ドストエフスキーの「白痴」と書こうとして白痴が変換されないと前に書いたが、フレドリック・ブラウンの短編集も「さあ、気ちがいになりなさい」のまま、ゴダールの映画も「気狂いピエロ」のままとそういう例は結構あるが、それらを現代の適切な言葉に置き換えてとなるとおかしな題名になってしまうだろう。「罪と罰」で老婆を・・これは差別用語だから年老いた女性をだとか、「馬鹿が戦車でやって来る」の馬鹿も差別用語だろうとか言い出すとすべてに当てはまってしまう。聖書も重い皮膚病だとか目の不自由なとか言葉を直しているが、前の言葉で読むこと自体が差別なのだろうか。昔のしかも文化などに関わるものは無理に直す必要ないと思うのだが。逆に猥褻なものが緩和され「ユリシーズ」を卑猥な小説と今言う人いないだろうし、「チャタレイ夫人の恋人」を卑猥だから発売禁止にしろとPTAも言わないだろう。言論の自由だけでなく、すべての自由は好き勝手できるという意味ではなく何に対しても責任を持たなければならないというのは当たり前だ。「鬼警部アイアンサイド」で警部が足が戻るならお前のように真っ黒の肌になってもいいという科白があったが、人種差別的なものもたくさんある。今なら車椅子でという設定が差別とか言われかねない。今もって公式に出版できない深沢七郎の「風流夢譚」や大江健三郎の「政治少年死す」などあるが、戦後自由に発言できる国に生まれたのは幸運というより神はすべての人の前で公平でないのは創世記からあること。未だBorn At The Right Timeと言えない国で育ち死んでいく人もいる。ベルリンの壁崩壊を見ることのできた人、シュタージに捕らえられ出ることのできなかった人などさまざま。自分の関わる小さな世界ですらいろいろな人間がいる。好き勝手に自分の思うところをネットで書き込める時代だ。そんな時代になったからこそ差別用語として禁止することがより必要になってきたのだろう。でもいやだな、この間DVDでゴダールの精神に病を持ったピエロ観たよなんて言うの。
この間DVDで「死海殺人事件」を観た。LD持っているから観ているはずだが、内容は忘れていた。最初からいきなり二流映画らしい派手な映画音楽が観る気をそいだが、最後まで観た。クリスティの中でも普通に入るくらいの原作だと思うが、トリックが面白い「地中海殺人事件」(白昼の悪魔)やナイル殺人事件(ナイルに死す)に比べると暇つぶしにもならないような映画。ワイルダーのクリスティ原作「娼婦」のほうが数百倍面白い。原作通りにできないのわかっていても推理小説の映画化でこれはというのが一つもないどころか「そして誰もいなくなった」みたいに原作のよさも「いなくなった」という映画ばかり。清張なら「点と線」「ゼロの焦点」のように何度観ても面白いのがあるが。SFなら原作と多少離れていても結構面白いものがある。「スターウォーズ」のようなお子様映画もSFに入れてしまうと、どーんと偏差値は落ちてしまうのだが四流映画もあるのがSFだ。なら文学はどうかと考えると、すぐ思いつくのがヴィスコンティが映画化した「異邦人」なんの感情も入っていない本当につまらない映画だった。遺族から制限があったとはいえあれなら作らなかったほうがよかったのではという映画だったが、どういうわけか映像ソフト化されていない。ビデオからずっと。同じヴィスコンティなら「ベニスに死す」よくあんな短編をあれだけの映画に引き延ばせたと思う。「罪と罰」なんか腕のふるい所と思うのだが映画化は少なく、自分の知ってるのはソビエト映画だけ。何度も書いてるが、だらだら長いだけの小説の一部分を切り取って名画にした「エデンの東」。「怒りの葡萄」もそこそこだったと思う。「戦争と平和」は原作に魅力感じないから映画も興味なし。これも何度も書いてるが「ドクトルジバゴ」も原作先に読んでいたら映画観なかったのではというくらい映画がよかった。日本なら「夜明け前」「破戒」「こころ」「沈黙」など映画観る前に本読んでるが、抵抗なかったこと考えるとそれほど原作をいじってはいないのだろう。シェイクスピアはどう映画化しようと原作が面白いのだから変な映画になりっこない。印象に残ってるのはオリビエの「ハムレット」「リチャード三世」とソ連の「リア王」全くイメージと合わなかったのがキューブリックの「ロリータ」少女かわいくない。原作読まないで映画観たのが「裸者と死者」映画観たら読むことないかとやめてしまった。フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」「ブラームスはお好き」あたりは別に原作がどう変えられようが関係ない。ただ「ブラームスはお好き」の映画化「さよならをもう一度」でブラームス交響曲3番3楽章に歌詞付けたのには驚いた。「失われた時を求めて」の一部を映画化した「スワンの恋」と「見出された時」はプルーストファンの自分にとっては面白かった。すべては自分の頭に作られた虚構と映画の違いを楽しんでいるだけなのだ。決して接することのない。
クラシックは近年コンプリート大流行。というかまとめないと売れないのか。レコードのときはとても手が出なかったドラティのハイドン、ホグウッドのモーツァルト交響曲全集はCDになっても高かったが、それでもレコードの時と比べたら買いやすくなった。と思っていたら個人のコンプリートがどんどん出だした。やはり驚いたのがカラヤン。EMIのコンプリート、ジャケットも味気なく詰め込んだ感じだが一応聴ける。デッカのコンプリート、これは枚数少ないから。でグラムフォンのコンプリート、50年代以前はマニアの領域だが、60,70,80と10年づつコンプリートで紙ジャケット、ほぼレコードのままの順序。しかも親切なことに自分の興味ないオペラを抜いてくれている。カラヤン別に昔から嫌いでなく、かといってファンでもないがお得な値段でバラだと絶対買わないだろうというのも含まれているわけだから買ってしまう。グールドもバラでみんな買ったのだけど、コンプリート紙ジャケットというだけで買っておくか。ホロヴィッツは何枚かダブるくらいで、しかも輸入盤は安くてレコードのままCD化なので買う。ハイフェッツはレコード1枚も持ってなかったが、何枚かのセットを買ってよかったので買ってみたが聴かない。何枚かのセットで十分だった。EMIのコルトー40枚とかフランソワ36枚なんてお得なので買うが、EMIはレコード無視の詰め込みなので味気ない。EMIはロストロポーヴィッチ、オイストラフ、リパティ、リヒテル。こんなに買ってはたしてお得だったのか?アルゲリッチのグラムフォン、ブーレーズのコロンビアコンプリート。もちろん他にもコンプリート出てるが、自分の興味の範囲で買ったのはこれくらい。文学の個人全集は読まないけれどCDは結構アトランダムに取り出して聴くものだ。自慢じゃないがノーマン・メイラー、ヴァレリー、エリオット、プルースト、西脇順三郎の全集ほぼ読んでいないというか開いていない。サルトルは全部買わなかったが半分は読んでるか、カフカ、魯迅は小説は読んだ。シェイクスピアは全部読んだ。映画も小津、黒澤、溝口もLDで観てるからDVDで揃えたが改めて観ようと思わない。木下恵介は何本しか観てないのに、つまらないのに当たるともういいとそのまま観てない。アメリカテレビドラマは買うと全部観るが例外が「宇宙家族ロビンソン」。昔面白かったはずなのにとても全部観れない。くだらなくて。昔も今もコンプリートとか全集という言葉に弱いのでたまる一方。そうジャズもだ。マイルスは紙ジャケットで全部持っているのにボックス出たら買ったり。マイルスもカラヤンと同じで嫌いじゃないけど好きといったことはない。モザイクレーベルはコンプリート組むので、好きなミュージシャンだと買ってしまう。エリントンだけで4セットあるかな。西脇順三郎、北園克衛、チャールズ・オルソンの全詩集を眺めると、詩ってパラパラめくるものじゃないかとインテリアにしかならない分厚い本のことを思う。そのインテリアが重くてじゃまで。カラヤンもそろそろ邪魔になってきたのだけど。
昔、夢中になって読んだ推理小説。最初はアガサ・クリスティだったと思ったが、中過ぎてから解決に向かうあの緊迫感。むろん何冊読んでもそのわくわくする気持ちは変わらなかったが、最初の4,5冊は驚きの連続だった。2冊目くらいに「アクロイド」を読んでたまげた。最初の頃に読んでおいて良かったと思う。だんだんと召使いは犯人ではない、これは怪しく見せてるだけだ、アリバイ堅いから怪しいとかひねて読むようになって、しかも有名ものを読んでしまうと当然それ以上の驚きを起こさせる小説に会うのは難しくなる。推理小説は手元にはほとんどないので思い出で書くしかないが、好きだったのはヴァン・ダイン、ディクスン・カー、チェスタトンのブラウン神父ものなど。エラリー・クイーンも代表作読んだが、いまいち好きになれなかった。読めば読むほどトリックを覚えていくのでだんだんとこんなものかになっていき、かといって心理描写など長々やられると所詮推理小説なんだろうと腹が立ってくる。みんなそうだと思うのだが、そして読まなくなるになる。そこで次に興味持つのが松本清張の社会派推理小説。「点と線」「ゼロの焦点」そして戦後事件もの、帝銀事件、下山事件、スチュワーデス殺しなど。清張も男性本好きなら読んだことない人いないくらい誰とでも話できた。映画観てはまったのが高木彬光。「白昼の死角」の手形パクリの話、実際にあった話が元だからなおさら興味もって読んだ。それから高木彬光も次々読んだ。同じ角川でも森村誠一は好きになれず、映画の「人間の証明」はひどかった。映画といえばクリスティもかなり映画化になりテレビドラマで相当数映像化されたが、「そして誰もいなくなった」のようにハリウッドハッピーバージョンに変えられ原作が台無しになったのもあるし、テレビのほうも原作を変えてるようだ。原作と照らし合わせていないので変えてるかはわからないが、「オリエント急行殺人事件」「ナイルに死す」と「白昼の悪魔」の映画化はふつうに面白かった。それで話は飛ぶが、先日デュヴィヴィエの「運命の饗宴」を観てひどいと思った。完全にプロデューサーのいいなりで、お幸せなハリウッド映画作ってる。戦後デュヴィヴィエがフランスに戻ったのはわかる。デュヴィヴィエはたいした監督ではないと思っているが、まだフランスではましな映画つくっていたはず。ヒッチコックもアメリカ来た当初、これはプロデューサーのいいなりという映画何本か作った。アカデミー賞取った「レベッカ」なんてヒッチコックらしくない映画。作品賞はプロデューサーの賞だからヒッチコックは関係ないのだが。もちろん「海外特派員」のようなこれぞヒッチコックという映画もある。愛こそすべて正義は勝つみたいなハリウッドクソ映画全盛時に「殺人狂時代」なんか作ったらチャップリンでさえ追い出されるよな。たぶん日本に入ってこないだけで日本人をコケにした映画、戦後もたくさんあったのではと思う。不思議なのは「そして誰もいなくなった」の原作バージョンでいまだ映画化されないということ。さすが今なら正義は勝つでなくてもいいだろう。映画では。
刑事コジャックをDVDで買って久々観たら面白かった。本が面白いのは当然だが、日本でもヒットしたのは森山周一郎の吹き替えのおかげだろう。トトロが糸井重里の吹き替えで台無しになったのをみても吹き替えは重要であるのは当たり前なのに、最近では平気でシロウトの俳優使ったりする。逆に昔のテレビドラマは本当にうまい声優を使っているので字幕で観たらきっと面白さ半減というのある。ドラマだけではなくアラン・ドロンは野沢那智、クリント・イーストウッドは山田康雄といったおきまりはあったが映画はやはり字幕で観たい。もちろんこの二人はドラマでもさまざまな吹き替えをしていて野沢那智ならイリヤ・クリヤキン、山田康雄ならコンバットのケーリとかすぐ思いつく。昔観たテレビドラマは当然吹き替えで観るが、最近のレンタルのもしくはBS,CSで放映しているテレビドラマも吹き替えでないと観ない。下手なら字幕も観ないが最近も民放の映画と違って下手な吹き替え使わず、それどころか声優プラス訳仕方もうまいんじゃないかと感心する。最近と行っては何年も前になるが「24」も吹き替えで夢中になったくち。「バーンノーティス」もこれはうまいなと調べたら栗田貫一。これには驚いた。声優でも食べていけるのではないかと思った。もちろん声優がうまくたって本が面白くなければどうにもならない。前も書いたがアメリカテレビドラマだからすべてが面白いわけない。「24」などサンプルでもらった第1話の最初の10分観ただけでのめり込んだ。だいたい1話でぴんとこないのはだめだ。刑事物などたまたまつまらないエピソードにぶつかることもあるが、もう1本観たらわかる。吹き替えで観るというのは1つのジャンルかもしれない。ある講演会で外人の講師がしゃべり通訳したらどっと笑い出して、講師が通訳にどういう風に通訳したんだと聞いたことがあった。言っては悪いが、たかがテレビドラマなのだから多少は意訳があってもいいと思う。口数を合わせなければならないのでそういったことはあるだろうが、そのところでもしかしたら面白さが出てることもあるのかもしれない。「宇宙家族ロビンソン」のドクタースミスは熊倉一雄でなければだめなのだ。他の吹き替えでも字幕でも。ショーン・コネリーのボンドは若山弦蔵でなくてもいいとの違いか。吹き替えにすると明らかにおかしいのも時にはある。日本でてきとうに名前作ったのもある。フライデーが単にロボットと言われていたなんて。映画版スタートレックを観て戸惑いを覚えた。どこにもミスターカトーはいなかったから。もはや子どもをターゲットにしているわけではないアメリカテレビドラマで吹き替えが残っているのはアメリカドラマでありながら日本ドラマのような楽しみ方をするのも残っているからだろうか。でもコジャックでおやじさんとかデカ長とか呼ぶのって日本の刑事ドラマそのまま。今ならまともな日本語にできるだろうな。