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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

あんずの里と森将軍塚

2021-04-09 00:00:00 | 日記
 今は市町村合併で名前が千曲市になっているが、それ以前の旧・更埴市の「あんずの里」はとても有名で、もうずいぶん前からその名前を聞き知っていた。その後、高速道路ですぐそばをしばしば通過していたものの、下りて訪れてみる機会はなかなか来なかった。

 数年前に、何かの折に思い立って更埴ICで下りて現地に行ったことがあったが、この時は開花情報をきちんと調べて行かなかったので、花はもう終わっていた。

 今回、妻がSNSであんずの里の開花情報を得て、見ごろを迎えていることを知り、それではと急遽出かけてきた。

 軽井沢から長野方面に出る場合は、浅間サンラインを利用して東部湯の丸ICから高速に乗るようにしているが、いつもの通り途中「道の駅・雷電くるみの里」に立ち寄った。ここには「第66回あんずまつり」のパンフレットが置いてあった。期間は3/27~4/11とある。また、脇には開花情報の掲示があり、「5分咲き」となっていた。


あんずまつりのパンフレット

 このパンフレットの地図を参考に、更埴IC経由で現地に向かった。地図には絶景ポイントとして上平展望台(花さか村)という場所が書かれていて、北アルプス、戸隠連峰、善光寺平一望とあり、さらにすぐそばには樹齢300年の在来種も見られるとのことで、先ずここを目指して車を走らせた。

 現地附近に到着して、道路わきにあんずの木が見えるようになってくると、道幅も狭くなって、周辺には駐車禁止の立て札が見えるようになり、目的地の展望台脇の私設駐車場に車を停めた。周辺にはいくつもの駐車場が用意されているが、公営駐車場も含めすべて有料で1日500円である。

 この展望台周辺にもあんずの木が多く植えられているが、見るともう満開であった。土産物売り場の建物に併設されている展望台に上ると、眼下にはあんず園が広がっていて、あんずの里の全体が見通せる。この日は黄砂が激しくて空はどんよりと黄ばんだ色になり、パンフレットに書かれていた北アルプスは残念なことに望むべくもなかった。


展望台からのあんずの里(2021.3.30 撮影)

展望台周辺のあんずの木(2021.3.30 撮影)

 ここを離れて道路の反対側の緩い坂道を上るとすぐ右側に大きな木が1本あるが、これが樹齢300年という在来種であった。この木も満開状態で、花の色は白く、周りに植えられているものとは随分違ってみえる。

在来種、樹齢300年というあんずの巨木(2021.3.30 撮影)


あんずの巨木の花(2021.3.30 撮影)


巨木近くの栽培用の木に咲くあんずの花(2021.3.30 撮影)

 当地のあんず栽培の歴史は、元禄時代、伊予宇和島藩主伊達宗利の娘・豊姫が第三代松代藩主真田幸道に嫁いだ際、故郷を偲ぶ品としてあんずの種子を持参したのが始まりとする説がある。

 元禄時代というと、今から約300年前の1688年から1704年頃であるから、このあんずの大木は、当時植えられたものが今日まで生き残っていていたことになる。.

 もともとは中国の山東省、河北省などが原産地とされる「あんず」であるが、国内における歴史は古く弥生時代以降の遺跡からも出土しているという。古い産地は愛媛県、広島県などの瀬戸内地方と、青森県津軽地方とされるから、この古木も前記のように愛媛県からもたらされた種子から成長したものということになるのだろう。

 当地は日本一のあんず生産地で、長野県果樹試験場ではいくつもの品種改良品を産出しているようであり、この古木を過ぎてさらに緩い坂道を登っていくと試験畑があって、ここにはこれまでの果樹園とは一風変わった景色が見られる。次のようである。


試験場に植えられたあんずの木(2021.3.30 撮影)

 よく見ると隣り合った木の枝は曲げられて互いに融合している。これがラインダンスのように見えるのは私だけだろうか。

 しばらく周辺を散策しながらあんずの花を楽しんだ後、昼食の時間になったのでこの場所を離れ、午後にはこれも以前から一度訪ねてみたいと思っていた「森将軍塚古墳」に向かった。

 実は、今回来るまではこの森将軍塚古墳がどういったものか、予備知識はなかった。名前の響きから森氏という名の将軍に関係するものかと思っていたが、考えてみれば森というのはこの地域の名前であった。


更埴ICから「あんずの里」、「森将軍塚古墳」への地図(あんずまつりパンフレットから)

 場所は更埴ICからあんずの里に向かう途中にあり、道路案内板はすでに午前中に見ていたので、昼食後まっすぐその場所に向かった。森将軍塚古墳は小高い丘陵地の上にあるが、その麓には「千曲市森将軍塚古墳館」という施設があり、ここの駐車場に車を止めた。隣接地には別に「長野県立歴史館」というより立派な施設があるが、今回はこちらは割愛することにして、古墳館の方に向かった。

 古墳館の駐車場からさらに上の方にある古墳のある場所まで、徒歩ルートはもちろんあるが、マイカーで上って行くことができるかどうかが気になっていた。古墳館の受付で聞いてみると送迎バスはあるが、マイカーで行くことはできないという。

 古墳館の入場券とセットになっている送迎バス利用券を購入して、バス乗り場に向かった。この日は我々のほかにもう一組の同年輩の夫婦連れだけで、上の方から降りてきたバスは我々4人を乗せてすぐに発車した。2-3分で到着した丘陵の上のバス停は古墳のある場所よりはやや高い所にあり、見学時間は30分程度あれば大丈夫との運転手の言葉に、帰りのバスの発車時刻を決めて予約し、歩き出した。


森将軍塚古墳館周辺地図(同館のパンフレットから)

 目の前の「森将軍塚古墳」は、古墳館でもらったパンフレットによると、前方後円墳であり、4世紀後半、今からおよそ1650年ほど前に作られたもので全長は約100mある。尾根の形に合わせて、前方部と後円部とはやや角度を持って接しており、後円部の形状も円ではなく楕円形になっている。現在の姿は、当時と同じ材料や工法で、築造時の姿に正確に復元整備されているとのことで、古墳の形や大きさ、石の積み方なども当時と同じであるという。


森将軍塚古墳の石碑(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の前方部とその上に置かれている埴輪(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の前方部の上から後円部を見る(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の後円部の上から見た市街(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の後円部から前方部を振り返る(2021.3.30 撮影)

 30分足らずで古墳の見学を終え、迎えに来てくれたマイクロバスで再び古墳館に戻った。

 古墳館には古墳についての解説パネル、古墳模型、ビデオ上映、古墳から発掘された三角縁神獣鏡やヒスイの勾玉・管玉、剣・刀・矢じり・鎌、土器、ガラス小玉などの副葬品や多くの埴輪などの品々の展示と共に、2階の展示室中央には古墳後円部の竪穴式石室が実物大の精密模型で再現されている。大きさは長さ7.6 m、幅2 m、高さ2.3 mと日本最大級であるという。展示室の石室は発掘調査の時に型取りして作られたもので、大半がプラスチックで製作されているというが、とてもよくできていて、石の色や質感は実物と間違えてしまう。


竪穴式石室の実物大精密模型(2021.3.30 撮影)

 館員から、「2階の見学を終えたら、ぜひ1階の展示室もみてください。」と念を押されていたので、その通りにしたが、1階の展示室では思いがけない展示が見られた。ネタバレになるといけないので、これについてはここまでにしておく。

古墳館に展示されている森将軍塚古墳の築造模型(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳発掘品のガラス小玉をつないだ装飾品(2021.3.30 撮影)

 古墳館の裏側に広がる高台には「科野の里歴史公園」があり、周辺で発掘された古墳時代中期の竪穴式住居、物置小屋、高床倉庫などが復原されていて、見学できる。

森将軍塚古墳館背後の復元された竪穴式住居など(2021.3.30 撮影)


千曲市森将軍塚古墳館と入り口付近にある石碑(2021.3.30 撮影)

 古墳館を出て振り返ると尾根の上の古墳が見える。

 ところで、この「森将軍塚古墳」の名前の「将軍」の由来が気になっていた。私自身はうかつにも「森将軍」という人物がいたと誤解していたのであったが、古墳館のパンフレットによると、地元では「森地籍」にある「偉い人のお墓」という意味で、古くから「森将軍塚」という名称を与えていたそうである。

 前出の地図に示されていたが、この森将軍塚古墳のすぐ南(300mほど)には「有明山将軍塚古墳」がある。また東方と北東方向に少し離れて、「倉科将軍塚古墳」、「土口将軍塚古墳」があってすべてに「将軍塚」の名称が使われている。これら4基の古墳は一括して埴科(はにしな)古墳群として国の史跡に指定されている。

 このほか、森将軍塚古墳の北西方向には同時代の前方後円墳「川柳(せんりゅう)将軍塚古墳」があってやはり「将軍塚」という名称が与えられているが、県内にあるその他の多くの古墳には「将軍塚」は使われていない。


長野県下の主な前方後円(方)墳(2021.3.30 撮影)

 県外はどうかと調べてみると、栃木県、埼玉県、群馬県、大阪府、和歌山県にも以下のように、「将軍塚」と呼ばれる古墳があることが分かる。

○ 栃木県宇都宮市:将軍塚古墳。直径約30m・高さ約2.4m、2段築成の円墳で周溝を備える。

○ 埼玉県東松山市:野本将軍塚古墳。東松山市内野本地区にある現存長115mを測る前方後円墳である。築造年代は、古墳時代前期の4世紀後半の築造と判明している。別名野本1号墳。

○ 群馬県高崎市:元島名(もとしまな)将軍塚古墳。高崎市元島名町にある前方後方墳。高崎市指定史跡に指定されている(指定名称は「将軍塚古墳」)。

○ 大阪府茨木市:将軍塚。この神社は鎌足古廟、将軍塚、将軍山古墳ともいわれている。神社と付いているが、鳥居と碑はあるものの本殿や社務所、摂社などの建築物はなく、石段を登りきった所に将軍塚と呼ばれる古墳だけがある。祭神は藤原鎌足。

○ 和歌山県和歌山市:将軍塚古墳。和歌山市寺内・岩橋にある古墳。形状は前方後円墳。岩橋千塚古墳群(国の特別史跡、うち前山)を構成する古墳の1つ。

 という具合であり、全国に約16万基あるとされる古墳の中でも、「将軍塚」の名を与えられている古墳は極めて少ない。

 ちなみに、文化庁の資料によると各県の古墳数は次のようである( 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地より)。

 2019年、世界遺産に登録された大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」は「仁徳天皇陵」を擁していてその存在が際立っているが、古墳の数では意外にも兵庫県が18,841基で最大である。

都道府県別の古墳数(上位20位まで、図筆者)

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