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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

木質バイオマス発電(01、総論)

2012年02月26日 | マ行
 木材を伐採した後の残材や建築廃材などを燃料に使う木質バイオマス発電が広がっている。石油や石炭などの化石燃料の消費が減るため、二酸化炭素(CO2)の排出減につながる。国内には、林地残材など豊富な木質バイオマスが未利用のまま眠っている。エネルギー利用の促進が期待されている。

 従来の火力発電は重油や石炭を燃やして蕩を沸かし、蒸気タービンを回して発電している。木質バイオマス発電も火力発電の一種で、重油や石炭の代わりに木材や樹皮、木くずなどを使う。

 川崎市臨海部の埋め立て地で2011年02月に運転が始まった川崎バイオマス発電所は、木質バイオマスだけを燃料とする専焼発電所として国内最大。出力3万3千㌔ワットで、約3万8000世帯が使用する電力をまかなうことができる。

 住宅の解体時に出る柱やはり、不用になった木製家具、刈り込まれた樹木など廃材を燃やす。廃材は神奈川県や東京都から運び込まれ、発電所に隣接する専用工場で5センチ以下のサイズにまで細かく砕かれ、磁石で鉄くずを取り除かれた後にベルトコンベヤーで発電所に運ばれる。

 首都圏のような都市部では、こうした廃材が多く発生する。従来は焼却処分されていた。同発電所では年間約18万トンの廃材を活用している。

 村上弘所長は「都市部の厳しい環境基準をクリアするために、フィルターなどの環境設備を備えている。今後、食品加工時に出たかすなども利用していきたい」と話す。

 林野庁によると、木質バイオマスの専焼発電所は国内で約70施設が稼働。石炭に数%の木質バイオマスを混合して燃やす施設を合わせると約100施設になるという。安定的に発電を続けるには燃料の供給がポイントになる。

 木質バイオマスは発生の形態により、「工場残材」「建設発生木材」「未利用間伐材など」に分類される。2011年版の森林・林業白書によると、年間の発生量は工場残材が約340万トン、建設発生木材が約410万トン。そのうち90%以上が利用されている。一方、約800万トンの間伐材のほとんどが未利用だ。

 林野庁は、今後、工場残材や建設発生木材の大幅な増加は見込まれず、木質バイオマスのエネルギー利用を進めるには間伐材を一層、活用することが不可欠としている。利用には林内から搬出しチップに加工する必要がある。輸送費用やチップの製造費用などの削減により、低コストでの安定供給体制の確立が重要だという。   (朝日、2011年11月30日。中村浩彦)

  まとめ

1、専焼発電所、約70施設

2、発生形態による分類(2011年)
 A、工場残材、約340万トン、90%以上利用、増加可能性少ない
 B、建設発生木材、約410万トン、90%以上利用、増加可能性少ない
 C、未利用間伐材、約800万トン、ほとんど未利用、一層の活用が課題
 D、食品加工かす、今後の課題

                関連項目

再生可能エネルギー一覧


マリア・テレジア

2012年02月19日 | マ行
                    歴史研究家・渡辺修司

 結婚政策で版図を広げたオーストリアで、女帝マリア・テレジア(1717~80)は相思相愛の恋愛結婚ができた例外中の例外だ。6歳のマリアは15歳のフランツ・シュテファン(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)と出会い、一目ぼれした。13年後に結婚し、20年弱の結婚生活で16人の子に恵まれた。

 だが、恋愛結婚が彼女を戦乱に巻き込む。父カール6世が周囲の諫言(かんげん)を退け、有事の際に領土を守れるだけの権力と影響力を持つ君侯と結婚させなかったからだ。1740年に父が死去し、事前に取り決めた通りハブスブルグ家の全領土を相続したが、バイエルンなどがそれに異を唱えた。

 1740年から8年にわたるオーストリア継承戦争で最も肥沃な領地であるシュレジエン地方をプロイセンのフリードリッヒ大王に奪われた。

 苦汁をなめたマリアは国の改革を決意する。無能な老臣を退け、下級貴族からも人材を登用した。貴族・平民にかかわらず学べる軍事アカデミーを創設し、徴兵制を導入。官僚体制を整え、オランダから高名な医師を招いて医学水準を高め、各地に小学校を設けた。

 政治・社会両面の改革を次々に断行し、40年の治世で文字通り「国母」になっていく。

 ルイ15世の愛妾でフランス政界の中心人物だったポンパドゥール夫人をとり込み、長年の仇敵ブルボン家との同盟を果たして「外交革命」を演出した。関係強化のため、あどけない娘を各地の王国や公国に送り込んだ。仕上げが後にルイ16世となるフランス王太子に嫁がせたマリー・アントワネットだ。

 自身は望み通り恋愛結婚し、幸せな家庭を築いたが、娘たちにはなかなか許そうとしなかった。 (朝日、2011年11月17日)

物(物自体)、das Ding, Ding an sich

2012年01月27日 | マ行
  参考

 01、物は一般に常住的な内的な本性と外的な実在性とを持っている。(小論理学第24節への付録1)

 02、 全ての事物は普遍として個別と関連している特殊である。(小論理学第24節への付録2)

 03、物という言葉は2義的な表現である。さしあたって物という言葉では、直接的に現出存在するもの、感性的に表象されるものが理解されている。(小論理学第34節への付録)

 04、実際には本当の事情はこうなのです。つまり我々が直接知る事物は単に我々にとってのみ現象であるばかりでなく、それ自体としても単なる現象にすぎないということです。ですから、自己の存在の根拠を自己自身の内に持たず普遍的な神的理念の内に持つということは有限な事物の固有の規定だということです。(小論理学第45節への付録)

 05、物とは、根拠と現出存在という規定が展開されて1つのものの中で定立された時のそれらの全体性である。(小論理学第125節)

 ★ 物自体、Ding an sich

 01、物自体(精神や神も物という言葉で捉えている)という言葉が表わすものは、意識の対象となる全てのもの、感覚に与えられる規定もそれについての思考による規定もすべて捨象された限りでの対象のことである。容易に分かるように、その時そこに残っているものは、完全な抽象物、全き空虚であるが、それがいまだ彼岸と規定されているだけのことである。それは表象、感情、規定を持った思考等々を〔みな〕否定したものである。

 同じくちょっと反省してみれば分かるように、この〔物自体という名の〕残滓自身が思考の産物にすぎない。それはまさに純粋な抽象まで行きついた思考、つまりこの空虚な自己同一性を対象とする空虚な自我の産物である。

 〔しかも〕この抽象的な同一性が〔思考の〕対象となった時獲得する否定という規定は、カントの〔挙げた12の〕カテゴリーの中にも〔非存在として〕記載されており、それはかの空虚な同一性〔自我〕と同様、周知のものである〔だから、物自体についてはそれが何か分かっているわけである〕。だから、物自体とは何であるか分からないという言葉を何度となく聞かされると驚ろくしかないのである。〔実際〕物自体を知ることより易しいことはない。(小論理学第44節への注釈)

 02、anの一般的な話になりますが、物自体のことをDing an sichと云うのなどもそれで、Kantに従えば、それは経験不可能なるものではあるかも知れませんが、それは決して「凡ゆる意味に於て」経験不可能なのではないのです。

 もしそうであったら、むしろDing in sich或いはDing hinter sichとでも云った方が好いでしょう。an sichという以上は、等かの意味に於て、たとえば形而上的にでも、その表面(にまで迫ることが出来、その表面に「即して」(an)何等かの──たとえ古い意味の認識ではなくても──意識活動が行われ得なければなりません。物自体を指すのに、Ding in sichと云わないで、一見自身を裏切ったようなanを用いて来たイツ語の習慣の中には、知らず知らずの間に顕れた現象学的解釈が働いていたと云うべきです。如何となれば、「内部」と云い「外部」「表面」と云うのは、結局

 Nichts ist drinnen, nichts ist draussen
 Denn was innen, das ist aussen.    -Goethe,Epirrhema.-

で、本質は直ちに以て現象であり、現象は直ちに以て本質です。

 So ergreifet ohne Saeumnis
 Heilig oeffentlich Geheimnis. -ibid一

 つまりGoetheの自然観はDing an sichを「公然の秘密」(oeffentlich Geheimnis)と観た所にあります。換言すればDing an sichのanを、習慣通りの「自体」、即ちほとんどin, hinterに近い意に取ることと、anをその原意にかえして「表面に即して」と解することとが、結局同じだというところにあります。(関口存男『前置詞』94-95頁)

 感想・「内なるものは外なるものであり、外なるものは内なるものである」というのはヘーゲルの考えですから、ゲーテと一致するのはヘーゲルであって、カントではないと思います。関口氏のカント解釈は読み込み過ぎだと思います。


目的、der Zweck

2012年01月25日 | マ行
 目的についての哲学的議論では、合目的性と目的意識性とを区別する事が大切です。ヨーロッパの人たちは両者の区別をあまりしないようですから。

  参考

 01、欲求、衝動は目的の最も手近な例である。それは生体自身の中にある矛盾の感じられた姿であり、未だ単なる主観性に過ぎない否定を否定しようとする活動へと歩み進む。(小論理学第204節への注釈)

 02、目的論的関係の直接的なものは外的合目的性である。ここでは概念は与えられた客体に相対している。(小論理学第205節)

 03、人間が自然に対して実践的に振る舞う時、人間自身も直接的で外的である。従って又、ここでは感性的なものとしての人間が直接的で外的なものである自然に関係するのだが、人間は自己を目的としている。それの考察は有限な目的論の立場である。(自然哲学第245節)

 04、合目的的な活動として自己保存を目指している。(自然哲学第245節への付録)

 05、人間は自己の衝動を抑えたりそのままにしたりする事が出来る。これによって目的に従って行動し、普遍的なものに従って自己を規定するのである。(歴史における理性57頁)

 06、ヘーゲルの内的目的、即ち何か意識的に行為する第三者、言ってみれば摂理の知恵といったものによって自然の中へと持ち込まれた目的ではなくて、事柄自身の必然性の中にある目的(マルエン全集第20巻62頁)

 07、(無意識的合目的性)アマガエルや葉を食べる昆虫が緑色で、砂漠の動物が砂黄色で、極地の動物が大体雪のように白い色をしているとしても、それらの動物が意図的に又は何かの観念に基づいてこれらの色を獲得したのでない事は確かである。そうではなくて、これらの色はもっぱら物理的な力と化学的な要因とによって説明される。

 それにも拘わらず、これらの動物がそういう色に依って環境に合目的的に適応しており、それによって敵に見えにくくなっていることは否定できない。(マルエン全集第20巻66頁)

 08、我々には、動物が計画的で、予め好く組織された行動様式を取る能力を持っていないと主張する気は全くない。これは自明である。逆である。原形質、生きた蛋白質があり、反作用する、つまり、たとえ未だに外からの刺激の結果というような単純な運動であっても、ともかく反作用する所では、どこでも、既に、萌芽の形でではあるが、計画的な行動様式があるのである。そのような反作用は神経細胞は言うに及ばず、細胞が全くない所でさえも見られる。食虫植物が獲物を捕えるやり方もやはり或る点では計画的である。もっとも全く無意識的ではあるが。(マルエン全集第20巻452頁)

 09、実際には人間の目的は客観世界によって生み出されたものであり、客観世界を前提しているのであるが、人間には、自分の目的は世界以外の所から取ってきたもので、世界から独立しているように見える。(レーニン邦訳全集第38巻159頁)

 10、目的は直接的なもの、静止しているもの、不動のものであるが、自己運動する不動者である。かくして目的は主体である。(出典記載忘れ)

 11、目的関係にあつては、目的として立てられた観念が外界に実現される時、その目的は、いわば形式の面から見れば、観念的なものから実在的なものに移されるが、内容の面から見れば、同一のものにとどまるということである。これが「自己に対立するものの中に自己自身を見出すこと」(すなわち自由)の目的論的形態である。(牧野紀之「労働と社会」52頁)

 12、つまり目的意識は、与えられた諸条件によって一義的には規定されないで、選択の可能性を持っているのである。いくつかの可能性を比較して最良のものを取るのである。古代人が人間理性を ratio (比)によって特徴づけた(合理的= rational )ことには根拠があったのである。

 しかるにこのような「選択の可能性」が生まれるのは、主体が対象と直接的に統一されておらず、多様な規定を持っている対象をどの規定の面からも考えることができるからである。そして、この直接的統一を断ち切るものは思考であった。従って、目的意識性と思考とは本質的に関連しているということになる。というより、おそらく両者は同一のものであろう。

 しかし、だからといって、目的意識性をたんに思考と言い換えたのでも、その逆でもない。目的意識とは、読んで字の如く、目的を意識しているということである。それでは、これがなぜ思考と同じものなのだろうか。目的とは未来に実現されるべきものだからである。目的を意識しているということは、変革されるべき現在と変革された未来とを、共に意識しているということである。しかも現在を否定的に、未来を肯定的に見ているのである。つまり、未来の立場に立っているのである。

 しかるに、「直接性」は優れて現在的なことである。「存在している」(sein)ということが直接性なのだからである。よって、目的意識性は未来の立場に立つことによって、現在から直接的には規定されなくなる、すなわち直接性を断ち切るのである。これは正に、衝動との直接的統一を断ち切るという、先の思考の働きと同じである。この意味で思考と目的意識性とは同じだったのである。ここに我々は、目的意識性の論理的性格は「直接性を断ち切ること」であることを知った。(牧野紀之「労働と社会」58-9頁)

 13、さて、目的意識性の成立は、同時に衝動が思考の対象となることであった。しかるに衝動を対象として思考するということは、取りも直さず、その衝動として現われる矛盾の二側面、主体(つまり自己)と主体を否定するもの(つまり対象、客体)とを思考することである。すなわち、目的意識は対象意識と自己意識との統一なのである。これが、ヘーゲルの目的論から論理的に引き出される第二の論点である。(牧野紀之「労働と社会」59-60頁)

 14、ヘーゲルは目的論への付録の中で「理性は力を持っていると同時にずるがしこい」(小論理学209節への付録)と言って、目的意識を理性として捉えている。しかるにヘーゲルは、『精神現象学』の中で、理性を対象意識と自己意識との統一として捉え、理性の概念〔抽象的本質〕を表現したものは、観念論の「私(Ich)が全実在である」という主張であると言っている(「精神現象学」ホフマイスター版、176頁)。ヘーゲルの言う観念論は、本文中でも述べたように、目の前の有限な存在をそのままでは絶対視しない立場であり、きわめて強い目的論的性格を持っていた。これらの事実はきわめて示唆に富むものである。(牧野紀之「労働と社会」66頁)


矛盾、der Widerspruch]。対立、差異

2012年01月24日 | マ行
  参考

 01、対立は同一性と差異との統一である。その契機は1つの同一性の中で異なっている。それ故それらは対立している。(大論理学第2巻40頁)

 02、対立したもの(das Entgegengesetze)。第1に、各々は他者がある限りで存在する。第2に、各々は他者がない限りで存在する。(大論理学第2巻42頁)

 03、差異は対立へと移行する、即ち差異あるものの内在的な関係へと移行する。(大論理学第2巻246頁)

 04、理性的なものに関して悟性規定を立てると矛盾が生ずるのは本質的で必然的なものであるという[カントの]考えは、近世哲学の最も重要で最も深い考えの1つである。(小論理学第48節への注釈)

 05、対立ということは、区別されたもの[対立する1項]が或る他者[他の項]を持っているという事ではなく、自分の他者として自己の向こう側に持っているという事である。(小論理学第119節への付録1)

 06、事物を静止した命の無いものとしてそれだけで独立して並列的及び継起的に考察する限りでは、事物の中に矛盾は出てこない。……しかし、事物を運動と変化の中で生きた相互作用の中で考察するや否や、事情はまったく変わる。その時には直ちに矛盾が出てくる。運動自体が1つの矛盾である。(マルエン全集第20巻112頁)

          関連項目

弁証法


無限、die Unendlichkeit

2012年01月22日 | マ行
  参考

 01、無限進行をイメージとして浮かべるならば、それは直線に譬えられる。真無限のイメージは円である。(大論理学第1巻138-9頁)

 02、数学的無限の使用を概念によって権利づける仕事は未だに数学によっては成し遂げられていない。(大論理学第1巻239頁)

 03、スピノザが真無限の概念を悪無限の概念に対置し、例解した。(大論理学第1巻250頁)

 04、無限は円の像に譬えて好い。なぜなら、直線はどこまでも無効に続いていて、単なる否定的な無限つまり悪無限であって、自己に還ってくる真無限ではないからである。(法の哲学第22節への付録)

 05、有限と無限を対立させると、元は全体であると言われていた無限が有限に対立する一面に過ぎなくなり、有限に限界づけられることになります。限界づけられた無限は1つの有限です。(小論理学第28節への付録)

 06、真の無限とは、自己の他者の中にあって自己の下に留まることです。(小論理学第94節への付録)

 07、移行の中でも他者の中でも自己自身に関係するというのが真無限です。(小論理学第95節)

 08、無限は1つの矛盾である。それは多くの矛盾に満ちている。無限は多くの有限から成ると言われているが、この事が既に1つの矛盾である。しかし、これは事実なのである。
 まさに無限が1つの矛盾であるからこそ。世界は時間と空間において終わりなく展開して行く無限の過程なのである。矛盾を無くせば無限も終わるだろう。この事は既にヘーゲルが見抜いていた。(マルエン全集第20巻48頁)

           関連項目

有限性


民族精神、der Volksgeist

2012年01月21日 | マ行
  参考

 01、民族精神の原理は特殊であるから一般に制限されている。……これらの民族精神の中から普遍的精神、世界精神が無制限なものとして立ち現れる。それは世界法廷としての世界史において自己の法(正義)を実行する。(法の哲学第340節)

 02、或る民族が自己について持つ意識はその民族の精神の実体であり、たとえ個人がその民族精神を知らなくても、それは前提として出来上がっているのである。(歴史における理性59頁)

 03、個人は他の人より民族精神をより好く体現していることは出来るが、それを乗り越えることは出来ない。民族精神を体現した人とは、その民族の精神を知り、それに従って自己を律することが出来るに過ぎない。こういう人が民族の偉人であり、その民族を普遍的な精神に従って導くのである。(歴史における理性60頁)

 04、民族精神は自然的な個体である。従ってそれは開花し、強くなり、死ぬのである。(歴史における理性67頁)

 05、民族精神の自然死は政治的無価値として示される。(歴史における理性68頁)


民主集中制

2012年01月20日 | マ行
  参考

 01、現在まで共産党、社会主義国家機関の普遍的組織原則とみなされている民主主義的中央集権主義はこの時期にボリシェヴィキ、メンシェヴィキの合意のうえで党規約に明記されたものである。

 1905年12月の第1回党協議会の「党の再組織にかんする」決議はこの原則を議論の余地のないものと認めて、指導の中央集権と、広範な選挙制、最も広範な公開性、幹部の定期的更迭、厳格な報告義務等、民主主義との結合が必要であるとみなした。

 翌年の第4回合同党大会で採択された党規約は、「すべての党組織は民主主義的中央集権主義の原理にもとづいて構成される」ことを明記した。この原則の内容として了解されていた点は、第1回党協議会の決議に明示された原則のほかに、党内問題についての完全な批判の自由、少数意見保持の権利、さらには分派、諸傾向の権利の保障がふくまれていた。

 レーニンはこの時期に「われわれにおいては民主主義的中央集権主義の原則、あらゆる少数派と忠誠なあらゆる反対派の権利の保障、各党組織の自治、党のあらゆる役員の選挙制と報告義務と定期的更迭の承認については意見が一致した」と述べ、これらの原則の誠意ある一貫した実行こそ党の「分裂を防ぐ保障」となることを力説した。

 レーニンはさらに少数意見保持の権利について、「多数者が完全に自己の立場を決した場合には少数者は批判する権利と次の大会で問題を解決するために煽動する権利とを留保したうえで、自己の政治的行動においては多数者に従う」と述べている。

 いいかえれば多数決による決定後においても少数意見を保持し次の機会におけるその貫徹のために努力することは、行動における服従がある限り党への忠誠とは何ら矛盾するものではないとみなされた。ここには、少数者が自説の撤回によってはじめて組織への忠誠を証明できるという「自己批判」の論理、-枚岩の論理はない。(渓内謙著「言ぢ社会主義の省察」岩波書店14-5頁)

 感想・本書はソ連の社会主義の研究として最高のものだと思います。

 共産党の運動を考える際には、まず綱領を問題にするのではなく、その前に規約を問題にするべきです。組織原則に組織の本当の性格が現れるからです。しかるに、共産党の組織原則の事実上の核心は「理論と実践の統一」と「民主集中制」と「批判と自己批判」の3つです。

 民主集中制を考えるためには、民主主義及び全体主義との異同を考える必要があると思います。

     関連項目

民主主義概論

民主主義と民主集中制と全体主義

マルクスとエンゲルスとマルクス主義

2012年01月19日 | マ行
  参考

 01、ヘーゲル論理学の中からこの分野[論理学]でのヘーゲルの真の発見を含んでいる核を取り出して、観念論的な覆いで包まれている弁証法的方法を単純な形に作り替えて、思考の発展に役立つ正しい形にしたのはマルクスだけだったし、今でもマルクスだけである。(マルエン全集第13巻474頁)

 02、確かにマルクスと私[エンゲルス]は、ドイツ観念論哲学から意識的な弁証法を救いだしてそれを自然と歴史の唯物論的な見方の中へと移し入れた唯一の者であった。 (マルエン全集第20巻10頁)

 03、この2つの発見、即ち唯物論的な歴史観と剰余価値によってなされる資本主義的生産の秘密の暴露とは、我々がマルクスに負っているものである。(マルエン全集第20巻26頁)

 03、同じ価値量は常に同じ価値量と交換される事を前提してさえなぜ買い入れたよりも高く売る事が出来るのかという問題、この問題を解決した事がマルクスの著作の最も画期的な功績である。(マルエン全集第20巻188-9頁)

 04、私について言えば、近代社会における階級の存在を発見した事も、それらの階級の間の闘争を発見した事も、私の功績ではない。私よりずっと前にブルジョア歴史家が階級闘争の歴史的発展を叙述していたし、ブルジョア経済学者は階級を経済学的に解剖していた。

 私が最初にした事は次の展の証明である。①階級の存在は生産の一定の歴史的発展段階だけとしか結びついていない事、②階級闘争は必然的にプロレタリアートの独裁に導く事、③この独裁は、全ての階級の止揚と無階級社会への過渡期でしかない事、以上3点の証明である。(ワイデマイヤーへの手紙1852年3月5日付け)

 想・マルクス主義の核心はプロレタリアート独裁の思想である。これを認める者のみがマルクス主義者である。レーニン主義の核心はその独裁の道具としての前衛党の思想である。

 05、無政府主義者の世界観は裏返しにしたブルジョア世界観である。彼らの個人主義的理論や個人主義的理想は社会主義とは正反対である。彼らの諸見解は、抑えようの無い勢いで労働の社会化へ進んでいるブルジョア体制の未来を言い表すものではなく、この体制の現在どころかその過去を言い表わす。即ち、ばらばらな単独の小規模生産に対する偶然の盲目的支配を言い表すのである。

 政治闘争の否定に帰着する彼らの戦術は、プロレタリアを分裂させ、彼らを実際にはあれこれのブルジョア政治の消極的な参加者に転化する。なぜなら、政治から遠ざかることは労働者には出来ないことだからである。(レーニン全集第10巻59頁)

 06、我々には革命的権力が必要であり、(ある過渡的な期間には)国家が必要である。この点で我々は無政府主義者と違っている。革命的マルクス主義者と無政府主義者との違いは、前者が集中された大規模な共産主義的生産に賛成し、後者が細分された小規模の生産に賛成するという点にだけあるのではない。そうではない。ほかならぬ権力の問題、国家の問題における違いは、我々が、社会主義を目指す闘争のために国家の革命的諸形態を革命的に利用することに賛成し、無政府主義者はこれに反対するという点にある。(レーニン邦訳全集第23巻359頁、「遠方からの手紙3」)

 07、マルクス主義者であるのは、階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認にまで押し広げる人だけである。(レーニン邦訳全集第33巻444頁、「国家と革命」第2章第3節)

 08、マルクス主義者と無政府主義者との違いは次の点にある。

 ①国家の完全な廃絶を目標とする前者は、社会主義革命によって階級が廃絶された後、国家の死滅に導く社会主義を建設して初めてこの目標を実現できる事を認める。後者は、この廃絶を実現できる条件を理解していないので、今日明日にも国家を完全に廃絶しようとしている。

 ②前者は、プロレタリアートが政権を戦い取った後、古い国家機構を完全に破壊し、武装した労働者の組織から成るコミューン型の新しい国家機構で取り替える事の必要性を認める。後者は、国家機構の破壊は主張するが、プロレタリアートがそれに代わるものを作り、革命的権力を利用する方法については明確な理解を持たない。プロレタリアートが国家権力を利用する事自体、プロレタリアートの独裁さえ否定している。

 ③前者は、今日の国家を利用してプロレタリアートに革命の準備をさせる事を要求するが、無政府主義者はそれを否定する。(レーニン邦訳全集第33巻444頁、「国家と革命」第6章第3節)

 感想・レーニンが今、生き返って、その後の「社会主義」の「発展」を見たら、どう思うでしょうか。

 09、問題は、マルクス主義と無政府主義とが2つとも社会主義の旗のもとに闘争の舞台に立ちあらわれているにもかかわらず、まったく違った原理の上に築かれている、ということにある。

 無政府主義の土台石は個人であって、無政府主義の考えでは、個人の解放が大衆や集団を解放するためのもっとも重要な条件である。無政府主義の考えによると、大衆の解放は個人が解放されないうちは不可能である。そこで、無政府主義のスローガンは「すべては個人のために」である。

 マルクス主義の土台石はといえば、それは大衆であって、マルクス主義の考えでは、大衆の解放が個人を解放するためのもっとも重要な条件である。すなわちこマルクス主義の考えでは、個人の解放は大衆が解放されないうちは不可能である。そこでマルクス主義のスローガンは「すべては大衆のために」である。(スターリン「無政府主義か社会主義か?」
国民文庫版『弁証法的唯物論と史的唯物論』石堂訳9-10頁)

 感想・スターリンなどは今では全然顧みられなくなりましたが、スターリンの考えは好く好く研究する必要があります。なぜなら、スターリン主義というのは青二才左翼の塊だからです。そして左翼的運動を始めたばかりの頃にはほとんどの人が青二才左翼になるからです。


カール・マルクス

2011年10月04日 | マ行
                    歴史研究家・渡辺修司

 「共産党宣言」で「万国の労働者よ、団結せよ」と叫び、「資本論」を著したカール・マルクス(1818~83)。階級闘争の思想と、資本主義の後に必然的に共産主義が到来するという歴史の発展段階論は、世界の労働者革命の支柱となった。

 ドイツ生まれのユダヤ人。2つの大学を出て博士号を得たが、保守的なプロイセン政府のもとでは教授になれず新聞の編集長に。発禁処分を受け半年で退社した後、パリなどを経てロンドンに移り住み、後半生の約40年を無国籍で過ごした。

 支えたのは妻と親友だ。幼なじみで4歳年上の妻イェニーは「(生まれ故郷)トリール1の美女」で「舞踏会の女王」。上流階級の男性との結婚話を拒み、才能を高く評価したマルクスと結ばれた。「死んだ子の棺桶を買う金もない」極貧のロンドンでは、伯爵家の紋章入りの銀食器を質入れして盗品と疑われ、警察に留置された。

 親友エンゲルスも援助を続けた。マンチェスターの紡績工場主の息子で、与えた経済的援助は優に一財産を超える。マルクス存命中に出た「資本論」は第1巻だけ。残りは悪筆で暗号のような草稿をエンゲルスがまとめた。

 ロンドンに住み続けたのは、思想的・政治的弾圧を受けなくて済んだから。プロイセン政府が彼を追放するよう求めた時も、自由主義の英国は「たとえ王殺しでも、議論の段階にとどまる限り大英帝国のいかなる法律にも抵触しない」と拒んだ。膨大な蔵書を誇る大英博物館を無料で使えたのも大きい。毎日10時間以上の研究を続けて「資本論」を完成させた。その意味で、共産主義思想は自由主義社会の恩恵のしずくともいえる。

 (朝日、2011年09月15日)

    感想

 自分が独自に調査・研究をしていない人について他人から教えられると「ふーん、そうなのか」と思うだけで終わってしまいますが、或る程度以上自分でも調べている人について他人の説明を聞くと、教わる事ももちろんありますが、「こういう面は知らないのかな」と思う事とがあります。誰でもそうでしょうし、そうでしかあり得ないでしょう。

 マルクスについて「普通の歴史家」が記述するとこうなるのだな、と思いました。

 最後の「共産主義思想は自由主義社会の恩恵のしずく」という言葉を少し考えて見ましょう。この批評は、社会主義運動などをしている人に向かって、資本主義を肯定している人が、「資本主義社会に生きている事をおかしいと思わないか?」と言うことがありますが、それと同じでしょう。

 はっきり何が問題なのかを言わない点が狡いと思いますが、言いたい事は「君の言動は矛盾しているのではないか」ということでしょう。

 小さくは、会社の中で会社の不正を批判している人に、「それなら会社を辞めたら」と言うのも同じでしょう。大きくなると、国の在り方を批判する人に「非国民」などと言って軽蔑し迫害する人もいます。

 いずれも間違っていると思います。言論の自由を理解していないからです。又、考え方としても、現象面への批判を本質面への批判とすり替えています。本質を尊重するからこそ、その本質と一致しない現象を批判しているのです。もちろん、人間のする事ですから、客観的には批判者の方が間違っている場合もあります。だから、そういう事は議論で解決するべきであって、「排除」で解決してはならないのです。

 渡辺さんの言っている「自由主義(資本主義)」と「共産主義」の関係について言うならば、「弁証法とは、現存するものの肯定的理解の中にそれの没落の必然性を見抜くもの」だということを知らないから出て来た誤解です。

 まあ、社会主義や共産主義が必然的に出てくるという考えは間違っていましたが、それはともかく、どんな新しい社会も思想も古い社会の中から生まれてくるもので、資本主義社会も封建社会の中から出て来たのです。歴史家ならこれくらいの事は知っていてもいいと思いますが。

メッテルニヒ

2011年09月11日 | マ行
                        歴史研究家・渡辺修司

 オーストリア外相(後に宰相)メッテルニヒ(1773~1859)は、フランス革命とナポレオン戦争後の秩序を決めるウィーン会議の議長として、自由主義とナショナリズムを否定し保守・反動の体制を作り上げた「悪人」として知られる。

 ドイツの学生運動は弾圧され、オーストリアでは厳しい検閲制度が敷かれた。北伊はオーストリアの、ベルギーはオランダの、ポーランドはロシアの支配下に置かれた。

 ところが最近になって、メッテルニヒを再評価する声がある。ナポレオンの侵略によって200万人の死者が出た欧州の混乱を収拾し、一時的ではあれ平和をもたらした「欧州の宰相」だったという見方だ。

 「会議は踊る、されど進まず」と椰輸されたが、当時の外交は愛を語り、芸術を論じながら進める時代でもあった。

 プロイセンの外交官でベルリン大学の創役者フンボルトと延々と哲学的論議を展開できたし、蒸気船や電信などの技術革新にも興味を持ち、独仏の文学に精通し、数百の詩をたちどころに諳(そら)んじ、自らバイオリンも弾いた。洒、女性、歌、踊りの歓楽騒ぎの中で神経を行き届かせながら縦横に各国の利害を調整できるのは、彼以外にいなかった。

 長身の美男子、上品で優雅、洗練された物腰とくれば、女性が放っておくはずがない。7人の子をもうけた最初の妻と死別、2番目の妻は33歳下、3番目の要は31歳下だ。さらに、ロシアの陸軍将軍の妻、英大使夫人など愛人が何人もいた。極め付きは、フランス陸軍元帥の妻であるナポレオンの妹との交際だ。妻の浮気を知った元帥は決闘を申し込み、ナポレオンが仲裁して事なきを得たという。

(朝日、2011年08月18日)

木製ブロックで護岸

2011年09月05日 | マ行
 岩手県内の小水路に試験導入された木製ブロックの護岸が、大津波を受けてもほとんど無傷だったことがわかった。もともとは間伐材の活用や生態系への配慮が目的で導入されたが、コンクリート製の護岸にも負けない機能に注目が集まっている。

 木製ブロックは、九州森林管理局が開発した。直径10センチ、長さ1㍍弱ほどの丸太材を格子状に組んだうえ、長さ約70センチンほどの丸太製の「控え」を直角に取り付けて背面の地中に突き刺して安定させる。主に四国や九州などで道路ののり面などに使われてきた。

 津波に耐えたのは、岩手県宮古市が1999年に発注した同市赤前の運動公園脇の津軽石川支流護岸と、岩手県が2003年度に発注した同県岩泉町小本の長内川護岸。幅数㍍の川の片側で、約40~110平方㍍ある。

 ともに高さ15㍍以上の津波が堤防を乗り越え、周りの建物や電柱を押し流した場所。宮古市の現場は、わきのコンクリート橋が大きく破損したのに対し、木製ブロックは一部損壊にとどまった。岩泉町では最上段のブロックが一部流されただけだった。

 2つの現場に当時、木製ブロックを納入した岩手林産加工(同市)の小山田舜次郎社長は震災直後に現場を確認した。県や市は「どの程度の外力が働いたのか、詳しく検証が必要だ」と評価にはまだ慎重だが、少なくともコンクリートブロックに負けない耐久力を発揮したとして、6月には、全国の関係業者36社でつくるウッドブロック普及協議会(事務局・全国森林組合連合会)の研修会で報告した。

 協議会は10月に現地見学会を計画している。担当者は「もともと道路ののり面の土留めの工法。水路は例が少なく、貴重な情報だ」と話す。

 (朝日、2011年09月02日。伊藤智幸)

   感想

 護岸では、私は、コンクリートと蛇籠(じゃかご)しか知りませんでした。嬉しい驚きです。道路ののり面にも使えるとか。業者には大いに開発してほしいです。我々は行政に「木製ブロックを使ったらどうか」と働き掛けるべきでしょう。

  関連項目

馬込川プロジェクト

村上陽一郎などの原発推進論者のたわごと

2011年06月07日 | マ行
 最近目に付いた原発論を引いて感想を書きます。

01、原発反対論に思う(安曇野)

 発生以来1ヵ月が経過したのに、福島第一原発の事故は一向に収まりそうにない。発電所自体の事故収束はいつなのか、放射能の拡散はどのくらいなのか、関連地域の住民の不安、不信は大きくなる一方である。

 当然予想されたように、原発反対の意見が勢いを増している。ここで注意したいのは、原発をこれまで容認していた人たちも、けっして手放しで全面的に賛成していたわけではない、ということだ。つまり、われわれの日常生活に必要な電力需要確保のために、原発なしではエネルギー政策は成立しないと考え、多くの人たちは原発に消極的に賛同していたのだ。

 この視点で考えると、原発反対論に欠けているのは、次の2点である。

 第1に、仮に原発を認めないとして、代替の電力エネルギーをどうするのかの議論である。皆が期待する太陽光、風力などはまだ安定した電力供給とはなりえない。

 水力も頭打ちである。となると石油、石炭などの化石燃料に依存するしかない。これに依存したとき生じる地球温暖化はどうなるのかに、まともな返事は聞こえてこない。

 第2に、となると電力需要をどう抑制するかの視点が欠かせない。しかしながら原発反対の論者には全くと言っていいほど、具体的な提案がない。

 おそらく便利になりすぎた日常生活を30~40年ほど前に戻すぐらいの覚悟がないと、原発反対に現実味がないのだ。さらに、国民に対して、これらの課題をどう実行させるかの具体策も必要だ。

 以上、2点についての国民的な検討は不可欠である。単に原発は嫌だからという感情論だけでは、議論は進まない。(朝日、2011年04月22日)

02、感想(その1)

 これは「原発に消極的に賛同」しているという仮面をかぶった推進論者のエセ理論でしょう。真の問題は「方向として脱原発を取るか否か」なのですが、その点を不明にしています。もし本当に脱原発の立場に立っているなら、言うところの「2つの難点」に「どう解決するか」という主体的な態度で臨むはずです。

 原発を全部止めるには「日常生活を30~40年ほど前に戻す覚悟が必要」という主張には根拠がありません。2007年、総発電量は1兆1928億キロワット時(総使用量は1兆0755億キロワット時)でした。その内、原発による発電量は2638億キロワット時でした。つまり、原発依存度は22.1%でした。

 原発分を除くと、総発電量は9290キロワット時となります。これは1992年か1993年の総発電量です。つまり、今原発を止めても、せいぜい15年近く前に戻るだけです。

 この15年間の省エネ技術の発達を考慮しますと、「日常生活を30~40年ほど前に戻す覚悟」は必要ありません。「有識者」として、朝日新聞にコラムを書くなら、きちんと調べてからにするべきでしょう。

03、村上陽一郎・東洋女学院大学長の話から

 今の段階で、原発を全廃することはあらゆる面で不可能、日本の電力は原子力への依存度が30%を超えている。(週刊東洋経済、2011年04月30日~05月07日号)

04、感想(その2)

 村上氏は、同誌によると、かつて原子力安全・保安部会の部会長を務めていたとのことです。多分、いわゆる「原子力村」の1人なのでしょう。村上さんも安曇野さんと同様、「根本的方向」の問題を「今の段階で」の問題にすり替えています。原発依存度も調査せずに3割としています。

 こういう人が「教養」とやらについて云々しているのですから、いい加減なものです。この際、はっきりさせておきますが、私は大学の教養学部時代、村上さんと同級でした。話した事はありませんが。

 村上さんについて有名な事は次の事です。1958年春、学生になった我々を迎えたのは教員の勤務評定反対闘争でした。4月末、学生ストライキが行われました。その直後、墨痕鮮やかな達筆で書かれた批判文が大学の掲示板に掲載されました。その筆者が村上さんでした。スト参加者の態度を「正門前にヤクザの如くたむろし」と罵ったもので、肝心の勤務評定についての自分の態度は述べないものでした。

 村上さんの『あらためて教養とは』(新潮文庫。『やりなおし教養講座』NTT出版の改題・新版)を読んでみますと、学生時代に経験したであろう60年安保闘争にどう関わったかということが全然語られていません。60年代末の東大闘争の時、どこにいたのかは知りませんが、どういう態度を取ったのでしょうか(その後分かった事は、1968年3月に東大の大学院を満期退学したこと、1965年から上智大学で助手をしていたことです)。村上さんの教養とはこのように「政治から逃げ回る教養」なのです。あるいは、「自分に都合の悪いことは黙ってやり過ごす教養」なのです。

 その本では「規矩(きく)」とかいう余り聞かない言葉が振り回されていますが、「やってはいけない事をしない慎み深さ」のようです。では、編集者から「先生、先生。こちらでテープ起こしをしますから、教養について話して下さい」と言われて、話をして、本を出す事は、「やっても好い事」なのでしょうか。

 出版社がこれを思いついたのは、「国家の品格」と「女性の品格」がミリオンセラーになったので、3匹目のドジョウを狙った事であるのは明白ではないでしょうか。見事に失敗しました。村上さんのために好かったと思います。

04、「サザエさんを探して」(2011年06月03日、朝日)から

 原子力発電の原点となる「原子の火」が日本で初めてともったのは、1957(昭和32)年8月27日午前5時23分だ。茨城県東海村の日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)の実験用1号原子炉が、初の臨界に成功した。

 当日の朝日新聞は1面トップ6段抜きの破格の扱いで報道した。社説は「紙の上だけの原子力時代に別れを告げ、実物を備えた新段階へと、記念すべき一歩を踏み出す」と、もろ手を挙げての歓迎ぶりだ。

 その日の「サザエさん」が掲載作だ。「原子時代」の到来と喜ぶ波平とマスオ。波平は余勢で、七輪を「旧弊なもの」と切り捨てる。一方のサザエは七輪を「原始炉」と呼び擁護する。科学の進歩という言葉に弱い男性と、生活感覚に根ざした女性との対比が鮮やかに描かれた。

 「原子の火」がなぜこうも歓迎されたのか。当時は東大の学生で後に日本原子力研究所の研究員となったたての舘野淳(たての・じゅん)・元中央大学教授(74)は「当時の日本では、科学が希望の火だった」と説明する。

 敗戦後の暗い世相の中、1949年に故湯川秀樹博士が原子核理論でノーベル賞を受賞した。「暮らしは低く、思いは高く」と言われたこの時代、若者たちは第二の湯川博士を、日本は科学立国を目指したのだ。

 日本学術会議は原子力開発について1954年、「公開・民主・自主」の平和利用三原則を打ち出した。日本人が自力で地道に研究を積み上げながら開発しよう、と考えたのだ。

 一方で産業界は早急な原子力実用化を目指し、米国の技術に頼る道を望んだ。その代表が1956年に初代原子力委員長に就任した正力松太郎・読売新聞元社長だ。原子力委員に名を連ねた湯川博士は、三原則を無視した委員会の姿勢を拙速で強引だと批判し、就任から1年で辞任する。

 「その後、原子力委員会は産業界の意向に従って、後追い的に開発計画を作るようになった。政治的要求や行政の前に、科学がひざを屈した」と舘野さんは振り返る。(以下略)

 05、感想(その3)

 その「政治的要求や行政の前にひざを屈した」科学者の末裔の1人が村上陽一郎さんだったのでしょう。

 逆に、脱原発の立場から粘り強い発言を続けている人の1人に赤川次郎さんがいます。氏は、「三毛猫ホームズと芸術三昧」(朝日夕刊、金曜日)というコラムで発言しています(他の所での発言は私は知りません)。06月03日のコラムは大阪松竹座に歌舞伎を見に行って考えたことがテーマでした。最後はこうなっています。

──夜の部を見終わって外へ出ると、道頓堀の明るさが目にまぶしい。帰りの新幹線が東京駅に近付くと、東京の暗さがいっそう際立って感じられてしまう。

 東京電力は夏の電力不足を言い立てているが、従来もしばしば原発が事故で停止した状態で、夏を乗り切ってきているはずである。「原発存続」が狙いの「情報操作」ではないか、と東京新聞(5月12日「こちら特報部」)が訴えている。

 他のマスコミも、東電の発表をそのままうのみにして記事にするのではなく、「事実かどうか検証する」 という「当然の仕事」をしてほしい。福島第一原発の事故から2カ月余り。報道にはまた東電への遠慮が戻っているように感じられる。

 今の東電幹部や原子力安全・保安院への批判で国民の不満を解消させることで、「原発は本当に必要なの か」という本質的な議論から逃げているのではないか。

 まだまだ大きな余震の可能性のある日本列島。第二、第三の「フクシマ」が起これば、この狭い国土に安 全な地はなくなりかねないというのに……。(引用終わり)

 素晴らしい見識だと、又又感心しました。

三井高利

2011年06月04日 | マ行
                          歴史研究家・野呂肖生

 19世紀初めの『世事見聞録(せじけんもんろく)』によれば、江戸駿河町の三井八郎右衛門は「日本一の商人」だった。3カ所の呉服店で千余人の手代を使い、「1日の売上高が2千両に達すれば祝うそうだ」といい、また、江戸のほか、京、大坂、堺、伊賀、伊勢に出店があり、諸国にも多くの仕入れ店が置かれていたという。

 店の屋号は「越後屋」で、始祖は17世紀の三井高利(たかとし)(1622~94)だった。高利は生まれつき商才にたけ、14歳で伊勢松坂から江戸に出て、小間物商の長兄俊次(としつぐ)のもとで働いたが、あまりの有能さに恐れをなした俊次により28歳の時故郷へ戻されてしまう。再び江戸に出たのは俊次が没した時で既に52歳、7人の息子と2人の娘とを持っていた。

 高利は奔放に活動した。江戸の本町と京の室町に置いた越後屋の経営は長男、次男に任せ、自らは松坂で金融業を営みながら江戸、京に指令を下して店の組織的発展を図った。10年後、本町の越後屋は駿河町に移り、両替店も併置した。

 経営手法は画期的だった。井原西鶴は『日本永代蔵』で、越後屋は新商法として「万(よろず)、現銀売(げんぎんうり)に掛値なし」と定めて薄利多売を行い、羽二重ならこの手代といったように、一人が一つの商品に責任を持つ一人一色(いっしき)の分業制を取り入れて手代を駆使し、細かい規則を定めて客本位の営業を進めたことを記している。

 特に注目されるのは、三井家の事業を高利を中心とする共同経営とし、利益を一定の基準によって配分したことだ。高利はこれらの規定を記した遺書を残し73歳の生涯を閉じた。西鶴はいう。三井高利こそはまさに「大商人(おおあきんど)の手本なるべし」と。

 (朝日、2011年05月19日)

馬込川プロジェクトのために

2011年05月06日 | マ行
01、牧野の静岡県庁への質問

 馬込川の整備ないし保守のために、平成22年度の当初予算及び23年度の当初予算では、それぞれ、いくらを計上しましたか。

 関係部局が複数ある場合には(例えば、静岡県くらし・環境部環境局生活環境課、交通基盤部河川砂防局河川企画課、交通基盤部農地局農地計画課、企業局事業課とか)、それぞれの予算が分かれば別々に、分からなければ合計金額を教えてください。

02、県からの回答

 日頃から静岡県行政にご理解とご協力をいただき、誠にありがとうございます。4月5日にメールにてご質問をいただいた、馬込川の整備ないし保守のための平成22年度及び平成23年度の当初予算の計上額について、現在、馬込川に関する予算は河川整備に関する費用だけが予算化されておりますことから、事務を所管する河川海岸整備課から、お返事いたします。

 このたびは、お返事が大変遅くなりましたことをまずもってお詫び申し上げます。
馬込川の河川整備費用のうち、治水対策に関する予算については下記のとおりです。
現在、国道152号天王橋から上流の川幅を広げる工事を実施しております。

年 度    当初予算額       事業箇所
 平成22年度   5,000万円     三合橋の下流および上流の工事
 平成23年度    1億円      三合橋から新橋の区間の工事を予定

また、河川の維持管理(堤防草刈り、河川内に堆積した土砂の撤去など)に関する
予算は下記のとおりです。

  年 度    当初予算額       事業の内容 
 平成22年度    800万円     堤防草刈り、土砂撤去など
 平成23年度    800万円     堤防草刈り、土砂撤去など

 県といたしましては、浜松市や地域の皆様の声を聞きながら、災害を未然に防ぐために計画的な治水対策を行うとともに、河川堤防の草刈りや河川に溜まった土砂の撤去など適切な維持管理を実施することで浸水被害の軽減に努めてまいります。今後とも、御理解と御協力をお願い致します。
平成23年4月27日、交通基盤部河川砂防局河川海岸整備課長、桜井 孝洋

03、感想

 これで分かった事は、静岡県は馬込川の整備について、災害が起きないようにするための対策しか考えていない、ということです。逆に言えば、馬込川を「憩いの川」として、その県民生活にとっての積極的価値を高めることは念頭にない、ということです。

 災害対策は大前提ですが、そしてその災害対策も今のままで正しいかも議論するべきですが、そのためには対策の全貌を発表してほしいですが、それは別の議題とします。

 ここで問題にしたいのは、馬込川問題を災害対策の対象としてしか捉えない姿勢です。それだけではもったいないです。馬込川は憩いの場として、また観光資源として大きな可能性を秘めていると思います。川勝知事は富士山と静岡空港にしか関心がないのでしょうか。イギリスに留学したはずなのに、川のある生活の豊かさは学ばなかったのでしょうか。

 私が予算について質問したのは、予算の増額は知事が嫌うでしょうから、予算の組み替えだけで、川の魅力を高める方法を考え、提案したいと思ったからです。

 私案の骨子だけ述べます

 ① 川を、A・水の中と、B・護岸と、C・堤防の上と、D・その他(斜面や外側)、との4つに分けて考える。

 ② 水の中は、溜まった土砂の撤去は当然として、更に、魚や水鳥の増えるようにすることを考える。ゴミは絶対に放置しないのは当然の前提として、適当な水草を増やすとか、浅瀬を作るとかを考えてほしい。

 そうして、川岸にその川魚を使った料理を出す店が出来るようにする。トイレにもなって利便性が増すでしょう。

 川岸には、そのほか、「浜松茶の未来」で提案した「一服亭」も作る。空き地があるから、そこに作る。堤防の上から下に降りないで、平行して、あるいは少し登るようにして行くようにする。そうすると見晴らしがよくなる。

 ③ 堤防は、今はコンクリートで作ったりしているが,蛇籠(じゃかご)を使う。なぜなら、コンクリートでは観光資源にならないが、蛇籠なら観光資源になるから。現に、中くらいの大きさの自然石で堤防を作っている箇所もあり、そこの方が感じが好い。それにこっちの方が魚や鳥にも好い効果をもたらすでしょう。費用の事は分からないが、今の費用の範囲内で少しずつやって行けば好い。

 ④ 堤防の上は、歩道の舗装の幅を「歩行者と自転車が共存できる幅」にする。そして、自転車用の部分は外側にして色を別にする。

 ⑤ 堤防の斜面や外側。花を植えたりベンチを置いたりする。25メートルごとに分けて、ボランティアでやりたい人を募る。番号を付け、皆で投票して、優秀者を表彰する。「投げ銭箱」を置いて、応援したい人が応援できるようにする。

 なお、今でも個人やグループで花を植えている箇所はあります。野菜を植えている人もいます。外側の竹やぶの中にブルーシートで風を防いで住んでいる人もいるようです。

 ⑥ 岸の樹木が少なすぎるので、夏に木陰を作るような樹種を計画的に植える。これは行政の仕事。長い時間がかかるが仕方ない。

 ⑦ 馬込川花火大会を催す。全長約20キロですから、1キロ間隔に打ち上げ地点を作って、どこでも見えるようにする。打ち上げ花火ではなく、「スロー花火大会」もあってよい。1つ1つは小さなもので好いと思う。そのほかのイベントも考える。

 私が「馬込川を憩いの川にしよう」と呼びかけたのに、具体的提案で支持してくれる人が現れません。残念です。川を大切にしましょう。少しの工夫で市民の生活に潤いが増します。

 そうそう、川岸に降りて釣りをすることを、少なくとも子どもに対しては禁止しているようですが、考え直すべきでしょう。安全対策を考えること、いつでも誰かがいる位の人出にすること。

 目標は今の100倍くらいの人が常時歩いているようにすることでしょう。それ以上の人出は、今度は「憩い」ではなくなるでしょう。

 以上は問題提起です。活発な議論を期待します。