And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

川はその出てきた所にまた帰って行く

2016-08-29 16:58:19 | 日記
たいしたファンでもないのに、しかも何冊もバラで持っているのに買ってしまった。デニス・レヴァトフ全詩集。けっこうずっしり重く、気楽にパラパラというわけにもいかない。レヴァトフよりもっと読まないシルビア・プラスの全詩集も買った、はず。はずというのは探せば出てくると思うくらい開いたことがない。何でもそうなのだけれど、コンプリートとか完全という言葉に弱い。学生の頃なら全部揃えるのは無理だから、アポリネールなら詩しか読まないからそれだけ買うとかしていたけど、今なら何とかなるから昔買えなかった全集をきれいなものならオークションで落とすとかしてしまう。CDの場合、最近特にクラシック50枚100枚まとめてコンプリートとかいって出されることが多いので、これもたいした好きな音楽家でなくても買ってしまう。鈴木道彦訳の「失われた時を求めて」が出たのはいつか本を取り出すと1996年。この頃はまだこういうのが単行本で刊行できたんだ。字も大きく、わかりやすい訳で1巻から買って読もうと思ったが、単行本なので持ち歩きしづらく1巻の100ページくらいまで進んだろうか。そのあと文庫本で出たので買ってそちらを読んだ。単行本のほうはただの飾りになってしまった。ルービンシュタイン全集は全部聴いたが、個人全集を全部読むことはなかったし、これからもないと断言できる。カフカは小説は読んで、あと半分残っている日記と書簡。他の作家に比べると面白いのだけれど、6,7冊そればかり読めるかとなるとそれより他の小説読みたくなる。ヴァージニア・ウルフも評論、日記など集中力を切らさずに読むのは難しい。プルーストも書簡3冊が無理。20世紀までの作家は書簡集つくのが多いが、はたして全部読むためのものかというのはある。研究家は全部読まないとならないだろう。ということは個人全集は一般読者向けではなく研究家とマニアのためのものかと思う。昔の百科事典と同じで全部読む必要はない。そんなもの今の時代に消え去るのは当たり前。喫茶店で本や新聞を読むのが当たり前だったのが、今はスマホ。先日ホテルの朝食で自分は当たり前のように新聞広げて食事していたら、スマホ見ながら食事しているやつがいた。別に好きにしてだけれど、そんなことしてると頭のいい人間も馬鹿に見える。レコード店に立ち寄る、書店に立ち寄るといった自分がよくしていたことがだんだんできなくなる。欧米こそ電子書籍化が進んでいると聞くのに片手で持つのが重いデニス・レヴァトフ全詩集を手にしてまだまだ大丈夫と自分に言い聞かせる。

あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る

2016-08-27 08:07:07 | 日記
トワイライトゾーン映画版を買った。こういう一度観たらもう積んでおくだけのDVDを買うから置き場所がなくなる。3話目の叔父さん役で出ていた役者、どこかで見たことある、テレビの脇役で出てる役者だろうと調べたら、最初の「ボディ・スナッチャーズ」で主演した役者だった。2本の映画に30年の隔たりがあるのにわかるというのはたぶんテレビドラマでも出ていたのだろう。この映画も映画館で観た世代には懐かしくいい映画なのだろうけど、スピルバーグを馬鹿にしていた自分にとってはテレビで観るとなおさら何この程度でと思ってしまう。自分にとっての青春映画「グリニッチビレッジの青春」や「フェーム」が若い人にはどう感じるのか興味がある。両方とも若いときしか観られない映画。しかもレンタルビデオなんかない時代、映画館で観るしかなかった。あの頃は学生の世代だったのに、もう子どもを見守る父親の世代になってしまった。トワイライトゾーン映画版の老人の話も身につまされる。サイモンとガーファンクルがオールドフレンドと歌っていたのが二人ともオールドフレンドになってしまったのと同じ。スピルバーグも若かったから逆にああいうものを作れたのだろうか。自分も20代の時に荷車から棺桶が落ちる「野いちご」を観ていた。主人公が子ども当時に戻るのはウッディ・アレンが「アニーホール」で真似している。ベルイマンを映画館で観ることのできたのは「叫びとささやき」「秋のソナタ」「ファニーとアレクサンデル」くらいか。ヴィスコンティはちょうど亡くなったころで、映画サークルでヴィスコンティをやったら立ち見が出るほど入った。なぜそんなに関心が集まったのだろうか。ヴィスコンティも晩年は死のことを題材にしたものが多く、それのどこが若者に受けたのだろう。レナウン、シンプルライフのコマーシャルにアメリカの同曲が使われた。国内盤にしか入ってなかったのでコマーシャルのために作られた曲だったのだろう。「名前のない馬」「ベンチュラ・ハイウエイ」あの頃がよみがえってくる。そんな死のことなど、これっぽっちも頭になかった頃、そう頭にないからこそ、そういうものに興味を持って考えたりしていたんだ。恋人もいなく一人で映画を観ていた。今も家族が一緒に観てくれないので一人で観るが、はたして若い時代に帰りたいか。あのときに帰りたいか。明日のことを思い煩うのはよそう。過去はそんな美しくなかったはずだ。トワイライトゾーン観てそこまで深刻に考えたわけではなかったのだが、映画を観たときに一瞬隙間から30年前に見た太陽を思い出した。


この木はここに千年ある

2016-08-25 23:06:07 | 日記
30年以上ジャズを聴いているのだけれど、いざ書くとなると難しいと思わされる。クラシックのほうが書きやすいのは演奏を比較して書けるからだろうか。バルトークの弦楽四重奏ならジュリアードの3種類と東京の2種類があればいいけれど、その5種類だって聴き分けているわけではない。ジュリアードの2回目と東京の最初どちらかを気が向いたとき4番聴くかとその程度。その他に6種類くらいはバルトークの弦楽四重奏あるけれども順番回ってくるはずがない。ポリーニがバルトークのピアノ協奏曲1,2番入れたとき、買って何度も聴いた。CDになってもすぐ買った。これも5,6枚あると思うが、ポリーニすら聴いていない。何でも1種類でいいんだ。そうすればかなりの数のCDを片付けられる。少なくともブーレーズのピアノソナタ3種類もいらない。シュトックハウゼン30枚もいらない。と棚を見ながら思うのだけれど、そうもいかず買ってしまう。ふと本棚のプルースト全集を見る。「失われた時を求めて」は文庫が出てから読んだので、何巻かちょっと開いた程度で新品そのもの。たぶん読むことはないだろう。自分が死んで家族のものは価値がわからないから二束三文で売り渡し、業者は高い値段で売る。周りに文学青年もいなさそうだから、今のうちに死んだら持って行けともいえないし、もしそんなこといえる人間がいたとしても突然そんな人間がきて家族は相手にしないだろう。ヴァレリー全集カイエ篇。これはもっとマニアックなので、しかも箱が白いのでだんだんとシミなどの汚れが目立つようになって、あまりいい値段つかないかもしれない。30年くらい前で1冊8000円くらいしたので高かったけれども、その買った金額を家族が回収するのは難しいだろう。ほんの何枚かまだDVDになっていないものもあるけれどレーザーディスクはほぼゴミとなっている。今ならまだ50円くらいで引き取ってくれるのだが、空いたスペースはレコードしか入れられないし、そんなにレコード買わないのでそのままにしている。その点DVDはコンパクトでいい。最初はCDケースに入っていたのでもっとコンパクトだったのだが、万引き防止が理由ならCDだって大きなケースになってるはずだ。逆にDVDが全部レーザーディスクならと考えると家つぶれているかもしれない。モーツァルトなど全部なくてもいいのだけれど、さみしいので1種類ずつで十分。大好きなバッハだってレオンハルトとグールドがあればいい。文庫本はすべていらない。オスカー・ピーターソンなんてどうせ聴かないのだから全部処分。してみたいがまた同じものを買いそう。


チープ・イミテーション

2016-08-23 10:58:24 | 日記
WOWOWで「沈まぬ太陽」がドラマ化されると知って、録画して観ている。友人に言うと映画も観てるし小説も読んでるよと。自分一人遅れた気分。映画のDVDも買ったが、楽しみがなくなるのでドラマ観終わるまで封印。山崎豊子は「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」ドラマで「大地の子」とめぼしいのはみな観ているので、友人に今更沈まぬ太陽?みたいなニュアンスで言われるとなんか悔しい。山崎豊子のことはよくわからないが、フィクションだと断って、相当なところまで調査して真実を暴くところが面白いのではと思う。当然作り話も入っている。でも自分たちでさえ知っている。大きな組織にはどろどろとしたものがあるに違いないと。しかも正義の味方が悪を粉砕して終わりみたいなハリウッド調にはしないからなお面白い。日本のドラマを観るのは「大地の子」以来じゃないかと思うほど。ゴールデンタイムのドラマは学芸会程度でしかない。NHKの歴史物にしたところで原作がよくても脚色がちゃんとしていて、しかも歌手やお笑いタレントではなく、演技のできる俳優を使わないと原作が吹っ飛んでしまう。DVDになってから「花神」を観たが、これは面白かった。出演者もチャラいタレントやお笑いなど出ていない。総集編だったが全編マスターはもうないらしいので観ることができないのは残念。ドラマもいいが戦争フィルムや歴史を検証したドキュメンタリーは面白い。映像の世紀などその典型。CSを観るようになってから、そういうものを観ることができるようになった。第一次世界大戦からフイルムは残っている。戦争物はドイツが多いような気がするが、そのおかげで悲惨な記録を観ることができる。原爆投下直後の広島とかカラーで残っているものもある。GHQが10年くらい日本人には広島、長崎の様子は見せなかったらしい。テレビもなかった時代、世界の様子はおろか日本のことも庶民にはわからなかった。車いすに乗った姿など記者に一切写真を撮らせなかったため、フランクリン・ルーズベルトが足動かなかったのは国民のほとんどは知らなかったというのも時代だ。見るのは新聞だけで、実際に見ても大衆の前では立つ姿を見せたりしていたら、わかるわけがない。テレビが出てきても嘘が基本だということを大衆はわからない。クイズダービーの何十年も前に映画「クイズ・ショウ」で題材になったいかさまがアメリカのテレビで行われていた。自分たちもプロレスに興奮したり、クイズダービーで何てはらたいらは頭いいのだろうと思ったり、だまされ続けてきた。中には「グッドナイト&グッドラック」のようにマスコミらしいことをしたこともあるのだろうが、これも時代を感じるのはたばこを吸いながらカメラに向かう姿。赤狩りのドキュメンタリーも先日観たが、反抗する人間、エリア・カザンのように仲間を売り渡す人間と様々。「エデンの東」はそんなゴミ野郎が作ってる。

アルファベットを学び直す

2016-08-22 17:10:04 | 日記
昔はアンドレ・ジイドだったのが今はジッドになっている。日本語でどう言おうと言語に近づかないのだから変えるのはやめてほしい。間違っていようと。ワーグナーを今さらヴァーグナーとドイツ語読みしたところで意味ない。名前だからどちらでもよいわけではなく正しい読み方すべきだとも思うが。ジイドの「法王庁の抜け穴」をちょっと読んだところで止まってしまった。最近なかなかぐいぐいと読めるものが少なくなってきた。「失われた時を求めて」の新訳も読むのに時間がかかるようになったし。だいぶ前に買ったポプラ社の怪盗ルパン全集の文庫。小学生が読むものだからあっという間に終わるだろうと思ったら、奇巌城読んでそのまま。ボルヘス、ガルシア・マルケス読もうと思って何冊か文庫買ってそのまま。それは机が本の山になる。それプラスDVDも順番にと積んであるのだから。使いもしないのにマックのノートが3台もあったり。旅行でしか使わないiPadも邪魔くさい。とても静かできれいな書斎で読書なんて環境ではない。本を読んでいると家のものがコーヒーを持ってきてくれるなんて甘い環境でもない。アメリカドラマ少し消化するかと観て、音楽聴いて探し物してのほうが楽。逆いうと次読みたいと思わせる本に最近当たっていない。小さい字が暗いところで読みづらくなってきたというのも夜、本を読むのが減った一因。翻訳が古くてなじめない場合もある。「神曲」など一昔前の文語訳なら絶対読んでなかったと思う。逆にそんな小説読まなかったのでどうでもいいが、昔流行った超訳という大衆小説を意訳以上に読みやすく作ってしまう訳。大学教授の訳した本でも中には日本語の文章になっていないのもあるという。そういうのを探し出した誤訳、欠陥訳なんて本もあったが何か人のあらを探すようであまり気持ちのいいものではなかった。でも実際、推理小説でジョンの熱情とかでてきてびっくりしたという話を読むとバッハも知らないのか、語学だけでなくて様々な知識もないと訳はできないと感じる。ロックなどの歌の大笑い訳は訳す方も聴く方もその程度で仕方ないと思う。単純な歌詞を大笑いできるように訳すのだからたいしたものだ。それならせめて日本語として通じるように訳せば目立たないかもしれないのに。パブロ・ネルーダ「マチュピチュの頂」の一節「重くのしかかる死よ」と「どっしりとした死よ」スペイン語わからないけれど、どっしりとした死という日本語あるか?小説ならごまかしきいても詩の場合こうなってしまう。何でも言語で読めればいいのだけれど、今日はドストエフスキーをロシア語で明日はプルーストをフランス語でと読めるのなら、こんなつまらないブログなど書いていない。