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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

たぶん日本で一番長い「ケインズ 年譜」  (美津島明)

2015年03月25日 03時17分36秒 | 歴史
たぶん日本で一番長い「ケインズ 年譜」  (美津島明)
――偏見との闘い、ノーブレス・オブリージュ、美なるものへの愛



妻のリディア・ロポコヴァと踊るケインズ
ロポコヴァは元バレリーナ


以下は、三月二二日(日)の経済問題研究会で使ったケインズの年譜に加筆・訂正したものです。元ネタは、中央公論社『世界の名著 ケインズ ハロッド』巻末の「ケインズ年譜」です。おそらく日本で一番長い「ケインズ年譜」になったのではないでしょうか。別に、自慢するほどのことではありませんけれど。


ケインズの生家

一八八三年(明治一六年) 六月五日、ジョン・メイナード・ケインズは、大学都市ケンブリッジのハーヴェイ・ロード六番地で、ジョン・ネヴィル・ケインズの長男として生まれる。母はフローレンス・エイダで、ケンブリッジのニューナム・カレッジの出(後に、ケンブリッジ市長となる)。母エイダは、典型的なヴィクトリア時代の伝道的哲学者シジウィックの指導を受けた。生家は、芝生で囲まれたかなり広いヴィクトリア調の家。ケインズと対照的な経済学者J・A・シュンペーターは、同年二月八日に生まれ、カール・マルクスは、同年三月一四日、ロンドンで死去した。父ネヴィルの『形式論理学』出版。ケンブリッジの経済学を築いたアルフレッド・マーシャルは、父ネヴィルの親しい同僚であり、先輩であった。日本では、鹿鳴館落成。
一八八四年(明治一七年)一歳 フェビアン協会設立。
一八八五年(明治一八年)二歳 妹マーガレットが生まれる。後に、A.V.ヒル(生物学者。一九二二年ノーベル賞授賞)と結婚した。
一八八七年(明治二〇年)四歳 弟ジェフリーが生まれる。後に、外科医となる。
一八九〇年(明治二三年)七歳 パース・スクール幼稚園に入る。この年、王立経済学会が創設される。アルフレッド・マーシャル『経済学原理』出版。
一八九一年(明治二四年)八歳 父、『経済学の領域及方法』を出版。
一八九二年(明治二五年)九歳 セント・フェイス予備校に入る。
一八九七年(明治三〇年)一四歳 イートン・スクールに入学。在学中、イートン・スクールが与える数学の賞をすべて獲得し、数学と古典に興味を集中する。
一八九九年(明治三二年)一六歳(~一九〇二年)南アフリカ(ブール)戦争勃発。南アフリカ南端のケープ地域のオランダ人子孫のブール人は、ケープ植民地がイギリス領になると、北に逃れてトランスヴァール共和国・オレンジ自由国を建国。この地からダイヤや金鉱が発見されると、イギリス人が続々と入り込んだ。ケープ植民地の首相セシル・ローズは両国の併合を企てたが失敗。本国の植民地相ジョゼフ・チェンバレンが両国に侵略し、南アフリカ戦争が勃発した。同戦争に勝利したイギリスはブール人に自治を認め、白人のアフリカ人に対する共同支配体制を確立した。第一次世界大戦を境に、覇権国家の地位をアメリカに譲る直前における、イギリスの典型的な帝国主義的手法の最後の実例といえよう。
一九〇二年(明治三五年)一九歳 ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学。クライスト・カレッジのフェローで、後に数学の教授になったホブソンの指導をケインズとW.M.ペイジが週に三回受ける。当時のフェローには、年長のオスカー・ブラウニング、モンターギュ・ローズ=ジェイムズ、カレッジのチューターには、W.H.マコーレー、W.E.ジョンソン、若年のローズ・ディキンソン、A.C.ピグーらがいた。ケインズの最良の友はロビン・ファーネスであり、フェローではディキンソンと親しくなり、一生を通じて彼から大きな影響を受けた。ケインズが、バートランド・ラッセルやG.E.ムーアと出会ったのも、ディキンソンが主催する討論会Discussion Society に参加したことによってであった。ディキンソンは、フェビアン協会の人たちとの交流があり、進歩的雰囲気と優しさとをただよわせ、また、マーシャルとともに、経済学優等試験の創設にも関与した。
一九〇三年(明治三六年)二〇歳 トリニティ・カレッジのリットン・ストレチー(後の伝記作家)とレオナード・ウルフ(後にヴァージニア・ウルフの夫となる)のすすめにより、「ザ・ソサエティ」の会員になる。この二人は、一八九九年にトリニティ・カレッジに入学し、同期生のクライヴ・ベル(後にヴァネッサ・ウルフの夫となる)、トビー・スティヴンらと、土曜日の真夜中の一二時に集まって、戯曲を朗読するなど芸術を語る「真夜中の会」をつくっていた。他方、「ザ・ソサエティ」は、一九世紀の初めから続く、伝統ある哲学の会で、当時の中心はG.E.ムーアだった。若きケインズは、彼の哲学の影響を強く受け、その倫理学の講義に出席するようになり、数学の指導を、ホブソンに加えて、リッチモンドからも受けるようになる。同年、ムーア『倫理学原理』出版。チェンバレン、関税改革運動を推進(国論を二分)。ケンブリッジ大学に経済学優等試験が創設される。
一九〇四年(明治三七年)二一歳 「ユニオン」の会長となる。「ユニオン」は、政治問題を討論する学生団体で、その会長は、イギリスにおける将来のエリートにとってのファースト・ステップとされていた。政治への関心が強くて、大学自治自由党クラブの会長にもなる。文学者であり、思想史研究家でもあったレズリー・スティヴンが、四人の子ども、すなわち、トビー、エイドリアン、ヴァネッサ、ヴァージニアを残して死去。彼らの母はすでになく、四人はゴードン・スクウェア四六番地に移る。やがて、ヴァネッサ、ヴァージニアの姉妹を中心に、トビーとエイドリアンの友人、すなわち、ケンブリッジ大学の友人たちが集まるようになる。そのなかのひとりがケインズだった。同年、日露戦争勃発。
一九〇五年(明治三八年) 二二歳 数学優等試験に合格。ただし成績は振るわず(24人中12位)、第二部の受験を放棄して文官(公務員)試験を受ける用意をする。マーシャルは、ケインズに経済学者になることをすすめる。同年、ケンブリッジ大学は、経済学(第一部)の第一回を実施。
一九〇六年(明治三九年)二三歳 文官試験に合格、第二位。インド省勤務(第一位は大蔵省勤務)と決まるが、その仕事のかたわら、ケンブリッジ大学褒賞フェロー(Prize Fellow-ship)の資格をとるための論文執筆の用意として確率論を研究。同年、トビー・スティブン(「ザ・ソサイエティ」の仲間)死去。イギリス労働党成立。
一九〇七年(明治四〇年)二四歳 トビーのトリニティ・カレッジの友人、ベルがヴァネッサと結婚し、ゴードン・スクウェア四六番地(ロンドンのブルームズベリ地区北部)に住み、エイドリアン、ヴァージニアはフィツロイ・スクウェア二九番地(ブルームズベリ地区の西どなり)へ移る。この二軒に、ケインズを含むケンブリッジ大学の友人たちを中心とした集まりができ、「ブルームズベリ・グループ」が形成される。
一九〇八年(明治四一年)二五歳 褒賞フェローのための論文を提出したが、選外だった。

私は、ムーアの『倫理学原理』と、ラッセルの『数学の原理』とから同時に影響を受けながら、(『確率論』を)執筆したのである。       『若き日の肖像』(一九三八年)より

失意のケインズはディキンソンに相談し、ケンブリッジ大学に帰り、翌年に備える決意をする。この間にマーシャルが退官し、その教授職をピグーが継ぐ。ピグーは、教授としての収入のうち二〇〇ポンドを若い研究者ふたりのために提供することにし、そのひとりにケインズを選ぶ。ケインズは、六月にインド省を退官し、九月にケンブリッジ大学に帰り、確率論の研究を続け、ラッセル、ムーア、ホワイトヘッドと討論する。シュンペーター『理論経済学の本質と主要内容』出版。
一九〇九年(明治四二年)二六歳 三月、フェローに選ばれる。『エコノミック・ジャーナル』に「インドにおける最近の経済事情」を書く。「指数論」でアダム・スミス賞を授賞。
一九一一年(明治四四年)二八歳 マーシャルの推薦で当時の世界最高水準の経済学界誌『エコノミック・ジャーナル』の編集長になる。当時の編集委員は、アシュレー、キャナン、エッジワース等の有名な経済学者たちで、ケインズの若さが際立っていた。一九一九年からは共同編集者を得、三三年間この地位を続け、以後愛弟子のハロッドに引き継ぐ。
一九一二年(明治四五年・大正元年)二九歳 シュンペーター『経済発展の理論』出版。
一九一三年(大正二年)三〇歳 『インドの通貨と金融』出版。大学で週二回、経済理論の学生指導と、同じく週二回の金融論の講義を担当。王立経済学会の書記となる。また、インドの金融と通貨を研究する王立委員会委員となるが、この委員会の委員長はオースティン・チェンバレン(その父が、上記のジョゼフ・チェンバレン)。この委員会が縁で、ケインズは大蔵省に関係するようになる。レナード・ウルフがヴァージニアと結婚。
一九一四年(大正三年)三一歳 七月に第一次世界大戦が勃発すると、急遽「戦争と財政制度」を書き、『エコノミック・ジャーナル』九月号に発表する。以後、つぎつぎに時論を中心とする論文を発表。
一九一五年(大正四年)三二歳 大蔵省に勤務(一九一九年まで)。第一課に所属し、国際金融、とくに同盟諸国間の戦時借款制度構築を担当する。また、首相や大蔵大臣あるいはイングランド銀行総裁につきそって国際会議に出席した。戦時中のめざましい活躍の結果、大蔵省でのケインズの地位は著しく上がり、一九一八年には、二人の次官につぐ次官補となった。

〈ケインズの人材登用観、資本主義観〉
「私の信ずるところによると、〈個人主義的資本主義〉を知的衰退に陥らせた根源は、少なくとも資本主義そのものに特有の制度にはなくて、資本主義に先行する〈封建制〉という社会組織から継承した一制度、すなわち、世襲原則のなかに見いだされるべきである。富の譲渡および企業支配にみられる世襲原則こそ、なぜ、〈資本主義運動〉の首脳部が弱体で、愚かであるかの理由である。そのあまりに多くが、三代目の支配するところなのである。世襲原則の墨守ほど社会制度の衰退を確実にもたらすものは、ほかにないであろう」                          「私は自由党員か」(一九二五年)

プライベートでは、三月のD.H.ロレンスとの出会いが興味深い。バードランド・ラッセルの部屋で、ケインズはロレンスと出会った。『若き日の信条』によれば、「私の記憶では、彼は初めからむっつりして、午前中ずっと、とげとげしい不同意の漠然たる表明のほかは、ほとんど何も言わなかった」そうである。実は、そのときのロレンスの内面に起こっていたことは、ケインズの想像を超えるものだった。

「あの朝、ケンブリッジでケインズに会った時、それは私にとって、人生の一大危機だった。彼に会って、私は精神的苦痛と敵意と激怒で気が狂いそうだった」 

D.H.ロレンス

これは、ケインズの親友のデビッド・ガーネット(文学者)に宛てたロレンスの手紙の一節である。この手紙でロレンスは、自分を選ぶかケインズを選ぶかのどちらかひとつであると、ガーネットに詰め寄っている。ガーネットは、結局ケインズを選んだ。ロレンスは、ケインズのみならず「ブルームズベリ・グループ」をひどく嫌いゴキブリ呼ばわりをしている。
一九一六年(大正五年)三三歳 イギリスで徴兵制を採用。ブルームズベリ・グループの多くは良心的徴兵拒否者となる。ケインズは、大蔵省勤務のため、徴兵を免除される。
一九一七年(大正六年)三四歳 大蔵省でのケインズの仕事は第1課から分離されてA課となる。この課の人々は、ケインズとその後も長く親密な協力者となる。ロシアに二月革命が起こり(メンシェビキがヘゲモニーを握る)、ケインズはうれしがり興奮する。さらに一〇月革命、ボルシェビキ政府誕生。
一九一八年(大正七年)三五歳 ロシア・ベルギーからの勲章を拒絶。砲撃下のパリに、大蔵省の公務出張として二万ポンドを持ってドーバー海峡を渡り、国立美術館のために数多くの名画を買う。これが、彼の近代絵画収集歴のはじまりになる。秋、戦下のロンドンにディアギレフ・バレエ団が来演、リディア・ロポコヴァもその一員として参加。大蔵省A課は、戦争終結に伴う戦債問題に取組み、ドイツの賠償支払い能力を二〇~三〇億ポンドと見込む(実際には、1320億マルク。ちなみに、第一次世界大戦直前の為替レート1ポンド=20マルクで換算すると、66億ポンドとなり、合理的な金額の2.2倍~3.3倍になる)十一月、ドイツが休戦し、第一次世界大戦が終わる。
一九一九年(大正八年)三六歳 一月、対ドイツ講和会議のイギリス大蔵省首席代表としてパリに出発。以後、現実的な対ドイツ賠償案のために努力するが失敗。六月、ヴェルサイユ講和条約調印直後に大蔵省代表を辞任。八~九月を費やして対ドイツ講和条約を批判する書物の執筆にいそしむ。この間に、国民相互保険会社の取締役に招聘される。秋、ケンブリッジ大学で「講和の経済的側面」と題する講義を行う。以後、ケインズのケンブリッジ大学での講義は著しく軽減され年数回の担当となる。ただし、キングズ・カレッジの第二会計員となり、さらに、一九二四年以後死ぬまで会計の責任者として、その財政的基礎固めに努力する。十二月、さきの講義を『平和の経済的帰結』として出版し、ベストセラーになる。ケインズがそこで強調したのは、ドイツに対する賠償要求額が実行不可能なほどに多額であり、それは理不尽な復讐感情の産物であり、ウィルソンの宣言に反するものである、こうした過大の要求は、ヨーロッパを破壊せずにはおれないものとなるだろう、ということだった(ケインズの予言は不幸なことに当たった)。この年、中国で五四運動、朝鮮で万歳事件。
一九二〇年(大正九年)三七歳 『平和の経済的帰結』のアメリカ版が出る。このころより、ケインズは投機で財産をつくりはじめる(大蔵省を去るときの貯蓄は約六千ポンドだったが、一九三七年に彼の資産は最高に達し、五〇万ポンド余となる)。『確率論』の原稿完成。ピグー『厚生経済学』を出版。イギリス共産党結成、国際連盟発足。
一九二一年(大正十年)三八歳 『確率論』を出版。国民相互保険会社の会長となる(~一九三八年)。かつての大蔵省A課の人々と投資会社「A.D」を設立。これ以後、主として『マンチェスター・ガーディアン』に主張を発表する。ディアギレフ・バレエ団がロンドンで講演、ロボコヴァも参加。ケインズは足しげく公演に通い、ロポコヴァと親しくなり、彼女の私生活上の問題(夫との離婚問題など)で種々の助言をする。
一九二二年(大正十一年)三九歳 ドイツ賠償問題についての第二の書物『条約の改訂』を出版。『マンチェスター・ガーディアン』の付録に、ケインズの編集になる「ヨーロッパの再建」が四月二〇日から翌年一月四日まで掲載され、産業・金融などの各分野の専門家、政治家、エコノミストの論文が収録される。また、ジェノア会議(四月~五月)に関する論文を同じ『マンチェスター・ガーディアン』に発表。この会議では、三四カ国の代表者が集まって第一次世界大戦後の貨幣経済について話し合った。会議の目的は、中央ヨーロッパと東ヨーロッパを再建する戦略をまとめ、ヨーロッパの資本主義経済と新ロシアの共産主義経済との間の調整を行うことであった。また、参加国の中央銀行が部分的には金本位制に復帰するという提案も決議された。同会議とは別に、マルク安定の討議のため、ベルリンに招かれた。イギリスでは十~十一月の議会解散・総選挙の結果、保守党ボナ=ロー内閣が成立、失業者が増加。
一九二三年(大正十二年)四十歳 一九〇七年に創刊された、自由党系の週刊誌『ネーション』が経営不振で所有者が変わり、ケインズが会長に、ヒューバート・ヘンダーソンが編集長になる(~一九二九年)。この結果、ケインズの主張の多くは、『ネーション』に発表されるようになる。七月七日、イギリスで利子率引き上げ。ケインズの関心は、ドイツ賠償問題から国内金融問題に移る。十一月、『貨幣改革論』を出版。デフレーション批判、ついで金本位制復帰論の批判から、保守党批判を強める。この年、イギリスで十二月に総選挙。保守党が第一党になるが、第二党の労働党が自由党の支持を得て過半数を占める。このころケインズは、自由市場の擁護者から、批判者に変わる。同年、関東大震災。
一九二四年(大正十三年)四一歳 一月に初の労働党第一次マクドナルド内閣成立。福祉政策で成功するが、自由党と意見不統一。秋の総選挙で、ジノヴィエフ書簡が発表されて保守党が大勝、自由党は小選挙区制のため激減して、保守党第二次ボールドウィン内閣成立、チャーチルが大蔵大臣になる。ジノヴィエフ書簡は、イギリスの新聞で公表された文書。ソビエト連邦の政治家グリゴリー・ジノヴィエフが書きモスクワのコミンテルンからイギリス共産党へ宛てた書簡とされ、イギリスにおける社会扇動を強化するようにとの指示が書かれていた。この書簡の公表によりイギリス国民の間では左派に対する警戒心が高まった。書簡は後に偽書であると判明した。この間、ケインズは自由党の候補者の応援演説をするなど、自由党との直接的関係を強める。チャーチルが金本位制への復帰を表明。ケインズは、こうした政治の動きのなかで金本位制復帰批判を続ける(その論の趣旨は、金本位制に復帰してもデフレ圧力を強化するだけのことに終わるということ)。また、七月に死去した師マーシャルの追悼論文を『エコノミック・ジャーナル』九月号に執筆。オクスフォード大学で、「自由放任の終焉」を講義。
一九二五年(大正一四年)四二歳 四月、イギリスが金本位制に復帰。ケインズは『イヴニング・スタンダードに発表した三つの論文を集め、『チャーチル氏の経済的帰結』として発表。自由党夏期大学で「私は自由党員か」を講演。八月四日、ケインズはリディア・ロポコヴァとセント・パンクラス中央登記所で結婚。結婚式には、ケインズの父母、妹マーガレット、ダンカン・グラント、ハロルド・ボウエン夫人が出席した。ケインズ夫妻はロシアに出発、ケインズはその旅行の印象を『ロシア管見』として出版。

当時、イギリスの社会は保守的であった。そのために、ケインズはロポコヴァとの結婚に慎重である。アメリカにいるロポコヴァの夫との離婚問題もあった。かれは結婚に先立って、大学の人たちに「シグナー・ニッティをご紹介するために」という招待状を送っている。イタリア自由党の政治家で前首相のシグナー・ニッティが、自由党の夏期大学で講演するにさいしての会であった。だが、ケインズのほんとうのねらいは、ロポコヴァを大学の人たちに紹介するためであった。古い固陋な人たちを集めるための手段であった。ロポコヴァを見た人たちは、先入観を取り除かれた。こうしてケインズとロポコヴァは、ケンブリッジでの生活を築く基礎ができたのである。      「ケインズの思想と理論」伊東光晴(『世界の名著 ケインズ ハロッド』解説)

ロポコヴァは、ブルームズベリ・グループの雰囲気になじめなかった。そのこともあって、ケインズは同グループから次第に離れていった。
一九二六年(大正十五年〔昭和元年〕)四三歳 D.H.ロバートソン『銀行政策と価格水準』を出版、ケンブリッジの経済学者に多くの影響を与える。経済学者エッジワースが死去し、ケインズは追悼論文を『エコノミック・ジャーナル』に発表する。四月、炭鉱労働者が長期ストに突入、五月ゼネストに発展、チャーチルがスト弾圧に大活躍する。ケインズは、労働者に同情する立場を表明。『自由放任の終焉』を出版。

「生活様式として資本主義に対して真に反対している多くの人々は、あたかも、資本主義は、それ自体の目的を達成するうえで非能率である、という理由で反対しているかのように論じている。これとは反対に、資本主義の狂信者は、しばしば必要以上に保守的であり、資本主義自体から離脱する第一歩になるかもしれないという不安から、真に資本主義の強化の維持に役立つことになる資本主義的運営技術の改革をも、頑として受け入れないのである」 (『自由放任の終焉』)

「資本主義は、賢明に管理されるかぎり、おそらく今までに現れた、いかなる他の制度よりもいっそう有効に経済目的を達成するのに役立ちうるものであるが、それ自体として見るかぎり、資本主義は多くの点できわめて好ましくないもののように思われる」    (同上)

一九二七年(昭和二年)四四歳 自由党黄書『イギリス産業の将来』に関係。このころから、『貨幣論』の執筆の用意を始める。
一九二九年(昭和四年)四六歳 一月一八日、ウィトゲンシュタインを客としてケンブリッジ大学に迎え入れる。その日ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻に宛てた手紙に次のように書いた。

「さて、神が到着した。5時15分の電車に乗ってきた神に私は会った」
ウィトゲンシュタイン

ケインズは、ウィトゲンシュタインに対して終生尊敬の念を抱きつづけた。総選挙に際し、自由党から立候補をすすめられる。立候補は断ったが、ヘンダーソンと共同で、パンフレット『ロイド・ジョージはそれをなしうるか』を発行したりして自由党を支援。五月の総選挙の結果、労働党がはじめて第一党となり、自由党と連立して第二次マクドナルド内閣が成立。ケインズ、学士院会員に選ばれる。戦後の金融と不況対策を考えるマクミラン委員が発足し、その委員となる。十月、ウォール街で株価大暴落、世界恐慌始まる。未曾有の大失業の原因を、従来の経済学は、賃金が適正な水準に低下しないことに求めたのに対して、ケインズは、企業の投資が過小であることに求めた。だから、完全雇用を実現するほど十分に投資を増加することが、大失業の解決策である、となる。その役割を担うのは、ケインズによれば、政府である。
一九三〇年(昭和五年)四七歳 経済諮問会議委員となる。親友ラムジー死去。『貨幣論』二巻を出版(学術書)。翌年にかけて、マクミラン委員会で活躍する。同年、ロンドン軍縮会議。
一九三一年(昭和六年)四八歳 カーンが乗数理論の構想を示した「国内投資と失業」を『エコノミック・ジャーナル』六月号に発表。労働党が分裂し、八月挙国一致内閣が成立。ケインズ、メイ委員会の緊縮財政案を批判。九月、イギリスが金本位制から離脱。秋の総選挙で保守党が大勝。一九三五年六月まで挙国一致内閣が続く。『ネーション』と『ニュー・ステイツマン』とが合併して『ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション』となり、ケインズはその取締役に就任、編集者にキングズリー・マーティンを迎えたことを喜ぶ。自由党系の『ネーション』に対し、『ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション』は、労働党系知識人色を強める。ケインズ、従来の時事評論を集めた『説得評論集』を出版。同年、満州事変。
一九三二年(昭和七年)四九歳 イギリスが輸入税法を制定、九〇年の伝統を持つ自由貿易政策を放棄する。七~八月、オタワ会議(ポンド=ブロックの結成)。ケインズ、「近代社会主義のディレンマ」を『ポリティカル・クォーター』に発表。日本で五・一五事件。
一九三三年(昭和八年)五〇歳 アメリカでローズヴェルトが大統領に就任、ニュー・ディール政策を実施。ケインズ、マーシャル追悼論文その他を集めて、『人物評伝』を出版。『ザ・タイムズ』に不況対策について連載(三月十三日~一六日)、これに加筆して、『繁栄への道』を出版。彼の経済理論と政策は、この著作に結晶したと言われる。

「われわれが当然疑ってよい計算は、すでに失業者の生活保護の問題を負っているのに、現在か将来、仮に彼らに家を作らせでもしたら、国が負担しきれないほどの膨大な赤字を出してしまうだろうとわれわれに述べる政治家の計算である。問題にされるべきなのは、失業者に、船という人間の最も偉大な所産の一つを造らせるために彼らの生活維持費の一部を費やすよりも、造船工を失業させておくほうが、国富を増加させるのにより経済的であり、より正しい計算だと考える政治家がはたして正気かどうかという点である。(中略)また、課税が、課税対象を打ち砕いてしまうほど高率であることがありうる議論、および、減税の成果を収集するために十分な時間が与えられているならば、減税は増税よりも予算を均衡させるよりよい機会を与えるという議論は、奇妙でも何でもないはずである。というのは、今日、増税という見解をとることは、損失が生じたので価格を上げる決定をし、そして売上高の減少によって損失が増加した時に、簡単な算術を正しいと思い込んで、慎重に価格のいっそうの引き上げを決定する製造業者に似ている。――彼は、ついに、帳簿が貸方も借方も、ともに零になって釣り合った時でもなお、損をしている時に値下げするなんぞは山師のすることだ、といみじくも明言することだろう」                             『繁栄の道』より抜粋

ケインズ革命の動きが、ケンブリッジ大学におけるケインズのインナー・サークルのなかから芽生えだす。ケインズの周囲には、彼とたえず討議し、彼を助けるジョーン・ロビンソンなどの何人かの若い研究者がいて、ケインズは、そういう人々との討論のなかで自分の考えを固めていくのである。ジョーン・ロビンソン『不完全競争の理論』を出版。一月、ドイツでヒトラーが首相となる。六~七月、ロンドンで世界経済会議。国際金本位制の再建を目論むが失敗に終わる。
一九三四年(昭和九年)五一歳 アメリカが平価を切下げ、金一オンスを三五ドルとする。ケインズ、コロンビア大学から名誉法学博士の学位を受けるためにアメリカに渡り、ローズヴェルトと会う。『一般理論』の第一稿完成。この年、八月、ヒトラーが総統の地位に就く。十月、中国共産党が長征を始める。
一九三五年(昭和十年)五二歳 『一般理論』の初校刷をロバートソンに送る。次いで、第二回目の校正刷をハロッドとホートレーに送る。
一九三六年(昭和十一年)五三歳 一月、主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版。この新しい経済理論を契機に、新しい経済学の波が起こりだす。王立統計学協会が『ジェボンズ生誕百年記念回想録』を発表。二月、スペインの総選挙で人民戦線が大勝。四~五月、フランスの総選挙で人民戦線が下院の過半数を獲得。七月、スペインに内乱が起こる。ナチスをめぐり、ケインズは『ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション』編集者でナチズムに対して批判的なキングズリー・マーティンと意見を異にし、以後、はげしい手紙のやり取りをする。ケインズは、戦争回避によってイギリス経済を守るため(イギリス経済の没落を決定的にしないため)、対ドイツ宥和政策を支持する。二・二六事件。
一九三七年(昭和十二年)五四歳 講演をもとにした「人口逓減の若干の経済的結果」を『ユージニックス・レヴュー』に発表。七月、日中戦争始まる。夏、ソヴィエト連邦訪問。ケンブリッジで冠状動脈血栓症による心臓病によって重態に陥る。回復するが、以後彼の健康状態は常に予断を許さないものとなる。十一月、日独伊防共協定成立。
一九三八年(昭和十三年)五五歳 九月、ティルトンで「若き日の信条」を書く。この年、三月、ドイツがオーストリアを併合。九月、ミュンヘン会議。同会議で、イギリス首相チェンバレンは、フランスとともに、ドイツのチェコスロバキア・ズデーデン地方併合を認め、宥和政策を推し進めた。日本、国家総動員法成立。
一九三九年(昭和十四年)五六歳 ケインズ夫妻、ヨーロッパ旅行。八月、独ソ不可侵条約締結。九月、ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦始まる。ケインズ、戦時金融の問題についての論文を『ザ・タイムズ』(十一月十四、十五日)に発表。これが、事前に(十一月七日)、『フランクフルト・ツァイトゥング』に掲載される。
一九四〇年(昭和十五年)五七歳 『ザ・タイムズ』に発表した論文をもとに『戦費調達論』を出版。国民所得会計の考えを展開しだす。大蔵大臣諮問会議に参加。「アメリカ合衆国とケインズ・プラン」を『ニュー・リパブリック』に発表。六月、独仏休戦条約締結。九月、日独伊三国同盟成立。大政翼賛会発会。十一月、アメリカでローズヴェルト、大統領に三選される。
一九四一年(昭和十六年)五八歳 一月、ローズヴェルトが年頭教書で武器貸与法を声明。ケインズは、五月八日アメリカに渡り、武器貸与法に基づく諸問題をはじめ、イギリス‐アメリカ間の経済協力関係の樹立に努力。十月、イングランド銀行理事に就任。六月二二日、ドイツがソ連に侵攻、独ソ戦争始まる。十二月、日本が参戦。
一九四二年(昭和十七年)五九歳 男爵となりティルトン卿を名乗る。上院議員となり自由党席につく。戦後の世界金融体制のため、イギリス、アメリカでそれぞれ討論が始まる。イギリス案はケインズが、アメリカ案は財務長官モーゲンソーを助けたホワイトが中心になって作成した。六月、日本海軍、ミッドウェー海戦で大敗を喫す。以後、劣勢が続く。
一九四三年(昭和十八年)六〇歳 三月、戦後世界金融制度のためのアメリカ案がイギリスにとどき、ケインズは討議のためにアメリカに渡る。ケインズ案とホワイト案が衝突する。

ケインズ案は、一種の世界(中央――引用者補)銀行の設立であった。国際経済の動きに応じて、ちょうど一国で中央銀行が操作するように、世界的に必要とする資金の流動性を保証するための世界の中央銀行――ケインズが「清算同盟」とよんだものをつくる。それは「バンコール」とケインズがよんだ国際支払い通貨を、この銀行への各国の預金の形で創設する。そして、アメリカとイギリスの国際収支関係がアメリカの一億ポンドの黒字、イギリスの赤字であったときには、それ相当額のバンコール預金をイギリスからアメリカに移す。長期的には、世界貿易の増加につれてバンコール預金も増やし、その比を一定にする。ただし、もしも赤字国の赤字が、割当を受けたバンコールの一定比以上になると、その国は為替レートの切下げ、一定額の金準備の引渡し、海外投資規制等を受け、逆に黒字国の黒字の割合が一定比以上になると、逆に為替レートの切下げ、国内拡大政策、海外援助などを求めるというものであった。(中略)ブレトン・ウッズ協定によってつくられた国際通貨基金(IMF)はアメリカのホワイト案をもとにしたものであった。それはケインズ案と異なって、加盟国が基金に出資しなければならなかった(四分の一は金で、残りの四分の三は自国通貨で)。そして各国が必要に応じて引出すことができる額は、この四分の一の部分を除いて、貸付にかなりの規制を受けた。さらにIMFの出資金は、バンコールのように自動的に増加するわけではない。それはあくまでも為替相場安定のための機構であったにすぎない。(中略)IMFの金額は、ケインズの考えに比べて、あまりにも少額であった(ケインズ案は二五〇億ドル、ホワイト案は五〇億ドル、IMFは八八億ドル)。   「ケインズの思想と理論」伊東光晴(『世界の名著 ケインズ ハロッド』解説)

九月、イタリアが降伏。
一九四四年(昭和一九年)六一歳 七月一~二二日、ブレトン・ウッズで連合国通貨会議が開かれ、ケインズはイギリス首席代表として出席。このときと、四六年三月のアメリカでの会議のとき、心臓の発作が起こるが、倒れながらなお仕事を続けなければならなかった。


ホワイトとケインズ

一九四五年(昭和二〇年)六二歳 五月、ドイツが降伏。八月、日本が降伏。第二次世界大戦終わる。九月、ケインズは借款を得るためにアメリカに渡る。十月、国際連合発足。
一九四六年(昭和二一年)六三歳 三月、国際通貨基金(IMF)、世界銀行設立会議に理事として出席。帰国後、四月二一日、サセックス州ティルトンの山荘で心臓麻痺によって急逝。ウェストミンスター寺院での追悼式には、九三歳の父ネヴィルと母フローレンスがともに出席した。死の翌日、『ザ・タイムズ』に掲載された追悼文の冒頭は、「彼の死によって、イギリスは偉大なイギリス人を失った。かれは、経済学者として専門家ならびに一般人の思考に世界的影響を与えると同時に、生涯を通じてたずさわった他の種々なる問題にきわめて造詣が深かった天才であった。かれは思想家であるとともに、非常時に際して国家重要事項に関与し、普通人なら一生かかるほどの実際的仕事をてきぱきと片づけた行動の人でもあった」という言葉で始まっており、さらに、その才気煥発とユーモアに溢れた人柄にふれ、「愚かなことを容赦しない」気質にふれ、いかなる人間に対しても理あるならば完膚なきまでに反論し、提案が受け入れられないときはただちに別の計画を立て先に進むことに努めたと書かれ、「かれは公共の福祉のために、誠実にその生涯を捧げた、情愛に満ちた人であった」と結ばれている。
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吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ

2014年10月17日 05時28分32秒 | 歴史


吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ

「その2」の終わりのところで、私は「どの時代においても人間社会は常に不完全なものを抱えている。それを引き受けながら、人間はなおも良きもの・あり得べきものを求めて、ときにそれを実現してしまう存在である」というものの見方がとても重要である、という意味のことを申し上げました。今回は、その意とするところを述べてみたいと思います。

吉村平吉氏が『吉原酔狂ぐらし』(三一書房)を書いたのは、一九九〇年、六九歳のときです。そのころ氏は、吉原ソープランド街のちょうど真ん中あたりに住んでいました。氏は、五〇年代末から上野、浅草、新橋の売春地帯で生活し風俗ライターとして活躍したそうですから、そのときまでに四〇年以上そういう暮らしぶりをし続けていたことになります。亡くなったのが、その一五年後の二〇〇五年三月。死後五日ほど経って知人に発見されたそうです。場所は、吉原の近くの竜泉。色事に寄り添う人生を貫き通した末のあっぱれな死に様です。同書には、蒙を啓かれ、吉原について認識をあらたにするところが少なからずありました。それらのなかでとりわけ印象深く残っているエピソードをひとつふたつ引きましょう。

ひとつめ。それは、昭和二六年の大晦日に筆者が馴染みの妓楼(ぎろう)に泊まって、そこで元旦を迎えたときのことです。敵娼(あいかた)はそれほど深く馴染んだ妓ではなかったのですが、筆者によれば「本部屋に泊めてもらえた」そうです。色街通いの熟達者がそう言うのですから、それはけっこう珍しいことなのでしょう。文脈からすれば、本部屋とは、深い馴染みだけを通す娼婦の個室のようです。

戦前においては、中見世や小見世クラスの、客と花魁とが性行為をする部屋を本部屋と呼んでいたようです。大見世クラスでは、花魁の部屋は本部屋と寝室に分かれていて、深い馴染みの客だけが本部屋に通されたそうです(以上『吉原はこんな所でございました』(福田利子)より)。吉村氏は、どうやらこちらのニュアンスで「本部屋」と言っているようですね。それにしては、吉村氏は「当時わたしは、ナカ(吉原)の中級以下の店へ軒並み片っぱしから登楼していた」と言っているのですから、そのあたり、どうなっているのでしょうね。

閑話休題。まずは、部屋のなかの様子の描写から引いてみましょう。

お定まりのベビー箪笥に茶箪笥、ただ鏡台だけは姫鏡台なんてチャチなものでなく、ちょっと立派な三面鏡が置いてあったのを覚えている。その三面鏡の台の上に、小さなお供餅が飾ってあった。ちゃんとユズリ葉まで添えてあった。

大晦日で忙しかったのでしょう。部屋の主が戻ってきたのは、年が改まっての午前二、三時。昔風に言えば、大引けの時間帯です。

お盆にお銚子を一本とおせち料理を盛った小皿と蜜柑を二コ載せたのを持っていた。それらを、布団の脇に寄せてあるテーブルの上に並べながら、「・・・・・ご免なさーい。おトウさん(経営者のオヤジ)がマメな人なんで、お正月の支度はもう全部済んでいるんだけど、やっぱりなにかとガタガタしてたもんでね。さァ、これからゆっくり二人のお年越しをしましょうよ」

女性は、三十七、八歳の大柄な年増です。吉村氏にお酌をしながら、田舎の母親に小学生の男の子を預けていること、洋裁の技術で稼ごうと上京してきたのだが思うようにいかずこの世界に入ったこと、吉原の正月は二度目であること、田舎にはときどき帰るけれどお正月とか旧正月とかはイヤだから帰らないことなどを、明るく微笑しながら語ります。

「・・・・・さァ、そろそろ寝ましょうか。あら、まだ一度も床ツケ(SEX行為)してなかったわね。ご免なさーい」

床のなかでの彼女の声が、娼婦らしくない鼻にかかったものになっているが、それは、ザワザワ、フワフワとした越年の環境のなかでの昂ぶりによるものであると筆者は言います。次は、この逸話のなかで私が一番好きな場面です。

 翌朝―――つまり、元日の朝。
「・・・・・いいお天気よ。いいお正月だわ。起きませんか」
 まだ寝たりないわたしが、ぼんやりと薄目を開けてみると、その目の上に精一杯の晴れ着姿の彼女が立っていた。大柄なだけに、訪問着のような派手な晴れ着姿が一段と映えて見えた。
「・・・・・いやァー、立派、立派。いつのまに起きたの?」
「とっくに、お内証(帳場)でおトウさんやおカアさん、お店の女たち全員そろって、お雑煮を祝ってきたのよ。お客さんにも、お内証のサービスで皆さんにお雑煮を差し上げるんですって。だから、早く起きてよ」
 彼女、晴れ着の裾をさばいて、階下から雑煮の椀を運んできてくれた。


できることなら田舎で家族とともに正月を迎えたい本心を、持ち前の明るい心の隅で静かになだめすかして、気に入ったお客と正月を快く迎えようとする女性の気立ての良さが印象的です。「精一杯の晴れ着姿の彼女」の一語で、その心映えが集約的に表現されています。過剰な表現がないぶん、かえって、彼女の気立ての良さと筆者のさりげない優しさとが読み手の心に静かにしみとおってきます。

せっかくの吉原ネタですから、もっと色っぽい話を引きましょう。

昭和二〇年代前半、吉原周辺にはふつうの家よりもモグリ売春宿の民家のほうが多いという一画が各所にあったそうです。吉原大門(おおもん)近くの居酒屋で、当時吉村氏がよく通った「石川バー」や「赤垣」の裏の花園通りへかけての一帯もそんな場所でした。その附近に、当時の一般住宅としては群を抜いて豪勢な二階家があって、そこにとびきりの売れっ子娼婦のヨネ子がいました。彼女はその家のなかの部屋を借りて自主営業しているモグリの娼婦です。あるとき、当時輪タク屋稼業をしていた吉村氏は仕事仲間に連れられて、はじめて彼女の部屋に行きました。立派な茶箪笥などの家具や調度品や燃えるようなピンクの絹地のふっくら大判の夜具を目の当たりにして、当時まだ遊び慣れていなかった筆者の胸はどうしようもなく高鳴り、昂奮してしまいました。

筆者は、それまでにも何度か「赤垣」などでヨネ子の顔を見ていました。三十がらみの中年増。美人というのではありませんが、筆者好みの細面の仇っぽい感じで、服装はいつも小ざっぱりしていました。「顔見知りのヒトのとこにくるのはテレ臭いな」などと照れ隠しにもならない照れ隠しを言ってみると、ヨネ子は「いいじゃないの。仲よくなったって」と皮肉っぽく笑ってみせます。氏によれば、そこにベテラン娼婦としてのいやらしさなどみじんも感じられませんでした。要するに吉村氏は、事を為す以前にじゅうぶんにのぼせあがり「惚れ」モードに入ってしまっているのです。「それ以上に、わたしが参ってしまったのは『いざ・・・!』ということになり、目の前にチラチラしていた鮮やかなピンクのふかふか布団に、彼女とベット・インしてからだった」の箇所の続きを引きましょう。けっこう長くなってしまうことをお許しください。

 わたしもまだ若かったが、セックスのしっとりとした情感と微妙な甘美さを堪能させられたのは、このヨネ子との夜が最初ではなかったか・・・と思うのだ。
 それだけ、彼女のカラダは素晴らしかった。体も秘所が吸いつくようにまとわりつき、わたしの体とソレに一分の隙もないくらいに密着し、それがお互いに挑発し合った。
 わたしは、すっかりのぼせ上がってしまった。カラダに惚れる・・・・・ということも、わたしははじめて知った。
 ただ、これは本筋に関係ないかもしれないが、実は彼女の秘所がほとんど無毛にちかく、よくいうパイパンなる珍しい状態であることも、このときはじめて知った。
 それ以来、わたしはヨネ子に文字どおり夢中になり、二度、三度と馴染みを重ね、肌を合わせるうちに、結婚してもいい、結婚したい・・・・・というまでに熱中した。
 (中略)
 だが、しょせんはわたしの片想いだったようで、やがて終局がやってきた。
 ある晩、ヨネ子がわざわざ「赤垣」にやってきて、一緒に飲みながら、
「・・・・・あたし、こんど結婚することになったの。今月一杯で、あそこも引き払ってしまうつもり。せっかく仲よくしてもらって、ほんとに残念だけれど・・・・・」
 と、藪から棒にいうのだった。
 突然なことで、わたしは、ショック、絶望した。
 今夜は空いているから、よかったらいらっしゃいよ・・・・・という彼女の言葉に従って、その晩は複雑な気持ちで通いなれた六畳間の人となった。
 翌朝・・・・・、
「・・・・・わるいけど、もう来ないでね」
 と、ヨネ子にいわれて送り出され、わたしはしおしおと表へ。
 わたしは、彼女の部屋のあたりをふり返ってしみじみ見上げた。


これを読めば、読み手の多くは、ヨネ子はほんとうに良い女だったのだな、とすなおに分かりますね。彼女は、ちゃんとご執心の吉村氏の気持ちを汲んで自分の立場で出来るだけの誠意を尽くしたのです。それがよく分かるからこそ、吉村氏は取り乱したりしなかったのでしょう。こうした一切について、わからんちんにどういえばいいのかなんて、私には分かりません。端的に正式な夫婦の間においても不誠実な振る舞いばかりだったりすることもあるし、また、通りすがりの男女が情を交わし合った場合でもお互い誠を尽くす場合があったしりますよ、それが人間という奇妙な生き物なのですよと言えばお分かりいただけるのかしら。そう言ったからといって、別に、ごく普通のご夫婦を愚弄するつもりはありませんよ。

もうひとつ。今度は、なんどか触れた『吉原はこんな所でございました』(福田利子)から。いま話題の慰安婦に触れた箇所があるので、引いてみます。戦線が拡大するにつれて、兵隊の数のみならず、慰安婦の数も不足してきて、飲食店に勤めていた女性、私娼だった女性、日本の支配地域の女性や韓国人女性へと対象が広がり、それでも不足して、吉原にも割り当てがくることになりました。昭和十六年のころのことだそうです。これもちょっと長くなります。

 花魁の中には、従軍慰安婦になると、年季がご破算になるので、それで応募した人もいれば、兵隊さんと行動をともにしたくて、前戦行きを希望した人もいました。あのときは必ずしも強制ではなく、自分から希望して、兵隊さんについて行きたいといった花魁が多かったんですよ。(中略)新島にも日本の軍隊が駐屯していて、そこにも慰安所がありました。吉原の花魁の何人かが新島にまわされましたので、貸座敷のご主人たちが船の出るところまで送って行き、戦争に敗けて戻るときには、三業組合の事務長(吉原のお偉いさんです――引用者注)をしていた山田勝雄さんが新島まで迎えに行ったということでした。(中略)花魁たちをみながら、「新島が戦場にならなくてよかった」と、山田さんは胸が熱くなるほど、痛切に思ったそうです。
 慰安婦を希望した花魁たちはみな、「兵隊さんと一緒に死ぬ」ということを本気で思っていたのだそうです。戦争の実情を知らなかったこともあったでしょうが、前線に行くからは、みんな、帰ってくるなんて思わなかったのですね。


前線で亡くなった慰安婦は相当な数にのぼるものと思われますが、「一般の戦死者には軍人遺族年金が支給されているのに、従軍慰安婦には名簿もないのだそうです」と福田女史は、控えめながらも強い異議申し立てをしています。もっともなことです。

花魁たちは花魁たちなりに大東亜戦争を命がけで闘っていたことが、福田女史のお話しから分かります。女史の言葉がなければ、私たちは彼女たちの「戦死」に哀悼の意を表することも、彼女たちをわが子のように慈しんだ吉原びとがいた事実を知ることも、かなわかなった。そうですね。

とりとめもなく、いろいろとエピソードを並べました。私が申し上げたいのは、これらのエピソードに登場した、心根の良い年増の娼婦や感謝の念を込めながらお客にそっと別れを告げる私娼や兵隊さんたちにつかの間の慰安を与えるために死を覚悟して戦地に赴く花魁たちの日陰に咲いたちいさな華のような心持ちのすぐそばこそが、文学の神が宿るところである、ということです。端的にいうならば、無縁仏のすぐそばにこそ文学の神は宿っている、ということです。

娼婦は、もともと中途半端で不完全な周りの人間たちから、「売女(ばいた)」と見下される、彼らからすれば不完全さの極みのような存在でしょう。そんな彼女たちが、無意識の祈りのような形で、瞬時、人間の心の掛け値なしの美しさを示すときがあります。そのすぐそばに、文学の神が宿っていたとしてなんの不思議がありましょうか。彼女たちは、そういう在り方をすることによって、人間は捨てたもんじゃないことをおのずと指し示しているのではないでしょうか。

そういう意外なところに文学の神が宿っていることに、『永遠の0』をたいした根拠もないままに侮蔑して川端文学の権威に逃げ込もうとする自称高踏派の大学教授や、安倍総理のおかげでいささかなりともスポットライトを浴びたくせに、二言目にはやれ「オレは文学者だ」とか、やれ「小林秀雄だ、三島由紀夫だ」などと大げさに触れ回り、変に肩肘張った文章ばかり書き散らしている文学スノッブは、決して気づきません(彼らから喧嘩を売られたわけではないので、実名を出すのは控えておきます)。

繰り返します。文学なしに生きられるほどに幸せならば、あるいはそれほど幸せではなくとも文学を必要とせずにちゃんと生きられるのならば、それにこしたことはないのです。だから私は、文学を必要とせずにきちんと生きている人を、文学を必要とする人よりもいささかなりとも低く観ることは決してありません。不幸の意識を特権化するのは馬鹿げていると思うからです。そういう契機が少しでもある精神の構えに接すると、私にはスノッブとしか映らないのです。

私は、彼らのような文学スノッブを批判するためにあえて奇を衒った文学観をみなさまに披露しているのではありません。私がいま述べたような、あたりまえの文学観が語られることがあまりない現状を心淋しく感じているのです。

このままで終わると、言い逃げしているようでいささか落ち着きませんから、もう少しだけ続けましょう。

私がいま申し上げたことを、文章をどう書くべきか、という角度から論じ直してみましょう。谷崎潤一郎は『文章読本』(中公文庫)のなかで、おおむねつぎのようなことを述べています。すなわち″今日のいわゆる口語文は実際の口語の通りには書かれていない。その違いは、文章語の方は西洋語の翻訳文に似たもの、日本語と西洋語の混血児(あいのこ)のようなものになっており、実際の口語の方は、これまただんだん西洋臭くはなりつつあるが、まだ本来の日本語の特色を多分に帯びている、という点にある。だから自分は、文法に囚われて書くことを戒め、口でしゃべる通りに書く会話体の試みを是とする。口語文にはもはやなくて、実際の口語にかろうじて痕跡をとどめている優雅の精神やおおまかな味わいや床しみのある言い方を、少しでも口語文のなかへ取り入れるようにして、文章の品位を高めることが大切である″と。

その文脈で、谷崎は次のような、「てにをは」を省いた二つの書生言葉を取り上げます。

○僕そんなこと知らない。
○君あの本読んだことある?

これについて谷崎は、″真に嗜(たしな)みのある東京人は、日常の会話でも、割合正確に、明瞭に物を言う。東京人は江戸っ児の昔から、テニヲハを略すことはあまりしない。下町の町人や職人などがぞんざいな物言いをするときでさえ、「おらあ」(己は)とか、「わッしゃあ」(わッしは)とか「なにょー」(何を)とかいうふうにちゃんと口のなかでテニヲハを言っている″と言います。

そこで、先の二つの書生言葉を江戸の職人言葉に直すと、

○己あそんなこたあ知らねえ。
○おめぇはあの本を読んだことがあるけえ。

となる、と谷崎は言います。どちらが日本語としてまともかはいうまでもありませんね。

谷崎がここで言おうとしていることには、とても大きなものが含まれています。テニヲハをやたらと省いていきがっている田舎臭い書生とは、欧米の借り物の思想や翻訳口調を高級なものと信じて疑わない近代日本の知識人の戯画にほかなりません。そうして実は、彼らが見下している市井のひとびとが交わす言葉にこそ豊かでまともな日本語がかろうじて生きているのだ、と言っているのです。そうして、知識人が自分たちの知的優越性を示すものとして有り難がっている「西洋語の翻訳文に似たもの、日本語と西洋語の混血児のようなもの」は、実は性急な近代化の産んだ不幸な文章なのであって、それは是非とも是正されなければならない、そのためには、「俗情との結託」を禁欲的に忌避するどころか、俗情に真摯に耳を傾け、そこから採るべきは採り、文章を豊かにすることが必要なのだ、と言っているのです。さらに突き詰めて言えば、谷崎文学や川端文学の中に、私たちにとっての豊かな文学や可能性があるわけではないのです。文学スノッブが嫌ってやまない目の前の現実の世間にそれは埋もれているのです。そういう決然とした思い決め抜きに、私たちが豊かな文章をものにすることはかなわない。谷崎がそう言っているように、私の耳には響きます。逆説を弄するようでいささか心苦しいのですが、そういう形でしか、私たちは伝統なるものに立ち返ることがかなわないのではなかろうか、とも思っています。

谷崎の提言と、私が先に述べた吉原文学観あるいは無縁仏文学観とが、根底のところでつながっていることは、明らかなのではなかろうかと思われます。生業をいそいそと営み、本当といささかの嘘とを取り混ぜた掛け値なしの会話を交わす名も無き市井びとは、いずれはみな無縁仏になるのですから。むろん、私もそうです。谷崎が『文章読本』を書いたのは、昭和九年ですから、いまから八〇年前のことです。彼の提言は、古びるどころか、文章語の情報化・無国籍化がはなはだしい今日、ますます重要性を帯びているのではないでしょうか。

予定よりも、随分長くなってしまいました。これで終わります。
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吉原の秘密(その2)

2014年10月12日 12時34分02秒 | 歴史


吉原の秘密(その2)

幕府はなぜ吉原の移転先として浅草観音の裏地の日本堤(にほんつつみ)を選んだのか。それについてきちんと答えるには、まず浅草の歴史に触れる必要があります。もう一度申し上げますが、ここからの議論は、おおむね竹村公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)に依拠します。

浅草一帯は、太古の時代から高台になっていた現在の待乳山(まつちやま)、弁天山、鳥越神社付近を中心に、利根川・荒川・入間川が運んだ土砂の堆積によって陸地化が進み、古墳時代末期にはすでに人々が住んでいました。隅田川(昔は″宮古川″など色々な名でよばれていた)の河口近くで海の幸にも恵まれ、やや高台でもあったので災害からも避難しやすい土地でした。

これがどういう意味を有するのかを理解するためには、縄文海進の事実を知る必要があります。縄文海進とは、約六〇〇〇年前の縄文前期、気温はいまより高く、海面が数メートル上昇していて、海が関東の奥まで侵入していたことを指しています。つまり関東平野は、縄文時代には一面の海だったのです。その後、海は後退しますが、かつて海だったことの影響は次のような形で残ります。

天正十八年(一五九〇年)、徳川家康は、豊臣秀吉の命令で関八州に移封され江戸に入りました。そのとき家康が目にしたものは、何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある荒涼とした風景でした。

縄文海進のころとくらべれば海岸線はかなり後退し、江戸湾に流れ込む利根川の運ぶ土砂が堆積して関東平野が顔を現してはいましたが、その広大な関東は今日のような平野ではありませんでした。かつて海だった低地は水はけが悪いのです。排水ポンプのない時代、ひとたび雨が降れば水は行き場を失い一面に溢れます。さらに、当時は利根川・渡良瀬川・荒川が江戸湾に流れ込んでいたので、そこいら一帯は何日間も何ヶ月間も浸水したままの土地だったのです。つまり、当時の関東は平野ではなく湿地だった。家康は、そういう関東を目の当たりにしたのです。

そのことを踏まえたうえで、浅草に焦点をしぼりましょう。先ほど申し上げたとおり、浅草一帯は、古代から関東湿地帯のなかの小高い地形でした。その事実に着目することで、徳川幕府の治水事業の核心が分かるようになり、浅草が江戸文化の中心となった理由もおのずと明らかになります(と竹内氏は力説します)。

一面の関東湿地帯を肥沃な関東平野にするために、家康がまず着手したのは、利根川の流れを江戸湾から銚子に向ける「利根川東遷」工事でした。文禄三年(一五九四年)の会の川(あいのかわ)締切り工事を手始めに、赤堀川の開削、江戸川の開削などの河川工事が次々に着手され、家康によって関東郡代に任命された伊奈備前守忠次から忠政へ、忠政から忠治へ、その職と当事業が受け継がれ、事業が完了したのは、承応三年(一六五四年)のことでした。




江戸幕府がその次に実施すべきは、荒川の制御でした。荒川すなわち隅田川(大川とも呼ばれる)は洪水で江戸のひとびとを苦しめる反面、舟運で江戸と周辺農村とを結ぶ大切な川でもありました。だから、利根川のように流路を遠くへ移動させるわけにはいかなかったのです。

現代のように大型機械などなくて人馬に頼るほかはなかった当時、隅田川の治水工事は至難の業でした。だから、その抜本的な治水工事は三〇〇年後の昭和にまで持ち越されることになりました。江戸時代において隅田川を制御した最終的な堤防の姿は残っていますが、そこへたどり着くまでの試行錯誤の歴史的な記述は残っていません。

そこで竹村氏は、治水インフラのプロとして、理にかなった大胆な推理を展開します(吉原の話はいずれしかるべきところで出てきますので、しばらくお待ちください)。

治水の原始的かつ最も基本的な手法は「ある場所で水を溢れさせる」ことである。ある場所で洪水が溢れれば、それ以外の場所は助かる。ある特定の場所で洪水を溢れさせる手法は、時空を超えた治水の第一原則である。治水は必ずその第一の原則から始まる。江戸の治水も溢れさせるという原則から始まった。

ここで俄然、浅草の存在が光り始めます。洪水で江戸を悩ます隅田川は北西から流れてきます。その河口は江戸湾の入江が深く入り込んでいて、その入江の奥に中洲の小丘があり、その小丘の上に江戸の最古のお寺、すなわち浅草寺があります。

江戸幕府はこの浅草寺に注目した。浅草寺が1000年の歴史を持っていることは、この一帯で最も安全な場所という証拠なのだ。その浅草寺を治水の拠点とする。つまり、浅草寺の小丘から堤防を北西に延ばし、その堤防を今の三ノ輪から日暮里の高台にぶつける。この堤防で洪水を東へ誘導して隅田川の左岸で溢れさせ、隅田川の西の右岸に展開する江戸市街を守る。1620年、徳川幕府はこの堤の建設を全国の諸藩に命じた。浅草から三ノ輪の高台まで高さ3m、堤の道幅は8mという大きな堤が、80余州の大名たちによって60日余りで完成したのだ。日本中の大名たちがこの堤の建設に参加したので、この堤は「日本堤」(にほんつつみ)と呼ばれるようになった


そこへ、江戸の大半を焼き尽くした明暦三年(一六五七年)の明暦の大火がありました。それをきかっけに、江戸幕府は抜本的な都市改造に着手しました。防火機能を高めるために大胆な区画整理をし、隅田川の対岸を武家屋敷の代替地としたのです。そこで、初めて両岸を結ぶ橋、すなわち両国橋を架けました。武蔵国と下総(しもうさ)国を結ぶ橋だからそう名付けられたのです。隅田川の対岸は大雨のたびに水が溢れ、中洲が島のように点在していたので、江戸の人々はそこを「向島」と呼んでいました。

このように、隅田川の対岸を江戸に取り込んだからには、これまでのようにそこで洪水を溢れさせておくわけにはいきません。ほかのどこかで溢れさせなければならなりません。

以前から隅田川の左岸には中洲づたいに熊谷(くまがや)へ続く街道の堤があった。徳川幕府はこの街道の堤を本格的な堤防に改築することとし、墨田堤から荒川堤、熊谷堤へと一連の堤防を強化していった。日本堤とこの墨田堤・荒川堤・熊谷堤で囲む一帯で隅田川を溢れさせる。ここで洪水を溢れさせ、江戸に洪水を到達させない。現在でいう遊水池であった。

上の図は、日本堤と墨田・荒川・熊谷堤で江戸を守る遊水池システムを示しています。江戸幕府は、堤防というハードインフラの整備を行ったのです。

このように、日本堤と墨田堤とが江戸を守る生命線になりました。そこで大きな問題が浮上します。それは、築造したこれらの堤をどうやって確実に維持し管理するか、です。なぜなら、竹村氏によれば、堤防とはそれを築造する以上に維持管理することが重要な施設であるからです。維持管理というソフトウェアが伴わなければ、堤防は弱体化し崩壊する運命にあるのです。

しかしこのことは、堤防に限ったことではありません。笹子トンネル崩落事故の例を持ち出すまでもなく、築造されたインフラをきちんとメンテナンスすることの重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません。インフラをきちんと維持管理することには、多くの人々の命がかかっているからです。

堤防に話を戻しましょう。草花の繁茂、ミミズの発生、もぐらの穴掘り、蛇の巣作り、地震による割れ目の発生、大雨による堤防の法面(のりめん)の崩壊。このように、土堤が破堤する原因はたくさんあります。それゆえ、これらを監視するシステムをどうやって構築するかが、大きな問題として浮上したのです。当時の江戸幕府は、それをどうやって解決しようとしたのでしょうか。

竹村氏は、それを明らかにするインスピレーションを次の絵から得たそうです。それは、歌川(安藤)広重の『名所江戸百景』のひとつ「よし原日本堤」です。




この絵のなかで多くの人々がぞろぞろと歩いているのが日本堤です。そうしてこの絵の右やや上に幻の桃源郷のような雰囲気を醸し出している屋根の連なりがあります。それが、明暦の大火をきっかけに移転した新吉原です。吉原は不夜城と呼ばれるくらいですから、この大量の人波が途絶えることはありません。年がら年中、人々は吉原を目指してぞろぞろと歩いているのです。そうして堤の両側には物売り小屋が建ち並んでいます。竹内氏は、この状態は当時の江戸幕府が仕組んだものであると主張します。

この絵を見ていると、ぞろぞろ歩く客たちはまるで日本堤を踏み固めているようだ。まさに、江戸幕府の狙いはここにあった。遊廓を日本堤に移転させることで、人々の往来で日本堤を踏み固める。行き交う江戸市民の視線が、日本堤の不審な変状や出来事を発見していく。そう、江戸市民が知らず知らずのうちに河川管理者になり、日本堤を強化し、監視していたのだ。

松葉屋の女将・福田利子女史は、「吉原通いの道」について述べています。そのルートは、まず雷門を通って観音様におまいりし(女房などに対する言い訳のため)、その後右に折れると馬道(うまみち)に出る。そこを通って日本堤に出る。見返り柳から左に折れて、五十間道のくの字型の衣紋坂を通って吉原大門をくぐる。広重は、このルートをぞろぞろと歩くひとびとを描いたことになります。

竹村氏によれば、対岸の墨田堤に関しても、江戸幕府は同様の仕掛けを施したそうですが、それについてはこの際略しましょう。竹内氏はここでとても大切なことを言っています。それはいくら強調されてもされ過ぎるということはありません。

「その1」で私は次のように申し上げました。「吉原の高級花魁は江戸の精華でした。彼女たちのまわりに自然に大名や豪商が集まり、吉原は華やかな社交場になりました。絵師や俳諧師、歌舞伎役者、戯作者なども競って吉原に出入りするようになり、その活力が歌舞伎、浮世絵、狂歌、川柳などの傑作をつぎつぎと生み、吉原には馥郁たる江戸文化が咲き誇ることになりました」。そんなふうにして、吉原が華やかになればなるほどに、殷賑を極めれば極めるほどに、文化の華が咲き誇れば咲き誇るほどに、江戸のひとびとの生命を守る堤防というハードインフラがいよいよ強固になっていくのです。そうして、そういう好循環を媒介したのは、江戸幕府の懐深い知恵でした。ここには、文明と文化と政治との類まれなほどの良好な関係があります。

私は、ここに示された文化にこそ、そのあり得べき姿かたちがあると考えます。なぜならそれは、それと好循環の関係にある文明や政治とともに総体として、ごく普通に生きている民草を幸せにするものであるからです。その場合、ポイントになるのは、政治に携わる者が、エロスの充足を求めて生きている人間のありのままの姿を率直に認めて施策を講じることです。江戸時代の為政者は、「浮世」や「世間」を「社会」などという他所行きの言葉でごまかすことがなかったので、そういうことが可能だったのでしょう。

こういう言い方に対して、″お前は、そういう一見「好循環」と映るものが、実は年頃の娘の身売りを余儀なくさせる貧困の存在によって支えられていた現実を見ていない″と言い返す術があることを、私は一応知ってはいます。

それは一見正しいことを言っているかのようですが、そういうことを言って得意がったり、相手の鼻を明かした気になる手合いには、実は致命的な盲点があります。それは、″どの時代においても人間社会は常に不完全なものを抱えている。それを引き受けながら、人間はなおも良きもの・あり得べきものを求めて、ときにそれを実現してしまう存在である″ということに対する感知がないことです。

それについては、次回に付論として詳しく述べましょう。

「吉原の秘密」。それは、吉原に咲いた文化の花は、為政者の懐深い知恵を媒介とし、そこに吸い寄せられるひとびとを通じて、堤防という江戸の安全の根幹に関わるインフラをより強固なものとするという驚くべき働きを有したということです。
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吉原の秘密(その1)

2014年10月10日 08時33分35秒 | 歴史


吉原の秘密(その1)

平成十年に店をたたんだ吉原の引手茶屋・松葉屋について、猿若流八世家元・猿若清三郎氏が、あるところで次のように言っています。「松葉屋がなくなるということは、ちょっとやそっと何かが無くなるということでは済まないのです。我々踊りの世界、また歌舞伎、ひいては日本の芸能は、遊郭をはずしたら物語にならない。欠かせないものなのです。多くの演目の舞台となっている場所。そういう意味において、松葉屋は失ってはいけないものだったんです。それが無くなってしまったのは、大変な損失です。遊郭にも位どりというのがあり、歴史的に言えば京都・島原のほうが古いのかもしれないけれど、吉原は、遊郭の文化を発展させた、総元締。松葉屋はその玄関です」。

吉原の高級花魁は江戸の精華でした。彼女たちのまわりに自然に大名や豪商が集まり、吉原は華やかな社交場になりました。絵師や俳諧師、歌舞伎役者、戯作者なども競って吉原に出入りするようになり、その活力が歌舞伎、浮世絵、狂歌、川柳などの傑作をつぎつぎと生み、吉原には馥郁たる江戸文化が咲き誇ることになりました。松葉屋はそういう豊かな文化を生み出した吉原の玄関の役割を歴史的に果たしてきたのでした。それゆえおのずと、その豊かな文化を体現する希な存在となりました。その松葉屋がなくなるということは、すなわち、三百余年の伝統を有するひとつの大きな文化が消えてなくなるのと同じことである、と猿若清三郎は言っているのです。そのことを、彼は心から惜しんでいるのです。

これから、吉原についてあれこれとお話しします。道草を食うことも一度ならずあるとは思いますが、最後までお付き合い願えれば幸いです。これを読み終えた後、みなさんに″たしかに、猿若清三郎の言うとおりだ″と思っていただけたなら、私がこの文章を書いた目的は果たされたことになります。私としては、そのことを通じて、文化なるもののあり得べき姿かたちがどういうものであるかがつかめたら、と欲深い目論見を持っております。さらに、挑発的なことを申し上げるならば、現代のいわゆる文学者や文化人を自称する人々の抱いている文化のイメージは致命的に間違っているという思いが、私をしてこの文章を書かしめていることを白状しておきます。私は、故小沢昭一氏や『吉原酔狂ぐらし』(ちくま文庫・絶版)を書いた故吉村平吉氏などを本当の教養人としてこよなく尊敬する者であります。そんじょそこらの自称高踏派のお坊ちゃん大学教授や成り上がりの自称文学者など足元にも及びません。

では吉原について、ごく基本的なことから話しましょう。

吉原には主に、貸座敷・引手茶屋・芸者屋の三つの業種がありました。そのなかで引手茶屋は、大見世(おおみせ)に向かうお客を迎え、芸者・幇間(ほうかん)を呼んでお客をもてなし、そのあとお客を大見世に送る仕事を受け持っていました。また貸座敷は、いわゆる遊女屋のことで、六・七人から三〇人くらいの花魁をかかえお客に色事を提供するのが仕事でした。大見世は、いちばん上の等級の貸座敷で、ほかには中見世(ちゅうみせ)・小見世(こみせ)がありました。江戸時代には、さらにその下に、お歯ぐろ溝(どぶ)のそばの河岸見世(かしみせ)がありました。お歯ぐろ溝は、遊女の逃亡を防ぐために作られたものです。

私は分かったような顔をして吉原の薀蓄をたれておりますけれど、じつはいずれも『吉原はこんな所でございました』(福田利子・ちくま文庫)というすぐれもののアンチョコからちょっと言い方を変えて引いているだけであります。そんな調子ですから、お気楽に読み進めてくださるようお願いいたします。しばらく遊郭のお客にでもなったような心づもりでいてくだされば幸いです。ちなみに福田利子女史は、冒頭に登場した松葉屋の最後の女将です。

中見世・小見世についてもちょっとひとこと。往来に面した店先に遊女が居並び、格子の内側から自分の姿を見せて客を待つ張見世(はりみせ)があったころ、吉原には、登楼する客の何倍もの素見(ひやかし)の客がありましたが、張見世がなくなった昭和初年のころも、素見の客はずいぶんいたとの由。吉原大門(おうもん)をくぐり抜け、メインストリートの仲之町(なかのちょう)通りの植木柵を眺めたあと、通りから通りへ、露地から露地へと、不夜城といわれた廓のなかを、あの見世は高いとか、この見世にはいい妓(こ)がいるとか、男たちは好き放題を言いながらぶらぶらしたのでしょう。

そんないい加減な奴どもを見世に上げてしまうのが、妓夫(ぎゆう)太郎の腕の見せどころ。「ダンナ。いい妓が待っていますよ。素通りって手はありませんぜ」とかなんとか。

見世に入ると、正面に写真場があって、ショーケースのガラスの中に、花魁の上半身を写した写真が、見世の花魁の数だけ並べてありました。そのなかから、お客は好みの花魁を選ぶようになっていました。腕の良すぎる写真師の写真は、お客とお店とのトラブルの元になったそうですよ。「写真と実物とぜんぜん違うじゃないか」というわけで。

こうやって、往時の吉原の殷賑を延々と筆で描き続けるのも(少なくとも私にとっては)けっこう楽しいのですが、この文章の意図するところは、やや別のところにあるので、いささか話を転じましょう。

話は江戸時代にさかのぼります。徳川幕府公許の遊廓として吉原が誕生したのは、元和三年(一六一七年)と伝えられています。それ以前は野原のなかに、遊女屋があちらに二軒、こちらに三軒というふうに散らばっていたそうです。茶屋の主をしていた庄司甚内は、それらを一ヶ所に集めて遊廓を作ることを思いついたのでした。それで甚内は、″遊女屋が町の中に散らばっていると、自分の分際もわきまえずに遊興にふけり、身を持ち崩す者もでてくるが、遊女屋を一ヶ所に集め、長逗留ができないことにすれば放埒ができなくなる″とか、″遊女屋を一ヶ所に集めれば、娘をさらったり、養女にするからといって貧しい親から子どもをもらい受け、大きくめかけ奉公や遊女奉公に出すなどして世渡りをしている不届き者の、そのような悪行を防ぐことができる″とか、″遊女屋は世を乱す不穏分子の隠れ家になる危険がある。遊女屋を一ヶ所に集めてそれらを公許の遊廓にすれば身分の調べもでき、怪しい人物を挙げることもできる″などと理由を並べ立てて、幕府に許可願いを出しました。

この願いが出された七年後に、幕府から、いろいろな条件をつけたうえで、許可が下りました。あまり寄り道はしたくないのですが、「いろいろな条件」のなかでひとつだけ、とても面白いのがあるのでご紹介します。それは、″太夫三人を奉行所の式日ごとに奉仕に出すこと″です。これは、当番の太夫が奉行所に出向いて、琴や三味線の演奏をしたり、お茶の給仕をつとめることです。太夫というのは、容貌が人並み優れていて、諸芸にも堪能で「百人が中を十人にすぐり、十人の中より一人えらみ出すほどならでは太夫とはいひがたし」といわれたほどの、とび抜けて優れた遊女に与えられる尊称でした。奉行所に勤めるお役人たちの、取ってつけたような渋面から、あこがれの太夫を間近に見たいという可愛らしい本音が透けて見えるようですね。おのずとほほえましい光景が浮かんできます。

そのころの大見世の高級花魁は、歌舞音曲はもちろんのこと、話術に長け、生け花、茶の湯、書道、歌道、香道などの教養があって、その品格や教養などは、一般の女性が及ぶところではなかったようです。ちなみに香道とは、日本の伝統的な芸道で、一定の作法のもとに香木を焚き、立ち上る香りを鑑賞するものです。

また大見世には、江戸時代から″初会(しょかい)″″裏を返す″″馴染み″というしきたりがありました。″初会″というのは、お客が紹介者に連れられてこられた初めての日のことで、お客は芸者衆や幇間をあげて花魁の本部屋で遊びますが、寝所にまで入ることはなくそのまま帰ります。二度目を″裏を返す″と言い、初会と同じことをしてやはりそのまま帰ります。三度目ではじめて″馴染み″となって寝所に入ります。「惚れ」の機微を大切にしたのでしょう。高級花魁は、いわゆる娼婦とはかなりイメージが違う存在のようです。奉行所のお役人たちが、太夫を高嶺の花と見て無邪気に憧れた気持ちがそれなりに分かる気がします。

むろん太夫にとっても、奉行所出仕は大変に名誉なことだったので、当番に当たった前の晩は客を辞退し、翌日のお点前(てまえ)に使うためのお茶を挽きました。ここから転じて、遊女が客をとれないでいることを「お茶を引く」というようになったそうです。太夫は太夫なりに誠を尽くしたのですね。

さて、ずいぶん回り道をしたようです。遊廓設置の許可と同時に幕府から与えられた土地は、現在の日本橋堀留一丁目あたりの、葭(よし)や葦(あし)の茂る一面の湿地帯でした(一五九〇年、徳川家康が豊臣秀吉に江戸への転封を命じられて、江戸にたどり着いたとき、江戸全体が広大な湿地帯でした)。そこに続々と江戸の遊女屋が集まり、遊女屋一七軒、揚屋(あげや。引手茶屋の前身。客が遊女を呼んで遊んだ所)二四軒の遊廓ができあがりました。そこいら一帯は、葭の繁る土地であることから、″葭原″と名付けられ、縁起をかついで″葭″を″吉″に替え″吉原″となったそうです。

ご存知のように、その後江戸の人口はどんどん増えつづけました。それでいつのまにか、吉原遊廓のある場所が江戸の中心地になっていました。このままでは、風紀上も都市計画としても不都合が多いというので、幕府の命によって、移転する計画が立てられていたところ、別名振袖火事とも呼ばれる明暦の大火がおき、市中の大半が焼け、十万人以上の命が奪われました。そこで、いくつかあった候補地から浅草観音の裏地が選ばれて、移転することになりました。明暦三年(一六五七年)のことです。この″新吉原″は、昭和三十三年(一九五八年)三月三十一日、売春防止法施行前日までの約三〇〇年間、この地で遊廓としての道を歩み続けたのです。その後の吉原が、ソープランドのメッカとしていまに続いていることは、みなさまよくご存知のことでしょう。遊廓がなくなった後の吉原は、呼び名は同じでもかつての吉原とは別物と考えたほうがどうやらよさそうです。

遊廓がなくなった後のソープランドだらけの吉原で、冒頭に登場した松葉屋は、ずっと遊廓あっての松葉屋だったわけですから、経営がとてもむずかしくなりました。花魁道中、花魁ショウを企画したりして(ぜひ拝見したかったものです)、江戸初期から続く吉原文化を今日に伝え、魅力的な文化スポットとしての吉原を演出しようとして、できるだけのことはしたのですが、押し寄せる時流には勝てませんでした。基本的には、世間の無理解の壁を乗り超えることができなかったのでしょう。世間は、花魁道中や花魁ショウをいかがわしいものとして好奇の目で見たでしょうから。

話を戻しましょう。ここで注目したいのは、幕府はなぜ移転先として浅草観音の裏地の日本堤(にほんつつみ)を選んだのか、です。ここからの議論は、おおむね竹村公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける』に依拠します。

この疑問についてきちんと答えるために、私たちは、浅草の歴史について一通り押さえておく必要があります。そうすることで、「吉原の秘密」ににじり寄って行きたいと思っています。

「その1」を終えるにあたって、ひとつだけ申し上げておきたいことがあります。それは、吉原の花魁たちの身だしなみについてです。松葉屋の福田利子女史によれば、花魁たちはみな、お客にゆだねる我が身を常に清潔に保つためにまめに入浴するので、体臭がなくなってしまうそうです。女史は、そのことを当然のこととしてごく普通に言っています。私は、花魁たちに体臭がないという事実と女史の平静な語り口とに不意打ちを喰らったような衝撃を受けました。彼女たちは、体臭がなくなるほどに身を清潔に保つことで、無意識のうちに、心の清潔を保とうとしているのです。その自然体のけなげな心根に、私は日本女性のつつましさの原風景を見る思いがします。
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石狩川の流れはなぜ速いのか

2014年09月17日 07時28分44秒 | 歴史


私の父方の伯父は、北海道の札幌市に住んでいます。そのため私は、これまで何度も札幌市に行きました。そのついでに、市内や郊外をうろついたことも何度かあります。

十年ほど前のことだったでしょうか。私ははじめて石狩川を間近に見ました。その流れの速さに、私は目を見張ったものです。間違って川に落ちることを想像しただけで、寒々とした気分になりました。大人でも、けっこう大変なことになるのだろうなぁ、自力で這い上がれるのだろうか、などと妄想が尽きませんでした。「こんなに流れが速いのは、雪解け水がふんだんに流れ込んでいるからなのか」などとぼんやり考えましたが、それ以上は深く考えませんでした。春先ではなかったような気がするので、自分でも、脳裏に浮かんだその答えにあまり納得しなかったことをなんとなくですが覚えています。

最近、元建設省官僚・竹内公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』(PHP文庫)を読んで、その本当の理由を知ると同時に、インフラなるものについての自分の認識がいかに浅薄なものであったのかを思い知ることにもなりました。以下、初めて知ったことを前から知っていたかのような話し方をしますが、それは、知ったかぶりをしたいのではなくて、引用を繰り返すことで読み手であるみなさまを煩わせたくないからです。

話は、一八六九(明治二)年、開拓使が設置され、蝦夷(えぞ)が北海道と改められ入植が始まったころにさかのぼります。北海道は北緯四二度以上に位置する亜寒帯気候域です。だから、入植を支援した政府は西欧式の大規模な畑作農業を目指していました。ところが、入植者たちは「米」にこだわりました。生まれ育った内地を後にして、いわゆる「化外の地」というよりほかのない北海道に流れ着いたことが、彼らをして「米」にこだわらしめた、という側面があったのかもしれません。竹村氏の言い方を借りれば、「米は日本人にとってかけがえのない宝であり、生きる希望であった」となります。

北海道の太平洋側の、夏の平均気温が十六~七度で霧深く北東の風が吹く、という厳しい気候は米作りにまったく適していませんでした。それに対して、日本海側の石狩川流域の夏の平均気温は札幌で二一度だったので、どうにか米を作ることができました。それで入植者は、米作りを目指して石狩平野の石狩、空知(そらち)、上川流域へと入っていきました。

ところが、とんでもない障害が入植者たちを待ち構えていました。それは、みなさまも中学生のころに地理の授業で教わったにちがいないと思われますが、「泥炭層」です。では泥炭層とはいったいなんなのでしょうか。

六〇〇〇年前の縄文前期、海面はいまよりも五メートル高く、石狩平野一帯は遠浅の内湾でした。その後、寒冷化とともに海水面が低下し、かつて海だったところが石狩川の土砂によって沖積平野、すなわち石狩平野に姿を変えていきました。残念なことに、寒冷地である北海道では、堆積した植物の分解が進まず、炭化した状態のまま蓄積されることになりました。それが泥炭層です。六〇〇〇年間に堆積した泥炭層の深さは二〇メートルを超えました。

泥炭は燃料にするには適していますが、稲作には適しません。入植者たちは表土の農作土を他から搬入するという重労働を繰り返すほかはありませんでした。しかし、下層の泥炭層はいやというほどに水分を含んでいて、搬入した農作土はすぐ腐食して使い物にならなくなりました。水分を含む泥炭層は雪が解けてもなかなか乾かず、初夏になり乾燥しかけてもわずかな降雨で元の泥炭湿地に逆戻りしてしまうのでした。

泥炭層の水を抜くこと。泥炭層の地下水を低下させること。それが入植者たちの死活問題となりました。それを実現するには、石狩川の河口まで徹底的に川底をさらう浚渫(しゅんせつ:港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事のこと)をしなければならないのですが、当時の開拓庁も入植者たちもあまりにも貧しかったので、弥縫策に終始するよりほかはありませんでした。根本的な解決は、先延ばしされるほかなかったのです。

一八九八(明治三一)年、未曾有の大洪水が石狩平野を襲いました。そのため、入植者たちのたくさんの命と彼らが開発したわずかばかりの田畑とが濁流にのみこまれました。そのままでは北海道開拓事業は全滅、という危機的状況でした。それで、さすがに中央政府も、石狩川の治水に乗り出さざるをえなくなりました。日露戦争の勃発が現実味を帯びてきたので北海道の国防上の重要性が浮上してきた、という事情もありました。

とはいうものの、当時の日本政府は借金をしなければ戦争もできないほどに貧しかった。それゆえ、北海道に派遣された土木技術者たちは、乏しい予算で石狩川の洪水を防ぎ、泥炭層の地下水を下げるという二つの課題を同時に達成しなければならなかったのです。

彼らは徹底的な石狩川のショートカット、すなわち捷(しょう)水路計画を策定しました。流れにくい蛇行部をショートカットして直線にするのです。この計画は内地でも実施されている一般的な手法です。しかし、石狩川のショートカット計画には別の狙いが秘められていました。

蛇行部を直線にすると流れは一気に速くなり、洪水は短時間で流れ去ります。ショートカットの一般的な効果はそれだけです。ところが石狩川の場合、その先があります。

石狩川の川底は柔らかい泥炭層です。だから、流れが速くなると川底の泥炭は削られていきます。川底が削られると石狩川の水位は下がります。水位が下がると泥炭層の地下水は石狩川に吸い出され、低下していきます。

その狙いは見事に当たりました。ショートカットによって石狩川の流れが早くなり、川底は水流で削られて低下していきました。川底が下がると、泥炭層の地下水は次々と川に吸い出されて低下していきました。徹底的なショートカットによって、全長三六〇kmあった石狩川が、なんと二六八kmにまで短縮されたのです。その結果、石狩川の各地にはショートカットされた蛇行部の三ケ月湖が残されています。それらのすべてが石狩川より高い位置に浮くように存在していることが、石狩川の川底が削られて低下したことの証となっているのです。竹村氏は、土木技術屋としての熱い思いをこめて次のように言っています。「土木技術者たちは、今まで苦しめられてきた石狩川の流れの力を逆に利用したのだ。この執念のショートカットが進むにつれ、悪夢の泥炭地が希望の大地に生まれ変わっていった。彼らは生死の瀬戸際の戦いで勝った。石狩川ショートカットの図面で感じた執念は、彼らの生への執念であった」と。

私は、以上のことを知り、打ちのめされてしまったと言っても過言ではないほどの衝撃を受けました。単なる自然現象だと思っていた石狩川の速い流れが、実は、高度な知に裏付けられた、人間の執念のたまものであったからです。まさしく、「知と汗をあつめて速し石狩川」なのです(字余り、失礼)。インフラをめぐるこのような壮絶なドラマが、北海道に限らず日本列島のあちらこちらに数え切れないくらいあるに違いありません。それを思うと私は、日本列島のインフラ整備のために注ぎ込まれた先人の叡智と深い思いに対して、黙って頭を垂れるほかはありません。自分たちが当然のことのように享受している豊かさなるものは、実は、さまざまな自然条件と格闘することでインフラを整備し続けてきた先人たちの知と汗の結晶なのです。

そのことに思いを致せば、私たちは謙虚であるほかはないでしょう。インフラ整備、すなわち、公共事業を軽々しくバラマキなどと批判して貶めることなどできうるはずがありません。そういう振る舞いは、インフラなるものについての無知と、自分の無知を悟らぬ愚かさ・軽率さと、先人に対する傲慢な態度とによってもたらされるものであると断じざるをえないのではないでしょうか。

一八五九年以前には一〇〇軒たらずの貧しい寒村にすぎなかった横浜村が、その三〇年後の一八八九年には人口一二万人の近代港湾都市に変貌し、近代日本の表玄関に成長していくうえでの、水関連インフラ整備をめぐる横浜の「格闘」とも称しうる営みの果たした役割の意義など、ほかにも触れたいことがいろいろとあるのですが、それはまた別の機会に譲りましょう。
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