マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

その2

2012年01月12日 | ハ行
 05、ハイデッガーの方法

 ① ハイデッガーは「存在と時間」では1つの重要な現象を問題にする毎に必ずその諸種の副形態や姉妹形態を挙げてこれを説き証(あか)すのが常である(64頁)。

 ② ハイデッガーは、人間意識の根底において実現されるべき(können)何らかの可能性を指摘する際には必ずその本能的心理的なBefindlichkeit(気持)の現れを証拠として挙げる。Angst, Gewissen, usw. 「時間」なるものの真底を述べんとする場合もそうしている。[「退屈」を挙げている]。(101頁)

 ③ 人間という特殊な存在は、絶対に他に例を求めることが出来ないものである。かかるが故にそれを学問的に述べんとするハイデッゲルの哲学が、従来の哲学のように、人間以外の実在物の実在様式を指すために用いていたその儘の言葉を以て人間というものを述べるということをせず、人間意識の場合にのみ妥当なる語を求めて行ったのはもっともである。

 自然科学とその用語に慣れている我々は、どうもやはり外界の自然物のように、もしくは外界の自然物に類似を求めながら人間を考える癖がある。例えば、人間が「知、情、意」の3つの機能を持っていると言えば、もうすぐに人間を3つの分解可能な部分から成った機械のように想像したり、ひどくなると、その3つを「三角形」にならべて想像したりするといったようなわけである。「部分」とか「三角関係」といったような事は全て「空間」の関係であって、そんな「比較」「類推」でもって考えては、人間という現象の本質はわからない。この点では既にハイデッゲルを待つまでもなく、フランスのベルグソンが持論として凡ゆる機会に述べている事柄である。(90-1頁)

 「概念」(Begriff, Form) というものを基準に考えると、従来の哲学は、すべて、その扱う概念を1つの与えられたものとして(たとえば「主観」「客観」)、それらの概念と概念との間に生ずる諸種の問題を論じていた。

 ところが、概念というものは元来人間が勝手に造るものである。妥当ならざる概念を造れば、それが妥当ならざるその事によって諸種の妥当ならざる大問題が生じてくる。ところが、そんな妥当ならざる問題が生じないようにするには、初めっから妥当ならざる概念を造らなければ好いのである。妥当な問題のみが生ずるように、初めっから統一ある組織的な概念を造れば好い──これを実際に行ったのがハイデッゲルである。

 だから、これまでのような概念を扱いつつ哲学していたために生じて来ていたある種の問題は、新たな組織の概念の機構の中にあっては、もはや全然問題にならないといったようなことも出来て来るわけである。「主観」「客観」という言葉なぞもハイデッゲルは全然用いない。(118頁)

 06、他の哲学との関係

 ① 生の哲学との関係

  既にゲーテの『ファウスト』にも Grau, teurer Freund, ist alle Theorie, und grün des Lebens goldner Baum. と言ってあるが、Theorie[理論]というもの、従ってPhilosophie[哲学]というものはいつの間にか Lebenの反対を意味するようになり、あまりに概念のやかましい論理的な哲学は、近頃やかましく言われだした Leben[生]の立場の哲学者たちからは、あたかも血の気の通わない骸骨か何かのように言われることになった。
 反対に、たとえばリッケルトの『生の哲学』を見ると、いわゆる graue Theorie[灰色の理論]の立場から、あらゆる生の哲学者に対して言われうべき返事がすべて書き尽くされている。こういう風に、近頃の大問題は、LebenとTheorieとの対立で、頑として旧来の Theorieを守る人と、Lebensphilosophie に赴く人々との抗争が絶えない。(116-7頁)

 ② 人間学及び形而上学との関係

 ヘーゲル等のために、純粋の高遠な形而上学というものと、すぐ歴史的具体的事象に即した Anthropologie(人間学)というものとの間にある種の合流が生じたことは事実である。ハイデッゲルの哲学は、よく悪口が言われるように、具体的な歴史や歴史観を離れて「一人の人間一般」というものについて云々するという範囲において、最も極端な「形而上学」であると同時に「人間学」である(人間というのはこの場合単数である。しかも文法上いわゆる genereller Singular〔代表的単数、又は類を意味する単数〕の 'der' Menschである)。その点において、MetaphysikとAnthropologieとの合流から独立したとはいうものの、やはりその起源を己が特徴として持っていると言える。

 ──そのFreimachung[始まり]は、ハイデッゲルのつもりではもちろん人間学、形而上学の「基礎学」としての「存在論」を立てたことを言うのである。(122頁)

 ③ 唯物論批判

 1、あらゆる形而上論を無用のものとしてしまうと、後にはもう自然界、国家、社会、史実といったようなpositiv[実証的]なものばかりが残る。そして大へん「話がはっきり」して来る。おれたちは何をなすべきか(Möglichkeiten)という問題の範囲も、はっきりとブン廻しで abgrenzen(画する)することができるほど明瞭になる。──これが唯物論的な考え方である。唯物〔論〕的世界というのは、同時に「原始的」な世界、即ち凡ゆる野蛮人がそう考えている通りの世界である(迷信等をのけて考えれば)。(127頁)

 2、そうした「政治的・社会的・実証的な世界観」というものは、吾人の、外界に向かってなされる実際行動の方に全注意を傾倒せしめ、また何か実際的な目的を遂行するための意志を極度に強めるものである。そのために、そうした偏した考え方が一方において(殊に人間の哲学的方面を深めるという方で)如何なる危険(例えば人間を浅薄にする危険)を伴うものであるかということを考えさせない。そうした内面的な問題の存在を忘れないためには、ある種の「緊張力」を必要とする。その内面の緊張力という奴は、外面的な実現力とはややともすれば反比例する関係にあると言える。(127頁)

 3、政治等、外界の問題に向かって全注意を向けている人間は、いざという時には(たとえば外界の問題が無意味に終わって自己の非を悟ったような暁には)こんどは自分自身の中に引っ込むことが出来る(政治家が失敗して坊主になったりする例は古来の歴史によくあることだ)。引っ込むというのは、自分自身の主観という奴がまだ内容を持たない空虚の世界だから、そこに一身を託し、何物かを開拓する余地があろうというものである。

 ──ところが、内面の問題、人間の問題そのものを真正面の問題にしている人はそうは行かない。それが解決されなければ彼は自ら慰むるに足る他の天地がない。だから「真剣さ」が自ずと違ってこなければならない。その事を言おうとするのである。

 この辺は、一つは言葉遣いも拙いために、一寸難文になっているから気をつけてもらいたい。こういう所が征服できてはじめて凡ゆる哲学、思想の論文にぶつかるだけの頭が出来るのである。従って私自身の解釈にも、多少原著者の意を外れるようなことも全然ないとは保しがたい。言葉を超えた思想の世界、及びその表現は真に科学的な研究の対象になりうる。文学と思想との間の機微な関係はこういう難文(拙文?)を解釈する時に本当に現れるものである。(133-4頁)

 07、ハイデッガーのドイツ語
 ハイデッガーは接続法第2式を使うべき所で使わない癖がある(関口存男「接続法の詳細」 112頁) 。


   第2章、用語解説

・ausgezeichnet(本物の、生のままの)

ハイデッゲルが ausgezeichnetと称するのは genuin, echt(本物の、生のままの)の意である。ausgezeichnetes Verstehen はいわばベルグソンの直観である。即ち、「理屈」(Logos)を介しないという点が似ている。

もっと極端にハッキリ言えば、ausgezeichnetという形容詞を用いつつ、ハイデッゲルは実は schlechthinniges Verstehen, reines Verstehen 又は das Verstehen schlechthin, das Verstehen kat'exochen と言ったつもりに違いない。kat'exochen というのは、überhaupt という意をこめた ausgezeichnetの概念にあたるギリシャ語で、仏語では文字通りpar exellenceという。

 たとえば、日本人は、花といえばすぐに桜を思う。桜は即ち「花の花」である。「花の花」は変だが、「花の華」と書けばよかろう。この「華」が即ち kat'exochen, überhaupt, par exellence, ausgezeichnet で、Für die Japaner ist die Kirschblüte 'die Blüte kat'exochen' (日本人は「花は桜」と云う)とも言えないこともない。

 もっと好い例は Apfel(りんご)と Obst, Frucht (果)との関係で、Apfelは Frucht の一種であるにもかかわらず、西洋人は一寸名のわからない果物を見ると、これは何というApfelか? という。それほど Apfelは Obst kat'exochen なのである。ausgezeichnetもそのつもりで読まなければならぬ。(106-7頁)

・Auslegung(解釈)

 「与えられたるもの」の「意味するところ」を探るというのは、即ち「その真相を見極める」ことであり、それを解釈することである。(109-110頁)

・Befindlichkeit, Stimmung(気持)

ハイデッゲルが Befindlichkeitと呼んでいるものである。気持とか感情とか言ったようなものは、文学の対象でこそあれ、哲学、殊に認識論的な根本問題の対象ではあり得ないように思う人があるかもしれないが、ハイデッゲルはその正反対を主張している。彼の『実体と時間』に用いてある諸種の根本的な名称の大部分は、Sorge, Angst、その他、多少にかかわらず「気持」という色彩を根本に持っている。(88-9頁)

・bestehen──bleibt be-stehen(存し残る)、bleibt stehen(立ち止まる)。

 bestehenなるドイツ語は、語源的にラテン語の con-stareの意識的翻訳、残は移植である(1) 。従って、意味もそこから来ている。Eine Gefahr besteht(危険が存在する。危険の「事実」あり)。ここでわざわざ be-stehenと2部に分けたのは、stehenの意に気づかせるためである。

殊に面白いのは、ラテン系の諸語はみんなstare(立つ)を以て sein の意に用いている(伊 stado, スペイン estado, 仏 être)。或る物の存在に気がつくためには、それが生の現象として自然に流動している時はだめで、それが立ち止まる(stehen bleiben)必要があるものと見える。一体に、静的な(statarisch)、不動の、保守的な、立ち止まった南欧の言語が、実在(sein)と「立ち止まり」(sta-)とを一致せしめているのには、何か心理的な訳があろう。(104頁)

 (1) この辺の意味が分からない。意「識」的翻訳と「残」の引用符号の中は漢字がつぶれていて判別しにくいので、間違っている可能性もあります。

・Da-sein(「現・生」)

 01、我々人間が意識というものを中心にしてそもそもここに 現在こうして生きているという、この最も不可解な、しかも大抵の人が不思議にも思わず慣れっこになっているこの最も当たり前な現象のこと。「現にこうしている」の「現」が Da である。Da というあり方とその本質をDasein という。ハイデッガーの説は「我々のDa はまだ本当のDa ではない。これを本当のDa にするのが歴史の使命であり、哲学の使命であり、生の使命である。」ということ。(20頁)

 02、Dasein ist ein Seiendes, das je ich selbst bin.
 Dasein とは、僕なら僕、あなたならあなたという、それぞれ具体的な人の場合を場合して行く場合し方である。(36-7頁)

・Durchbruch(突破)

ハイデッゲルの哲学は、その一歩一歩が、人間の「使命」へと向かう進出であると同時に、我々自身の自我の「発掘」であり、従って「好い気になっている世間的自我」の突破(Durchbruch)である。(101頁)

・Entdecktheit von 'Welt'

これもハイデッゲルの用語。ハイデッゲルは、主観客観等の区別をわざと設けないが、分かりやすく云うためにそうした考え方をするとすれば、我々の意識が世界を「発見する」、逆に言えば、世界が我々に「既に与えられたものとして」意識の中に含まれている、これを Dasein が Welt を entdeckenすると云う。Umwelt もWelt もDa-seinなる現象の中に含まれていると考えるのである。(41頁)

・erschliessen(啓示、啓き示す)

 現象学派並びにハイデッゲルの行き方は、「論理的」に「証明」したりするのではなく、その真相を解釈することによって「啓き示す」(erschliessen)というMethode[方法]である。(110頁)

・Existenz[実存]

 01、Existenzはハイデッガーの用語法によると、Dasein〔現存在たる人間〕がDasein 自身を考えた際に、或いは哲学的考察を加えたり、或いは感じたり、或いは体験したりする、その「対象」としての Dasein の実在様式である。

 存在しながら、しかも同時にその存在が存在自身によって考えられたり、意識されたり、体験されたり、その他いろんな Verhalten(関係、態度)の自家対象になるなぞということは、石や木の存在にあっては考えられない、それは只人間の場合にあってのみ可能である。だから Existenz はその意味からして既に menschlich〔人間的〕なものである。(45頁)

02、特に「人間」の存在のみを他と区別してExistenz と呼んだのは、この箇所でほぼわかると思うが、ハイデッゲル自身は『実体と時間』では別に語学上の説明をしていないようだから、一寸私の自説を付加しておく。

 ラテン語のexsistere(又は -s を略してexistere)は、ex-(外に)sistere(立つ)の意で、原意は「出る、聳える」等である。ここに人間という「意識現象」を特徴付ける一寸面白い相がある。即ち、自然界の平等を断然「抜いて」特殊な地位を持っているという意味に取ることも出来よう。

 それから第2にはこう見ることも出来る──この方は多少勝手な解釈になるが、その代わり意味が深くなる──即ち、exsistere(外立)するとはハイデッゲルの所謂 sich vorweg sein 即ち「己れ自身を後にして前に出張っていること」、或いは「己れ自身の外に立っていること」である。これがハイデッゲルの趣旨にぴたりと合する。(90頁)

・fragen 〔問う〕

fragen するということが、そもそも Nichts そのものから発する純粋に人間的な現象だからである。(95-6頁)

・Gegenwärtigkeit[現在性]

 ごく荒っぽく、意味だけ分かるように云うとすれば Bewusstseinsnahe(意識の近く)であるが、ここは明らかにハイデッゲルのいわゆるGegenwärtigung(現在化)なるものを考えているらしい。即ち、或る事柄を、実際自分に直接関係あることとして、直接痛痒を感ずる重大事として、むきになって問題にすることを gegenwärtigenと言っている(この点に「体験」を中心にして考えた人間観が現れていると同時に、「現在」なぞという「時間」観念の根本に横たわっている存在論的根底を見ようとしているのである)。
 なおその意味をはっきりさせるとすれば、ハイデッゲルは、このgegenwärtigenという作用が sich etwas vergegenwärtigen(或る事をありありと思い浮かべる、眼前に彷彿させる、具体的に脳裏に描く)なる動詞の意味とは全然ちがったものであることを力説している。
 そうでろう、sich etwas vergegenwärtigen は sich etwas vorstellenと同じで、単に空想力のみを以てする一つの心理的努力にすぎないが、etwas gegenwärtigen という方は、「或る一事をして己が全人格の関心を独占せしめ」て、同時にそれが「現在」という時間現象の本質をなすようになるのだから、既にその存在論〔的〕重要性において随分と相違があるわけである。

 ──こういう風に、ハイデッゲルは、時間なるもの(既にベルグソンその他の人達によって時間なるものが生物の存在現象と根底的に関係したある種の「非数学的」な現象であることは嗅ぎつけられていた)をばすべて人間意識の根本的な部分(Sorge、その他)と関係させて考えている。

 これは別にハイデッゲルを待つまでもなく、例えば文法の「現在完了」とか何か言ったような問題ですらも、論理的にのみ考えてはその本質がわからなくて、これがほんとうに説明できるためには、人生、人間、人情、利害、関心、その他要するに「人間的なること」の根本がわからなければ駄目だという事は、既に頭のある文法学者の一部において認められていた。

 ──in lückenloser Gegenwärtigkeitは、だから、「時間」的に考えた「現在」という概念を先にしてはわからないので、まず、「水ももらさぬ全人的体験を以て」と考え、しかる後に、その意の Gegenwärtigkeitが数学的論理的現象に堕すると同時に、これを「現在」というのだと思えばよいのである。日本語の「現在」が好い証拠で、現にも在にも「今」という意はない、「現」は意識に最も近くて直接の関心が掛かることを示しているにすぎない。

 ──また、「現」「在」がむしろ Da-sein の方にあたる語構を持っており、Gegen- wartが entgegen-(吾人の面前に、吾人に相対して、まのあたりに、鼻の先に、のっぴきならぬ位置に、吾人の全関心を要求する底に) wart(ある)という構造を持っているのも面白い現象である。(137-8頁)

・Geschichtlichkeit(歴史性)

 ハイデッガーは、人間に Schicksal〔運命〕があり、民族・社会にGeschick[盛衰] がある、それらの現象の根本を、吾人の Geschichtlichkeit(歴史性)と名づけ、それがDasein[現存在〕の特徴の1つをなしている事を説いている。(44頁)




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2 コメント

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bestehen注1について (万年初心者)
2012-01-12 23:30:41
意味がよくは解りませんが,次は同趣旨の言及では?「南方諸國の如く、殆んど拉丁語そのものから派生した言語を用ひてゐる民族や、英語の如く、既に早くから語彙の半ば以上を拉丁系言語から受け嗣いでゐる民族等にあっては、拉丁語の影響はさう著しく暴力的な體裁は帶びてゐないが、系統を異にしたゲルマニヤ系の言語を語りながら、しかも最も拉丁語の影響に曝された獨逸は、或種の頗る無理な暗鬪を經て今日の獨逸語を語るに至ったのである。すっかり拉丁語を採り入れてしまへば暗鬪も何あったものではない。それはもう鬪ひではなくて敗北である。〔佛語、英語〕――ところが、言霊が頑強に抵抗して、眞似はするけれども討死はしないとなると、其處には頗る靭強な持久戰が行はれて、その間には防禦軍の軍備が整然と整ってしまふ。獨逸語の現在の姿は、その、眞似はするが、討死はしない。仮装はするが、退却はしないと云ふ言霊の努力が幾百年の間持ち耐へて、遂に拓いた血路とも称すべきものである。たとへば「翻譯」といふ概念が必要になって來る。すると佛語や英語は各々拉丁語の儘を移植してtraduction, translationといふ言葉を使ふ。獨逸語は、獨逸語の内部でも分解して意味をなすやうに「運び越し」(Uebertragung)「渡し」(Uebersetzung)と譯語を造る、といったやうなわけで、容易なことでは拉丁語その儘は用ひない(242頁)。「羅馬文学独逸文学に及ぼせる影響」関口存男http://www1.axfc.net/uploader/He/so/350755.pdf
ありがとう (牧野 紀之)
2012-01-13 17:52:13
 ご教示ありがとうございます。statarischは大独和にも載っていました。

 こうして誤解が正されるのも、ネットの意義の1つだと思います。

 今後もよろしくお願いします。

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