And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

私の妻に会ったことありますか、ジョーンズさん?

2015-01-14 20:30:16 | 日記
ビートルズの初期は日本盤「ミートザビートルズ」1枚でヒット曲ほぼ入っていたので、NO.2とかNO.5を買わなかった。いくらビートルズとはいえ初期は「抱きしめたい」1曲あればよかった。その頃出ていたレコードで当時気にもしていなかった「ステレオ!これがビートルズVol.1」「ステレオ!これがビートルズVol.2」が実はイギリスオリジナルの「プリーズプリーズミー」「ウィズザビートルズ」だったとは最近まで知らなかった。タスキには「ステレオ!これが・・」と書いてあってよく見るとジャケットには「プリーズプリーズミー」「ウィズザビートルズ」と書いてある。曲目、曲数は同じなのに順番を変え。日本のデビュー盤は「ミートザビートルズ」であり、次は「ビートルズNO.2」であったからこういう出し方になったのか、それならアメリカ盤のように英国盤としてオリジナルのままのジャケット、曲順で出せばよいようなものを。だから初めてビートルズがCD化されたとき驚いたのが最初の2枚。3枚目以降はひどい邦題ついたままとかあるが中身は同じなのでやっとCDで聴けると思っただけだが、最初の2枚は面白くないなあと。モノクロのジャケットの1曲目は「抱きしめたい」でないと。アメリカ編集盤、日本編集盤まで紙ジャケットでて、レコードで買っていたときを思い出させるものは英国正規盤でありながら今更出す意味もない「オールディーズ」と「ステレオ!・・」2枚以外は全部出た。どういう形で出ようが213曲、「パスト・マスターズ」2枚含む15枚しかないのだから編集盤があるから少し楽しみ増えてると思えばいいか。日本にビートルズ入ってきた頃知ってるという人間も解散してから生まれてビートルズ好きという人間どちらも話聞きたくない。自分としては誰にも知られずこっそり聴く音楽ではないかと思う。文章も書くべきではない。でも書きたくなったのは2枚の「ステレオ!」が不思議でたまらなかったから。


我が名はイシュマエル

2015-01-11 09:08:46 | 日記
正規盤は全部あって、ブートも70年代そこそこ持っていてマイルスは好きでないとは言えないだろうが夢中になったためしがない。40年代の傑作といわれた「クールの誕生」大御所のあとの世代の評論家によるつまらないの大合唱で今話題に上ることない。50年代の傑作「カインドオブブルー」嫌いじゃないけど、ジャズはこれ1枚でいいとか歴史を変えただとかマイルスを好きな人はそう思って聴けばいいんじゃないのと思うくらい。60年代の傑作「ビッチェズ・ブリュー 」大先生の世紀を揺るがす傑作という言葉通り、これもとてもけなしてはいけない腫れ物だった。これを「わからん」「ノレん」という人は感性がないらしい。自分は感性がないと薄々感じてはいたがそうだったんだ。でも他人に言われたくない。品位がないともっと品位のないNHK会長に言われるのと同じで。これも普通に聴けば面白いと思う。感性がない人にはわからないと言われなければ。マイルスを神様のように崇めている人と一緒になりたくないだけだ。未だフルトヴェングラーの第九やカザルスの無伴奏チェロを崇めている爺評論家にも好きなのはわかるがもう推薦しなくていいから冥土の土産に持って行って引退してほしい。名盤の定義も少しずつ変わっていってるかもしれない。ロリンズのサキソフォンの良さがわからないやつはみたいな風潮は今ないだろう。俺たちがジャズの歴史を作っているといわんばかりのスウィングジャーナルがなくなったのも影響している。コルトレーンの最高傑作は「至上の愛」であるなどと吹き込まれるとコルトレーン嫌いになっても仕方ない。でも確かにクラシックの推薦盤はテキトウだけど、ジャズの場合、今のマイルスとコルトレーン除いて名盤イコールいいという場合が多い。エヴァンスもラファエロとの4枚はどう聴いてもいいと思うし、アート・ペッパーも「モダンアート」とか「ミーツザリズムセクション」など誰が聴いても文句なし。何でも聴いてみないとわからない。名店の高級料理も無駄金消費して食べてみないことには悪口言えないのと一緒で買って聴くしかない。ジャズ喫茶でリクエストしてもいいのだけれど、誰もが知ってる名盤だと周りの客から嫌な、もしくは馬鹿にした顔をされるであろうことを我慢しなければならないが。一番おまえふざけるなよという顔されそうな盤は「ケルンコンサート」か「リターントゥフォーエバー」それらはリクエストしないで買おう。




連邦軍死者に捧ぐ

2015-01-08 23:47:28 | 日記
昔読んだか読んでないか忘れた「アブサロム、アブサロム!」を岩波文庫で読み終えて思ったのは疲れた、暑苦しい。「響きと怒り」も講談社文庫と岩波文庫両方とも登場人物のコピーとか付けてあるのでこれは間違いなく読んでる。篠田一士が大好きな作家と書いたフォークナー、原書で読むか訳で読むか違いあるかもしれないが、たとえ20カ国語の訳で読めたとしても好きにはなれない。逆に「ユリシーズ」や「失われた時を求めて」を日本語で読んで好きだといっていいのかとも思ってしまうが別に研究者じゃない、ジョン・アッシュベリの詩集何冊も持ってるが2行くらいしか読んだことないのにあの難解な詩人はと言っても誰にも迷惑かからないのと同じだと開き直る。だって難解といわれるものを好きだと言ったら自分も頭良さそうに見られるかなと心の奥に潜む見栄があるのかと自分を疑うが、単純に言えばわからないものって魅力がある。フォークナー別に難解だとは思わないが南部の保守的な臭いが嫌だ。黒人女との欲求のはけ口で子どもを産ませなんてアメリカ南部ではどこでもあったような話を書かれると、やることしか頭にない馬鹿な欧米人が浮かんできてそんなことまで小説で読みたくないよと思う。「失われた時を求めて」の上流社会のサロン話を読んで面白いのはプルーストは徹底的に馬鹿にしているから。前も書いたがアメリカ小説好きでないからヘミングウェイの爽やかな小説だっで好きでない。と書くとそれで話が終わってしまうのだが、イタリアにはネオレアリズモがあるがアメリカはハッピーなハリウッド映画というたとえが当てはまるか。一言で言うなら中身がない。もちろんすべてではない、ソール・ベローのような作家もいる。ジャズが好きでアメリカ詩が好きなんだけど、アメリカ小説が好きでないというのは失礼だから言い換えるとアメリカという国が好きでない。今までアメリカドル使ったことないし、これからも使うことないだろう。「失われた時を求めて」好きだけどフランス人大嫌いだからそれも関係ないか。フランス人など一番人種差別感が露骨で他のヨーロッパ諸国でもアジア人は自分たちより下と思ってるに違いない。チップで生活しているブルーカラーでさえ。さすが今では一等の切符を買えばアジア人は一等に乗るなとは言われない。また話それた。今回久しぶりにフォークナー読んだけどやはり好きになれなかったということ。次は5冊目の途中までいって読むのをやめたムージルの「特性のない男」を再開するか。




鎌倉霊園ミサ

2015-01-07 12:46:50 | 日記
三枝成章の「ラジエーション・ミサ」が紙ジャケットで復刻されていたのを知って手に入れた。当時レコード芸術の現代音楽部門で賞をとって、どんなものかと買ってみた。当時は三枝成彰も有名ではなく新進作曲家だったのだろう。レコード芸術で行っているレコードアカデミー賞は日本アカデミー賞と同じく何の権威もなく、それで大賞に選んでおきながら、のちの名曲名盤などでは触れもしないとかよくある適当なものだが「ラジエーション・ミサ」は何か気になって買った。早い時期にCDにもなったのだが買わずにいたら、すぐ絶版になり手に入らなくなった。あの頃はレコード持っているからCD買わなくてもいいとかいう感覚だったので買い逃してあとから苦労して手に入れたCDもあった。これもレンタルビデオ店閉店の時の在庫処分で手に入れた。今ならオークションでほとんどのものが手に入るが廃盤になっただけで値段は跳ね上がる。こういうマニアックなものは特に。CD化されたときジャケットはアラジンの上に猫のが変えられていて三枝成章の写真になっていてがっかりしたので今回の紙ジャケットはうれしかったが、あらためて音楽を聴いてみるとこんなものだったのかと思った。やはり電化ものは仕方ない。年数経つとこんなものになってしまう。
もう一つ最近おっと思ったのが、リヒテルのカーネギーホールコンサートを全部集めたボックス。60年に初のアメリカコンサートをカーネギーホールで行った。すごい演奏なのだが当時のコロンビアが勝手に発売したということでリヒテルは販売を止めてしまったいわくつき。稚拙な録音装置を持ち込んだため録音状態はよくない。何年か前にアーカイブシリーズでCDになったことがあったが、そのときは盤おこしだったが今回は正式なマスターから。といっても元が悪いので音が良くなった感じはしない。前後のRCA録音も含まれるがメインはカーネギーホールだろう。ベートーヴェンの熱情、3楽章で最後猛烈なスピードで終わらせるのだが、さすがのリヒテルも指がついて行かず思い切りミスタッチするのだがそれがまたすごい。ライブでも修正しまくってスタジオと変わらない演奏にしてしまう最近の録音を聴いていると、これぞライブとうれしくなる。リヒテルの録音はスタジオでもいい録音に当たったことがない。しかもレパートリーが偏っているから、有名なピアニストの割には親しみづらいかもしれない。録音レーベルも分かれているのでホロヴィッツのようにひとつのボックスで全部聴くこともできない。でも今回のボックスであとは別にいいと思う。







透明人間

2015-01-06 01:08:26 | 日記
城山三郎の「落日燃ゆ」を読むと誰もが広田弘毅のファンになるに違いない。実際の責任問題は別として「落日燃ゆ」を読んで、東京裁判で娘に頭を下げる広田弘毅を見ると悲劇のヒーローでしかなくなる。これが文学だ。実際の広田弘毅と城山三郎の作り出した広田弘毅はすべてが同じではない。どういう話でもだいたい尾ひれはひれがつき、ほとんどは民衆が喜びそうな美談になるのだが、小説に書かれる歴史上の人物は小説家が作り出した虚像に過ぎないのは当たり前だ。それがまた読む読者によって虚像が変化し膨らむ。吉川 英治の描く宮本武蔵、劉備、諸葛亮、司馬遼太郎の描く坂本龍馬、西郷隆盛。誰も本人にインタビューしたわけではない。司馬遼太郎の「関ヶ原」で島左近が石田三成に嫌な人間にも挨拶しなければならない時があると諭す。本当にそんなこと言ったのかなど疑う人間はいない。となると歴史小説もSFもたいして変わらないということか。なので司馬遼太郎の描く誰々はおかしいだとかいうのはトンチンカンな話で小説になれば島左近も架空の人物でしかないということだ。タイタニックで沈没するまで音楽家が演奏していたのかはわからない。ただそうあってほしいという願望はあるので映画では必ずそのシーンは入る。二・二六事件で青年将校をたきつけて梯子を外した真崎甚三郎。これは映画などの想像でなく事実だったと思う。インパール作戦は映画にしないで事実だけをフイルムに残してほしい。戦わずして1万の若者が終戦を待たず無駄死にした事実と指揮した牟田口廉也は罪を裁かれることなく1966年まで生きながらえたという事実を。話を戻すとたとえばアイガー北壁のドイツ隊登山事故、生き残りはいないわけだから事実は全員死んだことだけ。あと調査はするが文章にしたり映画化されたりすると死んだという事実以外はSF小説となる。実際の広田弘毅は城山三郎の書く広田弘毅よりもっといい人間だったかもしれない、ものすごく嫌な人間だったかもしれない。そんなことはどうでもいい。ジェームス・ボンドの性格がどうであろうと構わないのと一緒で。