And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

ブラッドストリート夫人賛歌

2014-12-31 19:25:04 | 日記
80年代初めにキース・ジャレットの新譜で「ヨーロピアン・コンサート」という3枚組レコードが出た。1曲30分くらい続くピアノソロで、今のようにぶつ切りでアイデア枯渇ソロとは違う。これも最初の「ソロコンサート」とともに好きでよく聴いていた。ずっと後になってからこの中のプレゲンツコンサートだけ1枚がCDになり、紙ジャケットになったときもその1枚だった。ボックスで出たのに1枚を紙ジャケットにしてもリアルじゃないだろうと思ったら、レコードの時もプレゲンツだけ1枚で出たというのを知った。どんなジャケットで出たのかオークションで見たらなるほど紙ジャケットと同じだ。帯付きがあると見ると笑った。題名が「愛のバラード」ジャズではなかなかこんな恥ずかしい題名ない。それが80年代に出ているのだ。一番恥ずかしいのはやはり「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」だと思うが、これも80年代後半にビートルズが初CD化されたときもまだ使われていた。キース・ジャレットは「ケルン・コンサート」が大ヒットして、ジャズなんて聴かない若い女性がリチャード・クレーダーマンと同じ感覚で聴きだしたというのがあったかもしれない。バブル時の日本制作ジャズでそういう題のCDがよく出たことがあった。演奏も聴きやすいスタンダードばかりで、札束で頬ひっぱたかれながら喜んで演奏しているという風な演奏。「愛のバラード」が入った「ヨーロピアン・コンサート」の原題「コンサーツ」を境として、このあとのキースのピアノソロは重くスローになっていき「ケルン・コンサート」のようにシャンパン飲みながら聴く音楽ではなくなった。そのうち短いぶつ切りになり「ソロコンサート」のときのようなきらめきは失せてしまう。もともとキース・ジャレットはジョージ・ウインストンでないし、前衛的なフレーズもよく弾いていた。キースよりもっと前衛的だったチック・コリアはギターなど入れロックに近くなったりしたことがあったが、キースはマイルスのバンドを離れてからエレピなどほとんど弾かずフュージョン系の聴きやすい音楽に歩み寄ったことなど一度もない。それでもレコードで10枚組で出た「サンベアコンサート」など飽きることなく、退屈することなく聴かせることができたのは凡人には太刀打ちできないきらめく才能があったのは間違いない。しかしどんな芸術家にもあるひらめきの枯渇、裏を返せば解散したあとのジョン・レノンやポール・マッカートニーにビートルズ時代の曲を期待する方が間違っていて、ある時期は本人すら追いつけないくらいの神の啓示に似た閃きがあるのだろう。キース・ジャレットもソロピアノは最初の「フェイシング・ユー」から「コンサーツ」まででないかと思う。トリオは相も変わらぬスタンダードばかりだが飽きたとは言えそれなりに聴かせるのに対し、ソロはまともに最後まで聴けない。今日も「愛のバラード」を聴くか。

激しい雨が降りそうだ

2014-12-30 08:22:53 | 日記
あくまで映画はフィクションだ。現実にどれだけ近かろうが。先日録画してあった「善き人のためのソナタ」を観て、たぶん現実はこれに近かったであろうと推測するが、あくまでフィクションである。ワイダの描いたソ連のユダヤ人虐殺もフィクションである。テレビドラマ「コールドケース」に出てきた日系アメリカ人の強制収容所もフィクションである。「シンドラーのリスト」もフィクションである。日本はお国のために散っていった映画はあるが、日本が何をしたというフィクション映画は少ないと思う。シュタージのことはドイツ統一後もなかなか題材にできなかったという。昔厳しく取り締まっていた人間が今でも悠々自適で触れるなと圧力かけている場合もあるだろう。小林多喜二を惨殺した特高が戦後何のお咎めもなかったように。溝口、黒澤は戦意高揚映画を作った。小津は沈黙した。木下恵介だけ「陸軍」で母親に息子を追わせた。当時そのシーンを入れたのは相当の勇気があったのだろう。木下恵介の映画は全般的に生ぬるい印象だが、その1本があるだけで認める。息子がお国のために戦死してよかったと酒飲む映画を作った溝口健二とは対照的だ。黒澤も「一番美しく」みたいな映画を作っておいて、周りでは反戦映画だと擁護する。どこが反戦映画なんだ。政府に反発して拷問受けろとは言わない。そんな根性ないのなら沈黙してろと。「善き人のためのソナタ」を観なくても東側で芸術家が規制を受けていたのは知っている。パステルナークetc.ショスタコーヴィチのようにうまく妥協して生き延びたのもいれば、知られず処刑されていった芸術家も多数いたのだろう。今はポール・サイモンの歌うBorn At The Right Timeだ。「善き人のためのソナタ」「カティンの森」すべてはThe Right Timeに生まれることのできなかった人々へのレクイエムであり、これからよき時代が崩れるときの警告である。敵がいなくなれば誰もが独裁に走る。そのよき時代が崩れたときこそフィクションではなくて現実となる。

Lara Poems

2014-12-29 00:50:31 | 日記
この間やっと「マデリーン」がDVDになって、デヴィッド・リーンの監督映画は全部DVDになった。40年で16本しか監督せず寡作ではあったが、そのどれもが代表作とよべるような作品ばかり。外国映画監督の作品はなかなかすべてが出ることは少なく、1,2本出なかったりとかよくあることだ。リーンにもマイナーな作品はありよく出たなと思うが何でもなくなるとすぐ高値になる。金さえ出せば昔のように苦労して探すことがないのは利点かもしれないが、CDやDVDに1枚何万も出しても悔しいと思わなければという限定で。デヴィッド・リーンもなぜか「大いなる遺産」が再発されない。同じディケンズでも「オリヴァ・ツイスト」は廉価DVDになっているのに。公開時に観たのは「インドへの道」だけ。後期20年で4本しか作ってないのだから年代が違ったらそうなる。後期の作品こそ映画館で観ないと何わかるという映画ばかりなのだが、最初に興味持ったのがテレビで2週に分けて放送された「ドクトル・ジバゴ」音楽もいい、ただの恋愛ものでなくロシア革命が関わってくる。これは映画館で観なければとリバイバルを待った。しばらく真っ暗な中で音楽が鳴り、タイトルとラーラのテーマが出てきただけでテレビで観てる映画なのだけれど興奮してしまった。その前の「アラビアのロレンス」もそのあとの「ライアンの娘」も大スクリーンで観るべき映画なのだろうが映画館で観ることはなかった。デヴィッド・リーンは最初地味なイギリス映画を作っていたのが「戦場にかける橋」から大作ばかり作るようになった理由はわからない。どの作品にも共通していると思われるのはしっかりした題材をうまく脚色している点。一番感じたのが「ドクトル・ジバゴ」パステルナークの原作読んで逆にがっかりした。ロシアでテレビドラマにしたのも観たが、そちらもつまらなかった。不倫の題材は好きなようで最初から最後までよく取り上げていた。「アラビアのロレンス」の砂漠「ドクトル・ジバゴ」の真っ白な大地、それを見せられただけで将棋で言えば投了。CGで作った「タイタニック」観て、どこをどう感動したらいいの?

午前4時の宮殿

2014-12-25 01:08:18 | 日記
北園克衛の最後の詩集「BLUE」をいつ買ったのか、どこで見つけたのかは忘れた。ただ古本でなく出版されたときに買ったことだけは確かだ。全詩集は学生には高くて買えず、あとになって古本屋で見つけて買った。だから全詩集ですべて読むことができても「BLUE」が、特にその中の最初の「BLUE」が20代の記憶として残っている。つまりすべての実験的な詩もこれだけによって北園克衛のイメージとして塗り替えられている。西脇順三郎とはそう接点はないと思うのだが、どこで北園克衛の名前を知ったのだろうかも覚えていない。エズラ・パウンドと交流があったので、そちらから名前を知ったのかもしれない。この青どう表現するかと考えていたら、フランクフルト、シュテーデル美術館を思い出した。なぜが壁が全部青。かといって不自然でなく疲れることなく。この青だ、自分が「BLUE」を読んで感じた青は。熱心な北園克衛の読者ではないので印象としてしか書けないが「BLUE」だけでなく他の詩集にもよく出てくる色彩というより感覚。それも詩としてではなく詩集自体が美術館のようにオブジェとして。その美術館で見えないのが「ジャコメッティの青銅の彫像」ジャコメッティもよく知らず、ネットで調べても「BLUE」とイメージが重ならない。分析など無意味なのはわかっている。でも「ジャコメッティの青銅の彫像」をとばして読んだといえるのか。亡くなるまえに思い浮かんだジャコメッティは何だったのだろう。このジャコメッティが場違いなものに感じる。むろんシュテーデル美術館の壁はブルーであるなどと書いては詩でも何でもなくなるが、青い壁にかかっていたフェルメールを見たとき北園克衛のBLUEだと思った。絵の前に立つ細い背中も。

一人としてもどったためしがない旅

2014-12-24 09:56:57 | 日記
初回の西脇順三郎全集をオークションで手に入れた。昔なら古本屋で積んであっても、なかなか買おうなんて思わなかっただろうが今はクリック1回で競ることがなければ送ってもらえる。なかなか買おうと思わなかったというのは今回も同じ。各巻にサイン入りというので少し高いなと思ったのと、2回目、3回目の全集持っているのでコレクション以外の意味が全くないのにそれだけ出すか、また場所も確保しなければならないとか買わなくていい理由だらけだったのだが思い切ってしまった。だいたいサイン入りなんて信用しない。目の前でサインしてもらわない限り本物かどうかなんてわかるわけない。同じ全集3つ、全詩集2冊、全6巻の選集2つ、当たり前だがほぼ全部同じものが印刷されている。たまに出すのは軽い選集だけ。たとえば萩原朔太郎なら読んだことなくても、誰でも名前聞いたことあるだろうし全集が何回も出てると聞いても不思議はないと思う。日本の詩人の中ではもちろん西脇は有名だが、国語の教科書に出てくるまで有名かと言われればそうでもない。もはや全集なんて流行らないだろう。自分たちのときは好きな作家の全集を持つことは自分の中でのステータスだったが、今や漱石、芥川など文庫で揃ってしまう。プルースト全集の「失われた時を求めて」は開くことないだろう。評論や書簡もパリパリいわせないようにそっと開いて、またパラフィン紙に大事に包んで箱に入れ書棚にしまう。昔はパラフィン紙邪魔くさくて捨てていたのだが大学教授の研究室で付けたままにしているのを見て真似したのだが、付けておくと本当に開かなくなる。最初に西脇順三郎全集を見たのは大学の図書館。全集刊行終わってから2,3年くらいだと思うがもう手に入らなかった。詩と詩論も1巻目が絶版ぎりぎりで何とか6巻揃えた。昔は初期の作品に惹かれたが今は「近代の寓話」ばかり読んでいる。まったく飽きない。