And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

マッチボックス

2015-04-26 17:30:44 | 日記
学生の時だったと思うが、ボブ・ジェームスとアール・クルーの一緒にやったレコードを買って美術館へ一人歩いた記憶があの青い空とともにいまだ消えない。フュージョンなんて嫌いでジャズ喫茶で流れるとすぐ出るくらいだったのだが、あのボブ・ジェームスのレコードはなんか買ってみたいと思った。最初の「kari」を聴くとあの頃の風が部屋に吹き込んでくる。あの頃は何でもかんでもフュージョンでいやでもコマーシャルで聴いてしまうとか華やかだったが、そのうちフュージョンのレコードはブームを過ぎると中古レコード店で100円で売ってるような流行歌と同じ扱いになった。チャック・マンジョーネ、あの頃のナベサダ、パット・メセニー、クルセダーズ、このボブ・ジェームスもCDで買ったが、2年に一度くらい懐かしいと出せばいいほうで聴く確率でいえばブルックナーと同じ程度か。違うのはマーラー、ブルックナーを聴いても気持ちのいい風が吹いてこないことくらい。その気持ちのいい風を若いときに対する郷愁とするなら、そのためにフュージョンを聴くことはないか。レコードを買って美術館まで歩いた思い出は別にレコードの中身が重要だったわけではないから。死ぬ直前であっても明日のことを考えていたいと元気なうちは思うのだが、そうもいくまい。でも今は思い出にふけるのはよしておこう。

新鮮な未亡人の窓

2015-04-20 11:25:43 | 日記
プラハはいい街だというので行ってみたいと思うが、カフカはよく読んでいたのにプラハのイメージがない。内省的なものばかりなので町並みを感じることはないのは当たり前か。それどころか「審判」や「城」はSFの街に近い。それで手紙を読んでみてもプライベートなことばかりでプラハのことはわからない。というか手紙はカフカ文学で重要なのはわかっているが、まじめに読み通すことはしてないのでどこかに出てくるのかもしれないが。リバプール行ったって街中がビートルズになっているわけではない。それどころかかけらもない。何とか観光客向けのグッズショップを見つけるくらい。ダブリンも像が一つあるだけで、ジョイスを探そうとしても見当たらない。てなこと考えていて現実の生活に戻って、1年に一度のウッディ・アレン。観るとまあ楽しいという映画ばかりになっていたが、前の「ブルー・ジャスミン」でまたウッディ・アレンを見なおしたというか、晩年ぼろくその映画ばかり作ったフェリーニとは違うとまた好きになっていた。それが今回の「マジック・イン・ムーンライト」を観てフェリーニと同じだと思った。同じ1920年代の設定でもセンスと知性に溢れた「ミッドナイト・イン・パリ」とは大違い。前にも「マッチポイント」とかつまらない映画いくつもあったので今回はハズレかと我慢すればいいが、ハズレの頻度が多くなる前に作るのやめてほしいとファンである自分は思う。ファンであるというのも間違い、ファンであったが正確かもしれない。自分の好きなウッディ・アレンは「インテリア」だったり「セプテンバー」だったりと偏りがあって、ラブコメディもウッディ・アレンに違いないのだが、ミア・ファローと別れてからがつまらないその系の映画ばかりに思う。昔からウッディ・アレンの映画がきたら必ず観に行ってパンフを買っていたので、いまだに続けているがミア・ファローと別れて以降でよかったのは前に挙げた「ミッドナイト・イン・パリ」と「ブルー・ジャスミン」だけ。晩年になっていい映画を連発したヴィスコンティ、ブニュエルややることはもうないと作るのやめてしまったベルイマンは例外で黒澤明などはいい例だが、ただ巨匠という名だけで全盛期とは比べものにならないつまらない映画を作る監督は多い。音楽など顕著だが全盛期は限られている。ビートルズだって20年もやっていたらクズも連発したに違いない。30になったらシーラブズユーは歌わないと言っていたジョン・レノンなど一番わかっていたのではないだろうか。キース・ジャレットは天才だと思うが、最近のピアノソロは才能の枯渇と思える。チャーリー・パーカーが二度と吹けないといったフェイマスアルトブレイク、本人にすら二度とできないことをやってしまう瞬間はあるのだが、それを未来永劫続けることなんてできない。草の輝くとき、再びそれは還らずとも・・・

ブラウン家の人々

2015-04-14 08:36:55 | 日記
昔、本で読んだときは面白かったのだが、テレビシリーズで観ると不自然に思うポワロ。一般の人間が普通に殺人現場に入っていき、一人で誰も気づかないことをぽんぽん推理し、最後は容疑者を集めトリックの説明。マンガのコナンは踏襲してるんだなと思うが、刑事物のアメリカドラマがどんどん入ってくる今では、そんな不自然な謎解きはかったるいだけ。このパターンから抜けられなかったから本格推理小説は行き詰まったのは当たり前。人物を掘り下げようとするとそれがまた余計で中だるみしてしまう。でも昔読んだのが懐かしくて書店行くと創元文庫のところ行って眺める。エラリー・クイーンはXYZと最後の事件、国ものも何冊か読んだがまったく印象に残っていない。好きだったのがディクスン・カー、ヴァン・ダイン。ヴァン・ダインは全部出てた気がしたが今は最初の4冊。グリーン家と僧正あればあといらないのは確かだ。グリーン家と僧正は映画にしたら面白いと思うのだが、映画になったと聞いたことない。ディクスン・カーは今でも覚えてるあっというようなトリックがいくつもあったが、トリックを書くのは推理小説のタブーだからやめておく。映画ではビリー・ワイルダーの「情婦」あれも最後あっと驚いた。アガサ・クリスティの原作だった。ポワロでも「アクロイド」「ナイルに死す」「白昼の悪魔」「愛国殺人」などあっといわされたものはあったのだがルパンと同じでそういえば昔読んだねで終わってしまい、とっくにどこかにいってしまってから懐かしいと書店で眺めるのだが、もう一度読んでみようとは思わない。びっくりしたのが「三幕の殺人」西脇順三郎が訳しているとずっと後になってから知って文庫買い直したが、それすらどこかいって見当たらない。今のテレビドラマも推理小説に比べると現実っぽく作ってるかもしれないが現実はそんな甘いものではないと思う。汚い世界にドラマのように真っ向から立ち向かっていくやつなんていないだろうし、アメリカは警官の買収なんて普通にありそうだし。そう思いながらドラマを観てすっきりするのは水戸黄門と一緒か。コロンボ、アイアンサイド、コジャック、最近のではコールドケース、クローザー、観て夢中になるのは推理小説を読んで夢中になった高校生の時と一緒で何ら嗜好は変わっていない。


匿名の説話

2015-04-09 08:59:36 | 日記
李白を読むきっかけになったのがエズラ・パウンド。パウンドの英訳を日本語に訳したのを読んだ。でもこれ日本人としておかしくない?イマジズムも要するに俳句だからパウンド読むより一茶読んだ方が早い。俳句は日本語で読まないとわからないと言ってしまうのなら、シェイクスピアはイギリス人でないとドストエフスキーはロシア人でないととなってしまう。聖書はヘブライ語とギリシャ語で読まないと。でも俳句の感覚は絶対西洋人にはわからないだろうと思うとやはり西洋文学はいくら勉強しようと芯になるところはわからないのかなと思ってしまう。いくら熱心でなくても教会に行っていなくても根本にあるキリスト教。それくらいちょっと教会行けばわかるかもしれない、聖書を調べればわかるかもしれないというものではない。しかし信者でなくても「マタイ受難曲」のよさはわかる。話を元に戻して、当然のことながらパウンドは李白の紹介のために英訳したのではないだろう。パウンドの詩として出してる。それはW・C・ウイリアムズが「パターソン」で手紙や新聞記事をも詩の中に入れてしまってるのと同じかもしれない。同じ系統でいけばケージが「クレド・イン・アス」でクラシックのレコード使っているとか。デュシャンのレディメイドもそうか。それぞれ思想は違うが新しいエネルギーを持っているというのは同じ。対極にあるのがエリオット、シェーンベルク。デュシャンの対極は何だろう。芸術すべてか。パウンドは読まれないが新書サイズ程度のパウンド詩集は2種類ほど出たことがある。その前に新倉俊一訳のパウンド詩集が単行で出たが、とっくに絶版。何度も書くがそれに比べてウォレス・スティーブンスの詩集は自分の知る限り見たことない。自分が読んだのは新潮から出てた世界詩人全集の中の現代詩集。「日曜日の朝」とか読んでアメリカ詩人なのに何だろうこれはと驚いた。原書で読むしかないがアマゾンなどで簡単に手に入る。昔は時間がかかっても丸善行って注文した。フランス語はわからないので訳だけで楽しんだのがポンジュ。アポリネールの「ミラボー橋」くらいなら辞書引きながら何とかなりそうな気がするが、ヴァレリーなんて日本語で読んでもわからん。オペラなんて字幕付いたDVDなら何とか楽しめるが、レコードやCDで聴いて何面白いんだろう。

エナメルを塗られたアポリネール

2015-04-07 20:18:12 | 日記
ビリー・ジョエルの「ニューヨークの想い」は後で違うバージョンに差し替えられたので、初期のCDと今のでは違う。ロックなどでは珍しいことだがジャズはよくあること。50年代後半からステレオ録音が出てきて、その頃モノラル録音で出たのがステレオに変えられ2種類出たレコードが数多くあった。ほとんどの場合ミックスの操作で変えられたが、たまに面白いのもあった。有名なのはビル・エヴァンスの「ポートレート・イン・ジャズ」の枯葉、ステレオは別テイク入れた。日本でわかり2種類の枯葉が収録され、それが今では普通になったがオリジナルも2種類入ってると思っている人もいるのでは。もっとすごいのがエラ・フィッツジェラルドのオペラハウス。最初モノラルで出たときはシカゴのオペラハウスではなくL.A.の録音をアットオペラハウスとして出していた。ステレオになったらオペラハウスの録音を使った。要するにステレオとモノラルはまったく違う録音。これも後になってわかった。レコードが高かった時代、もしかして違うのではと両方買う人は相当なマニア以外いなかったのではないだろうか。もちろんアメリカ人なんて気にしないだろうし。スタジオ録音に拍手をかぶせてライブとして売るのはよくあること。思いつくのが「トニー・ベネット・インパーソン」「ペギー・リーとジョージ・シアリング」両方とも今では拍手を外した状態でCDになっている。ジャンルに関わらずライブはいろいろ手を加えたのが多いが、マイルスの「アガルタ」「パンゲア」コルトレーンの「インジャパン」は編集入っていない。こんな重たいジャズ聴くのは日本人だけだろうが。昔から不思議だったのがバーンスタインのグラムフォン盤。ライブレコーディングと書いてあるのに咳ばらいどころか人のいる空気さえない、拍手はカット。たぶん何日もの録音の中からつぎはぎしているのだろう。演奏ミスもそのまま出したほうがいいと思うのだが。逆にリヒテルのカーネギーホール。ベートーヴェンの「熱情」3楽章で、ものすごいスピードで突入したものだから、さすがのリヒテルも指が追いつかずミスタッチ連発で終える。きれいな演奏よりずっと迫力があってすごい。リヒテルに無断でレコード化したものだからストップがかかりしばらく手に入らなかったが、最近正式にカーネギーホールがまとめてCDになった。ケーゲル指揮のショスタコーヴィチ交響曲7番1楽章のボレロ風のところでオーケストラの技量かケーゲルの無茶振りか素人が聴いてもこれリズムずれてるというのがある。聴きたいのはこういう演奏なんだよな。