学生のときはサルトル、カミュ、カフカみんな全集が出ていた。カミュは興味なかったので「反抗的人間」くらいしか買わなかったが、カフカは書簡集以外、サルトルは数えていないが半分くらいは買った。芥川、夏目などは今では文庫で揃うのでいいが、もはや個人全集など出せないだろう。サルトル全集など今開くと字が小さくてとても読む気がしない。買ったまま読まなかった「自由への道」も文庫で出たおかげで読めた。好きな作家の全集は読まなくても並べておきたいというのがある。ドストエフスキー全集持っているが読むのは文庫という学生の時の友人がいた。気持ちはわかる。20年くらいかかってプルースト全集が出てこれは全部揃えたが、「失われた時を求めて」を読んだのは文庫が出てからで何回かパラパラめくったくらいかなという程度。鈴木道彦訳の「失われた時を求めて」も最初に出たとき買って、これは1巻の途中くらいまで読んだが持ち歩かないのでなかなか進まず、それもそのうち文庫が出て文庫で読んだ。カフカは全集が出る前に3大長編文庫で読んでいたので、短編と日記を少し読んだくらい。西脇順三郎は全部で3回全集が出たが、2回目と2回目を全部買った。ほぼ内容は変わらないので同じ全集2セットあるようなもの。萩原朔太郎は詩の巻だけ買ったが、詩はこんな分厚い本で読むものじゃないだろうと思う。今ならどうせ買うなら全部揃えようと思うが学生時代はそうもいかなかったので、何冊かだけというのはあるというよりそればかりだった。アポリネールだって読まなくても今なら全部揃えるのにと思う。読まなくたって、それが全集なのかもしれない。あった全部読んだのが。シェイクスピア。白水の新書だったので持ち歩きやすい、戯曲なのであっという間に読めてしまう。一番はとにかく面白い。ヴァレリー全集は古くさい訳で新しい訳で出るなら買いたいと思ったが、もう出ることはないだろう。ヴァレリー全集カイエ篇などよく出たものだ。しかも今から35年前で1冊7800円。部屋があと5倍くらい広ければ、萩原朔太郎全集15巻中古で買って置いてもいいのだが。
スティーブ・ライヒを初めて聴いたのはEMIの「フォーオルガンズ」か廉価盤に入っていた「カムアウト」だったか。EMIのほうはケージを聴きたくて買ったはずだから、そちらのほうが先か。ポコパカいうプリペアドピアノが面白くて、というか元々曲を知っていたわけではなくケージだったら何でも聴いてみたいという中で面白い曲に当たったというべきか。明らかにガムラン音楽の影響でリズミックなのでケージの曲の中では割と珍しく最後まで楽しかったという曲。それで裏返したらライヒ。ミニマルミュージックとかライヒ、ライリー、グラス、ラモンテヤング、小杉武久などの名前は雑誌で知っていたと思う。この頃はライヒ自身が演奏に参加しているのがあり、シャンダール盤の「フォーオルガンズ」はライヒにグラスも演奏に参加している。これまた面白い。単なる音のずれなのだが、テリー・ライリーやフィリップ・グラスよりもっと実験としての音になっていて、それが不思議と音楽になる。「カムアウト」や「イッツゴンナレイン」のようなもっと初期の音楽。これらこそ音楽といっていいのかわからない。人の声のずれなのだから。そういった面ではミニマル音楽家の中で最も実験的だったかもしれない。後にウイリアム・カーロス・ウイリアムズの詩を使った音楽を書いてなおミニマルの中で好きな作曲家となった。ジャズでスティーブ・スワロウがロバート・クリーリーの詩を使った曲書いたり、キース・ジャレットがライナーにロバート・ブライの詩を引用したり、チック・コリアがジャケットにe.e.カミングスの詩を引用したりと何例か自分の身近な詩人の名前が出てきたりすることがあるが、それだけでその音楽家の評価を上げてしまう。前も書いたがグラムフォンから出た3枚組は驚きだった。無名の若い作曲家がグラムフォンからそんなレコード出せるなんてと。その中の音楽も音のずれを追究した音楽だったのが、がらっとかわったのはECMから出した「18人の音楽家のための音楽」これまたECMからライヒの音楽が出るなんて驚いた。これがテリー・ライリーの「インC」のように様々な録音が出てライヒの代表作になるが、この後はみんなこの曲のヴァリエーションに聞こえて実験的な響きはなくなってしまう。ミニマルも無調も行き詰まり次はどこへ行くのだろう。スティーブ・ライヒを現代音楽として聴き、ジョン・アッシュベリを現代詩として読んだ時代は過ぎ去った。過去も未来も少しずつずれていく。「フォーオルガンズ」のように。
iBookで何か本出てるか検索した。エリオットは出てるが、W・C・ウイリアムズ、エズラ・パウンドはさすが出てないと検索していたら驚いたのがウォレス・スティーブンス。全詩集、遺稿集、選集すべて出ている。なぜスティーブンスだけ?ピューリッツァー賞など各賞を取っている現代詩人ジョン・アッシュベリなどもほとんど出ていない。スティーブンスがアメリカで大人気なんて話聞いたことない。どちらかといえば抽象的な詩なので若者が持ち歩く詩集ではない。学生の時買った全詩集と遺稿集はハードカバーの分厚い本で今はペーパーバックになっているが、それでもそれなりの量。詩で思い出した。オーシャンというグループの「サインはピース」という曲が日本でもヒットした。当時中学生で歌詞など聴き取れるはずなく、学生運動、ヒッピーが一段落した時期だったが当然そういう歌だと思っていた。年月は経ちあの頃のヒット曲みたいなCDを買って懐かしいなと聴いていたらびっくり。これってゴスペルだったんだ。
Put your hand in the hand of the man who stilled the water.
Put your hand in the hand of the man who calmed the sea.
Take a look at yourself and you can look at others diff'rently
By puttin' your hand in the hand of the man from a Galilee.
題名が「Put your hand in the hand」御手に手を置いてくらいの意味だろうか。ベトナム戦争ともフラワージェネレーションとも何の関係もない。でも正解だろう。キリストの御手に包まれてなんて題にしたらヒットしなかっただろう。大笑いする邦題の多い中でこれはうまく少年少女をだましたいい題だと思う。いい題というには抵抗もあるが、曲もリズミックで「平和を我らに」と同系統の曲だと思ってしまう。「コンドルは飛んでいく」や「レットイットビー」はシングル盤を買ったので訳を読んで内容わかったが、ラジオでいい曲だなと聴いてた曲は中身わかるわけがない。シングル盤買わなかったけど覚えている曲いっぱいある。大抵はラブソングだったのだろうが。この「サインはピース」歌詞にガリラヤ湖が出てくるが、ガリラヤ湖を知ったのは何年も経って聖書を読んでから。昔聴いた「魔法」とか「イエローリバー」とかどんな詩だったか調べてみようか。それよりせっかくiPadでウォレス・スティーブンス読めるんだから読まないと。
Put your hand in the hand of the man who stilled the water.
Put your hand in the hand of the man who calmed the sea.
Take a look at yourself and you can look at others diff'rently
By puttin' your hand in the hand of the man from a Galilee.
題名が「Put your hand in the hand」御手に手を置いてくらいの意味だろうか。ベトナム戦争ともフラワージェネレーションとも何の関係もない。でも正解だろう。キリストの御手に包まれてなんて題にしたらヒットしなかっただろう。大笑いする邦題の多い中でこれはうまく少年少女をだましたいい題だと思う。いい題というには抵抗もあるが、曲もリズミックで「平和を我らに」と同系統の曲だと思ってしまう。「コンドルは飛んでいく」や「レットイットビー」はシングル盤を買ったので訳を読んで内容わかったが、ラジオでいい曲だなと聴いてた曲は中身わかるわけがない。シングル盤買わなかったけど覚えている曲いっぱいある。大抵はラブソングだったのだろうが。この「サインはピース」歌詞にガリラヤ湖が出てくるが、ガリラヤ湖を知ったのは何年も経って聖書を読んでから。昔聴いた「魔法」とか「イエローリバー」とかどんな詩だったか調べてみようか。それよりせっかくiPadでウォレス・スティーブンス読めるんだから読まないと。
バーナッド・マラマッドの「レンブラントの帽子」を読んで、レンブラントを知った。そのときは帽子の意味がわからなかったけど、自画像を見ると帽子をかぶっている。その問題ではない。すべて自画像に表されている。文章で書くとどうも野暮になる。それを表現するのは小説家なのだろうけど、絵画をどうやったら文章で表現できるのか。レンブラントを好きという理由をどう書くのか。画集でもいい。見ると何を見つめているかわかる。見つめているものは物ではない。若き自画像はこれから踏み出そうとする不安、いくらかの期待を見つめている。晩年は逆にすべてを回顧している。レンブラントといえば「夜警」宗教画もたくさんある。ゴッホと同じくらい自画像は有名だが、おそらくそちらの方が先に思いつくのではないだろうか。ルーブル行って真っ先にレンブラント行く人はそういないだろう。興味あるならアムステルダム行って「夜警」見るだろうな。他の画家と同じく世界中に散らばっているので、自画像をいくつも見たいと思ったら何カ国も回らなければならない。しかもアムステルダムに自分の好きな自画像がないのが悔しい。ゴッホのひまわりやモネの睡蓮なんかみんな見たいとは思わないが、レンブラントの自画像はいくつ見れるかライフワークにしてみようか。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
映画を観るかと思ってもタルコフスキーにするだけの根性はない、それで楽しめる映画を録画しておいて観るのだけれど、ハッピーなハリウッド映画は途中で結末がわかってしまう。主人公だけが危機一髪助かってとか愛は勝つだとかよくもまあハリウッドではそんなのばかり作ってきたなと思う。日本のテレビドラマはどこに出しても恥ずかしい学芸会程度のものばかりだから、アメリカ人だけバカとは言いづらい。ニューシネマで若い世代は学習したはずなのだが、その若い世代も還暦過ぎてきっと保守になっているだろう。ジャズも面白くなくなったと古いのしか聴かないが、映画も自分の中で70年代で止まっている感がある。アメリカ映画は60年代後半から数年。フェリーニは「アマルコルド」を最後に晩節を汚すゴミ映画連発。逆にヴィスコンティは晩年に名作連発で死んでちょっとしたヴィスコンティブームになり、リバイバルがみんな満員だった。淀川長治がテレビでべた褒めしてた「ベニスに死す」確かに小説ではどうということない中編小説なのだがここまでイメージを膨らませて、小説家を音楽家にしてしかもマーラーそっくりにしたというのもヴィスコンティの力であるのは当然。ヴィスコンティは元々クラシック音楽を使うのがうまかったが、これ以来マーラー交響曲第5番4楽章は独立した映画音楽のようになった。というかマーラー5番を聴いていて4楽章に入ると映画を思い浮かべるようになった。ヴィスコンティ自身同性愛だったというし、なかなか好きと言いづらい映画であるのだが子どもの死を入れたりと知らないで観るとマーラーの本当の話かと思ってしまうくらいマーラーとかぶせて作っているのがクラシックファンにも興味を引く。ここまで変えているのだからトーマス・マンの原作からは離れている。以前ヴィスコンティは「異邦人」で遺族の意向で全く原作をいじれなくつまらない映画にしたことがあった。だいたい小説の映画化は原作通りにしたら面白くなくなるのが多い。ティーンエイジャーのときにヴィスコンティを観て老いるということはとか考えていた。後期のは映画館に観に行って、LD出たとき買ったがそれ以来観ていない。DVDも揃えたのだがどういうわけか観る気がしない。なぜだろう、少なくともフェリーニより好きでブニュエル、ベルイマンなどはたまに観たくなるのに。もう老いるということを教えてもらわなくてもいいようになったからか。