And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

ある突然の日付というものはあり得ないだろうか

2016-07-31 11:24:44 | 日記
読むものがなくなったので、30年近く前に買って読んでいないガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読もうかとふと思うのだが、また10ページでやめてしまいそうだ。南米文学はどうも苦手でボルヘスの短編すら読むのが面倒になる。オクタビオ・パスはよかったという記憶も本がどこにいったかわからないので確認することもできない。それよりナタリー・サロートだよなと思っても、20代の頃のようにヌーヴォーロマンについて行けるか。今なら文庫で出ていないのかと探すと文庫はおろか古本でしか手に入らないよう。ロブ・グリエも何冊も買ったが、「消しゴム」は読んだはずだがくらいの記憶。ビュトールは好きだったので特に「時間割」「心変わり」など。「時間割」は昔から文庫で出ていたが逆に今は出ていない。50年代中過ぎてから60年代にかけてフランスではヌーヴォー・テアトル、ヌーヴォーロマン、ヌーヴェルヴァーグと新しい芸術が次々誕生した。テアトルはベケットの「ゴドーを待ちながら」ヌーヴェルヴァーグならゴダールの「勝手にしやがれ」など有名。今やもう半世紀以上前の出来事。いつも新しくていいものが生み出されるわけではないので、天才の出現を待ち望むしかない。ウッディ・アレンが20年代、失われた世代の人間に20世紀初めはよかったと言わせたように古き良き時代なんてない。今思えば、有名になる画家、映画監督、小説家たちがスタインの周りにたまたま集まっていただけで黄金時代とか名付けるのは後の人間。50年代のアメリカが映画に出てくるようなティーンエイジャーばかりだったかなどわからない。それをその通り信じて日本人が同じ格好したところで様になるわけがないなんて若い人間はわからないでまねする。ディスコブームの時、みんな一列になって同じ踊りをしているのを見て自分も若かったけど、すごく気味悪かったのを覚えている。もうヌーヴォーロマンを読む人間は限られている。最近ノーベル賞を取ったル・クレジオはヌーヴォーロマンよりまだ若い世代だが、そういうときに少し本が出るくらい。映画で何度も観たレ・ミゼラブル。ユーゴー読んでみたいとふと思うが、きっと買ったらそのまま積んでおくだけになるとわかっているからそんなことは忘れる。学生の時大好きだったサルトルの「嘔吐」もなかなか読み返す気になれない。たぶん「嘔吐」は学生の時読むものであったのだろう。というと新しい訳が出るたびに買って読んでいる、しかも何度読んでも飽きないプルーストの「失われた時を求めて」は若いときに読んでもわからなかったのは当たり前ということだったのか?

美しい吐息

2016-07-30 16:20:10 | 日記
DVDで買って、あまりのくだらなさで2話で観るのをやめた「原潜シービュー号」。もったいないのでまた1話観たが、やはり本当に面白くない。「宇宙家族ロビンソン」も昔は楽しく観ていて今観ると何これというのもあるので、両方とも元々子ども向けだったという意味だろう。シービュー号の元は映画だったと初めて知って観た。「地球の危機」はあったような気がしたから探したらあった。買ってずっと観てなかった。映画もSF映画というにも恥ずかしいようなB級。主演がウォルター・ピジョンでヒッチコック「断崖」のジョーン・フォンテインや「かわいい魔女ジニー」のバーバラ・イーデンなど出ていて華やか。テレビ版はリチャード・ベイスハート主演でこんなドラマ出たらフェリーニ「道」や「崖」の演技が消えてしまう。でもこういう有名俳優を出せたのはプロデューサーの力か。とにかくエド・ウッドの「プラン9・フロム・アウタースペース」に十分対抗できる。観た何本かは当時007がヒットしてた頃で潜水艦関係なくスパイドラマ風になっていたし、このあと怪獣や宇宙人など出てくるというので「宇宙家族ロビンソン」風になるのか。本家はドクタースミスのコミックドラマになってしまったが。それでも日本の学芸会並のドラマよりはましかもしれない。昔は木下恵介アワーとか「細腕繁盛記」とか見応えのあるドラマも日本にあった。もう「細腕繁盛記」はテープを消してしまっているので観ることはできないという。本当に残念だ。「冬の旅」は木下恵介アワーでなかったかと調べたら木下恵介・人間の歌シリーズというのだった。若いときの田村正和が出てたのを覚えている。ドラマの内容はもう覚えていないのでわからないが、シューベルトの歌曲とは関係なかったように思う。木下恵介アワーの中からいくつかはDVDになっていて、その中で一番面白くて覚えている「おやじ太鼓」を買ったけれども3本くらい観てやめた。懐かしいだけだった。映画1本観ようと思うと時間を作らないとならないが、ドラマなら夜時間あるなと思ったらすぐ観ることができる。最近はペリー・メイスンを観ている。これは大人向け。よくネタ切れせずに10年近くも続いたものだ。あとコロンボか面白いのは。「タイムトンネル」も面白かったのだけれど1シーズンで終わってしまった。しかも後半は宇宙人など出てきて、最初の主旨から離れた。これはネタ切れしたのだろう。最初からタイタニックでこの船は沈没するとみんなに言っても信じてくれないどころか、おまえらはどこから乗ったといわれてとそれだけで面白そうだになるのは当たり前。今も「24」など夢中になってしまうのは海外ドラマだ。「特攻ギャリソンゴリラ」「ロンドン特捜隊スウィーニー」などたくさん観たいのはあるけれど、何とか「マッシュ」吹き替え版で出してくれないだろうか。

螺旋のある円盤

2016-07-27 12:45:10 | 日記
高橋アキがサティの再録音を開始した。高橋アキのサティはフランス人の弾くサティよりずっとデリケートで美しいと思う。高橋アキもその兄の高橋悠治もコンサートでサティを聴いたことがある。昔バルビエのサティ演奏会に行かなかったことが今でも失敗したかなと思っているが、デュシャン展を見に行ったとき、なんかつまらないと思ったようにサティも演奏会で聴くものではないかもしれない。ほとんどのファンはジムノペティ、グノシェンヌだけ聴いてサティ好きと言ってるのだろう。「ケルン・コンサート」を聴いて、キース・ジャレットはああいうメロディばかり弾くピアニストだと思っているジャズ初心者と同じ。素直にリチャード・クレイダーマンやジョージ・ウィンストンが好きといえばいいのにキースのケルン最高というからバカがばれる。70年代からずっとキースを聴いてきて、相当な数の駄作も混ざっている。同じ年代のピアニスト、チック・コリアなどはいい悪いはあってもみなそこそこ聴かせるものを作っているが、キースの場合どうにもならないがらくたがよくあった。ECM専属になってから減ったとはいえ、それでもオーケストラと共演ならまだましだがオーケストラとサックスで自分は作曲だけとかそこまでキースのファンは買わなければならないのかと思うようなものを出していた。ピアノソロもケルン・コンサートは逆に例外で必ず前衛的なフレーズが入ってくる。ほとんどオリジナルしか演奏しなかったのが、突然トリオでスタンダードを出したと思ったら、それから30年もう飽きた、新しいのないのかと思うくらいスタンダードばかり演奏したり。自分にとってキースの原点は最初のピアノソロ「フェイシング・ユー」と最初のソロライブ「ソロコンサート」特にソロコンサートは1時間もソロを弾き続けるなんて他の誰にもできないと感心させられた。3枚組のレコードで聴き過ぎてノイズの気になる中、何度も聴いた。そのあと出たケルンコンサートはつまらなくて、レコードも買わず録音したテープで済ませてた。当時買うことのできなかった10枚組の「サンベアコンサート」ミュンヘンとプレゲンツのコンサートの入った「ヨーロピアンコンサート」ソロでよかったのはそこらまで。だんだんと暗く沈み込むようなソロになって、病気から復帰してからは10分くらいの細切れのソロになってしまった。こんな天才も才能の枯渇があるんだ。サティはジムノペティ、グノシェンヌにジュ・トゥ・ヴーだけじゃないし、キース・ジャレットはリチャード・クレイダーマンではない。

私が目をさました時は暗い森の中にいた

2016-07-25 22:31:31 | 日記
また持っているのに、テレビ放映時の吹き替えがついているというだけで2枚買ってしまった。「戦場にかける橋」と「博士の異常な愛情」両方とも好きな監督、デビッド・リーンとスタンリー・キューブリックではあるけれど、なかなか観る順番回ってこない。飛行機で観た映画であれは面白かった、また観ようとDVD買ってきてもまず観ない。黒澤明、小津安二郎はレーザーディスクで全部観たからDVD買っても観ない。黒澤なら何本かまた観たいのはあっても小津はまず観ることないだろう。でもレーザーディスクはハードも製造中止、修理もできないとなればDVDを買っておくしかない。観られなくなると観たくなるのだから。となるとこのかなりの量のLDどうするんだ。レコードと同じでジャケットは大きく解説も読みやすいのだけれど、場所取って重い、画像悪い、1時間で切れるといいことない。しかもプレーヤーは壊れたらおしまい。でもビデオテープの頃だと巻き戻さなくていいとか重宝した。レンタルレーザーディスクも一部であったくらい。家庭で自分の好きな映画を観られるという感覚になったのはレンタルビデオでなくレーザーディスク。自分の好きな映画を所有できるのだから。うちのテレビはずっと4:3のブラウン管だったので、シネスコサイズのDVDよりもテレビサイズの多かったLDで観るほうが好きだった。「ベンハー」などシネスコサイズを4:3のブラウン管で観たら小さくなってまともに観ることができなかった。ただ劣化も早かったようでノイズの出たLDは何枚かあった。カセットテープもエルカセットといってカセットより一回り大きく音もいいなんてのが出たことあった。DAT、ミニディスク、LD次々なくなるのはいいけれど、直してもらえないのならハードも次々ゴミとなる。パソコンもフロッピーどころか円盤も消えつつあり、保存はみなメモリになった。マックがパソコンからフロッピーを外したときびっくりしたのだが。DVDを外したのは正解かもしれない。ノートパソコンで一番先にいかれるのはDVDドライブだったから。iMacで復活した頃、iPodを最初に出した頃、アップルがiPhone、iPadで世界を征服するなど思ってもみなかった。相変わらずマックのパソコンは高いし、古いのを切り捨てるし、頭にくることばかりだが、昔ほどでないかもしれないがウィンドウズに比べるとデザインはおしゃれで差はある。OS9が動くpowerbookが今でもあるが使うことないとは思っても高い金だしたので処分できないでいる。それでいて新しいノートが出るとほしくなる。ノートを家から持ち出すことはないのだが。

行く手を独り最後に愛されて彼方へ川は流れる

2016-07-24 20:51:52 | 日記
いくつか読んだだけの短編集はあるのだが読むものもなくなって、さてと思ったら前に買ったフーコーを思い出し「言葉と物」の出だしはベラスケスの絵画から始まるからちょっと読んでみようと思った。その絵はネットで出てくるので抽象的な話をされるよりはわかりやすいかと思ったら、これはこれでそんなことどうでもいいじゃないと思い哲学とは普通の人ならどうでもいいと思うことを回りくどく書くだけなんだなと思った。「イメージは枠から外へ出なければならない」という引用がある。その一言でいいじゃないと。なんか不思議な絵だと一言で言えるのにこれだけの文章を使って、しかもその1章読んで何言いたいのかさっぱりわからない。ジョン・アッシュベリの「凸面鏡の自画像」でパルミジャニーノの描き方ではと始まっても絵画でパルミジャニーノというのは画家なんだと想像つくが、その画家も作品も知らないで勝手に詩人が語り出すというのに似ている。アッシュベリをウィレム・デ・クーニングと比較して論ずる人もいるらしく、なるほどアッシュベリを文章のアクション・ペインティングとするとなんかイメージがつくような気がする。詩の場合はペイント垂れ流しでもいい。哲学はいつも数ページでくじけていたのでわからないけれど、たぶん結論を必要とするのだろう。そうでなければどうでもいい言葉をつなぎ合わせて長い文章にする意味がない。レンブラントの自画像でバックにサークルが二つある絵。あれは未完なのだろうかと昔から思っていたが、絵の素晴らしさからいえば未完であろうがそんなことはどうでもいい。デュシャンの大ガラスのように故意にやめてしまったりとか。哲学のイメージは交響曲で4楽章のフィナーレまで聴かないと読んだと言えない。いつも完結したものには興味がない。全部聴くと6時間かかるモートン・フェルドマンの弦楽四重奏をいきなり2枚目から聴いて10分でやめるとか普通にする。チャーリー・パーカーの演奏でパーカーのソロだけ集めるとかジャズではよくある。さすがに映画は時間つぶしのアクション映画などは除いて、途中だけ観てやめるとかはしない。未完といえばカフカだ。長編はブロートが勝手に並べただけなのだから、章を適当に選んで読んでもかまわない。逆にカフカ自身が出版した「変身」など面白くない。もっと有名なのがシューベルトの「未完成」か。4楽章までできていたならさぞかし長く、つまらない曲になっただろう。ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」のように最後を最初につなげるというのもあるが、そこまでいくと。