And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

並木よ坂よ古い友よ 君は今大人になり 

2015-02-28 22:58:01 | 日記
テレビの出る前は映画だったろう。自分の子ども時代はテレビで、居間に1台しかなかったテレビでよくアニメとか観せてもらえたものだ。そういうときは親は何をしていたのだろう。親と一緒に観ていた番組は野球、映画、ドラマ。野球は巨人ばかりなので必然的にファンになる。ドラマもいくつも覚えている。今観たくてもフィルムが残っていないものもある。「細うで繁盛記」などもう一度観たいと思うのだがないというし。木下恵介アワーはいくつかDVDになった。また観たかった「おやじ太鼓」もボックスで出たが内容より当時の生活風景が面白い。ドラマは忘れても主題歌を覚えていたりコマーシャルを覚えていたりする。映画も一緒に観ているうちに好きになったと思う。「眼下の敵」「シェーン」「太陽がいっぱい」「鉄道員」など何度観たかわからない。中学生になったら自分で観に行ったりもしたが、基本はテレビで放映する映画が楽しみ。それしか映画を観る方法がなかったから。最高で週5回くらい映画放映あったのではないだろうか。吹き替えでカットだらけだったが、今もってDVDで当時の吹き替えが喜ばれるのはそれだけみんな観てたということか。視聴率上げるのにベルイマンやブニュエル選ぶはずがない。当時のスターが出るものが多くなるのは当然。「太陽がいっぱい」など小学生の時に友達と話した覚えがある。アラン・ドロンで好きだったのは「冒険者たち」。10年くらい前になるだろうか、最後のシーンの要塞見に行った。あの空とジョアンナ・シムカスの美しさと若いときでしか感じることのできないものだろう。イタリア映画といえば自分の中では「鉄道員」だ。シングルのサントラ盤を買ったくらいだ。ピエトロ・ジェルミは実はそれからずっと他は観ていなかったが。デシーカは「自転車泥棒」観て二度とこの映画観るかと思ったし、フェリーニ、ロッセリーニは少し映画の知恵がついてから、ヴィスコンティは亡くなってちょっとしたブームになった頃リバイバルで観た。淀川長治が「ベニスに死す」をやたら褒めてたのを覚えている。小学生のときはテレビ、中高生になってリバイバルと古い映画は今のように何を観るか選ぶ権利はなかった。「禁じられた遊び」は観るたびにラストで泣いたので、LD,DVDを買いはしたが一度も観ていない。「シェーン」で腕時計が映ってるシーンがあるそうだが、それを確かめるためだけにDVDを買う気はしない。「コンバット」でも後ろで乗用車が走るのが見えるのがある。不評ですぐ打ち切りになった「猿の惑星」テレビ版もあった。植木等が吹き替えやってなかなかうまかった。不評というよりネタが尽きたのかもしれない。すべてはチャンネルを回していた時代の話。


手をつなぎながら眠る人々

2015-02-27 20:03:02 | 日記
好きならどういう聴き方しても構わないのだけれど、ジャズをちょっと聴き込んでいる人なら誰でもそういうだろうが、キース・ジャレットはリチャード・クレイダーマンでもジョージ・ウィンストンでもない。最高傑作は「ケルン・コンサート」じゃない。女、子どもを喜ばせる音楽を奏でる演奏家じゃない。反対をいえばそういうイメージだろう、「ケルン・コンサート」大好き!というたぐいには。マイルスと同じかもしれない。マイルスは最晩年に再会セッションをしたが、50過ぎてから枯葉やったりとかしなかった。最後まで日本に来るとワルツ・フォー・デビーを演奏したエヴァンス、モリタートを演奏したロリンズとは違う。70過ぎてイエスタディ歌う誰かと違う。キースはいい曲など山ほど書いているのに例外を除いて再演などしない、と思う。どこかのコンサートでやってるかもしれないがそんなことないだろう。CDでは「マイソング」がソロコンサートで入ってるくらい。日本で「マイバックペイジズ」なんかやってやれば喜ぶだろうにそんなことしない。チック・コリアはばりばり前衛ジャズやってたのに聴きやすいほうに走ると、もうまったくそんなフレーズさえ出さない。キースはたまにそういうフレーズ出していたが未だ前衛的な演奏を絡める。キースは音楽聴いているとまたインタビューなんか読むと頑固で変人、チックは逆に友達が多く好かれるというという印象。キースがスタンダード曲を演奏したのがものすごく新鮮だったが、まさかそれを30年もやり続けるとは思わなかった。たまに自作曲はフリージャズ。ひたすら自分のために演奏しているようにさえ思える。マイルスは客はマイファニーヴァレンタイン聴きたがってるかもしれないがだから何だって、ということを言ったらしいがキースも同じだろう。でもそんなこと関係なく、私ジャズが好きなの、特にキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」何か最高ねというお姉ちゃんには関係ない。その娘にとってはスタンダーズさえ退屈なのだから。90年代の重苦しいソロなんか聴いたらびっくりする。自分がキースを聴いたのはレコードで3枚組の「ソロコンサート」今でも繰り返し聴くが飽きない。その前の「フェイシング・ユー」。「ケルン・コンサート」は当時からすでに飽きていた。レコードのときはとても買えなくてCDになって買った「サンベアコンサート」最近やっと全部CD化された「ヨーロピアンコンサート」このくらいかソロは。「ヨーロピアンコンサート」はボックスで買ったので知らなかったが、それからプレゲンツコンサートが1枚独立して発売され、その邦題が「愛のバラード」。まいりましただ。レコード時代の話。最近のピアノソロはぶつ切りで何も面白くない。スタンダードナンバーのソロは退屈。才能の枯渇とレビューに書いたら載せてもらえなかった。最近ヨーロピアンバンドの日本公演の残りテープー昔出た「パーソナル・マウンテンズ」よりはるかにいいから残りテープというのもおかしいがー「スリーパー」をキースの新譜としては久々何度も聴いている。

メイフラワー号に乗る夢をみる

2015-02-26 19:59:47 | 日記
魯迅文集が文庫になったことがあったがソフトカバーの単行本で持っていたので買わなかったら、なくなってしまって失敗したなと思っていたら20年経ってやっと2版が出た。学生の時に魯迅選集買ったのでいらないのだが、魯迅選集は布張り表紙の新書で粗末に読めなくて飾ってあるだけになってしまった。今ではさらに字の小ささで読めない。魯迅の小説は短編集が2つだけ。選集では分かれて収録してあるが文集では1巻に入っている。ということは選集では残り11冊、文集では5冊がエッセイ、評論、書簡となる。他の個人全集と比較するとなんとバランスの悪いとなる。小説も心に残っているのは最初の「吶喊」で、となると魯迅を読んでみたいという人には文庫1冊で足りることになる。でも自分が魯迅で思い出すのが「藤野先生」であり「忘却のための記念」であるのは、小説だけで完結しないカフカと同じではと思う。時代は真っ暗。もしこの時代に出てこなかったら魯迅という小説家は成立したのだろうか。中身についてはそれくらいにして、魯迅文集はまた手に入りづらくなっているのではと思う。そうだろう、「吶喊」の中の小説は他でも気軽に手に入るし、魯迅の評論を読む一般読者がそう多いとは思えないから。昔からレコードも見つけたら買えが原則。大抵迷ってやめるとあとで後悔する。今はそれを忠実に実行するから部屋は本とCDが山積み。ほぼ中身の変わらない西脇順三郎全集が3セットもあってどうするんだ。鈴木道彦訳の「失われた時を求めて」を買って読まないうちに文庫出て、文庫で読んでいったら最初の単行本はただ邪魔にしかならなくなった。かといって捨てるような値段で売る本ではないし。篠崎史子の「ハープの個展」というハープで現代音楽を演奏したレコード、CDになったときレコード持ってるからと買わなかったら、それっきり絶版。オークションなどで見つけるのすら大変だった。どんなほしいものでも常識外の値段では手を出さないからそこそこで手に入れたと思うが、今なら何でも絶版というだけでおかしな値段付くからそういうのを手に入れるのは大変だ。黒澤、小津もレーザーディスクで全部持っていたが、DVD出たら買わないわけにはいかない。コンパクトになり途切れず観ることができるのだから。でもブルーレイなんか買わないよ。そういう人間が多いのだろう、いつまでたってもブルーレイに切り替わらない。パソコンはなおさら。グールドはCDの出始めから何種類買わされたことか。確かに初期に比べたら音質は向上したが、紙ジャケットだのスペシャルなんだかだのはジャケットが変わるかおまけが付くかで中身は変わらない。部屋のインテリアになってもいいから、ノーマン・メイラー文庫で出ないかなあ。



ハリウッドの高級便所

2015-02-25 20:11:55 | 日記
今年のアカデミー賞も終わった。これまであの名作からあんなクズまでいろいろ受賞している。ノーベル賞や芥川賞の文学賞と同じで受賞したものがすべていいわけではない。裏もありジョン・ウェイン、ポール・ニューマン、ヘンリー・フォンダのように晩年に名誉賞みたいな形で男優賞やったりとか。ジョン・ウェインは若い頃からどうしようもない俳優だったが、ポール・ニューマン、ヘンリー・フォンダは若い頃にあの映画で取れなかったのかというのがある。ピーター・オトゥールは「アラビアのロレンス」で迫真の演技を見せながら、グレゴリー・ペックのような大根役者に男優賞さらわれたりとか。米英で作られた映画が対象で他は外国映画賞になると思っていたら外国映画でもノミネートされ、最近フランス映画が作品賞取ったようだ。それでも映画を観るときにアカデミー賞のことなど何の役にも立たない。「ロッキー」のようなアホハリウッド映画や「炎のランナー」のような渋い映画まで様々。その割にピーター・オトゥールは男優賞取れなかったとか、ヒッチコックは監督賞取れなかったとか話に出る。本場のでもその程度なのだから、日本アカデミー賞なんか作ったって誰も気にしないし逆に恥ずかしくないのだろうかと思う。ベルイマンは外国映画賞を3度取っているのでアカデミー賞とは関わりあるほうだろうか。「ロッキー」や「タイタニック」と一緒にされてはたまらんが。有名監督でよくあるようにベルイマンもファミリーをスタッフとして、なじみのカメラマン、俳優で固めていた。グンナール・ビョルンストランドなど半分以上に出ているのではないだろうか。少なくとも主要先品は全部出演しているが、ほぼすべてが脇役。「冬の光」が唯一主演作。「愛のレッスン」も主演と言えないことないが女優のほうが主演だろう。女優はその時々の愛人だが、元奥さんが出たりと女優には困らない。もうベルイマンのような映画は興行的に誰も作れないだろう。アカデミー作品賞でもこれは日本ではヒットしなかったんではと思われるのが、「わが命つきるとも」「トム・ジョーンズの華麗な冒険」最近では「ハート・ロッカー」あたりか。「ロード・オブ・ザ・リング」みたいなお子様映画が作品賞というのも驚きというかお笑いだ。ベルイマン、ブニュエル、ワイダ、新藤兼人などの古い映画ばかり観ていても寂しいので、G・クルーニーあたりにクソ映画で金稼いだあとにシリアスなものをまた作ってほしい。




ルパン対ゴールドフィンガー

2015-02-18 12:52:14 | 日記
怪盗ルパン全集、15巻出てたはずなのになぜ14巻しか文庫化されなかったのだろうと調べたら「ピラミッドの秘密」は訳者、南洋一郎の創作でルブランのものではないかららしい。元々子ども向けに大幅に改筆・圧縮してるのだからそれを抜くことないのにと思った。文庫にしたのは間違いなくまた子どもに読ませようとしたのではなく懐かしい大人たちのために、それもルブランを研究しようと思って読むわけでないので。逆に言えばルブランの原作と違ったルパンをルパンだと思ってきたということだが、ポワロがテレビ映画になって多少原作を変えられても楽しく観ることができるのと一緒でどうでもいいことだ。フランス以外ではそれほど有名でないというのは、コナン・ドイルに並ぶような作家ではないということだと思うし、大人になってから文庫で読み直そうなんてそう多くないと思う。小中学生のときに日本のルパンとして完成してしまった。こういう例は他にあるまい。訳によってたぶんもっといい訳ならば読めたであろうと推測する小説もあるが、原書を読んでいない限り推測でしかない。明らかに日本語になっていないものも数多くある。それは原書以前なのでまだわかりやすいが。大抵は学者が研究を元に訳するのであろうから、日本語になっていないという論外を除くとそうおかしな訳にはなっていないはずだと信じるしかない。怪盗ルパン全集が本来のルパンとかけ離れているという批判は創作したり削除したりがあるので仕方ないが、果たして日本語で読む外国文学が原書と同じか。「フィネガンズウェイク」が全訳されたが無理でしょう。「ユリシーズ」だって無理でしょう。しかし楽しく読むことは可能。イマジズムで俳句を英訳してどうする。面白さは伝わるが俳句はわからないだろうというのと同じ。面白いといえばロックの歌詞や題名の訳。中学生でも間違わないだろうというのが平気である。ロックにはその程度で十分なのかもしれないが。そういう程度の低いのは別にして、いちいち人の訳にケチをつける書物もどうかと思う。なんだかの訳を正すみたいな本書くくらいなら自分で訳して出せと思うが、そういう人間には訳の依頼が回ってこないのだろう。映画の字幕も文字数の関係で相当字を減らしたり、一言でわかるような訳にしたりしてる。だからといってその映画を観たことにはならないとは言われない。そんなこと考えながら怪盗ルパン全集の表紙眺めているだけで楽しくなる。