マキペディア(発行人・牧野紀之)

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校則(03、品川女子学院の生徒心得)

2008年07月20日 | カ行
 この春(2007年)の朝日新聞に、ある女子校の生徒が水着姿の写真集を出したとかで退学処分になったという記事が載っていました。その記事の中に「校則をホームページに発表している学校」として品川女子学院の名前が上がっていました。

 それを読んだ感想をまとめます。

 1、全体として、「生徒の心得」だけあって、「教職員の心得」がなく(発表されておらず)、両者の関係についての規律も発表されていないと思います。これはおかしいでしょう。

 学校というのはサービス業を行う1つの事業体であり、サービスを提供する側と受ける側との契約を明記しなければならないという意識がないのでしょうか。

 2、この心得への異議申し立てと、その申し立てがあった場合の処理の仕方が明記されていないのも根本的な欠点でしょう。

 人間は不完全なのです。教師もそうなのです。異議申し立てと是正の方法を明記していない規則は、民主社会の規則と言えないと思います。

 そのために、心得が強制になっていて、校是「自ら考え、自らを表現し、自らを律する」の自律の精神と内容的に反する結果になっています。

 意地悪い批評をすれば、「自律的に他律的な人間になれ」という意味に取れます。まあ、日本はアメリカに対する「自主規制」の国ですから、そういう国の学校に相応しいかもしれません。

 3、又、生徒心得としても、根本的な精神と登下校以下の細かな事との2つしか述べられていません。確かに中高生にとっては服装などの事ははっきりさせておくべき重要な事だとは思いますし、これらは本当のお客さんである親の要望の強い事柄でもあるでしょうが、授業のあり方と授業内容に関係し、従って教師と生徒の関係及び生徒同士の関係に関する規律が定められ発表されていないのは大欠点でしょう。

 つまり、校是の次にある事柄は、個人としての自己実現という目標と他者と共同して生きていくという社会性とを併記していて適当だと思いますが、特に後者が具体化されていないのです。

 他者(教職員や他の生徒)から不正を加えられたと思った時どうしたら好いのか、他者との共同における意見の違いにどう対処するべきなのか、が書かれていません。

 このように言うと、イジメとかをすぐに連想する人も多いと思いますが、イジメだけでなく、学校のあり方や校長を含む教職員のあり方、教師の教えている授業内容等について疑問を持ったとき、どうしたら好いのか、それが書かれていないのです。

 内容的には、教師と生徒、生徒同士の行き違い、考えの違いは、授業や学級のあり方(いわゆる授業アンケートなどの項目になるような事柄)と授業の内容そのものでの意見の違い(先生の説明や解釈に賛成できないとか疑問があるとか)とに二分されます。この2つの性質の違いによって、両者の解決方法も違ってきます。

 しかし、いずれにせよ、人間は不完全なものであり、間違えるのです。中学生になり、自我に目覚めると、自分の考えを持つようになりますし、この学校ではそれを校是として奨励さえしているのです。

 しかるに、自分の考えを持つと、他の人々との意見の違いが必ず生まれます。若い頃はとかく自分の考えを正しいと思い込みがちですが、自分が「あれは間違っている」と思った事が必ず間違っているとは限りません。しかし、同時に、そういう意見の違いは「見解の相違」ではすまされず、どれかに決めなければならない事も沢山あるのです。そこで問題が起きるのです。

 それなのに、そういう場合の意見の違いの処理方法を決めていないのです。なぜでしょうか。

 根本的には、こういう場合の認識論的に正しい解決方法を知らない(どこの大学でも多分教えていない)からだと思います。そのためもあって、直接的にはそういう「混乱」を頭から避けようとしているのだと思います。

 教師がこの問題から逃げている限り本当の教育は出来ないと思います。人間は議論の中で成長するのです。しかし、その議論はどんな議論でもいいわけではありません。「認識論的に正しいルールに則った議論」でなければならないのです。この正しいルールを提示できない学校は本当の学校ではないと思います。

 4、「明るい心と知性を持ち、常にまっすぐに正しく生きる」とか、「目標を立てたら、それを達成しようと願う心を強く持ち、飽きることなく絶えず努力を続ける」といった、理想的な事をなぜ目標にするのでしょうか。

 我が家の近くの浜松市立引佐北中は「求めて学ぶ心豊かな生徒」を教育目標として、「やれば出来る、勇気ある挑戦」とかいう合言葉を掲げています。

 学校ではどうしてこのような理想的な目標やスローガンを掲げるのでしょうか。迷ったり、悩んだり、停滞したりすることはいけないのでしょうか。「全てを疑え」という哲学の大原則はどうして出てこないのでしょうか。皆さん、哲学はお嫌いなのでしょうか。これは単なる疑念として提出しておきます。

 問題は、このような目標を掲げている校長や教師自身はどうしているのか、です。

 品川女子学院のホームページには「校長日記」があります。これはとても頻繁に書かれていまして、熱意が感じられますが、本当の「活動報告」ではないと思います。生徒を教育しようという善意に基づいてその目的にとって適切な事を書いていると思います。

 しかし、これでは学校のあり方などについての疑問は出てこないと思います。本当は客観的な活動報告こそが生徒の教育なのだと思います。これをしている所はおそらく皆無でしょうが。

 品川女子学院では最近、制服を変更したようです。女子校にとっての制服は大問題でしょう。校長は生徒に詳しく説明したようです。しかし、変更しようと思ってから最終決定するまでの途中で生徒の意見を聞き、議論をするということはなかったのでしょうか。

 引佐北中の校長は昨年から校長をしている人ですが、自分の事は言わない人です。昨年はイチローを褒めちぎっていました。今年は、水泳の北島選手とフィギアスケートの安藤美姫選手の話になりました。

 校長の言葉は多寡の違いはあれ、両方共載っていますが、他の教師の言葉はほとんどありません。なぜでしょうか。とても不思議です。

 品川女子の方には「生徒日記」の項目がありますが、内容がお粗末すぎます。学級通信や教科通信を載せたらどうでしょうか。そうしたら、そこにどんな議論があるか分かります。
  (2007年08月17日発表)

     関連項目

「天タマ」の目次
「哲学の授業」