マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

疑う

2007年01月20日 | ア行
 1、科学的探究というものは一切を疑ってかかることから出発するのです。疑うということは否定するということではありません。結果として肯定するか否定するかは判りませんが、ともかく与えられたものを「本当にそうだろうか」「別のようには考えられないだろうか」と疑ってかかることから科学研究は出発するのです。(略)

 「疑う」ということは「考える」ということと同じなのです。かつて拙著『労働と社会』の中に書きましたように、思考の特徴は「感覚の直接性を断ち切る」ことにあるのでして、考えるとは2つ以上の可能性を比較して、どれが一番よいか、これが好いかあれが好いかと、疑って考えることだからです。こういう意識の行為を「思考」と表現するのは一般的な言い方で、「信じる」ということとの関係ではそれが「疑う」と言われるのです。
 (牧野紀之「宗教と信仰」)

 2、以上は広義の「疑う」概念ですが、狭義では「否定する」という意味ないしニュアンスで使うことも多いと思います。「懐疑論」という場合はこちらに近いと思います。懐疑論の項を見てください。

 3、哲学史上で有名なのはデカルトの「方法的懐疑」です。これは1に述べた「疑う」という事の根本的な意味と同じで、それを意識的に自分の考え方としたものです。

 デカルトは「確実な考え」を持ちたいと思った時、まずこれまで自分が無反省に正しいと思ってきた事や世間で正しいとされている事などを全て一端疑いました。そして、「どうしても否定できない事柄」を元にしてそこから「確実な考え」を築いていこうと考えました。この「方法としての懐疑」のことです。

 4、我々が生きていく時には、「何らかの信念をもって生きていく」ことも大切です。定見なくフラフラしているよりは、必ずしも証明されていない事でも、直観的に思った事でも、それを信じて(正しいと思い込んで)それを行動規範にしていった方が成功することもあります。

 では、徹底的に疑うという科学的精神は生活ないし行動にとって邪魔なものなのでしょうか。これは大問題です。この問題を解決しないと、「理論と実践の統一」の問題(両者はどう関係しているかの問題)も正しく答えられないと思います。

   参考

 (1) ただ私が私の本質から引き離すものだけが私にとって疑わしい或る物なのである。従って私は私の本質である神をどうして疑うことが出来るであろうか。私の神を疑うということは、私自身を疑うということである。
 (フォイエルバッハ『キリスト教の本質』第2章)