goo blog サービス終了のお知らせ 

美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

ベルツ博士が世界に紹介した草津温泉の治癒力は驚異的である

2014年03月05日 02時43分17秒 | 文化
ベルツ博士が世界に紹介した草津温泉の治癒力は驚異的である

二月二八日(金)、草津温泉に一泊してきました。考えてみれば、同温泉に行ったのは今回で三回目になります。住んでいるところからバス直行便が出ているというのもあるし、草津の町並みがレトロで自分の好みに合っているというのもあります。しかし何よりも、温泉に入ったときの本格感を身体が覚えていて、たまに行くことをおのずから身体が欲しがるというのが、リピートしているいちばんの原因なのではないかと思われます。

その源泉に1円玉を1週間つけておくと、跡形もなく溶けてしまうそうです。この強い酸性が、草津温泉の殺菌力の秘密と言われています。実験によると、湯内ではほとんどの細菌・雑菌が繁殖できず、消滅してしまうとのこと。温泉療法に優れた効力があるのも、この驚異の殺菌力によるのです。

知っている人にとっては、当たり前のことなのでしょうが、あの「日本近代医学の父」エルヴィン・フォン・ベルツ博士は、草津温泉の、難病に対する治癒力を高く評価しています。また、それを広く世界に紹介してもいます。地元の人々はさぞかし嬉しかったでしょうね。草津温泉の効能が、俗信のレベルを脱し、世界レベルの名医から太鼓判を押されたのですから。

博士は、1849年にドイツに生まれ、1876年、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれて来日しています。また、1881年、東海道御油宿(愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコと結婚。その数年前から、草津温泉を訪れるようになりました。

博士がはじめて草津を訪れたのは1878年だといわれていますが、1889年ころからはほとんど毎年のように足繁く通っています。博士は「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と、草津温泉の恵まれた自然と良質の水などについて高く評価しています。実際、草津の水はとてもおいしいのです。

博士の草津温泉関連の学問的な業績を以下にまとめておきましょう。

・1880年(明治13年)、「日本鉱泉論」エルウィン・ベルツ著(中央衛生会訳)を発刊。 日本には多くの温泉があり療養に利用されているが、これを指導する機関がない。政府は温泉治療を指導すべきであると説いている。

・1890年(明治23年)、草津に約6000坪の土地と温泉を購入、温泉保養地づくりをめざす。

・1896年(明治29年)、草津の時間湯を研究した論文『熱水浴療論』が『ドイツ内科学書』に収蔵される。

博士は大変な健脚の人でもあり、噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあります。その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっているとのことです。

では、ベルツが推奨し、万病に効くという評判の草津の「時間湯」とはいったいどういうものなのでしょうか。以下は、「時間湯オフィシャルサイト」http://www.jikanyu.net/ からの紹介・引用です。

まず、神棚に参拝します。次に、お湯の温度を下げる「湯もみ」をします。次に、かぶり湯、三分間入浴、蒸しタオルの頭のせをします。そのほか詳細については「湯長」の指示に従います。おおむね、これを一日三回繰り返すことになります。

では以上のように「時間の湯」に正しく入湯して、一通りの湯治をするとどうなるのでしょうか。

1.たくさんの汗、ふけが出る
たった3分間の入湯なのに、お湯から出てしばらくすると汗が噴水のように、ふき出し、滝のように流れます。また、2日もすると、頭から驚くほどフケが出ます。新聞紙などを広げてかいてみてください。今までふけなど出なかった人でも、例外なく小魚のうろこのように紙面いっぱいになります。

2.汗・おしっこ・大便がにおってくる
人によって差はありますが、入湯後だいたい5日目頃から、汗・おしっこ・大便がひどく臭って来ます。とてもいやな臭いです。よく見ると、おしっこは白く濁り、大便は黒ずんできます。タオルにしみた汗の臭いは、温泉の臭いとは一味も二味も違い、動物の排泄物にも似て来ます。

3.軽いめまい・頭痛・微熱があらわれる
1週間くらい過ぎた頃から、体全体がだるく感じ、軽いめまいや微熱、激しい悪寒を発します。股間やわきのリンパ線がはれ、グリグリが出来るのもこの頃です。時には頭痛や腹痛・下痢を伴うこともあります。

4.解毒反応がはじまる
それと前後して、体の最も柔らかで日陰の部分、たとえば股間やわき、あるいは足指の間に湿疹が出来、だんだんただれてきます。ただれを見るようになりますと、痒く、時には痛みも伴いますが、不思議にお湯に入ると鎮まります。これをただれがお湯を呼ぶといいますが、その周期がだいたい4時間おきに来ますから、「時間の湯」とよばれるようになったのでしょう。体臭は強く臭うので、人はいやがります。

5.顔・手・足から脱皮する 解毒が始まって10日もたつと、今度は顔や手足の皮が次第にむけてきます。それは必ず先端部分と、古く、厚い部分から始まり次第に広がっていきます。座りだこ、ペンだこ、足のかかとや手の節の部分もすっぽり脱皮してそこから赤子の肌のようにピンク色のみずみずしい皮膚があらわれてきます。皮膚病の方は、スベスベしてすっかりきれいになるのもこの頃ですが、薬(過去に使ったステロイドや免疫抑制剤)が効いている部分が時期が10日くらい、遅く皮がむける様です。手足などお湯につけ過ぎると、爪の先がひどくアレ、あか切れのように割れて、出血し、それがまた大変に痛いのもこの頃です。

6.とても食事が美味しくなる
 古い皮がむけ出す頃から、だんだんとお腹が空くようになり、宿であてがわれるものだけでは足らないようになります。昼食なども1人前では間に合わず、店をかえてつめ込むようになります。軽いものより重いもの、野菜よりも動物質のものを要求するようになります。


7.悪寒・微熱のくり返し
よく眠れたと思うと不眠症になったり、風邪かなと思うような悪寒を感じ、あわてて着込むと汗びっしょりになるなど、悪寒と微熱をくり返し、体調がとても不安定になります。解毒の最盛期に入ったのですから心配することはありません。ただ、お腹が空かないようでしたら他にも原因がありますから、注意しなければなりません。

8.髪・ひげ・爪がグングン伸びはじめる
ただれと戦いつつ1ヶ月経過すると、おやっと気付くことがあります。髪やひげ、手足の爪がグングン伸び始めるのです。手・足の爪など2,3日前に切ったのにもうこんなにと、びっくりしますし、爪の三日月(白い部分)など日頃見えなかったのに、すっきりあらわれとても驚きます。

9.血圧が正常になる
血圧が高かった人は次第に下がり、反対に低かった人は上がってきます。

10.ただれがおさまり、体がしまる
入湯45日を過ぎる頃から初めての人にはとても理解できない不思議なことが起こってきます。湯に入ってできたただれが、湯に入りながら治りはじめるのです。それに、体重はむしろ増えているのに、体はぐんとひきしまり、顔・手・足・体全体の皮膚が見違えるようにつややかになってきます。その頃から長年の持病もはっきりとよくなったなあと思うようになります。75日頃になると、ただれもすっきり治り、来た時とは別人のようにあかぬけます。時間の湯ではこのことを「あがり」といいます。

長々と引用しました。いかがでしょうか。私は、自分が経験したわけではないのですが、これを読んで深く感動しました。なぜならここには、昔の日本人が、難病に追い詰められたとき、それから我が身を守るうえでの深い知恵がいぶし銀のようなものとして秘められているように感じたからです。文化人類学者でもあったベルツの心を深く動かしたものも、私が感じたものと別のものではなかったのではなかろうかと推察します。

あの俳人・小林一茶も、草津温泉ではないのですが、六〇歳のとき、知人に勧められた温泉療法によって、長年にわたって自分を悩ましてきた持病からの脱却がかなったのでした。そうして、蘇生感に深い悦びを感じながら阿弥陀様に「どうぞこれからは荒凡夫でいさせてください」と祈ったのでした。彼を救ったのは、気の遠くなるほどの長い時間をかけて風土に蓄積された良き慣習、文化だったのです。

私はいま五六歳です。今後、いまより体調が悪くなることがあっても良くなることはおそらくないでしょう。進退極まったとき、病院での薬付けの日々という近代的な環境に身を委ねるのか、それとも、日本人の深い知恵の薄暗がりに身を委ねるのか、しばし立ち止まって考えるときがきっとくるのでしょう。そういう伝統的対処法を実践してみようと考えるほどに、私は近代科学における悪しき意味での唯物論的な生命観に対して懐疑的ではあるのです。

〔追記〕いま私は、五八歳です。病院で見放された母の命を、漢方薬がつなぎとめてくれたという経験を経て、西洋医学の対処療法的アプローチへの懐疑が深まっております。実体験なので、いかんともしがたいものがあります。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 『にゃおんのきょうふ』「一の巻」完全版  (イザ!ブログ 2013・12・6 掲載)

2013年12月28日 01時23分00秒 | 文化
『にゃおんのきょうふ』「一の巻」完全版

私は、二〇〇九年に『にゃおんのきょうふ』という拙著を上梓しました。実は編集者の判断で、「一の巻」の、いわゆるプログレッシヴ・ロックの趣味的なお話の部分が大幅に削除されました。一般人はそこに興味を持たないだろうという理由で、です。そのときは、それもやむをえないかと思ったのではありましたが、読書会で本書をテキストとして取り上げていただいたとき、「著者のプログレに対する思い入れがあまり伝わってこない」という感想を複数いただきました。そのとき、はじめてそのことを後悔したのでした。

その未生怨を成仏させるために、削除された部分を補った「完全版」を、以下に一般公開いたします。ご笑納いただければ幸いです。なお、you tube からの引用が出版当時になかったことをお断りしておきます。

*****

『にゃおんのきょうふ』―――体験的八〇年代思想論
一の巻 プログレ世代の憂鬱
             ――八〇年代前史



プログレとは
六十年代末から七十年代の半ばにかけて、「プログレ」というロックの一ジャンルが、わが世の春を謳歌した。私を含めた当時の若者たちの圧倒的な支持を得たのだ。とはいうものの、そのことを知っているのは、その時期に若者であった人々に限られると思われる。そこで、まず「プログレ」とは何なのか、かいつまんで説明しよう。

「プログレ」は、プログレッシヴ・ロックの略称で、プログレッシヴは、「進歩的な」という、森一郎の『試験に出る英単語』(浪人生のときにお世話になりました)のprogressiveのところで最初に出てくるくらいに、ありきたりな意味である。つまり、「プログレ」を直訳すれば、「進歩的なロック」ということになる。

「プログレ」 という言葉を目にして、即座に、イエス、ELP、キング・クリムゾンそしてピンク・フロイドというバンド名が条件反射的に出てくるならば、あなたはたぶん私と同年代だ。

また、ムーディ・ブルース、PFM、ジェネシス、マイク・オールドフィールドという名前が出てくるならば、あなたは当時かなりのプログレ・マニアだっただろう。

さらには、ソフト・マシーン、ジェスロ・タル、キャメルそしてU.K.の名が出てくるならば、あなたはおそらく当時プログレ・オタクの域にまで達していたはずだ。

また、それらのバンド名は出てこないけれど、グラム・ロックというロックのジャンル名なら分かっている。その言葉を目にしたならば、Tレックス、デビット・ボウィの名くらいは出てくる。そういえばストゥージーズだって知ってるぞ、と思い出してついノスタルジーに浸ってしまうあなた。そういうあなたなら、やはり間違いなく私と同年代だ。

ちなみに、私は今ちょうど(何がちょうどだ)四十代半ば。人生の悩みの大半が、いわゆる「経済問題」 に根ざしていることにいまさらながら気づきつつある、ちょっとズレた中年男である。

プログレ・ミュージックは、いわゆるロックにクラシックやジャズや民族音楽の要素を大胆に取り入れた。また、当時としては物珍しかったメロトロンやムーヴ・シンセサイザーといった電子楽器の斬新な音色を前面に押し出した。当時の言葉使いに習うなら、プログレは、それらを「フィーチャー」したのだ。リズム面では、変拍子の多用が特徴的だった。また、やたらと一曲の持ち時間が長かった。アルバムによっては、LP(CDではありませんよ)のA面B面で一曲なんてのもあったくらいだ。そこまでいかなくても、クラシックの交響曲風に組曲仕立てをしているアルバムが多かった。大曲志向が強かった、ということである。

さらには、ジャケットがやたらと凝っていて、幻想的な細密画のタッチが主流だったこともつけ加えるべきだろう。ロジャー・ディーン、マーカス・キーフそしてヒプノシスなどという、懐かしいジャケット・アーティストの名前が浮かんでくる。彼らの作ったアルバム・ジャケットが、プログレのコズミック(宇宙的)なロマンティシズムを大いに盛り上げてくれたという印象が残っている。

その手法やアウトプットされるサウンド(といわなければならないのだ、当時の語法としては)に衝撃を受けた当時の音楽評論家たちが、彼らの音楽を「プログレッシヴ」と形容したのだろう。後に、先にあげたビッグ4(イエス、ELP、キング・クリムゾンそしてピンク・フロイド)のいわゆる「マネッコバンド」が雲霞のごとく結成され、プログレが一定の様式をなぞり始めマンネリズムに陥ると、その形容はプログレに対する揶揄の格好の材料になったのだけれど。つまり、もはや「保守的」なのに「進歩的」という形容(動)詞をいまだに冠し続けている、という形容矛盾をからかわれたのである。

いずれにしても、右にのべたようなアプローチによって、プログレは、ロックをアートにし文学にした、と言ってもよいのではないかと思われる。


何故プログレなのか
『体験的八〇年代思想論』とサブタイトルをつけた本書を、「プログレばなし」 から始めるのには、それなりのワケがある。

六十年代末から七十年代の半ばといえば、私の場合、小学校高学年から高校卒業までにあたる。思えば、柔らかい感受性を外に向かって剥き出しにして生きていたころである。恐ろしく内向きであることと、外に対して無防備であることとが妙な具合に「共存」していたのである。多かれ少なかれ、思春期の子どもはそんなものではないかと思うのではあるが。

そんな感受性「全開」 の時期に、私(たち)は、プログレ全盛期を迎えている。そして、好きこのんでプログレ・サウンドのシャワーを全身にたっぷりと心ゆくまで浴びたのだった。

たとえば、私は、イエスのヴォーカリストのジョン・アンダーソンが、キング・クリムゾンのサードアルバム『リザード』 のB面でリリカルに美的思い入れたっぷりに歌っていることをまるで世紀の大発見でもしたかのように狂喜乱舞して友人にふれまわったりした。これは、中学三年生のときのことだった。


King Crimson - Lizard I (Lizard)


また、ELPのセカンドアルバム『タルカス』のA面を占める二十分の組曲「タルカス」のキーボード・パートを友人が口真似で、ドラムパートを私が指で机を叩いて、放課後えんえんとやりつづけたりした。私たち二人に対するクラスの女の子たちの冷ややかな視線の記憶がかすかに残っている(そりゃあ、そうだよな)。これは、高校一年生のときのことだった。

Tarkus - Emerson, Lake & Palmer [1971] (HD)


あるいは、「ピンク・フロイドの『炎』の原題は「Wish you were here」 で、要するに「あなたがここにいてほしい」という意味なのだが、ここでの「あなた」とは、バンド結成時のリーダーのシド・バレットのことで、かれは今、統合失調症患者として余生を過ごしている、という友人のプログレ薀蓄話をこの世の真理をかいまみるような思いを抱きながら神妙に聴き入っていた。これは、高校二年生のときのことだった。

Pink Floyd - Wish you were here - Remastered [1080p] - with lyrics


そして、これは毎度のことなのだが、ステレオのヴォリュームが大きすぎるということでよく親父に怒鳴られた。だったらヘッドホーンで聴けばよさそうなものなのに、それでは物足りなくて、音は小さくても全身で聴くほうがよかった。で、少しずつヴォリュームを上げて、どうかなぁという限度のところに差し掛かると、やはり親父に怒鳴られた。

多感な時期におけるそんな愚行の繰り返しが、感受性の質に決定的な影響を及ぼさないはずがないと思うのである。そして、それは私の個人的な経験にとどまらないという思いがある。さらに、その、「私の個人的な経験にとどまらない」ものが、実は、八十年代の底を流れるものの少なくとも一つを成したのではないかと思われるのである。むろん、それが大げさなもの言いであることは百も承知だ。

あっさりと認めるのだが、プログレ派は、同世代の中で少数派なのである。中学時代、圧倒的に人気があったのは矢沢永吉率いるキャロルである。また、そのころはアイドル歌手の全盛期で、森昌子、桜田淳子そして山口百恵のいわゆる「花の中三トリオ」が大人気だった。彼女たちは、私(たち)と同い年である。その中で山口百恵は徐々に進化し別格の存在になっていき、ついには「菩薩」と崇められるところにまで到達した(「菩薩」を嫁にした三浦友和は、どこかしら聖徳太子の風格を備えることになった)。

また、高校時代圧倒的に人気があったのは、井上陽水である。あるいは、吉田拓郎である。そして、これはその後判明したのだけれど、本音のところでは岩崎宏美のファンだった者が大勢いた。あの扇情的な声がしっかりと私(たち)の股間と心をつかまえていたのだ。洋楽(と、いまでもいうのだろうか)では、ポール・マッカートニーであり、オリビア・ニュートンジョンであり、サンタナだったのだ。

彼らに熱中したわが同世代の大半は、自分たちがプログレ世代として一くくりにされることに違和感を覚えることだろう。「プログレはまあ聞いたことはあるしそれなりに懐かしいけど、世代という言い方をするなら、われわれは陽水世代でしょう、実際のところ」という反応が返ってくるのではないか。


されど、われらがプログレ世代なのだ
私は自分の属する世代が「陽水世代」と呼ばれることに文句をいうつもりはまったくない。むしろ、的を射たネーミングだと思うし、そういう論を誰かに展開してほしいくらいだ。

要するに、私には同世代を「陽水世代」として論じる資格がないということだ。というのは、私には、当時井上陽水に熱中した経験がないからだ。そういう経験がないのにそういう風に同世代を論じるのは、当時陽水に熱中した人たちに対して申し訳がないような気がする。とりわけ、高校時代に私が所属していた美術部の部室で、ずば抜けて絵のうまかったA君が陽水の〝心もよう〝をアカペラで絶唱していたのを思い出すとそう思う。

むろん、かくいう私だって、友人から陽水の『断絶』や『氷の世界』などというLPを借りて一応聴きこんだりしてはいた。プログレを聴くときのような胸騒ぎまでは覚えなかったものの、少なからず印象に残った。陽水が心の底から「いい」と思えるようになったのは、四十歳を過ぎてからだ。四十を過ぎて、私の中で確かに何かが死んだ。そして、何かかが死ぬことで、モノの感じ方が少しだけ変わったような気がする。ここで、四十という年齢にひとつの墓碑銘を刻み込むことを、読者よ、許したまえ。

   四十代この先生きて何がある風に群れ咲くコスモスの花
                             道浦母都子

私には、音楽のジャンルに関しては、プログレに血道を上げた経験があるだけだ。そして、そこには、六十年代末から七十年代の前半という時代の、少数派としての同世代体験と呼ぶに値する実質がある、ということだけはいいうるように感じるのだ。だから、読者よ、とりわけ同年代の読者よ、私が「プログレ世代」を自称することを今しばらく黙認していただきたい。

私は、プログレそのものについてえんえんとオタッキーに論じ続けるつもりなどない。そういうことではなくて、プログレに血道を上げることによって全身で吸い込んだ、時代の空気の核心に迫りたいと願っているのだ。それがもしもうまく取り出せたならば、「プログレ世代」を自称した甲斐があったということになるだろう。そういうわけで、「プログレばなし」にうつつをぬかしたりせずに(というか、その欲望を禁圧して)、次のステージに移りたいと思う。


プログレ世代の憂鬱 
プログレをめぐる私の個人的なかかわりがどういうものだったのかについて、以下に要点をかいつまんで述べておきたい。これが、私なりに回顧して語れる「時代の空気の核心」の正体である。

・プログレ体験を共有したことのない異なる世代に、その体験のニュアンスをうまく伝えられないのではないかという思い。
・多くの人とは、どうにも分かち合えそうにない感覚。
・心の奥の切なる思いは、それが深いものであればあるほど、人から理解されにくい。
・「美」をめぐる求道者のようなイメージ。
・美の極限への内なる視線。
・徹頭徹尾「本気(マジ)」な、この世ならぬ美への志向性。

さらに言うならば、これは以下の本書の記述に大きくかかわってくるのであるが、次のように言い換えてみてもよいように思う。
・内なる思いの伝達不能性への怖れの感覚
・現実的ではない美へのあこがれ
・孤立感、あるいは追い詰められ、無理解に包囲された共同性
・内的な宇宙への関心

こういう言葉を踏まえたうえで、少数とはいえプログレに熱狂した者たちの心の核を成していた世代体験と呼ぶよりほかにないものをなるべく明晰な言葉に置きかえようとすると、次のようになる。

――何も起こらないし、起こったとしてもそこには本当は何の意味もない。そういう砂を噛むような味気ない現実を目の当たりにし続けた若者たちが、なおも消しがたい内なる美への衝動、あるいは「ほんとう」への志向性を自覚したとき、彼らは、おもむろにその真摯な視線を外界から引き上げ、自らの内面に向ける。そこには、現実なるものに対する静かなそして決定的な断念がある。それが、わが「プログレ世代の憂鬱」の核心なのではないだろうか。

彼らは、現実社会を変革する夢を見ないし、それに対して期待するものなど何もない。心のエネルギーは、なるべくそういうことから引き上げて、できることなら全て自分の内的世界に注ぎ込みたい。現実社会なるものに自分の内的世界をかき乱されるのは、なによりも苦痛で耐え難い。お前を否定する気はないのだから、お願いだから、必要以上に俺に関わろうとしないでくれ。そういう、言葉にすることさえない、現実忌避の感覚。それが、多感な時期に私(たち)が「全身で吸い込んだ時代の空気の核心」、言い換えれば、時代の「毒」 なのではないだろうか。それが、吉本隆明が言うところの「自己表出」として明確に外化されるのは、もう少し後のことであるにしても。

オウム真理教との関連について触れれば、「プログレ世代」は、その精神性に「オウム的なもの」のいっぱい詰まった卵を孕みながら独特の自我を共時的に形成したのである。ここで、「オウム的なもの」の核心をとりだせば、それは、「ほんとう」への志向性を自覚した者の真摯な視線が外的世界から引き上げられ、もっぱら内的世界へ向けられるということをめぐる不可避性の感覚のことである。同じことを別様にいえば、現実忌避の感覚が、政治的な形もとらず、倫理的な形もとらず、もっぱら文学的かまたは宗教的な形をとることである。また、先の「自己表出」とは、その感覚が外的世界との接点を持ったときサリンをばらまくという形をとったこと、あるいは、自分がばらまきはしなかったものの、オウムの行為にたいして微妙な共犯感覚を持ってしまったことを指している。

冒頭の「はじめに」のAくんとMくんという「二人の天才」にみられる、野心なるものの決定的な欠如は、彼らの精神の核において、現実社会とのつながりが見失われていることに基因する、と私は感じている。その「天才」を誇示する現実社会という対象があらかじめ見失われているのである。むろん、そのことと、彼らが、職場で高い評価を得て今もしかしたら出世しているかもしれないこととは、別に矛盾しない。彼らは、世間的に言えば、十二分に有能であるからだ。事は、ひそやかな内面に関わることである。

物事は、それが自分にとって大切だと思われる事柄であれば、はっきりさせないよりは、間違っていてもとりあえずはっきりさせたほうがよい。これは、私が四十数年間生きてきて得た、数少ない「教訓」のうちの一つである。だから、その「教訓」にしたがって、冒頭に掲げた問題提起になるべくはっきりと答えてみた。

以上展開した「仮説」を頭の片隅に置きながら、次の時代に目を移してみることにする。 (「一の巻」終わり)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先崎彰容×藤井聡 対談の模様  (イザ!ブログ 2013・11・8 掲載)

2013年12月26日 07時25分09秒 | 文化
先崎彰容×藤井聡 対談の模様

『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)の著者である先崎彰容氏が、十月二四日池袋ジュンク堂で国土強靭化の唱導者・藤井聡氏と繰り広げたトーク・ショーの模様がyou tube にアップされました。ご覧ください。二人の丁々発止の息の合ったスリリングなやり取りが楽しめます。私も、当ブログにご寄稿していただいている小浜逸郎氏・小松待男氏を含む読書会仲間四人と聴きに行ってきました。会場はほぼ満席で、参加者のみなさんはとても熱心にふたりの話に耳を傾けていました。「しなやかなナショナリズムをつくる」というテーマのもと、フィールドの違うふたりの話が見事に噛み合っていたのにはビックリ。波長が合うというのもあったのでしょう。ブログ雑誌の同人としては、先崎氏の「話す才能」を再認識しました。きっと学生たちから慕われる良い先生なのでしょうね。

藤井 聡× 先崎 彰容 「しなやかなナショナリズム」をつくる ~大衆社会の病理とこれからの共同体論~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欧米社会において、赤毛は差別の対象である  (イザ!ブログ 2013・9・6 掲載)

2013年12月21日 23時00分56秒 | 文化
欧米社会において、赤毛は差別の対象である



今日のBBC放送で、赤毛の人々が一堂に会するイベントの模様が放送されていました。そのなかで、参加者の幾人かがインタヴューに応えていました。彼らは、「赤毛なのは自分だけじゃないんだと思った」とか「これからは赤毛であることを誇りに思って生きていきたい」などと言っていました。そういう発言に触れてはじめて、私は気づきました。「へえ、赤毛って、欧米社会では差別されているんだ」と。これまで私は、赤毛が差別の対象であることをまったく知らなかったし、ましてや、そのことについて考えたこともありませんでした。赤毛も栗毛も金髪も、そんなに違いがあるとは、アジア人である私の目には映りません。

赤毛は本当に差別されているのか。そうして、差別されているとすれば、それはなぜなのか。また、どんなふうに差別されているのか。疑問が、どんどん湧いてきます。

Wikipediaには、赤毛について次のような記載があります。

赤毛の人を指す英語にginger、ginga(ジンジャー)という呼び方があるが、これは差別的な意味合いを含んだ悪い言葉である。古くからイギリス人の間には、赤毛の人に対する根強い偏見があった。赤毛の者は皮膚のメラニン色素が少ないため、一般的な白人と比べて皮膚の色が薄く顔色が青白い傾向にある。体質的に紫外線に対して過敏なため光線過敏になりやすく、顔面のそばかすや体のシミができ易い。これらの要因が元となって昔からイギリスでは、「赤毛は体質的に虚弱になりやすく、遺伝的にハンデがある」といった事実から来る差別が根付いていた。イギリスほどではないが、イギリス文化の影響を受けたアメリカやカナダでは、「赤毛のアン」の赤毛の主人公の扱いに見られるように赤毛に対する偏見が残っていたようである。

英国を中心に、欧米社会ではやはり赤毛に対する差別感情が古くからあるようです。その理由も上の記述からうかがえます。赤毛の人は、一般的に顔色があまりよくなくて、しかも顔のそばかすや体のシミができやすい、という見た目のハンディが、どうやら理由のようです。そういえば『赤毛のアン』の女主人公は、自分の赤毛を嫌っていて、しょっちゅう嘆いていますね。また、青白くて、そばかすだらけの顔をしていると描写されています。彼女が金髪ではなくて黒髪に憧れているのはちょっと意外な気がしますけれど。そう思うのは、私の白人コンプレックスのなせる業でしょうか。

また、赤毛に対する差別感情には、宗教上の理由も考えられるとのこと。嫉妬にかられて弟のアベルを殺したカインや、イエス・キリストを銀貨三〇枚で時の権力に売った裏切り者のイスカリオテのユダが赤毛であったという伝承があるそうです。このふたりは、キリスト教圏であまり評判が良くないので、そのことが赤毛への差別感情につながったとのこと。確か聖書にはそういう記述はなかったはずなので、逆の事態も考えられます。つまり、もともと赤毛を蔑視する感情があったので、嫌われ者のカインとユダは赤毛であることにされてしまった、というふうに。また、中世における魔女狩りの対象となった女性に赤毛が多かったとも言われています。

いずれにしても、赤毛に対する差別感情は歴史的にとても古いことが分かります。BBC放送によれば、イギリスで赤毛率がもっとも高いのはスコットランドだそうで、うろ覚えですが、確か10人に1人は赤毛とのこと。もしかしたら、イングランドとスコットランドの長い角逐の歴史が、赤毛蔑視に影を落としているのかもしれませんね。

インターネットで、「燃えるような赤毛とそばかすキュートな赤毛美女の写真」というのを探しましたので、参考までにそのURLを掲げておきます。http://www.inspiration-gallery.net/2012/01/05/red-hair-beauty-107/ この写真を見るかぎり、上のWikipediaの引用文中にあるとおり、赤毛の女性にはそばかすのある人が多いようです。私としては正直なところそばかすがキュートとはどうしても感じられません。けれどなかには、はっとするような超色白の赤毛美女がいることも確かです。私としてはやはり、文化圏が異なるので当然のことなのでしょうが、赤毛と差別感情とはどうしても結びつきません。日本では、縮れ毛に対する漠然とした蔑視があるような気はしますけれど。ちなみに、私の中学時代の大親友だったKくんとSくんはいずれもはげしい縮れ毛でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脱亜論・21世紀意訳  (イザ!ブログ 2013・8・31掲載)

2013年12月20日 14時48分45秒 | 文化
脱亜論・21世紀意訳



1885年3月16日、福澤諭吉が無記名にて「時事新報」紙上に掲載したる社説を「脱亜論」と呼ぶ。そを、21世紀に生きる吾は、以下に意訳せんと欲す。福澤の意とするところを、今日に活かさんとするがゆえなり。知らず、天国の福澤翁が吾が試みを亮とするやいなやを。請う、読者が吾が無謀なる試みを笑納されんことを。

(原文)世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸(ぜん)し、到る処、草も木もこの風になびかざるはなし。けだし西洋の人物、古今に大に異なるに非ずといえども、その挙動の古いにしえに遅鈍にして今に活発なるは、ただ交通の利器を利用して勢(いきおい)に乗ずるが故のみ。故に方今(ほうこん)東洋に国するものゝ為ために謀(はか)るに、この文明東漸(とうぜん)の勢に激してこれを防ぎおわるべきの覚悟あれば則(すなわ)ち可なりといえども、いやしくも世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦楽をともにするの外ほかあるべからざるなり。

(意訳)ヒト・モノ・カネが国境を超えて行き交うグローバリゼーションの波は、アジアに次第に浸透し、アジアの至るところ、あらゆるものが、この波を例外なくかぶりつつある。たしかに、欧米の人々は、その人間性において今も昔もそれほどの違いがあるわけではないのだろうが、その言動が近代以前においては愚鈍であったのに対して、近現代においては活発なようにわれわれの目に映るのは、彼らがテクノロジーの発達を利用して勢いづいているから、というだけのことである。それゆえ、いままさにアジアにおいて国家主権を確立しようとする人々のために熟慮するに、このグローバリゼーションがアジアに押し寄せる勢いに精神的に負けて、それを良きものと取り違えるグローバリストという名の奴隷的知識人になど決してならないという覚悟を決めるのは望ましいことである。ナショナリズムの気概を持することはおおいに結構なことなのだ。しかし、仮にも世界が欧米列強中心に動いている現状を冷静に観察して、グローバリゼーションという現実そのものを否定することなどできないと悟った教養人は、時代の避けがたい流れを受け入れ、国民とともにその大波をかぶることを辞さず、国民とともにそのことによる苦楽を味わう腹を決めるよりほかに術はない。

(原文)文明はなお麻疹(はしか)の流行の如し。目下(もっか)東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延(まんえん)する者の如し。この時に当り、この流行病の害をにくみてこれを防がんとするも、果してその手段あるべきや。我輩断じてその術(すべ)なきを証す。有害一偏の流行病にても、なおかつその勢(いきおい)には激すべからず。いわんや利害相伴(あいとも)なうて常に利益多き文明に於(おい)てをや。ただにこれを防がざるのみならず、つとめてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者の事なるべし。

(意訳)グローバリゼーションは、流行りの病いのようなものである。いつの間にか身近に迫ってくるのである。その所在に気づいてから、慌てふためいてその害を憎み、これを防ごうとしても、はたしてそれは可能であろうか。私は、そんなことなどできやしないと断言しよう。百害あって一利なしの流行病の場合でも、その勢いを防ぐことはでき難い。ましてや、プラスマイナスの両方があり常にプラスの方が勝るグローバリゼーションはますます防ぎようがない。プラスの方が多いのだから、あえてそれを防ごうとせずに、むしろその「蔓延」を促し、一般国民が、その気風に慣れてその恩恵に浴すことができるようにするのが、真の教養人の責務である。

(原文) 西洋近時(きんじ)の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民ようやくその採(と)るべきを知り、漸次に活発の気風を催(もよう)したれども、進歩の道に横わるに古風老大の政府なるものありて、これを如何(いかん)ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧套(きゅうとう)と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府もまた廃滅すべければなり。しからば則ち文明を防ぎてその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇(はんげき)は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。

(意訳)しばし、歴史を振り返ってみよう。西洋の現代文明がわが国に流入しはじめたのは、1854年の日米和親条約の締結による開国からである。それをきっかけに、心ある一般国民はそれを採用するほかはないことを悟り、次第に、国民の間に活発な気風が生まれてくるようになった。しかるに、日本が進歩の道を歩もうとするうえで、古色蒼然とした江戸幕府の存在が障害になることがはっきりしてきた。江戸幕府をそのままにしておくと、西洋文明を本格的に取り入れることができない。なぜなら、西洋の現代文明は、日本の古い制度・しきたりと両立することなどできないし、古い制度・しきたりを破棄するならば、それと同時に江戸幕府も倒壊されるよりほかはなかったからである。ならば、江戸幕府を守るために西洋文明の流入を防ごうとすると、日本は近代主権国家として独立することがかなわない。なぜなら、国際政治のパワー・ポリティクスは、日本が東アジアの孤島として国を閉ざし続け、かりそめの平和をむさぼることを許さないからである。

(原文)ここに於てか我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基き、また幸(さいわい)に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中(こくちゅう)朝野(ちょうや)の別なく一切万事、西洋近時の文明を採り、独(ひとり)日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新(あらた)に一機軸を出し、主義とする所はただ脱亜の二字に在るのみ。

(意訳)この重大局面において、わが日本の真の愛国的教養人たちは、国家の独立を重んじて、時の政府の存続を重視せず、という大義に基づき、また幸いにもわが国には皇室の神聖尊厳という良き伝統があったのでそれをいしずえにして、江戸幕府を倒し明治維新政府を樹立した。そうして、官民の区別なく国を挙げて西洋現代文明の採り入れに努力し、日本の古い制度やしきたりから脱却するだけではなく、アジア全域において史上はじめて近代国家を打ち立てたのだった。それは、国の方針として「脱亜」の道を進むということでもあったのだ。

(原文)我日本の国土は亜細亜の東辺に在りといえども、その国民の精神は既すでに亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。然(しかる)にここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に養わるゝこと、我日本国民に異(こと)ならずといえども、その人種の由来を殊(こと)にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものあるか、日支韓三国相対(あいたい)し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於(おけ)るよりも近くして、この二国の者共は一身に就(つ)きまた一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見(ぶんけん)せざるに非(あら)ざれども、耳目(じもく)の聞見は以(もっ)て心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々(れんれん)するの情は百千年の古に異ならず、この文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残刻(ざんこく)不廉恥(ふれんち)を極め、なお傲然(ごうぜん)として自省の念なき者の如ごとし。

(意訳)わが日本の国土がアジアの東の端にあるのは地理的な事実だが、その国民の精神はすでにアジアの、古い習慣や考えに固執して新しいものを好まない態度から脱却し、欧米社会の気風に移りつつある。ところが不幸なことに、近隣に中国と南北朝鮮という三つの国がある。この三国の人民も、わが国民と同様に、アジア文明によってその精神を培った。しかしながら、その人種の由来が異なるからか、同じような文明の中にありながら、遺伝や社会教育環境に異なるところがあったからか、どちらかはよく分からぬが、支那と南北朝鮮とはよく似ていて日本とはかなり異なる。この三国は、ひとりひとりの国民としても国全体としても改進の道を理解しようとせず、ヒト・モノ・カネが行き交う文明世界を目の当たりにしてはいるのだが、そのことで、心が動かされるようなことはまったくなくて、その、古いしきたりや慣習を恋い慕う情は昔とまったく変わっていない。この変化の激しい国際情勢のなかで、教育のことを論じれば「儒教主義」を主張し、公教育の指導方針は相変わらず「仁義礼智」であると称し、すべてにおいて虚飾・外見のみを重んじ、現実世界において、普遍的な、世界に通用する真理原則に関する知見を抱いているわけではない。さらには、彼らが重んじると称している倫理道徳の面においても、実は、残酷な刑罰や恥知らずな慣習が蔓延しており、それを指摘されても、彼らは傲然と構えて自省の念を発しようとはしない。かえって、指摘した相手を悪し様に罵るくらいである。

(原文) 我輩を以てこの二国を視(み)れば、今の文明東漸の風潮に際し、とてもその独立を維持するの道あるべからず。幸にしてその国中に志士の出現して、先ず国事開進の手始めとして、大にその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、もしも然らざるに於ては、今より数年を出(いで)ずして亡国と為なり、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑いあることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭(あ)いながら、支韓両国はその伝染の天然に背(そむ)き、無理にこれを避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞(ちっそく)するものなればなり。輔車(ほしゃ)唇歯(しんし)とは隣国相(あい)助くるの喩(たとえ)なれども、今の支那、朝鮮は我日本国のために一毫(いちごう)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接(あいせつ)するが為ために、時に或(あるい)はこれを同一視し、支韓を評するの価を以て我日本に命ずるの意味なきに非あらず。

(意訳)私見によれば、これら三つの国は、押し寄せるグローバリゼーションの波に臨んで、その独立を維持することは到底かなわない。幸いにも、彼らのなかから心ある真の愛国的な教養人たちが出現し、国難を突破するために、わが国のかつての明治維新のような政治改革を断行して、人心を一新するような目覚しい活躍をするのならば別だけれど、もしもそういうことがなかったら、いまから数年の後に、これら三つの国は、亡国の憂き目に遭い、その国土が欧米列強による分割の餌食になるのは明らかである。なぜなら、流行病のようなグローバリゼーションの不可避の流れに臨みながら、支那と南北朝鮮は、その避けられなさにあえて背を向けて、無理やりにこれを避けようとして国を閉ざし、清新な空気を絶って窒息してしまうからである。『春秋左氏伝』の「輔車唇歯」とは、隣国同士はお互い助け合うべきことを説いた譬え話であるけれど、いまの中国や南北朝鮮は、わが日本国のためにまったく助けにならないどころか、欧米国際社会から観れば、これらの国々と日本とは地理的に隣接しているので、ややもすれば日本はこれらの国と同一視され、これらの極東諸国に対するマイナスの評価をわが日本にも投影されることが避けられない場合が少なからずある。

(原文)例えば支那、朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(たの)むべきものあらざれば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑い、支那、朝鮮の士人が惑溺(わくでき)深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠(ぎきょう)もこれがためにおおわれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷(さんこく)なるあれば、日本人もまた共に無情なるかと推量せらるゝが如ごとき、これらの事例を計(かぞ)うれば枚挙にいとまあらず。これを喩えばこの隣軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然(しか)も残忍無情なるときは、稀(まれ)にその町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜におおわれて埋没するものに異ことならず。その影響の事実に現われて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云いうべし。

(意訳)例えば、中国や南北朝鮮の政府が前近代的な人治主義の措置を講じれば、欧米社会の人々は、日本もまた法治主義以前の国かと疑い、中国や南北朝鮮の知識人たちの志が低くて、科学の本質を理解しないならば、欧米の教養人たちは日本もそれらの国と同じような古色蒼然とした国かと思うだろう。中国人が卑屈な振る舞いをして恥知らずな態度を取れば、日本人の義侠心がその影に隠れてしまうだろうし、南北朝鮮が前近代的な残酷な刑罰を実施したならば、日本人もまたそれと同じレベルの国民だと思われてしまうだろう。このような事例を数え上げればキリがないほどだ。これを喩えれば、軒を接した一村一町内の者どもがみな、愚かで無法者でしかも残虐無情ならば、たまたまその町村内のひとりがまともな振る舞いをしていても、他の多勢の人々の醜い言動と似たり寄ったりだと見なされてしまうようなものである。それが、現実の権力政治に影響を与えて、間接的に日本の外交上に支障を来すことが実際少なくない。それは、わが日本国の一大不幸と言うべきである。

(原文)されば、今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興(おこ)すの猶予(ゆうよ)あるべからず、むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人がこれに接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

(意訳)だから、国際舞台における熾烈なリアル・パワー・ポリティクスのなかで国家主権を守りぬくために、わが国は、隣国が国際常識に目覚めるのを待ち、その後に「東アジア共同体」を興そうなどという妄夢を見ている猶予などまったくあるはずがない。むしろ、その仲間であることから脱して、欧米先進諸国の一員としてそれらと進退を共にし、中国や南北朝鮮とは、隣国だからといって格別情誼に厚い振る舞いをしようとせずに、欧米先進諸国と同じく国際法に則り冷静に接するのが妥当である。悪友と格別に親しくする者は、彼らと同一視されるよりほかはない。私は、心中深く、極東アジア諸国の悪友を謝絶する者である。

読者よ、貴君が吾が意訳を噴飯物と評するは詮なし。ただし、『脱亜論』を訳せしとき、福澤翁が129年前においてすでに近現代日本の地政学的及び歴史的宿命を看破せしを驚きとともにあらためて痛感したるを、吾ここに特筆せん。


*****

二〇年前の私は、『脱亜論』に対してかなり批判的であった。福澤諭吉の言い方に、帝国主義に対するためらいや抵抗感がまったく感じられないことに対して、言い知れぬ反発を覚えたからである。しかし、いまは違う。当時の日本が置かれていた赤裸々な国際情勢が、福澤の慧眼には、その後の展開を含めてくっきりと映っていたことが、身に沁みて感じられるのである。彼の決然たるもの言いの行間に、そのことが感じられないようでは、日本近代について何も語る資格がない、とまで今の私は思っている。さらに、先の大東亜戦争において、「大東亜共栄圏」をスローガンとして打ち出した段階で、日本政府は、思想のレベルにおいてすでに敗北していたことが分かる。日本はあくまでも、極東の地において、近代主権国家であることの緊張感を保ち続けるよりほかに道はないのである。また、「極西」の地において国家主権を守りきることの孤独に耐ええぬならば、日本は、理にかなったまともな外交が展開できないのである。福澤は、『脱亜論』において、そこまで射程に入れて語っていると、いまの私は感じる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする