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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

了解

2006年12月12日 | ラ行
 1、ディルタイによれば、いっさいの文化的、歴史的世界は生の表現、生の客観化されたものであり、これは自然科学的な因果連関を求める説明によってではなく、そこに自らを表現している生そのものの内的連関を追体験することによってのみ把握されうる。この追体験の過程を、ディルタイは了解となづけるのである。

 この了解の概念を精神病理学の中に導入したヤスパースは、これをさらに静的了解と発生的了解に区別する。

 或る人が怒っているのを見て、その怒りそのものを追体験して了解するのが静的了解であり、その人が例えば誰かに侮辱されて怒っているのだ、というように、或る心的現象が他の心的現象から発生して来る意味連関を追体験するのが、発生的了解である。(略)

 一般に用いられている「追体験」の意味は、或る他人の心中を思いやり、自分でその人の身になって感じとる、ということである。(略)

 これと同様に、或る風土を追体験するということは、自らをその風土の中に住まわせてみる、それも単なる観光客としてではなく、構想力においてその風土を構成する生きた住民となり、その風土において自己を風土化した人間となって、その風土を思いやるということである。(略)

 現実に与えられている事実的データを「結果」として前提し、それに対する何らかの「原因」を仮定して、この原因からの因果連関的・説明的な推論を行って、それが現在与えられている結果と一致した場合に、事態が解明されたものとみなす方法は、例えば自然科学的医学における病因論的診断に際して常用される方法である。

 例えば、左半身に運動麻痺が生じている場合、大脳右半球の病変という原因を仮定すれば、これが運動神経の伝導路の交叉によって裏付けられた因果連関的推論によって、左側半身麻痺という結果を完全に説明できるが故に、ここで病変の局所診断が可能となる。さらにその場合、血圧とか、眼底所見とか、脳脊髄液の所見とかのいくつかのデータが結果として前提され、それに応じて、大脳の一定箇所における出血による組織破壊というような原因の推定を許すならば、病因論的診断はますます確実になる。

 或る風土の成立の事情を、自然科学的に説明しようとする態度は、この医学的診断法の態度と同一である。(略)

 これに対して、風土の発生的了解に際してとられる態度は全く異なったものである。風土は全体として一挙に与えられ、しかもこの与えられ方それ自体の中に、それの成立の事情もまた、直観的に与えられている。

 この場合にも、その風土に関する経験が豊かになれば、それだけこの直観も確かなものとなるけれども、それは、データの豊富さに伴って精密度を増す自然科学的推理の場合とは異なった意味においてである。つまりそれは、構想力の可能性を増大せしめることによってである。

 したがって、このような直観は、出発点となる構想力の優秀さの度合いによって、つまり、それを見る人物の眼力の程度によって、大きく左右されることになる。(略)

 風土とは、説明されるべきものではなくて了解されるべきものである。それは何らかの原因に基づく結果ではなくて、現在の風土のあり方それ自体の中に見出すことのできる何らかの契機の意味的連関における表現である。
 木村敏(びん)著『人と人との間』(弘文堂)94~101頁

 これについての私の考えは以下のとおりです。

 ここで木村さんは「自然科学的因果連関の説明」に対比して「文化科学的歴史科学的了解による把握」を説明しているのです。氏による対比を整理すると次のようになると思います。

 自然科学的・因果連関の説明的推理・局所診断

 文化科学的(追体験=了解)・内的連関の感取
             =把握・全体の直観・構想力

 このように整理すると分かる事は、まず対比が完全でないということです。構想力に対応する自然科学的知力が述べられていません。それと同時に「全体の直観」に対して「局所診断」と言われていますが、この「診断」の認識方法が述べられていません。

 これを私の推測で補って完成させると、両者の違いは結局は「部分の分析的認識(悟性)」と「全体の直観(構想力)」の違いということになるのだと思います。

 これくらいの事なら大して新しくもありません。要するに、理性主義に対するロマン主義です。従って、この問題は既にヘーゲルが答えています。ヘーゲルを理解できない人達が形を変えていろいろな説を立てているだけだと思います。

 もう少し丁寧に検討してみましょう。

 「了解」は「因果連関を求める説明」と対比されて「自らを表現している生そのものの内的連関の追体験による把握」とされています。しかし、両者はどこがどう違うのでしょうか。

 まず、結果としての(所与の事実の)「説明」と「把握」とはどう違うのでしょうか。同じだと思います。だからやはり自然科学だろうと文化科学だろうと「科学の目的は事実の説明」なのです。

 では、その説明の仕方はどう違うのでしょうか。一方は「自然科学的因果連関」とされています。因果連関に自然科学的とそうでないのとがあるのでしょうか。ないと思います。

 つまり因果連関で説明するのが自然科学だと言うのです。まず、ここに既に問題があります。自然科学は因果連関だけではありません。相互作用もあります。生物学では目的関係も使われます。

 それに対して歴史科学では「追体験」という方法を使うのだそうです。対象が人間的な事実である以上、追体験を方法にするのは当たり前です。問題はその追体験の中身です。この追体験は自然科学における実験や観察とどう違うのでしょうか。社会生活(政治や会社の活動)でのすべての政策や事業は実験という意味を持っていますが、それは自然科学の実験とどう違うのでしょうか。

 追体験では追体験する人はこれまでのすべての経験を踏まえています。その追体験とやらは漠然と「感じる」だけのもののようです。それなら、それは芸術ではありえても科学ではないと思います。科学は概念で定式化しなければなりません。「或る心的現象が他の心的現象から発生して来る意味連関」と言いますが、それは「因果連関」とどう違うのでしょうか。

 それは「局所診断(分析)」か「全体の直観」かの違いのようです。この両者は確かに違いますが、それは自然科学と文化科学の違いでしょうか。自然科学の場合でも、新しい理論などに気づく場合、「全体の直観」が大きな役割を果たしています。むしろたいていの場合、答えは直観的にひらめくものです。それを証明するために観察し実験しデータを集めるのです。そもそも完全な「全体」などというものは人間には無理です。

 木村氏のおかしさは、「完全な説明」を与えた「局所診断」の後に更にデータが加わって「ますます確実な診断」がなされるなどと言っている所によく出ていると思います。

 たしかに分析的自然科学もありますが全体的自然科学もあります。全体的文化科学もありますが分析的文化科学もあります。学者の方法の違いにすぎないと思います。

 新しい用語で何か新しい事を言ったつもりになるのは科学ではありません。これまでの用語との関係をきちんと説明するべきです。そもそも「了解」と訳されているドイツ語は Verstehen(フェアシュテーエン、理解)です。これをこれまで通り「理解」と訳したらどこが拙いのでしょうか。

 ヘーゲル学の中でもヘーゲルの Wissenschaft (ヴィッセンシャフト)という単語を「学」とか「学問」と訳すことで何かを説明したつもりの人が多いです。

 私は「科学」でいいと思っています。これまで「科学」と呼ばれてきたもの、あるいは普通に科学と呼ばれているものの、これまで理解されていなかった本性を明らかにしたのですから、対象を指示する単語としてはこれまでと同じ単語を使わなければ分からないのではないでしょうか。それについての理解の違いは述語の中に示されるのであり、文章全体の中で表現されるのです。

 実際、ヘーゲルの Wissenschaft を「学」とか「学問」と訳して満足している人の中にはヘーゲル哲学の分かっている人は一人もいないと思います。

 「実存」という単語についてもいつもそう思います。これは人間のことなのですが、その人間を「実存」として捉える考え方に立って見た時の人間のことなのです。ですから、人間をどう捉えるかが問題になっている所では、対象を指示する語としては「人間」を使い、その人間とは何かを文章全体で説明して、そのまとめとして実存という語を使えば好いと思います。

 イエス・キリストにしても同じです。この言葉は、「イエス(ナザレのイエス、つまり歴史上の個人)がキリスト(旧約聖書で予言された救い主)である」ということを前提して、それを認めた表現です。だから、ユダヤ教徒はこの言葉を使いません。彼らはイエスをキリストと認めていないからです。

 だから、イエスがキリストであるか否かを論じている時に、イエス・キリストという言葉を使うのは学問的に間違いなのです。そこで問題になっている対象はイエスなのだから、ただイエスと言うべきです。

 単語の意味は大きく分けて2つあります。1つはその信号対象のことであり、もう1つはその対象についての理解のことです。この事を正確に理解したいものです。詳しくは「辞書の辞書」(拙著『生活のなかの哲学』に所収)に書きました。

綱領

2006年12月11日 | カ行
 綱領という日本語は「プログラム」の訳語として作られた言葉だと思います。

 プロというのは「前」を意味する接頭語であり、グラムは「素描」を意味するギリシャ語の「グランマ」に由来するようです。

 従って、プログラムとは「前以って素描されたもの」のことであり、活動方針大綱とか計画書の意となります。そこには「当面の活動方針」である「戦術」まで記される場合もありますが、それは起草者の自由であり、綱領の「戦略」としての性格を否定するものではありません。

 漢語の綱は「つな」、つまり要点の意を持ち、領は「えりくび」、つまり要点の意です。従って両語とも根本ということであり、プログラムの訳語として半分くらいの適訳と評すべきでしょう。

 共産党の評価では、「綱領があるから(綱領に賛成できないから)」と言って、協力を否定する政治家がいますが、政党の根本的性格は綱領ではなく規約に出ているから、規約で判断するべきだと思います。共産党の規約を理論的に検討したものは牧野紀之の「日本共産党規約評注」(「ヘーゲル的社会主義」に所収)だけではないでしょうか。

  参考

 01、私の信念によれば、党を堕落させるものであるがゆえに絶対に受け入れてはならないような綱領は、たとえ外交辞令としての沈黙によってでも承認するようなことはしない、というのが私の義務です。

 現実の運動の一歩一歩は1ダースの綱領よりも重要です。だから、もしアイゼナッハ綱領以上に出ることが出来なかったのなら、そして今の情勢では、それを出ることは許されなかったのですが、それならただ共同の敵に対する行動協定だけを結ぶべきでした。(マルクスからブラッケへの手紙、1875年05月05日)

 02、社会主義者の綱領は、その言葉を初めて意味あるものにする当の条件について何も語らないというような、ブルジョア的な言い方を許してはならない。(マルクス「ドイツ労働者党綱領評注」第1章)

 03、全体としてこの部分〔エルフルト綱領草案の趣意文の部分〕は、相容れない2つの事柄を結びつけようとしているのが拙い。即ち、綱領であると同時にその綱領の注解でもあろうとしているのが拙い。簡潔かつ的確に述べただけでは意味が十分には分らないだろうと気づかって、解説を入れているのだが、そのために文章が冗漫でだらけたものになってしまった。

 私の考えでは、綱領は出来るだけ短かくし、用語は厳密を期すべきである。たとえ外国語が出てきたり、一見しただけではその意義が完全にはつかめないような文が出てくるとしても、それで構わない。その場合は、集会での口頭の講義や新聞雑誌といった文書での説明で補えばよい。そして、その時、短くて含蓄のある文章は、ひとたび理解されるや、記憶の中にしっかりと根を下ろして合言葉になる。

 ところが、冗漫な叙述ではこうは行かない。大衆的であろうとするために、余りにも多くの事を犠牲にしてはならない。(エンゲルス「1891年の社会民主党綱領草案の批判」第1章)

 04、社会主義的綱領を掲げるのに必要な3つの条件、即ち終局目標についての明瞭な思想、この目標に導く道の正しい理解、現時点における真の事態とこの時点における当面の任務についての正確な考え(レーニン邦訳全集第6巻209頁)

 05、ともかくも、綱領は社会民主党の見解の公式の全党的な表明であるが、注解はすべて、必然的に、あれこれの個々の社会民主主義者の多少とも個人的な見解である。だから、この問題に関する我々の政策のより一般的な命題は綱領に持ち込み、注解の中では、例えば切り取り地のような部分的な方策や個々の要求を展開する方が、より合理的ではないだろうか。(レーニン『邦訳全集』第8巻、245頁)

 06、これに対して我々は、綱領と戦術との間に絶対的な境界線を引こうとする試みは、スコラ哲学とペダンティズムに導くだけだ、と答えよう。綱領は、他の諸階級に対する労働者階級の一般的な、基本的な関係を規定するものである。戦術は、部分的で一時的な関係を規定するものである。(レーニン『邦訳全集』第10巻、159頁)

 感想
 綱領は戦略的なものだ、ということでしょう。その通り。ということは、規約とは違うということでもあります。

 07、政党の戦術というのは、その政党の政治的態度、言い換えればその政治活動の性格と傾向と方法のことである。戦術上の決議は、新しい任務に関連して、あるいは新しい政治情勢に直面して、党の政治的態度を全体として厳密に規定するために、党大会によって採用されるものである。(レーニン「2つの戦術」国民文庫14頁)


ルター

2006年12月10日 | ラ行
   参考

 01、1524年から25年にかけて、ヨーロッパのキリスト教世界を大きくゆるがせたドイツ農民戦争が勃発した。

 主として南ドイツ、スイス、ボヘミアなどである。もちろん、それ以前からすでに、百年以上前から、ドイツだけでなく、ヨーロッパのあちこちで、農奴的身分に甘んじさせられてきた農民が自立の権利を求めて立ち上がっている。

 その歴史の中で、ドイツ農民戦争が特に注目に価するのは、中世西欧の農民蜂起の長い歴史の、いわば最後の頂点を形づくるからであり、いわばこれを最後に、西欧社会は中世から近代へと社会構造を変えはじめていくからであるが、もう一つ重要なのは、これが宗教改革と結びついたからである。

 というよりも、ルターほかの宗教改革は、農民たちの自主自立を求める大きな社会的なうねりの上にのっかって、その成果を宗教的にかすめ取ろうとしたものにほかならないが、しかしまた確かに、宗教改革が農民の運動に与えた影響も大きかった。

 誤解のないように一言記しておくが、ふつう「農民戦争」と呼ばれているけれども、主体は農民だけではなかった。むしろ、都市市民が封建領主に対して市民の自主自立を求めて立ち上がった運動が主体で、それと農民の運動が合流したのである。

 また、運動を思想的に指導したのは、修道士や司祭出身の者が多かった。彼らは、これまでのカトリック教会による封建的な社会の支配に疑間をいだき、都市市民や農民の自立の運動に自分も参加したのである。

 しかしその中で彼らの役割は大きかった。何故なら、何せこの時代ではまだ、何かを考えるということは、即、キリスト教信仰として考える、ということであったからである。ほかの仕方でものを考える可能性には、そもそも思いが及ばなかった。

 そういう時代であるから、キリスト教のことをよく知っている修道士や司祭が、農民、都市市民の自立の要求をキリスト教の言葉を用いて表現する作業を担ったのである。その意味で、彼らが運動の理論的指導者となった。

 いや、彼らとて、今まではあまりよく知らなかった。そこに出現したのが、マルティン・ルターの新約聖書のドイツ語訳である。

 1513年。周知のように、ギリシャ語の原典から直接当時の現代語に新約聖書の全体を訳して発行したのは、ルターのこの聖書がはじめてである。それはもちろん、キリスト教世界における新約聖書の受容と研究の歴史に巨大な一歩を画した出来事であったが、同時に、この時代の社会思想、社会を変えようとする人々の心に、実に巨大な影響を及ぼした。

 聖書は正典であった。しかし、今や、知られざる正典となっていた。人々の生きている言語に訳されなければ、人々は理解できない。ラテン語の翻訳は、微妙なところで多少原典からずれているという点には目をつぶるとしても、もはやこの時代になると、修道士や司祭でもラテン語をすらすら読むことのできる者などごく少数だった。聖書は、ごく少数の者たちの、いわば研究室の中の事柄に閉じ込められていたのである。

 そこに、ルターがいきなりドイツ語の翻訳を出版してくれた。もちろん、どんなことにも数多くの先駆者がいる。聖書翻訳についても、ルター以前の先駆者たちの仕事も評価しないといけないが、ここはそれを詳論する場ではない。そしてまた、やはり、全体をちゃんと翻訳して出版したのはこれが最初であるから、その功績は群を抜いている。

 そしてまた、ルターは、単に学問的仕事としてこれをなしたのではなく(それだけでも大したものだが)、これが宗教改革の大きな流れを作り出すだろう、ということを知って、行なったのである。

 現に大きな流れを生み出した。聖書はキリスト教の正典である。ここに書いてあることがキリスト教だ、となれば、現在のカトリック教会が主張していること、やっていることの多くは、まるで聖書とは関係のないこと、従って根拠のないことになってしまう。

 多くの人々が聖書にとびつき、むさぼるようにして読んだ。あまりに売れたので、次々と版を重ね(当時のことだから海賊版が多いが)、発行から一年間で85版を数えたという。一つ一つの版が何部ずつであったかはわからないが(有名な1513年九月の初版は三千部だっただろうと言われている)、どんなに少なく見つもっても、最初の一年で10万から20万部も売れたことになる。

 当時の人口、読書人口、当時の印刷技術(非常に発達しつつあったとはいえ)を考えれば、ものすごい売れ行きである。聖書がドイツ語世界を席巻した。そしてこのことが、ルターの思惑をはるかに超えた効果をもたらしたのである。

 つまり、聖書に書いてあることは、もちろんすべてがルターの思想に合致するわけではない。さまざまなことが書いてある。人々はこれを読んで、それぞれが、それぞれの個所から、それぞれ好きな結論を引き出す。

 今までのカトリシズムを中心とした封建社会の支配の間違っているところを、すべて、聖書の言葉にことよせて、批判しはじめる。ルターはカトリシズムを改革しようとしただけだが、人々は、カトリシズムに象徴される中世封建社会の支配秩序の全体を改革しようとした。それに聖書の翻訣が火をつけたのである。

 蛇足だが、一言つけ加えておくと、このようにルターの聖書翻訳が刺激して農民、都市市民の自立を求める運動がますます活発になったのだが、ルター自身は自分の仕事が自分の思惑を越えて広がっていくのにびっくりし、むきになって農民運動を武力的に弾圧し、押レつぶす側に加担した。

 かくして、その時点では、宗教の改革だけが生き残り、その宗教の改革を社会のもっと底から支えた人々はつぶされた、と歴史の教科書は教えてくれている。

 しかしそれは、近視眼的な解説である。この時に立ち上った農民、市民たちは殺され、つぶされたが、彼らが目指していたことは、以後の長い歴史の中で生き続け、大きく社会を作り変えていく。
 (田川健三『キリスト教思想への招待』、剄草書房、80~4頁)


 02、(ルター訳聖書のドイツ語)ルターは、思うにこれにはよほど神経を使ったのではあるまいか?

 聖書のどの個所をひろげてみてもすぐ目につくが、ルターは、原則として人名の原理を一定して、それをみだりに変ぜず、ただ2格にのみ -s を付する、という主義をとった。

 そして、格を明示するためには、べつに一定の方針は追っていないが、随時示格定冠詞をも用いている。(略)

 ルターの聖書訳は、時代からいうとずいぶん古いわけであるけれども、固有名詞の取り扱い方と、極く例外的に示格定冠詞を用いるという大局的な原則においては、大体そのままが現代のドイツ語の実態と見てよいと思う。

 400年以上も前のドイツ語でありながら、固有人名に関する限りほとんど時代によるズレが少しもないというのは不思議な事実であるように思われるかもしれないが、それにははっきりしたわけがある。

 というのは即ち、聖書の訳であるから人名はすべて外国語で、2格の -s 以外はやたらに語尾を付することができなかったという極く簡単な所に原因があるのである。

 けれども、たとえばエジプト王 Pharao (ファラオ)の如きは、ラテン語では自国の Cicero (キケロ)や Cato (カトー)と同じように2格を Pharaonis、3格を Pharaoni などと変化させる習慣があり、現にドイツ語でも代々の Pharao を Die Pharaonenと云う位であるから、聖書訳中にも Pharaonisや Pharaoni や Pharaonenを用いる可能性は十分あったのに、それらの可能性に抗して、聖書訳を完全に民衆用語の文法に拠って実施したルターの明は高く買われてよいと思う。(関口存男『冠詞』第1巻 670-680頁)

 03、ルターの訳マタイ伝12-34 の Otterngezüchte についての考証が関口氏の「定冠詞」の 382頁にあります。

 04、Und wenn die Welt voll Teufel wär', / Es soll uns doch gelingen!(世はたとえ悪魔に満ちてあらむとも、我が事成らで何とかはせむ)

 説明・ドイツという国はヨーロッパの一番真中にあって、思想醗酵の温床、思想沸騰の坩堝、思想化成のHexenkessel [魔女の鍋] をなしている。従って、いつの世にも乱れている。そして、何か腹に1物を孕んで呻吟している。

 その1物がやがてエイと気合をかけてひり出されると、そのために世界が真2つに割れる。まずマルチン・ルッテルという梃でも動かぬ大胆不敵の坊主が飛び出して、そのためにキリスト教世界が旧教と新教とに割れてしまったのが、今を去る500年前の話。それから、カール・マルクスという男が飛び出して、現在の世界が東と西に分かれる出立点を作ってしまったのが前世紀の話。それからヒトラーという男が飛び出して、我々を現在のような状態に陥れてしまったのは、あまりにも生々しい最近の事実故、改めて述べるまでもない。

 改めて述べる必要のあるのは、むしろルッテルであると思う。早速、語学的見地から断っておくが、Lutherの発音は「ルッテル」である。俗間、往々「ルーテル」と言われているのは、発音の誤り。

 いわゆるドイツ式な行き方という奴、即ち何か1つの重大な真理を発見したが最後、その真理がその人に乗り移って、その人をいわば「思想の鬼」と化し、1世を相手取っても初志を貫かねばおかぬという梃でも動かぬ意地っ張りにまで叩き上げてしまうという行き方 - この行き方の最初の例を開いたのがこのマルチン・ルッテル博士という人物である。

 性格はわが国の日蓮を2乗して進入を掛けたようなところがある。両方とも青筋たって湯気たった糞坊主であるが、その腹と、その学識、その智力の複雑さはもちろん比較にならない。

 天に挑み地に挑むその意地っ張り(der Trotzと言うが、この「何糞ッ!」「なにをッ?」という心構え、これがあらゆるドイツ式なるものの本質である)に対して、ドイツ人が如何に心から共鳴しているかということは、ルッテルの言の中で最も度々引用されるのが(その賛美歌"Eine feste Burg ist unser Gott" の中の)上の詩句であるのを見ても分かる。

 この dochに「なに糞ッ!」という意味と力とがこもっている。つまり、千万人といえども我行かん、というだけの事にすぎないのであるが、ドイツ人の心にはこの何でもない言葉が、非常にピッタリ来るのである。

 こういう有名な通り言葉というやつは1種微妙なものである。それ自体としては、具体的には別に何の意味もないと言える。ところが、何百年かの間何億、何百億という人間が、あらゆる機会に何度も口に唱えると、それらの無数の人間の気持ちが乗り移って内部に蓄積するというか、その電圧は呻りを発するほどの量に達し、これを口に唱える者の胸には、何か~ちょっとコウ理屈では説明できない異様な興奮が腹の底に動くのである(基礎ドイツ語昭和27年5月号)



冷笑

2006年12月09日 | ラ行

 1、元は「シニカル」「シニスム」の訳語として生まれたのではあるまいか。

 2、「シニカル」という語は古代ギリシャの哲学上の一派「キュニク派」から生まれました。

 その代表者であるディオゲネスは「犬のディオゲネス」とも言われ、外的条件に左右されない幸福を求めるところから、現実社会の一切のしきたりや制度や権威を無視するようになりました。儒者に似ている面があるので「犬儒派」とも言われます。

 3、アレクサンダー大王がディオゲネスの噂を聞いて会いに来て、「何か欲しいものはないか」と聞いた時、答えて曰く。「そこをどけ。お前のために日が陰る」。

 王様が訪ねてきたのにこういう態度を取ることは普通はありません。そこで、誰でもが認めるような普遍的な価値すらも「せせら笑い」「冷笑する」ような態度を「シニカル」と言うようになりました。

 4、冷笑を「あざ笑うこと」と説明している辞書もありますが、不正確だと思います。それは嘲笑です。

 5、「シニカル」を「皮肉な」と訳す人がいますが間違いだと思います。「皮肉」とは「所期の目的に反するような結果に終わる」ような事を言います。

 「ソクラテスの皮肉」と言われているのは、相手を智者と認めて出発しながら最後には相手が無智者であることを暴露するように持っていくことです。

 つまり皮肉は弁証法的な論理構造を持っているのです。又、形容する言葉を比べてみても、「痛烈な皮肉」とは言いますが「痛烈な冷笑」とは言いません。

   用例

(1) 緒方は変った男である。いろんな女とのつきあいも少なくないらしいし、それにほとんどの女に対して、いつも斜めから見ているような冷笑的な態度をとっていた。英子に対しても、それは例外ではなかった。

 だが、信介は緒方のそんな偽悪的な口調の陰に、むしろ女に対して過大な期待を抱きながら、それを表面に現わすまいとしている彼の内心をうすうす感じとっていたのだ。緒方は英子のことが好きなのだ、と信介と一種の確信をもって考えた。
 (五木『青春の門』自立篇)

(2) 「こんな事を言ふ資格はないけど」と、ここまでは照れくささうなシニックな表情で、そしてこのさきは律儀な顔になって、「でもね、友達として言ふんだが、あれはよせよ」
 (丸谷才一『女ざかり』)

(3) シドニーは今、街中がうかれている。オリンピックの喧騒を嫌って、期間中はシドニーを脱出するシニカルなグループもいるが、大半はお祭り好きのオージーで、その熱気には圧倒される。
 (朝日、2000,09,18,弘兼憲史)


          関連項目

皮肉


実在論

2006年12月07日 | サ行
 1、Realismus の訳語。ここでは芸術理論としてのリアリズムは論外とします。

 哲学での実在論には三義あります。

 第一は唯物論のことで、これは観念論の立場に立つ人達が使うことが多い。それは唯物論と観念論の対立をあいまいにしようとしてわざと不正確な言葉を使うという感じすらします。現在で実在論という言葉が使われる場合は、この用法がもっとも多い。

 2、第二は中世のスコラ哲学の世界での普遍論争で使われた用語法です。ここでは実在論(実然論とも言う)と名目論(唯名論とも言う)とが対立しました。

 この論争は例えばイヌ一般は(それとして)実在するか、それとも個々のイヌだけが実在する(イヌ一般は実在しない)のか、ということです。前者を実在論と言います。「普遍はそれとして実在する」と考える考え方のことです。プラトンのイデアなどはそういうものの例です。

 後者が名目論です。「実在するのは個物だけで、普遍はそれとしては存在しない」と考える考え方です。

 では、その時、普遍はどうなるのかで二派に分かれます。「普遍は全然存在しない」とするのが当時の名目論であした。普遍とは「声として発せられた風」にすぎない、というのです。

 現在は、たいていの人は「個物の中に普遍が含まれている」と考えです。これは悟性的な個別・普遍観と言うことができます。

 この個物と普遍の関係を本当に解決したのはヘーゲルです。特殊を入れて個別・特殊・普遍の関係として考え、かつ感覚の立場と概念の立場と二重の観点から考えて解決しました。
 (牧野「昭和元禄と哲学」参照)。

 3、第三は特殊ヘーゲル的な実在論概念です。ここでもヘーゲルは実在論と観念論とを対にして理解していましたが、実在する事物(個物でも普遍でもよい)を自立した絶対的な存在と見る見方のことです。

 逆に、ヘーゲルのいう観念論とは、実在する事物(個物でも普遍でもよい)を自立した絶対的な存在とは見ないで、絶対的な存在の契機と見る見方のことです。従って、ヘーゲルは哲学というのは哲学である限り、観念論でしかありえない、と主張しました。

   参考

 (1) 哲学的観念論はまさに有限なものを真に存在するものとは認めない点に存する。(略)有限な定存在そのものに真の存在、終極的で絶対的な存在を許す哲学は哲学の名に値しない。
 (ヘーゲル『大論理学』一四五頁)

 (2) 観念論はあるがままの事物を絶対的なものとは取らないが、実在論は事物がたんに有限性の形式の中にしかない時でさえ、それを絶対的なものと宣言する。

 動物でさえ既にこのような実在論哲学を持っていない。なぜなら、動物は事物を食べるが、そのことでその事物が絶対的に自立してはいないことを証明しているからである。
 (ヘーゲル『法の哲学』第44節への付録)

太い

2006年12月06日 | ハ行
 1、厚い本ないし大部な本を「太い本」と評する人がいます。立派な大学に通っている学生でもそういう言い方をする人がいます。これはかなり普遍的な現象のようです。

 これはやはり間違いではないでしょうか。本は「厚い本」とか「分厚い本」とか「大部な本」くらいだと思います。

 2、「太い」の説明を辞書で見ますと、それは第1に、円柱状のものの断面の大きいこと、第2に、面状のものの幅が広いこと、とあります。

 3、使い方の例としては、太い丸太、首が太い、太い糸、太帯、太い線、などであり、比喩的な言い方の例としては、太いパイプを持っているとか、肝っ玉が太い、太い奴、などがあります。

板倉聖宣と仮説実験授業(その1)

2006年12月05日 | ア行
この小論文は今年の9月頃、板倉さんたちの仮説実験授業の機関誌的な雑誌である「たのしい授業」に電話をした上で送ったのですが、返事もなく、掲載されないようです。とても意外でした。理由は聞く気もしません。よってここに掲載します。(2005,11,24)

 最近、遅ればせながら、板倉聖宣(きよのぶ)氏(1930~)の仮説実験授業について関心を持ち、少し読んでみました。膨大な著作群ですので、全部を読むことは出来ませんが、10冊くらいは読んだと思います。従って、以下の感想はこの少ない資料にあたった限りでのものです。事実誤認とか間違いを指摘されたらいつでも訂正します。

 板倉氏は「皆悉(かいしつ)主義」と言って、或るテーマに取り組むときにはそれに関する資料を古本屋巡りなどをして全て集め、それらを全て読んで考えるそうですが、私にはそういう事はできません。もっとも板倉氏のその皆悉主義も、私の専門とする哲学なり唯物論なり弁証法なりについての発言をみると、必ずしも実行されていないようです。まあ、最後に載せました板倉語録にありますように「1割許容の原理」ですから、少しくらいの欠陥は互いにうるさく言うのはよしたいと思います。

 それはともかく、私の特徴は、「少ない資料でも考える力」にあると思っていますので、問題提起にはなると思います。と言いますのも、板倉氏の定年退職にあたって支持者たちがまとめた『板倉聖宣、その人と仕事』(つばさ書房、1995)を見てみましても、板倉氏の仕事の意義と限界をきちんと指摘できた人は1人もいないと思われるからです。

 実際、関口存男(つぎお)さんが亡くなった時にも直弟子たちは『関口存男の生涯と業績』(三修社)という追悼文集を出しましたが、それは関口さんの業績の批判的・創造的継承をしないことの言い訳でしかありませんでした。偉い人の直弟子などというものはたいていこういうものです。例外はプラトンの弟子のアリストテレスとフロイドの弟子のユンクくらいでしょうか。本当の弟子ないし後継者はたいてい直接的な関係を持たない人です。カントの真の後継者はヘーゲルでした。ヘーゲルの真の後継者はマルクスでした。いずれも直弟子ではありません。

 全体として、氏の業績は素晴らしいもので、その実績に相応しい名声と評価を得ていないと思いました。職が研究所の所員だったこともあるし、理科教育の革新が中心だったので主として理科教師の間で知られ評価されていたということもあるのかもしれません。

 まず経歴を振り返ります。

 元々偏見のない人だったようですが、学生運動に関係するなかで、その非科学的性格に疑念を持ったようです。そこで、「科学的な考え方ないし態度はどうしたら育てられるか」という問題意識を持ち、それを終生(といってもまだご健在ですが)追求することになったようです。

 東大に在職している教授たちより三浦つとむ氏や武谷三男氏や小倉金之助氏の著書に触れて方向が固まったようです。科学史を研究して「科学的思考の成立過程」を研究することになったようです。

 国立教育研究所(当時)に就職してから或るきっかけで理科教育と関わるようになり、結果として「仮説実験授業」というものを生み出すことになりました。

 その「科学的思考」は自然科学においてだけではなくその他のあらゆる学問領域(教科)でも同じだということで、対象を社会科学などにも広げたようです。

 学校教師たちと一緒に仕事をすることになり、元々学生時代から会を作って活動してきた経歴もあり、氏の仕事は組織的なものとなり運動となりました。初めは「仮説実験授業研究会」とかいった名でやっていたようですが、いつからか、その根本の精神を捉えて「たのしい授業学派」と名乗るようになったようです。

 定年退職してからは、私立の研究室みたいなものを設立して今でも活動しているようです。HPを探したのですが、見つからなかったので、詳しいことは知りませんが、最低でも、氏の創刊した『たのしい授業』(仮説社)という雑誌は今でも出ているようです。

 次に氏の大きな業績について考えてみます。

 氏の仮説実験授業はなぜ大きな成果を挙げたのでしょうか。それは、理論的には、「個体発生は系統発生を繰り返す」という法則を具体化したものになっているからだと思います。私の読んだ範囲の著書にはこの言葉が出てこないのが不思議なのですが、板倉さんたちはこの法則を自覚していないのでしょうか。

 子どもが大人になっていく過程、つまり成長とか学習とか教育というのは、系統発生を純化した形で受け継ぐ過程ですから、この法則を具体化した授業が成果を上げたのは考えてみれば当たり前だと思います。

 ですから、偶然とはいえ、科学史の研究家である板倉さんが理科教育に取り組んだことはとても幸運な事だったと思います。

 しかも、教師にとっての当然の大前提でありながら、実際には必ずしも満たされていない「教育への熱意」というものが板倉さん(たち)にはありました。ですから、その個々の内容も本当に生徒が夢中になるようなものになったのだと思います。

 第2点として挙げたいことは、氏はこの授業を「誰でも出来るように」ということで、授業書というものにまとめたことです。これが、例えば大村はま氏の国語の授業のように、「本人ないしそれと同程度の実力のある人でなければできない授業」との大きな違いだと思います。授業形態としても、仮説実験授業の方は一斉授業で、大村氏のものは個別指導だという違いがあります。

 氏は科学的精神に満ちた人で自分の直面した問題から逃げることなく研究し自分なりの答えを出していったと思います。

 実験概念の革新もその成果の1つです。板倉さんの実験概念は、「自然であれ社会であれ、対象に対する正しい認識を得るために、対象に対して、予想・仮説をもって目的意識的に問い掛けること」(『新哲学入門』仮説社、1990、40頁)です。しかし、これも、氏自身は必ずしも自覚していないようですが、従来の概念(人間の行動ないし目的意識概念)を純化したものです。つまり、人間は何かの行動をするとき、必ず意識的・半意識的・無意識的に目的(こうしたらこうなるだろうという予想)を持っていますが、仮説実験授業では生徒に個々の場面でその予想を自覚的に立てさせて、しかも議論をさせてから実験をした、ということです。

 氏の確認した事柄(私はほとんど正しいと思いますので、敢えて言うならば、真理)は沢山ありますが、そのほかに「誤謬の意義を認めたこと」(『科学と方法』季節社、1969、70頁など)と「教師の指導性と生徒の自発性の矛盾を解決する道を発見したこと」の2点を挙げておきましょう。

 氏は「誤謬が一面合理性をもち、なおかつ真理ではないということの弁証法的認識」ということを主張し(『科学と方法』季節社、1969、67頁)と言い、それを実行して「私の力学史の特色は、アリストテレスやスコラ学派などの『まちがった』力学理論をも馬鹿にせず、その認識の根拠、失敗の理由を詳しく追求したことにある」(『科学の形成と論理』季節社、1973、 248頁)と述べています。

又、「授業科学の『生徒の自発性と教師の指導性の矛盾』に話をもどすと、つまりこういうことになる。『理想的な授業というのは、生徒の自由な活動にある種の束縛を与えて教師の指導性を発揮することがかえって生徒の自発性をよびおこし、その自由な発想をトコトンつきつめさせることによって教師の指導性を高めることができるような、そういう授業ではないか』というのである。最初の問題は生徒たちから出させずに教師の側からえりすぐった問題(予想の選択肢を含む)を与える。そして、その選択肢をえらばせたあとの討論は、全く生徒の自由にまかせ、そのあと、実験を行なって討論をしめくくる。そして一連の問題がすんだあとで、生徒たちに問題を作らせるようなこともする。・・こういう仮説実験授業の展開
の仕方は、まさに生徒の自発性と教師の指導性との矛盾(どちらか一方の側から見れば、自由と束縛の矛盾、おしつけと放任の矛盾)の構造を意識的にトコトン活用したものに他ならないのである。(同上書、 265~ 7頁)

 氏の活動が個人的なものではなく或る種の運動になったことは先に述べましたが、その中でも新しい事を実行して成果を挙げたと思います。

 私の興味を引いた事としては、「分からない事は分からないと言おう」というスローガンがあります。こんな当たり前の事でも、学者や教員の実情を知っている人なら、なかなか実行されておらず、大切な事だと認めると思います。

 次には、「質問には答える義務」です。これは、東京数学会社設立の主唱者の一人で初代の社長であった神田孝平氏(1830~1898)が「東京数学会社雑誌第1号題言」〔これは数学の大衆化の主張です〕に書いた6つの規範の第2項にあります。曰く、「各人が質問を受けた時は必ず答えること」。

 板倉さんによると、社則第9条には、次のような事も書かれているそうです。

 「本社は数理を研究するがために設けたるものなれば,数学を教授することを為さずと雖も,社員は勿論広く世間の質問に応じ之れが答弁を為すべし。質問の事項通常なるものは常務委員之を担当し60日を限り之を答弁なし、其事項高論なるものは広く社員に通知し其答を募り、90日間を限り質疑者に答うべし。其理深遠にして解し難きものは広く宇内の数理大家に解義を請うて質疑者に答うることあるべし。」

 質問に答えない、あるいは真面目に答えないNHKのドイツ語講師たちを見ていると、本当にこの精神は大切だと思います。

 因みに、関口存男(つぎお)さんは、敗戦後、疎開先で民主主義を教える芝居を作って指導した時、その芝居の題名を「争へ! 但し怒るべからず」としたようです。「感情的にならずに議論すること」、これが民主主義の根本精神であり、人間を成長させるのだということでしょう。議論のないどころか、議論から逃げて逃げて逃げ回っている日本の教師たちを見ていると、関口さんの言葉はますます新鮮だと思います。(つづく)


板倉聖宣と仮説実験授業(その2)

2006年12月05日 | ア行

 最後に、板倉さんの限界について触れます。断っておきますが、これは板倉さんの業績を否定するものでもなければ小さくするものでもありません。人間は誰でも有限ですから、限界があるということです。その限界を正しく自覚しておきたいものです。そして、限界は意義と結びついているのです。

 氏の成功の前提は自分の活動を「社会変革の基礎」に限定したことだと思います。『科学と仮説』(野火書房、1971、のち仮説社)には、「自然弁証法研究会以来のテーマである『科学的な考え方』とか科学的精神というものを子どもたちに知らせて、日本人の思想改革、社会変革の基礎にしたいと願って、これらの本を書いたのである」( 240頁)という言葉があります。

ここで注意するべきは、社会変革の「基礎」という言葉だと思います。つまり、氏は,社会変革そのものは(敢えて言うならば)避けて、社会変革の「基礎」に自分の活動を限定したのです。これが氏の活動の成功の根本前提だったと思います。反面教師として日教組が「教育活動そのものを通して政治そのものを変革しようとして失敗したこと」を考えればこれの意義は分かると思います。

原理的に、教育で政治を変えることは出来ないのです。政治を変えうるのは政治だけです(同類のものは同類のものとのみ関係する)。政治を変えるには政治家になるしかないのです。板倉さんは、本能的にこのような不可能な事を避けたようです。「〔国立教育〕研究所には文部省と日教組の対立にまきこまれることを極度におそれる風潮が支配的であるように思われた」(同書、 232頁)と書いています。そして、テーマの選択でも無駄な軋轢は生まないように振る舞ったようです。

しかし、このことは同時に氏の活動の限界ともなりました。結局、氏の活動は主として小中学校の教師たちの間ではかなりの運動となり成果を挙げたようですが、社会変革にはなりませんでした。

私はこの事を「悪い」と言うのではありません。人間には性格や才能があるのです。向かない事柄には関わらない方が賢明だと思います。もちろん玉砕する人生もその人の性格ならそれでいいと思います。人の生き方はその人が決めることです。但し、自分の活動を過大評価しないことです(大村はま氏の国語教育も、氏の心の中にはより良い社会になってほしいという気持ちはもちろんあったでしょうが、直接的には、国語教育の外の事柄には関係しないで美しい箱庭作りに専念した点に、成功の根本前提があり、又限界もあったのだと思います)。

 板倉さんは政治には向かなかったと思います。学生運動に関わったそうですが、どういう運動(テーマ)にどう関わったかは具体的に書いていません。早々と「運動そのもの」からは身を引いて、「ながいあいだの学生運動や政治運動を見守る中で」(『科学と仮説』野火書房、 224頁)、つまり政治運動そのものは「見守る」だけで、自分の活動は社会変革の「基礎」に限定したようです。そして、終生(今までの所)そこから出ていくことはなかったようです。

 私は、共産党という言葉を出して政治を論じるか否かを、その人の政治性を判断する1つの基準にしているのですが、板倉さんもその単語を口にしない人です。政治には不向きな人だったのだと思います。

 この事はいくつかの間違いないし不明確さと結びついたと思います。

 第1に、「体制」とか「反体制」とかの用語の使い方が不明確だと思います。

 ──いまの若い人々〔全共闘系の学生や青年のことでしょう〕は、「科学技術の全面的な体制化」ということと、自分たちが科学者や技術者として体制化せざるを得ないということとを混同しているように思われてなりません。反体制を標榜するにしても,そのとき最大の武器になるのは科学や技術であることを忘れてはならない筈です。それは体制下にある一面的な科学技術ではなく、もっと多くの人々の要求する現実の課題に適合した科学技術でなければなりません。すでに体制化されている科学や技術を疑い、批判し、呪うことはかまいませんが、そのかわりに自分たちの科学技術をもたなければならない筈です。そのとき、いかにして考えたらよいか、いかにして自由で創造的な研究を生みだしていくかという問題に対してヒントを見出すために、私はこれまで科学史の研究をしてきたのです。

 最近はさらに、科学というものは根元的にいって体制的・資本主義的なものだという主張も行なわれているようです。それが、分科し分断された科学に対する総合的な哲学的な視野の重要性を説くものであれば私も賛成です。けれども、複雑多岐な現実のなかから、解明しうる問題だけをとりだして解決してきた科学的探究の手法そのものを否定することには断じて賛成することはできません。直観的独断におちいらないためには、私たちは、科学的な研究を大切にしなければならないのです。科学そのものが呪われるとき、それこそおそるべき権威主義・ファシズムがさかえることになるでしょう。(『科学と社会』季節社、1971、 310頁)

ここにも出てきますが、新旧の左翼の人達の言う「体制」とは「資本主義体制」のことです。そういう人達は、事実上、社会主義体制(現実のそれ、あるいは自分たちの理想とするそれ)に対しては「体制的」とは言わず、批判もしません。もう少し身近な事を考えますと、現存する社会の在り方には批判的でも自分たちの運動や組織や幹部に対しては無批判的です。こういう考え方をきちんと批判するには、資本主義体制を体制と言ったり、自分たちの実践だけを実践と言ったりする用語法から反省しなければならないでしょうが、板倉さんにはそういう自覚がどれだけあったのでしょうか(小泉首相が自分の民営化を民営化一般と意図的に言いくるめ、自分の改革とやらだけを改革一般と混同して「郵政民営化に賛成か反対か」とか「改革を推進するか否か」などとごまかしているのも同じです)。

第2の不十分さは民主主義の理解や集団におけるリーダーの役割の理解の不十分性に出ていると思います。

 板倉さんの文章を読んでいると、個々の教師が仮説実験授業をすれば全て解決するかのように聞こえます。本当にそうでしょうか。板倉さんには、私の言うような、「学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである」という認識は無かったようです。

 これのとても好い証拠が中田好則氏です。氏は長年、板倉支持者であったそうですが、最後には校長になったようです。そして、『教育が生まれ変わるために』(仮説社、1999)の「あとがき」を板倉さんに代わって書いています。それが「板倉さんの考え『仮説実験授業』に助けられて」です。しかし、ここには、板倉理論を自分なりに発展的に受け継いでどういう校長理論を創り出したか、それを実践してどういう成果があったか、こういう事が全然書かれてないのです。しかも、こういう人に板倉さんは「あとがき」(に代えて)を書かせているのです。これは大きな間違いだと思います。

 板倉さんは「創造的模倣」を提唱していますが、そしてそれは正しいと思いますが(私の言う「創造的継承」と同じですから)、実際の板倉支持者は「単なる模倣者」で「創造的模倣者」ではなかったようです。ニセの後継者と言われても仕方ないでしょう。問題は板倉さんがこれに気づいていないらしいことです。それに、板倉さん自身、研究所の内部で後年は「室長」というポストに着いたようですが、室長としてそれまでの室長とどういう違った事をしてどういう成果が上がったのか、書いていないと思います。板倉さんのことですから、何かしたと思うのですが。

 哲学については観念論から出発して唯物弁証法にたどりついたようですが、日本共産党系の唯物論(タダモノ論)には飽き足らず三浦つとむ氏の「主体的唯物論」を先生に選んだようです。後には、その三浦さん自身にも不満を持つようになったそうですが、具体的な批判はほとんど発表していないと思います。板倉さんが編集した『三浦つとむ選集』の「補巻」(勁草書房)を見ても、主体的な検討はなく、ただまとめただけです。板倉さんの独創的な業績は三浦理論に触発されたことも一因ですから、板倉さんをニセの弟子と評するのは不適切だと思いますが、不十分な弟子ではあったと思います。

 板倉さんの支持者たちが創造的継承の出来なかった原因の1つに問題意識概念の不明確さがあると思います。板倉さんは「問題意識を明確に」というスローガンを掲げたようです(『板倉聖宣、その人と仕事』 185頁)が、これを私の「問題意識とは疑問文に定式化したものだけを言う」という定式と比較してみれば、板倉さんの定式の不明確さは明らかでしょう。

 そのため、例えば、その文集に「板倉哲学についての断章」を寄せた重弘忠晴氏は「認識や実践における主体性の問題が、最初は『自我の確立』の問題と結びついて提起された、というのである」などと書いています(17頁)が、これではどういう問題なのか、疑問文が浮かびません。ついでに、この人は「かつて新左翼だったが、板倉理論に触れてそこから脱却した」と思っているようですが、私から見ると、相変わらず新左翼です。

 そのほか、ほかでは名指しの批判をしない板倉さんが、広重徹氏からの批判に対して名を挙げて反論しているのなどは、あまり感心しません(原則としてすべて名を挙げて批判するべきだというのが私の考えです)が、大げさに言うほどの事でもないでしょう。

 又、「私たち『たのしい授業』学派だけは、『教育の主人公は子どもだ』という認識をもとに、教育にかかわる一切の束縛を排除して、未来の社会と子どもたちの求める教育の在り方を自由に研究してきたのですが、残念ながら、ほかにはそういう研究を進めてきた人びとはほとんどいないのです」(『教育が生まれ変わるために』60頁)と言っていますが、こういう自己過大評価は笑って生ませればいいことだと思います。

 しかし、認識論的に面白い事としては、或る分野で独創的な事をして成果を上げた人はとかく「自分のやり方だけが唯一絶対」と思い込む(少なくともそのように言う)傾向があるということです。なぜなのでしょうか。

 私はいろいろな健康法を学び試してみましたが、いずれも「自分の健康法が唯一絶対」ないし「万能」のような言い方をしています。しかし、私の見るところでは、どれでなければいけないとか、どれが最高とは言えないと思っています。私自身いい加減な性格ですから、種々の健康法から自分に出来るし自分に合っていると思うものをつまみ食いしています。

 しかし、このような誰にでもある欠点はともかくとして、板倉さんは本当に優れた研究者であり実践家だと思います。最後に、私が特に記憶しておきたい板倉語録を思いついたままに箇条書きにしておきます。

1、自分の年より低い人向けの科学書を読むと好い。ただし、著者が一流であること。

 感想・同じ曲でも編曲者や演奏者が一流でないと味気ないものになるのと同じではないでしょうか。同じ素材でも料理人が一流だと美味しいものになるのとも同じかな。

2、子供たちを自然のままほっぽりなげておかないというのが教育の本質。

 感想・学校も上に行けば行くほど「中学(高校、大学)は自分で勉強する所」などという、本来は自己を否定するような発言があります。学長の入学式の式辞などでも、大学の提供するサービスを話さない学長がほとんどです。学校はサービス業をしているのだという指摘を板倉さんがしてくれると良かったと思います。

 3、一割許容の原理・人間の活動において一割程度のミスは許されてしかるべきである。

 感想・私のような実証主義の精神の乏しい人間には「2割許容の原理」くらいにしてほしいです。

 4、わざと違う意見を出して議論すると新しい考え方の発見がある。

 感想・考えるということの本質がこれですから、そうなのですが、私が少しは実行してきた経験から言いますと、実際にはこれはなかなか理解されません。笑われるのを覚悟していないとできないでしょう。

 5、よく、「科学研究には先入観を排しなければいけない」などという人がいますが、これは不用意な言葉です。

 感想・これも私の「先入観をもって読む」という方法と同じです。「方法は一種の先入観なのだ」とまで言うと良かったでしょう。

 6、自分自身の頭で判断することを根底に置きながら、しかも信頼しうる専門家というものをたえず選択し、それに依拠しうるという態勢をもつこと。

 感想・素人の質問や意見をまともに受け取めない専門家は「信頼しうる専門家」ではない、と付け加えると更によかったでしょう。

 7、ある言葉(術語)がある意味をもつようになるのは一つの約束にすぎないにしても、欧米の術語を適当な日本語に移すには、その科学の深い理解を前提とするのである。

 感想・外来語を漢字で表現し直すためにその真意を考えた明治時代の人達は偉かったと思います。カタカナにして済ます昨今の風潮は困ったものです。

   (2005年08月24日)

2006年12月03日 | ア行
 1、悪の問題にはいろいろな側面があります。まず第1に、悪とは何か、つまり悪の定義の問題があります。これはもちろん同時に善の定義と結びついており、善悪の区別の問題にもなります。

 そしてこれを考える時に出てくるのが、善悪と高低と好悪の関係(異同)の問題です。これが第2の問題です。

 これらがハッキリしたとして、第3の問題は性善説と性悪説のどちらが正しいか、あるいはどちらが人間観として高いかあるいは深いかの問題です。

 最後の問題は、善悪の判断つまり価値判断の客観性の問題です。今では「価値判断は個人によって異なる主観的なものだから客観性はない」という考えが無反省に「公理」のように罷り通っていますが、それほど簡単な問題ではありません。

 2、第1の問題については、ヘーゲルは「或る事物ないし事柄が自分の概念と一致するか否か」の問題と捉えなおしました。つまり(客観的な定義における)真理の問題と同一としたのです。

 参考に掲げた2の言葉にそれが出ています。この場合は das Gute (善)とは das Wahre (真)と同じであり、 das Boese(悪)は das Schlechte(悪)と同じです(『ヘーゲル事典』弘文堂では座小田豊氏は両者は違うとしています)。

  das Falsche(偽)とは「真理の主観的理解」のレベルでの問題です。

 3、善悪と高低と好悪の異同の問題を意識的に提出して一応の答えを出している人は牧野しかいないと思います。日本人(だけではないかもしれない)は、「悪い」と思う事柄について「嫌いだ」と言うことが多いと思います。

 それはこの異同のはっきりしていない事を利用して、そして「価値判断は主観的だ」という偏見を利用して、「嫌いなものは嫌いだよ」と言って「なぜ悪いのか」という質問を封じて自分の考えを押し通そうとする非科学的な態度です。

 これらが混同されるのは、「悪」という語が「好悪」にも使われていることにも一因があります。

 「好悪」の「悪」は「にくむ」(すごく嫌いだ)という意味であって、「悪い」という意味ではありません。

 4、これらの異同の根本は次の通りです。悪は正さなければならない、あるいは賠償しなければなりません。

 低いことは例えばスポーツや学業の成績のような場合を考えれば分かるように、本人が高めたいと思うか否かです。もちろんこれにも程度があって、現に学業成績では及第点以上なら進級できるが、及第点に達しないと「悪」と同じで、進級できない(罰せられる)。

 しかしその場合でもその「罰」は「悪」の場合の「刑罰」のようなものとは違います。

 好悪は趣味の問題です。
 牧野「善悪と高低」(『ヘーゲルの修業』に所収)を参照。

 5、性善説と性悪説については、ヘーゲルはキリスト教の性悪説の方が仏教などの性善説より「高い」と言っています。

 キリスト教の性悪説は旧約聖書のアダムとイヴの神話に譬え話として語られているのですが、それの現実的な意味についてはキリスト教世界でも必ずしも深められていないようです。

 ヘーゲルの理解については牧野「子供は正直」(『生活のなかの哲学』に所収)に説明があります。

 この問題はあまり注目されていませんが、マルクス系の社会主義思想と運動の理論上の根本的な欠陥はこの問題の無自覚にあり、性善説に立つフランス社会主義と性悪説に立つドイツ古典哲学とをただちに無媒介に統一できると思い込み、そうしたつもりになっていたことにあると思います。

 6、価値判断は客観的か主観的かの議論は又、存在と価値、あるいは存在と当為、 Sei n と Sollen の問題として捉えられることが多いです。

 これは哲学の歴史と共に古いようだが、その歴史については『哲学のすすめ』(筑摩書房)のなかの「存在と価値」(橋本峰雄氏執筆)などがよくまとめているのではなかろうか。

 特に言いたいことは、マルクスの唯物史観は価値判断の客観性の立場を社会観の場面へと拡げて完成させたものだということでする。
 牧野「価値判断は主観的か」(『生活のなかの哲学』に所収)を参照。

   参考

 (1) 一般的に言うと悪の起源は神秘の中にある。即ち、自由の思弁的性格の中に、意志がその自然状態から抜け出てその自然状態に対して内的になる必然性の思弁的性格の中にある。
 (ヘ-ゲル『法の哲学』第139 節への注釈)

 (2) 「悪い」及び「真実でない」とは、事物の本性あるいは事物の概念と事物の存在とが矛盾していることである。
 (ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第24節への付録)

 (3) 他者、否定的なもの、矛盾、分裂は、精神の本性に属する。この分裂の中には苦痛の可能性が含まれている。(略)悪(現実的・自覚的に存在する無限な精神〔人間〕における否定的なもの)もまた、苦痛と同様に、外から精神に加えられるものではない。そうではなく、悪とは自己の個別性の先端に立っている精神以外の何物でもない。
 (ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第 382節への付録)

 (4) ヘ-ゲルにあっては、悪とは、歴史的発展をつき動かす力が現れる形式である。しかも、そこには次のような二つの意味がある。即ち、第1に、新しい進歩はどれも必然的に、神聖なものに対する犯罪として、死滅しつつある古い状態ではあるが習慣によって神聖なものとされている状態に対する反逆として登場する。

 第2に、階級対立が現れてからは、歴史的発展の梃子になったものはまさに利欲や支配欲といった人間の悪しき情熱であって、封建主義やフルジョアジ-の歴史がその絶え間無い優れた例である。
 (エンゲルス『フォイエルバッハ論』第3章)

2006年12月02日 | ア行
   参考

 1、自由の具体的な概念--自己を制限することの中で尚自己の元にとどまること、その感覚的な実例は友情と愛情
 (ヘ-ゲル『法の哲学』第7節への付録)

 2、神〔の本性〕を感覚的に捉えたものが「永遠の愛」である。愛とは、他者を自己自身として持つということである。
 (ヘ-ゲル『歴史における理性』)

 3、愛の中では、個人は他者を意識することによって自己を意識する。個人は自己を外化するが、この〔愛しあっている二人の〕相互的な外化の中では、個人は自己と他者を持ち、しかも他者と一体となった自分を獲得するのである。
 (ヘ-ゲル『歴史における理性』)

 4、愛は客観的にも主観的にも存在の基準であり、真理と現実の基準である。愛の無い所には真理も無い。そして、何物かを愛する人だけが何者かである。何者でもないこととと何も愛さないこととは同じである。人が多くのものであればあるだけ、その人はそれだけ多くの物事を愛しているのであり、逆もまたそうである。
 (フォイエルバッハ『将来の哲学』第35節)

5、愛、それは人間に初めて自分の外にある対象的世界を本当に信じることを教えるものであり、人間を対象にするだけでなく、対象を人間にしさえするものである。(マルクス『全集』第2卷)

 6、この西洋と東洋とにおける他者と自己の関連の考え方の違いについて、その本質を学問的に決定することは私などの任ではない。

 しかし私は日本人として西洋の文学や思想に慣れ親しんだので、その違いを考える機会を多く持った。

 私は漠然と、西洋の考え方では、他者との組み合わせの関係が安定した時に心の平安を見出す傾向が強いこと、東洋の考え方では、他者との全き平等の結びつきについて何かの躇(ためら)いが残されていることを、その差異として感じている。

 我々日本人は特に、他者に害を及ぼさない状態をもって、心の平安を得る形と考えているようである。

 「仁」とか「慈悲」という考え方には、他者を自己のように愛するというよりは、他者を自己と全く同じには愛し得ないが故に、憐れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己が抱く冷酷さを緩和する、という傾向が漂っている。

 だから私は、孔子の「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。

 他者を自己のように愛することはできない。我らの為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。

 だから男女の間の接触を理想的なものたらしめようとするとき、ヨーロッパ系の愛という言葉を使うのは、我々には、躇(ためら)われるのである。

 それは「惚れること」であり、「恋すること」、「慕うこと」である。しかし愛ではない。

 性というもっとも主我的なものをも、他者への愛というものに純化させようとする心的努力の習慣がないのだ。
 (伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫)