And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

Susi music

2015-01-22 17:39:49 | 日記
武満徹のミュージック・コンクレートで一番有名な「水の曲」なかなかCDにならず、やっとのCD化が全集。ほんの数分の曲のために全集の1巻を2万以上出して買った。ほかにも歌とか他ではあまり聴けない曲も入っていたけど、「水の曲」だけどこかのCDに入れてくれたらこんな出費しなくて済んだのに。どうせテープ音楽なのでレコードからダビングしても十分だったのだが。割と苦労して手に入れたCD「ハープの個展」に入ってる「スタンザⅡ」もハープの音をテープで変えている。武満のテープ音楽は多くないが、この2曲とも面白い。武満徹というと尺八と琵琶の「ノヴェンバー・ステップス」のイメージがあるが、決して日本風を前面に出した作品ばかりではなく「弦楽のためのレクイエム」や「地平線のドーリア」のほうが武満らしいと思う。それで武満は全部がすばらしいかというと他の作曲家にもいえることだが、つまらないのも当然多く含まれる。「2つのレント」音楽以前と評されたので有名だがその通りだと思うし「弦楽のためのレクイエム」聴くのならバーバーの「アダージョ」聴きたいと誰もが思うのではないかと思う。溝口健二の映画にへんちくりんな音楽を付けた黛敏郎よりはましだとか、山田耕筰みたいないかれた作曲家よりなどというと武満がかわいそうになるので下は見ないことにしてと。「2つのレント」はビートルズの「ラブミードゥ」みたいなもので、誰も「ラブミードゥ」だけでビートルズを評価しない。武満の音楽は日本人の見た日本。変に精神かぶれしてない自然な日本という気がする。バート・バカラックの全盛時代、日本で曲を委嘱したら100年前の中国音楽のような曲を作ってきたらしい。それでどれくらいの知性とセンスを持っているかわかる。バカラックはたくさんのいい曲をそれまで作っていたが、それを聞いたとたんバカラックの音楽が安っぽく聞こえてくるようになった。アフリカ民族の踊りと聞いて、裸で槍持っているのしか想像できないのと一緒だ。エリントン、ブルーベックなどように日本の印象を見事に表現している音楽家だっているのだ。武満は自分の世界を作り上げた。ストラビンスキーのように新古典にいったり12音技法にいったりして、結局は「春の祭典」だけかとなる作曲家が多い中で。音楽以前と批評する評論家も重要。黙っていて、評価高くなってから自分は評価していたなんて言い出すやつよくいるだろうし。グールドを最初から評価していたと吉田秀和が言ったって何の自慢になる?あんなのバッハじゃないとけなすほうが的を射ている気がする。その点カラヤンはアンチもいて特に評論家がけなすから、大してカラヤン好きでなくても逆に面白い。何でもそうだが、みんな賛成というものはどこかおかしい。

ポドゴルヌイの踊り

2015-01-20 22:27:13 | 日記
学生の時ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」をあっという間に読み切った。もう何十年も前の話であるし記憶というのは自分のいいように変えられていることも多いので思い起こしてこうだったと言えないこともあるが、面白く読み切った覚えがある。ただ「悪霊」だけがわからなくて何年か前に読み返したら、よくドストエフスキー読んでたなと思った。最初に読んだのが「未成年」。「白痴」は小説より黒澤の映画が印象的だった。札幌を舞台に第2回雪まつりが映っているのが興味深く、それより原作より面白いと思った。と書いていたら白痴が変換できない。atokでもマイクロソフトでも。差別用語なのだろうか。そうすると小説の題名になっているのにそれは変わっていないというのもおかしい。小説の題名が変換できないのは面倒だ。聖書も差別用語は訂正されているが、昔の映画では差別用語連呼みたいのも当然ある。これからは当然としても過去の小説、映画などは無理に訂正する必要あるかと思う。どこで線を引っ張るか問題で、微妙な話題をこんなブログで書くことではないが変換できないのはおかしくないか。それでドストエフスキー。今でも嫌いではない。トルストイよりずっと中身がある。だけど今でも「罪と罰」を昔のように読めるだろうか。それは他の小説も一緒。カミュの「異邦人」を何年か後に読み返したら、こんな小説だったのかとがっかりした。あの太陽は30歳過ぎると色が変わる。若いとき面白くなくて腹立ったレビ記が面白くなったり。若いときも今も好きでない、でも気になるフォークナー。未だに読まない森鴎外。影響されたトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」よりずっと面白かった北杜夫の「楡家の人々」。ブレッソンが「白夜」を現代に置き換えて映画化したのだけど、どういうわけかDVDはおろかビデオにもLDにもなっていない。ドストエフスキーを以前より面白く読めるとしたら、昔読まなかった聖書を今は少しは知ってること。小説でも出てくる議論はロシア人特有だろうがドストエフスキーは日本ドラマに近い湿気がある。思い悩まないアメリカ人にはなく、ドイツ人の思索とも違った共通のものが。と10年以上読んでいないドストエフスキーのことを書くのは、あらすじだけ読んで読書感想文を書く小学生のようだと引け目を感じてきた。




ジャンピング・パンプキン

2015-01-19 00:16:53 | 日記
「42」を観ようとして途中でやめてしまった。偏見なのだが黒人が主役というのが抵抗ある。書くのが恥ずかしいが何の影響力を持たないブログだから正直に書いてもいいかと思う。チャーリー・パーカーをモデルにした「バード」は普通に観たのだが。思えばテレビドラマ「コンバット」に黒人が出てこない。当時は別に不思議に思わなかったのだが、それはたまにしか観てないからだろう。DVDを買ってずっと見続けるとそういえばとわかってしまう。シドニー・ポワチエ以降黒人スターもたくさん出てきているが黒人が主役の映画はそう多くはない。アメリカには行ったことないがパリでもロンドンでも地下鉄乗れば普通に黒人を見るけれど、ウッディ・アレンの描くニューヨークには黒人は歩いていない。ジョン・ウェインが主役の「史上最大の作戦」ではノルマンディに上陸する兵士に黒人がいなくても仕方ないと思う。思い出すのが70年代後半のアメリカテレビドラマの「ルーツ」。当時日本でもヒットして話題になったが、虐げられた歴史に関しては受け入れられる。でも白人を飛び越えてはだめなのだ。そういえば宇宙飛行士でも見たことないとか言い出したらきりがない。ユダヤ人虐殺は映画など作られた。しかしインディアン虐殺は見て見ぬふりというより、西部劇では残虐なやつらとされる始末。リンカーンも奴隷解放で有名だがインディアンに関しては虐殺を指示してる。アメリカ人だけではない。コロンブスの原住民虐殺に比べたらヒトラーなんてかわいいものといわれる。そこまでいくと世界史の授業になってしまうので話を戻すと、最近の警察もののテレビドラマこそ黒人や東洋系が出てくるが、何気なく観ている欧米の映画、白人しか出てこないと違和感を持って観ることはない。スピルバーグ先生も黒人ものでオスカー獲りにいったが失敗したのでユダヤものにしてそれ以来黒人映画は作らない。「42」を最初で観るのをやめたのは差別に対して主張するシーンが出てきたから。差別とどう戦ったかなんて興味ない、どれだけ打った、活躍したかだろう、スポーツ映画に思想なんて求めてないとまで書くと最初の10分くらいしか観てないのにといわれそうだ。実在の人物だろうが実際に起こった話だろうが映画なんだから面白いように作って楽しければいいんだよ。


ぼくは夢をみた・・1503年にランスで生まれたのだ

2015-01-17 15:39:10 | 日記
学生の時にマリアン・ムーアの「とび職」という詩を読んでデューラーを知った。steeplejackをとび職と訳すのも雰囲気出ない気がするが。いいアメリカ女流詩人はディキンソンをはじめとしてたくさんいて、そしてムーアの詩もいいとは思うのだが真剣に読もうとも思わず選集を1冊買っただけ。デューラーが住む理由を見つけるから始まりイメージがめまぐるしく発展していく。詩の内容よりデューラーがどういう画家か興味があって調べたら、宗教画のエッジングが多いようだった。リヒターの「マタイ受難曲」のレコードにも使われていて知らなかったが有名なんだと思った記憶がある。もちろんデューラーに深い意味を込めているわけではない。「ペニーレイン」とか「ストロベリーフィールズ」とか別に特別な思い入れがあったわけではなく語呂がいいからというのと同じで、詩人も大事なのは感性でじっくり考えたり裏を狙ったりとかしないものだ。そのデューラーに反応するのは読者のほうで、ティンクのようにイメージのなかを飛び回る。詩の1行目は神から与えられるといったのはボードレールだっただろうか。当たり前か、最初からこけるわけにはいかない。音楽もそう。CDになって時間が長くなると、なおさら1曲目でぱっとしないとすぐ聴くのをやめてしまう。レコードだと取りあえず片面聴こうというのはあったのだ。ハート・クレインの「橋」の序詞「ブルックリン橋によせて」を読んだときもアメリカに全く興味ないけどブルックリン橋を見たいと思ったり、チャールズ・オルソンの「マキシマス・ポエムズ」の出たし「ぼくグロスターのマキシマスより君たちへ」でグロスターはどこにあるのかと調べたり。興味は広がっていく。スタインベックの「われらが不満の冬」を読んで、題が引用されたシェイクスピアの「リチャード三世」を知った。面白いのがスタインベックはつまらなかったけどシェイクスピアに興味が移ったこと。一番は「ユリシーズ」読んでダブリン行ったことか。ジョイスに興味持ったのもT.Sエリオットを読んでいてジョイスの名前出てきたから。エリオットからダンテの神曲へ。やさしい口語訳で読んだおかげで読み切れた。この文章書いている間にマリアン・ムーアをまた読もうと全詩集を注文した。新たな出会いは果てしない。



空のあなたの道へ

2015-01-15 08:50:24 | 日記
最近若者さえテレビ離れが多いという。つい最近まで巨人戦が毎日放映され、一昔前はプロレスがゴールデンタイムに放映されていたのが嘘のようだ。戦後娯楽といえば映画くらいだったのがテレビが出てきて映画会社が次々つぶれた。小さな映画館こそ淘汰されてしまったが、また映画が盛り返しているのかもしれない。溝口健二が自分の気に入る雲が出るまで撮影行わないとか、国宝の壺を持ってこいとスタッフに指示しただとか、溝口に限らずその頃の映画監督は湯水のように金を使って好き勝手言っても通用した。それだけ投資しても儲かったのだ。それがハリウッドとなれば桁違いのセットを組んだりできたのも当たり前か。しかし無名監督はそういかず少ない予算でプロデューサーの言いなりで作るしかない。周防正行だって最初はピンク映画の監督からスタートだったが、その中で小津を思わせるショットを入れて自分を主張した。スタンリー・キューブリックだって「スパルタカス」ではプロデューサー、カーク・ダグラスの言いなりで作ったので、あれは俺の作品ではないようなことをいってる。ベルイマンも軽いタッチの映画「夏の夜は三たび微笑む」でヒットしたおかげで「第七の封印」から始まる深刻で難解な映画を作れた。それは「アニーホール」がヒットして「インテリア」を作ったウッディ・アレンも同じ。コメディアンや歌手だって映画作れるのだから金さえあったら誰でも作れる。逆に金なくて細々映画作ってるのがすべて才能あるとは限らない。マイナーな映画からいいのを探そうと思うのは知らない作曲家ばかりの現代音楽のCDを買っていいのを探そうというのと同じで、ほぼハズレばかりに出会うこととなる。だから文学のように処女作に向かって前進するみたいなことはほとんどない。自分が思いつくのはブニュエルの「アンダルシアの犬」くらいか。だいたいがどの名監督でも何作か撮ってから傑作と評価が高い作品が出てくる。ヴィスコンティのように晩年になってから傑作連発も珍しい。大抵はフェリーニ、黒澤のようにゴミ連発が多いのだが。全部が面白いと思うのがヒッチコック。初期の作品すら観だしたら最後まで観てしまう。ベルイマン、ブニュエルは好きだという強い気持ちがあっても何本かはたいしたことないなというのが混ざっている。昔文庫で洋画、日本映画それぞれベスト150が出ていて、それを見ながら上位から1本ずつ観ていけばそれなりに楽しめるのだが、CGばかりで最近の映画はつまらなくなったとはいえ新しい映画を映画館で観るのが本当の楽しみだろう。だが今日も家にこもって古い映画のことばかり考えている。