And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

君は壊れた偶像の山しか知らないのだから。そこでは・・

2016-05-28 23:21:29 | 日記
トーマス・マンは創世記のヨセフとその兄弟の話を長大な小説にしたが、それを映画化しても面白いかもしれない。創世記の最初はジョン・ヒューストンが天地創造という邦題で映画にした。欧米の人と日本人でもクリスチャンなら、誰でも知ってるシーンばかり。神聖な聖書をああやって映画にするとある意味滑稽。絵画にも旧約、新約の絵は山ほどある。見ないで信じるものは幸いだと書いてあるのに、所詮人間は見ないと信用できない。聖書のどこにもイエス・キリストは長髪だったなどとは書いていないけれど、絵画でも映画でもみなイメージは統一されている。ダビンチの最後の晩餐の絵は有名だけれど、当時の食事スタイルは寝そべって食べるのが普通などと言ってもそれが問題ではないのは当たり前。ノアの箱舟の映画を観て当時の船はというのと同じ。バッハのマタイ受難曲に感動するのは聖書に忠実だからではない。バッハの信仰心、つまり人の信じる気持ちに感動する。相当前に読んだので内容を忘れてしまったが、遠藤周作の「沈黙」も強い信仰を持った人ではなく「ころぶ」といって信仰を捨てる人が主題ではなかっただろうか。ヨーロッパの教会へ行っても若者はほとんどいない。こちらで思うほど熱心に信じているわけではないが、たぶん子供の頃から宗教の時間はあるから根にあるのはキリスト教。その程度だから強い信仰心であるわけがない。「洟たれ小僧がアメリカで常任指揮者になったといってピアノを買う手合いは、大騒ぎしているらしいが「マタイ受難曲」は彼には振れまい。」と五味康祐は書いている。洟たれというのはボストンの指揮者になった小澤征爾のこと。何だかんだといってもキリスト教は欧米人の奥底にあるもので、いい環境ならもちろん厳しい環境でも神父、牧師が街にいて心の支えになっている場合もあるのかと想像する。だから神はいるが前提なので無神論が出てくる。日本は神はいないが前提なので無神論だといっても、あなたに一度でも神はいたことあるのかになる。でも五味康祐のいうことはどうか。小澤征爾の評価はさておいて日本人は受難曲どころかバッハも演奏できないということはあるまい。評論家はよくシベリウスならフィンランドの指揮者を推薦盤にするが、音楽はジャンル問わずそんな狭いものではないはずだ。ユダヤの救世主はなぜナチの虐殺に沈黙していたのか。日本に神がいなかったからインパールで犬死にしたのか。ケネディが頭をぶち抜かれたとき、そこには神はいなかったのか。見ないと信用できなくても信じる心を持てなくて、どうやってつらく厳しい社会を通り抜けることができようか。

そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

アイスクリームの皇帝

2016-05-23 15:15:44 | 日記
マイルスは昔からあまり好きでないけれど、「アット・フィルモア」は好き。ちょっと聴いただけでかなりテープ編集入ってるなとわかり、ずっとノーカットで聴いてみたいものだと思っていた。それが何年か前ブートで出て聴くと意外とこんなものかと思った。編集でぶった切ったディレクションのテーマとか出てくると逆に恥ずかしくなって。それが公式盤でも出てさぞかしいい録音でと思ったら、チックとキースが逆サイドになっている。最新ブートではちゃんと直っているのに。ジャズ知ってるやつが出してるのかと疑う。 マイルスは他のジャズとは全く違う。ロリンズは50年前と一緒だが、マイルスは昨日のライブと今日とでは違っていた。だから中山康樹が膨大なブートも含めた本を出して、それにファンが共感する。もちろん誰が書いても興味を引く文章になるわけではなく、他の評論家がマイルスのことを書いてもいまいちの場合が多い。中山康樹はビートルズ世代なのでビートルズの文章も面白く、若いロックの評論家などかなわないのは当たり前。好きでもないと言って、これだけでなく「アヘッド」とかのギル・エヴァンスとやってるのもいい「カインド・オブ・ブルー」もまあいいかと書くとそうなのかとなる。逆にアート・アンサンブル・オブ・シカゴは好きだけど毎日は聴かない。その日の気分はあっても聴くのはというより持ってるのはかなり偏ってる。マイルスは昔からえらいと雑誌とかで読み続けているから抵抗あるのだろうか。ビル・エヴァンスなどみんなが好きと言っても自分も好きといえる。前はスイング・ジャーナルが唯一の情報源だったが今はそれすらもなくなった。廃刊になるまでの数年はつまらない新譜しかでなく、また評論家の質も落ちたので面白くないとよくいっていた。ではその前がよかったのかというと、大御所がこれは名盤だ、これはよくないと判を押し、その通り信じていた。マイルスでいうと「カインド・オブ・ブルー」「ビッチェズ・ブリュー」は大傑作だと書かれると、そうかと思って聴くのだがどうも面白くない。でも面白くないというと通ではないみたいで、何度か聴いてみるのだがそれでもだめ。マイルスは神様でしかも名盤はこれとか読んだので嫌いになったのかもしれない。今なら評論家の褒めるのは間違いなくだめといえるのだが。ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」など大名盤の看板ゆえ何か聴くのも恥ずかしいくらい。昔も今もジャズ聴きながら酒飲む趣味はないので、マイルスならチック・コリアのいた頃のフリーありロックありのうるさいときが好きでよく聴く。あとフリージャズと呼ばれる前衛ジャズがいい。夏は前衛ジャズにアイスクリームだ。

各階に水とガス

2016-05-22 23:06:31 | 日記
ブログなんてどれだけの人間が書いているのかわからない。自分も書いた次の日とかアクセスが増えてるのはもしかして定期的に読んでくれている人がいるのかと思ったりするが、それより何かの言葉で検索に引っかかったと考えるほうが自然。それより書いていると教えた二人の友人には読んでもらいたい。読んでもらいたいというほどの文章でないし中身もないけれども、Facebookのように今日何食べましたなんてこと書かないし、文学、ジャズ、クラシック、映画、美術あたりで興味を引くところに触れるかもしれない。そういう話題なら他人が読んでも面白いと思うときがあるかもしれない。自分もネットで調べ物していてたまたま見ず知らずの人のブログを読んでしまうことがあるから。かといってそれはたまたまであって、また探して読もうとは思わない。やはり読むのは友人。自分も友人に読んでもらうには日々のくだらないことではなく、自分のどうでもいい思いではなく、こんな本読み返しただとか、昔観た映画であれはよかったとか、またそれもくだらないことでどうでもいい思いなのだけれど、友人はわかってくれるだろう。先日「定本西脇順三郎全詩集」をオークションで手に入れた。実はそれ持っている。なぜ落としたかというと、オークションで出たほうは限定、表紙革張り、サイン入りでしかも状態はいい。でもそれ以外はすべて同じ。全集も時期は違うけど、ほぼ同じものが3セット。自分でもわかる。それらすべては読むための本ではないなと。サインだってあらかじめ書いてあるのは信じないほう。サイン会なんて今までの人生で一度も行ったことがない。友人としてしてもらうのしか価値はないだろう。かといって今から大江健三郎の友人になる方法は思いつかないし。昔野外コンサートで、たまたま出番が終わったギル・エヴァンスが出てきて、みんなにサインしているのを見つけて人からペンを借りて、パンフレットにサインしてもらったのが有名人にサインしてもらった最初でたぶん最後。ウッディ・アレンのサインならほしいと思うけど、これも今から友人になる方法を見つけるのは難しい。もう一つあった。70年代に出したカラヤンの交響曲全集。限定でこれもケース総革張り、カラヤンのサインが入っていたが、これこそ絶対本人はサインしていないと思う。ありがたく扱いすぎて一度しか聴いていないと思う。辞書も昔から革張り好きで使いもしない英英辞典なんかも買ったが、カバーの肌触りを感じる以外の使い道はなかった。井上究一郎訳プルースト全集、鈴木道彦訳失われた時を求めても単行本では数十ページしか読まなかったが、両方とも文庫で読んだからいいとするか。

ノー・マン ノー・マン? オデュッセウスだ それは私の家族の名だ 

2016-05-20 08:35:46 | 日記
今は戦後ではなく戦前だとはうまいこといったものだ。ノーマン・メイラー、サルトルのような戦後脚光を浴びた文学、哲学、それらに影響を受けた大江健三郎の世代。その大江を学生時代読んだ自分たちの世代。第二次大戦はおろかベトナム戦争終結からもう40年も経っている。また殺戮が行われないと新たな文学は生まれないのだろうか。そこで飢えた子供たちに文学は有効かと堂々巡りの話になる。今の若者は「裸者と死者」など読むまい。実際読もうと思っても古書を探すしかないのだが。インパール作戦に興味持つこともない。簡単だ。実際に体験することになるのだろうから、先に知識など入れておく必要などない。再臨に異教徒が慌てても手遅れだ。ダンテのように地獄を客観的に見に行けることなどできない。戦後70年も経ってから「裸者と死者」を読む自分。これは過去ではなく未来の話として今なら読めるとしたら、一番いいタイミングだったのかと思う。この間もギル・エヴァンスを聴きながら読み進めていくとリズムに乗ってきて進んだが、面白くて一気に終わってしまうものでもない。文庫は昭和20年代に出たきりかと思っていたら、昭和40年代にも出ていたのがわかった。自分が名前を知った時にはもう文庫でなかったと思ったが。アメリカ、フランスなどいつも嫌いと言っているのに文学は好きなのが多い。20世紀アメリカ詩は好きな詩人が多い。小説もフォークナー、スタインベック、ヘミングウェイあたりは代表作読んでるし、マラマッド、ベローなんか好きな小説家。フランスならプルーストはもちろんサルトル、カミュ、ロブ・グリエ、サロート、ビュトール、ソレルスとぽんぽんと名前を挙げられる。詩人ならアポリネール、ヴァレリー、ポンジュ。もうパリなんか行かないと思っているが、そういえばミラボー橋見に行ってない。それはハート・クレインの「橋」読んでブルックリン橋見たいけど、そのためだけに嫌いなアメリカ行かないのと同様たぶんミラボー橋も見ないで終わりそう。それでいうならウィリアムズのパターソン、オルソンのグロスターとかアメリカで見ないで終わりそうなところいっぱいある。ユリシーズのダブリンは6度ほど行ってるのはニューヨークやパリ20回行ってるというのより、それは自己満足の中で勝ってる気がする。どこも食事はまずく、美味いもの食べたいならイタリア、スペイン行けばいいのかもしれないが、両国とも陽を浴びすぎて根っから空っぽなのに食事だけしに行くのはもったいない。あとイタリアはスリばかり。日本が一番食事美味しいし、一番まじめで一番安全。そんないい国を脅かそうとする隣国があるなら、軍隊を作って撃ちまくるしかない。若い友人に言った。いいぞ、軍隊は。刑務所入れられないで好きなだけ人殺せるんだぞ、最高だ。ただ難点があるとすれば自分も撃たれることあるから。



切断されたクリーム

2016-05-18 11:37:09 | 日記
よく映画の原作者が映画に対し自分の思っていたのとは違うと怒ることがあるが、そんなの当たり前ではないか。小説と映画が違うなんてプロの作家ならわかるだろう。いやなら自分で映画化するか断ればいいのにと思う。前にブームになった「ダ・ヴィンチ・コード」ああいう手のベストセラーは滅多に読まないが読んで面白く、これを映画化したらどれだけ面白い映画になるだろうと思ったら、えっというだけつまらない映画になったというのもある。ナボコフの「ロリータ」は読んでいないけれど、キューブリックの映画はミスキャストが原因だと誰もがわかるような失敗作。たとえば山崎豊子のように誰もが引きつけられるような話ならどうやっても面白くなるはずだが、それもへたな俳優が入ってしまうだけで全体が締まりなくなる。かといってうまい下手は好き嫌いでしかないのだろう。黒澤明はドストエフスキーの「白痴」を映画化した。「白痴」の映画化はすごいと思うし確かに見事だけれど、やはり三船が鼻につく、原節子が華やかすぎると好みを言うとそうなる。「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」はロシア映画である。「悪霊」はワイダがやっている。一番地味な「未成年」だけは映画化になったと聞いたことがない。トルストイの「戦争と平和」はアメリカ、ロシア両方で作っているが、あのメロドラマには興味ない。ロシア文学ならやはりデビッド・リーンが映画化した「ドクトル・ジバゴ」だ。これもパステルナークがどう思ったか。原作から外れている部分がある。文学作品の映画化はすべてといっていいかもしれないが、お題だけもらった独自作品と考えた方がいい。「エデンの東」などその典型。でも自分だけではないと思うのだが、読んだ本を全くイメージ違っても映像として観てみたいというのはある。「破戒」は本の印象より市川雷蔵。木下恵介の映画化はいまいちだった。「こころ」の先生は森雅之。本は忘れ、映画のイメージで語ってしまう。「点と線」など読んでもホームのトリックがよくわからなかったりするが、映画で観るとなるほどと思う。「失われた時を求めて」の映画化「見出された時」はあれ以上ないのではと思うほどうまくコンパクトにストーリーをまとめた。ストーリーは圧縮しているが中身は変えていない。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」のように映画は観たけど本は読んでないというのもあるのだけれども、自分にとっての優先順位は本だ。映画だけ観て読んだ気になっていい気になって話さぬよう時間をもう少し読書に取らなければと思いつつも暗くなると活字を読みづらくなる歳になり、昔の貯金だけを頼りに文学について語り出す。