チェーホフの「かもめ」を読んで最後ショックを受ける。でも登場人物が多すぎて覚えきれず感動も半分。ゴーリキーが芝居観て号泣したという「ワーニャおじさん」それと「三人姉妹」もすぐ読み終えるであろう。この分だと全集読破できるかと思ったが代表作が面白いに決まっているから、数ある短編でつまらないのにぶつかれば止まってしまう。映画も小説もちょっとくらいでは衝撃は受けないけれど、このラストは思ってもみなかった。映画だと木下恵介の「日本の悲劇」のラストで本当にびっくりしたことがあった。若いときスタインベックの「二十日鼠と人間」キイスの「アルジャーノンに花束を」を読んで最後涙流したことがあった。「禁じられた遊び」は今観てもたぶん泣くのでDVDは持っているが一度も観ていない。そんなこと書いているうちに年が明けてしまった。音楽は年の初めから好きでもない音楽を聞いてしまうのは嫌だから、キースの「コンサーツ」をかけていた。昔ブラウン神父を一つ読んでそのトリックにびっくりしたことがあって、数年前思い出して5冊買ってきてさあ読もうと思って2,3読んだら、やはり昔読んだのが一番よくて1冊読み終わらないうちに積むこととなった。ヘミングウェイは「われらの時代に」読み通した。芥川も2,3しか読んでいない。大江もいくつか読んでいるがやはり長編や評論のほうが印象深い。ジョイスの「ダブリンの人々」も読んでいるはずなのだが全く印象がない。フォークナーも短編集買ったが読んでいない。やはりチェーホフは学生の時「六号病室」読んで面白かったという印象がある。魯迅は大好きで特に「吶喊」は何度も読んだ。最近は暗くなると字も読みづらく、適当に飛ばしてしまうこともある。これからどれだけ本を読むことが出来るのだろう。昔買った字の小さな本は厳しい。CDの解説も読むのは厳しい。輸入盤の英語がびっちりというのは英語が読める以前。こんなの向こうの年寄り読めるのか。本も少しばたばたするだけで一気に読めなくなってしまう。そうすると短編のほうがいいのかというと違うのは、短編は次の楽しみがないからかと思う。長編だってあとこれだけあるのかと最後までいくのがつらいものもあるが、逆に読む義務感で続くのか。思えば詩集もそうだ。一つの詩集を全部読んだことたぶんないか、記憶にないくらい読んだ達成感がないか。最初から順番に読むものではないと思っているから、またぱらぱらめくって閉じるのが詩集の読み方だと思っているから。当然スティーブンス、レヴァトフのcollected poemsなんてインテリアにしかならない。両方ともselected poemsで充分なのだから。
「原子力潜水艦シービュー号」のボックスやっとあと1話で観終わる。本当にくだらなかった。当時もプラモデル作ったかくらいで観ていなかったけど、子供だましにもならない内容、それをよくDVDにしたものだ。まだ「宇宙家族ロビンソン」のほうがまし。「特攻野郎Aチーム」だってくだらなくても、そこそこ楽しめる。「シービュー号」はそこそこ楽しめるすらない。当時のスパイブームにあやかって潜水艦と全く関係なくスパイの話になったり。それに比べて「ペリー・メイスン」は感心するくらい1話1話が面白い。もちろん年齢層も高く設定してあるのだろうが、毎回あっといわせる犯人。最近の刑事物だってかなわない。当時は観ていなくてレイモンド・バーを知ったのは「鬼警部アイアンサイド」なのだけれど。あとは「マッシュ」最初のシーズンだけでもいいからDVDにならないものか、もちろん当時の吹き替えで。別に好きでもないけれどというくらいのベートーヴェン、日本の風習にのるわけではないけれど何か第9が聴きたくなった。だいたいは昔からのお気に入りガーディナーで全集を聴くのだけれど、今日はヤルヴィで。この全集、評論家が絶賛していたのでさぞかしつまらない演奏だろうと思っていたら意外といけた。最近の演奏はリピートを忠実に行うのでそれだけでうんざり。それよりリピートしない早いのカラヤンだなとなる。第9も2楽章でいいかになってしまう。別に合唱は聴かなくてもいい。それだからブルックナー、マーラーなんて1曲聴けるわけがない。それどころかハイドン、モーツァルトだって最近交響曲1曲まともに聴いたことがない。それなら作曲家のせいではなく交響曲が好きではないのではと問われるとアイブスは好き、ハルトマンの交響曲も面白いと思うと考えるのだけど、同じ交響曲のくくりかと、ウェーベルンの交響曲も同じかといわれると答えを返せない。そういうときはいつもの回答、好き嫌いは理論じゃないんだ。吉川訳「失われた時を求めて」囚われの女1も年末ぎりぎり読み終わり、大量のチェーホフ全集からまず「かもめ」を読んで、さて何冊読み終わることが出来るだろう。前「サハリン島」読んだとき期待外れにつまらなかったけれど、もしかして訳が悪かったかと再読してみようかと思うけれど、その前に多くの短編が待っている。長編ならさあ読むかと構えられるのだが、短編は読み通すのが難しい。「火星年代記」連作だけれど短編としては最高だった。魯迅も面白かった。それくらいか読んだ感のあった短編は。第9はまたしても4楽章までいったのに用事ができて止めてしまった。今年も歓喜の歌を聴かないで終わった。
駅の近くのスキピオという家
でおばあさんが笛を吹いて
酒もりをしている。
駅の近くのスキピオという家
でおばあさんが笛を吹いて
酒もりをしている。
「帰ってきたヒトラー」がDVDになったので早速観た。本に比べ期待外れだろうと予想していたけれど、意外とというか本とは別の視点から捉えていて面白かった。本は英雄待望の感があるが、映画でははっきりと危ない人間だったというのを示している。認知症のおばあさんがみんな最初は笑っていたのよという言葉には重みがある。あいつは本物だといった人間が病院に隔離されたり犬のシーンもそうだが笑えぬところを入れたところに映画制作者の良心を感じた。軍人を英雄としてしか映画化しない日本とは違う。しかし映画でチラチラ出てくる難民問題は賛否がわかれるところだ。長いことまたブログが書けなく、書くことがなければいいのだけれどどこかで自分の文章を読んでくれている人がいるのではと思うと書かないとと思ってしまう。新書で「銀幕の東京」という本を買って、知ってる小津、成瀬の映画の舞台になった場所の話を読んでいたら川島雄三の「洲崎パラダイス赤信号」のことが書かれていて興味もってDVDを買った。川島雄三は一番有名な「幕末太陽傳」をLDで観たが評判ほど面白いとは思わなかった印象があった。日本映画みんなに共通しているのだけれど、何だこの映画くだらないと思いながら最後まで観てしまう。「洲崎パラダイス赤信号」も途中で飽きるのだけれど、せっかくなのでと最後まで観た。今はもうない洲崎の雰囲気が映像で伝わるというのだけよかったというくらいか。買ったついでに「幕末太陽傳」のほうもDVDで買ったので正月にでも観ようか。この間「桜の園」読んだだけでまたチェーホフ読みたくなり、ちくま文庫から出ていたチェーホフ全集を集め出した。今までどれだけ読んでいない短編集があるのか考えたら「六号室」といくつか入った短編集で十分だと思うのだけど。CDではオイストラフのグラムフォン他のボックスが出たので一応買う。オイストラフは好きなのだけれど、協奏曲でチャイコフスキー、シベリウス、ブラームス、ベートーヴェン、メンデルスゾーンと有名どこがあれば別に他は入らない。そうは思っていても揃えるのがファン。意外とバッハもよかった。当たり前だ、オイストラフはすべてがいい。でもバッハ聴くとき最初にオイストラフに手が伸びるかだ。ジャズはさっぱり、といっても新譜買うのはチックとキースくらいであとは珍しいもののCD化を期待しているのだけれど、とても出る雰囲気がない。年末は時間がある、
たしかに、まだ「思いきって、やってみようか」
「ひとおもいに」と、考えなおす暇がある。
たしかに、まだ「思いきって、やってみようか」
「ひとおもいに」と、考えなおす暇がある。
「ワケありな映画」を読んで何本か買って観た。たいていはこのくらいでと思うくらいのばかりで、驚くものはなかったが、亀井文夫の「日本の悲劇」は最後の結論部分をばっさり切られているのがわかる。そうでなければDVDにできなかったであろう。別に忙しいわけはないけれど、なかなかブログも書けない。昔小説を書いてみようと思ったことがあるが原稿用紙10枚でタネが尽きた。こんなブログでさえ書けなくなるのだから書く才能は昔も今もなかったんだ。勘違いで買ったファジル・サイのモーツァルト、ピアノソナタ全集はまあよくてと思うのは嫌いなモーツァルトをそう聴けるのだから相当いいことか。三島も読み終わり、吉川訳の「失われた時を求めて」に戻った。自分が思うにこの小説の中では一番間延びするのが「囚われの女」。それでもさらさらと読み進んでいく。そりゃ哲学書に比べれば。成瀬巳喜男も勢いよく全部観てしまったら、もう楽しみがなくなった。要するに最近はっとするものを手に入れていないから書くこともなくなっていった。昔から好きな文学や音楽も書き続けると同じ話の繰り返しになるから、といって新しいものは何もない。源氏物語でも読もうかと思うのだが、その前にプルースト2冊読んで、川端読んで三島読んで、久しぶりにチェーホフ読もうとネットで注文したのでそれも読んでからとなると、その頃にはまた読みたいものが出てくるだろうから。音楽も今思えばルービンシュタイン、グールドを1枚ずつ聴いていたときが楽しみあった。同じボックスのハイフェッツ、カラヤンは継続できなかった。どうせ期待外れになるだろうけど「帰ってきたヒトラー」のDVDが少し楽しみ。原作が面白かったものはそれ以上の映画できない。と書いて思い出したのが「JFK」。ジム・ギャリソンの本をそのままだったかと調べたら原案の一つだった。あれは映画でいってるとおり国内クーデターだと思う。そうでもないとすべてが協力しないとあんなことできない。証言者は言う。アメリカの大統領を殺す連中なんだから私なんか簡単に殺すと。事実目撃者の多くが事件後2,3年で死んでいる。ウォーレン委員会のような事件をもみ消すための委員会を立ち上げたり。あまり同じ映画を何度も観ないがこれは少なくとも3度は観てるし、こう文章を書くとまた観たくなる。最近の楽しみは「弁護士ペリー・メイスン」のDVDを少しずつ観ること。これも全シリーズ出してくれたらだいぶ楽しみ増えるのだが、そんなこと考えているのはやはり何事もなく過ごしているからなのかな。
NHKでレヴィ=ストロース解説番組があるのをテキストで知って早速買ってきて録画した。聞いていると何となくわかったような気がするが、本も読まずしてというのは疑問がある。哲学書は一度たりとも面白いと思ったことがないので、10ページ以上進んだことがない。考えてみたら今まで1冊も川端康成を読んだことがないと思って「山の音」を買ったが、何かで思い出して三島由紀夫の「禁色」を一緒に買ってこちらから読み出した。あからさまなゲイの描写に恥ずかしくなって今これ読んでるというのが言いづらく、友人と話すときも三島はいいよねと作品名は言わない。読んでいないといえば森鴎外も1冊も読んでいなく、かといって気にもしていない。溝口健二の映画で「山椒大夫」を観たくらい。スケジュールとして「禁色」読んでしまって、あと半分残っている吉川訳「失われた時を求めて」を読んで「山の音」、そのあとしばらくぶりに出た高遠訳の「失われた時を求めて」。となるとレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」はどこに入れようか。フーコーやベルクソンも文庫なら読むだろうと買っても解説くらいしか読まないので、また買うだけとなってしまうのか。「悲しき熱帯」の序文で簡単ともいえない文章で書かれている本が日本でも版を重ねていると書いてあるが、自分のような買っただけで満足するえせインテリが他にもいるのだろう。12月入るとさすが出る機会も多く、なかなかブログを書くことができない。NHKレヴィ=ストロースのテキストすら読めない状態。語学講座もたまる一方だが少しずつ消化できるからいい。予約録音でなければ絶対続かない。ナタリー・サロートの昔買った本が他の探し物しているときに出てきた。この本があったことすら忘れている。シュタイアーのモーツァルト、前置いてあったところになく、そこになければほぼ見つけられないと観念したが、あとここだけと探したらあった。またどこかにあるものを買わずに済んだ。そう思いながら部屋を見ると自分でいうのも何だが異様だ。3倍くらい広くなればきれいに整頓できるのだが、一生無理だろう。整頓が無理なのではなく3倍が無理だ。こんなことを考えているうちに12月が終わり1年も終わろうとしている。こんなに時間の流れが早いのに哲学で時間をつぶすのはやはり無駄か。学生の頃から哲学書は豊富に買って1冊も読み終えたことがない。その頃買った本は手元にほとんどないのにまたミッシェル・フーコー、レヴィ=ストロースなんか買ってしまって、読まずに売ったりすることになるのだろうか。昔から残っている数少ない哲学書メルロ・ポンティの名前を思い出して友人に自慢げにああメルロ・ポンティねという。名前を知っているということでは嘘をついていないし、誰も中身について聞いてこないだろうから。