍医に彼を「急性精神過労症」と診断させ、予備役に編入したうえで、応召の形式をとってスマトラに赴任させました。また、牟田口中将の、司令官としての統率力の欠如は、軍として大きな問題に発展してしかるべきでした。ところが彼は、十二月に予備役編入され、翌昭和二〇年一月に召集され、応召の予備役中将として陸軍予科士官学校長に補されたのでした。上層部は、温情主義のつもりだったのかもしれませんが、実は、無原則・無節操なただの無茶苦茶人事にほかなりません。

なんと茶番劇は、戦後にまで持ち越されます。というのは、死去する一九六六年までの晩年の四年間、牟田口は、インパール作戦失敗の責任を問われると、戦時中と同様に「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張し続けたのですから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F

インパール作戦の愚かしさは、どうやら底なし沼のようです。

作戦終了後の各師団の兵員は、第十五師団約三〇〇〇、第三十一師団約五五〇〇、第三十三師団約三三〇〇。それぞれ作戦開始前の九%、八.五%、九%に減っていました。
                                  (この稿、続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする