軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

あさま山荘(1/3)

2017-08-18 00:00:00 | 軽井沢
軽井沢に住むようになって気になっていたことの一つが、「あさま山荘事件」のことであったが、事件の現場となった「あさま山荘」がどこにあるのか、詳しいことについては特に調べることもなく日が過ぎていた。

 南軽井沢の道路沿いに、この事件の顕彰碑である「治安の礎」が建てられていることには早くから気付いていたが、「あさま山荘」そのもののことはこれまで判らないままになっていた。

南軽井沢の道路沿いに建てられている「治安の礎」(2017.7.2 撮影)

「治安の礎」の石碑(2017.7.2 撮影)

石碑脇の木柱とパネル(2017.7.2 撮影)

 1973(昭和48)年2月28日、事件解決のちょうど1年後に建てられたこの顕彰碑には次のような碑文と、事件当時の様子を示すレリーフが刻まれている。

 『群馬県下の山岳アジトにおいて陰惨な大量リンチ殺人を犯した連合赤軍の幹部ら五名が、昭和47年2月19日、ここ南軽井沢「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に、包囲の警察部隊に銃撃をもって抵抗するという、わが国犯罪史上まれにみる凶悪な事件を引き起こした。警察は、人質の安全救出を最高目標に、厳寒の中あらゆる困難を克服しつつ、総力を傾注した決死的な活動により、2月28日、219時間目に人質を無事救出し、犯人全員を逮捕した。
 この警備活動に当たって、警視庁から来援の
  故 第二機動隊長     内田尚孝警視長
  故 特科車両隊指揮官  高見繁光警視正
が殉職され、また、多数の警察官が重軽傷を負った。殉職の両氏は激しい銃火の中にあって、あさま山荘に突入する隊員を陣頭指揮中、凶弾に倒れ、白雪を鮮血に染めながら壮烈な最期を遂げ、人質救出と犯人逮捕の礎となられた。
 この碑は、軽井沢町民が相図り、両氏の功績を永く後世に伝え、再びこのような事件が起こることのないよう祈念し、建立したものであり、警備活動の責任者として依頼され一文を記した。
    昭和48年2月28日                                                                                                        長野県警察本部長 警視監 野中 庸  』

石碑の側面に設けられている事件の様子を示すレリーフ(2017.7.2 撮影)

 この顕彰碑が建てられている場所は、碓氷軽井沢インターから軽井沢駅に向かう途中、72ゴルフ場の手前を西方向に向かう道が2本あるが、その2本が交差する地点にある。

 その後調べてみると、「あさま山荘」はちょうどこの「治安の礎」のある場所から見通せる方角、別荘地レイクニュータウンの中にあった。実際には、顕彰碑の背後にある木の陰になっていることと、「あさま山荘」の周辺にも木が生い茂っており、この場所からは直接建物の姿を見ることはできないが。

 ところで、「あさま山荘事件」は発生後すでに45年を経過し、私自身も当時の記憶が薄れてきているので、関係資料で事件の内容を再確認してみた。

 『1972年2月16日、犯人らが直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山や迦葉山のベースの跡地が、警察の山狩によって発見されたことをラジオのニュースで知った坂口弘らは、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えにより隣接する長野県に逃げ込むことにした。

 この時、最高幹部の森恒夫と永田洋子が資金調達のための上京によりベースを不在にしていたため、この決定は2人との連絡が取れない中で坂口を中心に行われた。

 森と永田もベースが発見されたことを前日に知り、坂口たちと合流すべくベースに戻るが、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された。

 ベースに戻り合流した坂口らは長野県の佐久市方面に出ることを意図してベースを出発したが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、メンバーはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なくなり、後に彼らが立てこもり先として浅間山荘を選んだのは偶然であった。

 2月19日午前、食料などの買い出しに出かけた植垣、青砥ら4名が軽井沢駅で逮捕される。こうして29名いた連合赤軍メンバーは、12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名がこの時までに逮捕されており、事件発生直前には坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、少年A、少年Bの5名を残すのみとなっていた。・・・(中略)

 2月19日の正午ごろ、メンバー5人は軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。

 15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき山荘を脱出すると、自動車がある家を探す中で浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。(Wikipedia あさま山荘事件 2017年8月1日 (火) 23:59 より)』

 この後「あさま山荘」では10日間にわたり攻防が続き、2月28日に全員が逮捕され、人質も無事救出されるが、この出来事については、当時警察庁から応援に派遣された佐々淳行氏の著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』(1996年6月30日 文芸春秋発行)や、元長野県警幹部北原薫明氏の著書『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』(1996年12月11日 ほおずき書籍発行)などに詳しく書かれているし、関連図書も多い。

まず、佐々淳行氏の著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』。

佐々淳行著『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』の表紙

 この本のあとがきで佐々氏は次のように書いている。

 『この本は、内閣の閣僚でもなく、どこかの国の大使でもない、全く名も無い一主婦を、非人道的なテロリストの魔の手から救出するために自らの命を捧げた正義の戦士のための鎮魂賦であり、傷つき倒れた勇敢で忠誠な治安の戦士たちの勇気を讃える武勲詩であり、後世にその人々の名を残す顕彰碑なのである。』

次は、元長野県警幹部北原薫明氏の著書『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』。

北原薫明著『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』の表紙

 この本のあとがきを見ると次のようにある。

 『なお最近では、警察庁より応援に派遣され、現地の警備本部の特別幕僚の立場で本事件にかかわったS氏も、当時の警備部隊の内部の状況を著して出版したが、その内容に事実と異なる点があることや、長野県警が一丸となって死力を尽くした点などが十分に記述されていないと思われる点もあるので、事件にかかわった一員としての責任から、浅学を省みず、改めて当時の資料に基づき、正確な事実と、当時の調査で解明できなかった点などを明らかにしたいと思って、本書を発刊することにした』

 また、上記の2書に先駆けて発行され、当時まだ16歳であった犯人の一人M少年の目で見た事件の一部始終という形で書かれた、白鳥忠良氏の著書「あさま山荘事件-審判担当書記官の回想-」(1988年1月20日 国書刊行会発行)には、違った視点での事件の記述がみられる。

白鳥忠良著「あさま山荘事件-審判担当書記官の回想-」の表紙

 この本のあとがきには出版の動機として次のような文章がある。

 『マスコミは挙って新聞・雑誌などで、いち早く報道されたが、あまりにも事案複雑、関係者多数のため、事件のすべてを詳細に網羅登載することができず、部分的なものにすぎなかった。また事件の真相を正確に把握してのものでもなかったと思う。・・・
 それに、今日までに成人の刑事事件として身柄拘束中の者、刑事終局処分後刑期に服しているもの、既に刑期終了後社会人になっている者らが、この事件の真相とか実録と称して、雑誌などで発刊しているらしいが、その殆どは、同僚に罪を転嫁したり、自己に都合のよいところのみ記載されたものや、刑の言い渡し前に、世間の人々から同情を得ようとしたものにほかならない。・・・
 そこで私は、(中略)この事件の担当者として体験した事実を再現すべく、この錯綜した難事件のすべてについて、もちろんマスコミなどで報道されていない隠れた部分をも盛り込み、最も信憑力のある著書として後世まで、これを伝えたいと考え、拙文をも省みず敢えて執筆するに及んだ』

 あさま山荘事件の結果は、警察官の犠牲2名、民間人の犠牲1名、重軽傷者27名であった。

 また、逮捕された5名の裁判の結果は、次のようなものであった(年齢は事件当時)。

坂口 弘(25)
 1993年2月19日、最高裁判決により死刑。
坂東國男(25)
 1975年8月4日、日本赤軍によるマレーシアのクアラルンプール事件によって、「超法規的措置」として釈放され日本赤軍に合流。現在国際指名手配されている。
吉野雅邦(23)
 1979年3月29日、検察の死刑求刑に対し、東京地方裁判所は無期懲役を言い渡した。
 死刑を求めていた検察は控訴したが、1983年2月2日に東京高等裁判所は控訴を棄却。検察側が上告しなかったため無期懲役判決が確定した。
少年A(19)
 1983年2月、懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。
少年B(16)
 1983年2月、中等少年院送致と判決が確定した。

 事件後10年ほどは、「あさま山荘」は観光名所となり、観光バスのコースにもなっていたという。その後、大半を取り壊して建て直され、アートギャラリーとなったのち、現在は中国企業の所有となっているとされている。

 先日現地に行ってみたが、建物の老朽化が進み、ほとんど使用されていないように見えた。

 一方、現在のレイクニュータウンでは、初夏になるとバラ園にたくさんの美しいバラの花が咲き、観光客の目を楽しませている。

下の道路から見上げた現在の「あさま山荘」(2017.7.2 撮影)

上の道路から見た現在の「あさま山荘」の玄関付近(2017.7.2 撮影)

別荘地レークニュータウンの入り口(2017.7.2 撮影)

レークニュータウン管理事務所の前庭に咲くバラ(2017.6.30 撮影)

レークニュータウン内にあるレイクガーデンのバラ園1/2(2017.6.30 撮影)

レークニュータウン内にあるレイクガーデンのバラ園2/2(2017.6.30 撮影)

 この事件については、社会の大きな関心を集めたことも手伝い、多くの小説、映画、TV番組、舞台作品が発表されている。

 映画では、前記佐々淳行氏の『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋刊)を映像化した作品『突入せよ!あさま山荘事件』などがある。

 この映画のキャストには、佐々淳行:役所広司、後藤田正晴警察庁長官:藤田まこと、国松孝次広報課長:田中哲司などの名前を見ることができる。

 私自身はこれらのごく一部を見たに過ぎないが、新潟県上越市に赴任していた時に、前記の映画のロケがあり、上越市の市民もエキストラとして出演していて、事件のことも身近に感じていた。また、事件の解決に用いられた鉄球は現在もロケ地となった長野・新潟県境にある「光が原高原」に展示されている。

あさま山荘事件に集められた鉄球(左)と映画撮影に用いられた鉄球(右)(2002.9.22. 撮影)

鉄球脇に建てられた石碑(2002.9.22. 撮影)

 小説では、あさま山荘事件を直接扱ったものではないが、軽井沢在住の作家小池真理子さんが「恋」(第114回直木賞受賞作品)で、この事件当日に起きた女子大生によるもう一つの殺人事件をテーマにしている。

 「あさま山荘事件」に話を戻すと、犯人の一人が海外に逃亡していることもあり、現在でも警察関係者の中にはこの「あさま山荘事件」はまだ終わっていないとする人達もいるが、事件のことは我々の記憶からは次第に遠ざかっている。

 先日偶然この事件が起きた年の報道写真集を古書店で入手したが、この年の出来事の一部を抜粋すると以下のようなものが見られる。写真と添えられている文章を見ていると当時の様々な出来事が思い起こされる。

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、今回のこの記事を終える。

朝日新聞報道写真集1973の表紙

1972年1月
・初の訪朝議員団出発・・・16日、自民党の久野忠治代議士を団長とする初の超党派訪朝議員団が羽田を出発。
・グアム島で元日本兵生還・・・24日夕、グアム島で元軍曹横井庄一さん(56)が発見された。
2月
・札幌オリンピック開会式・・・3日、アジア初の第11回冬季オリンピック札幌大会開会式が行われた。
・銀盤の名花リン・・・5日、女子フィギュア自由演技の女王、アメリカのジャネット・リンが華麗な演技を披露。
・妙義山で過激派幹部逮捕・・・16日、群馬県警が妙義山中で、5人を発見、うち男女2人を逮捕。17日、森、永田の2名を逮捕。
・人妻を人質に山荘占拠・・・19日、妙義山を脱出した連合赤軍5人が午後3時、浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質にした。
・ついに浅間山荘突入・・・28日、朝10時、ついに人質の強行救出作戦を開始。クレーン車の鉄玉で玄関を破壊。
・警察に殉職の犠牲・・・28日、攻撃開始から人質救出まで8時間余、警視庁第2機動隊長内田警視、特科車両隊高見警部が殉職。
3月
・トゲトゲしい阪大入試・・・3日、国立大学一期校の入学試験で、豊中市待兼山の阪大教養部では、機動隊が遠巻きにし、試験場入場は有刺鉄線で部外者の立ち入り禁止に。
・新幹線岡山まで開業・・・15日、新幹線の新大阪-岡山間161キロメートルが開業。
4月
・王者アリ、KO不発・・・1日、ヘビー級1位のアリと9位のフォスターが日本武道館で行われ、アリが判定勝ち。
・川端康成氏を悼む・・・17日、16日夜にガス管をくわえ、自殺したノーベル賞作家川端康成氏の通夜が行われた。
5月
・輪島功一、初回KO勝ち・・・7日、ジュニアミドル級タイトルマッチで輪島功一が6位のチベリアを1回KOで下し、初防衛。
・関脇輪島が初優勝・・・28日、大相撲夏場所で、花かご部屋の関脇輪島が12勝3敗で初優勝。
6月
・将棋名人に中原8段・・・8日、挑戦者中原誠8段が4勝3敗で大山康晴名人に勝ち、名人位を奪取。
・来日したキ補佐官・・・9日、夜、キッシンジャー米大統領補佐官が来日。12日まで滞在、佐藤首相、福田外相などと精力的に会談。
・首相、異様な引退表明独演・・・17日、午前11時、佐藤首相の引退記者会見は、興奮の応酬から記者団が一斉退場した。
・株式市場空前の暴落・・・24日、英ポンドの変動相場制移行に伴い、ダウ平均株価242円安の史上最大の下げ幅になった。
7月
・自民党新総裁に田中氏・・・5日、自民党の総裁選挙が行われ、田中角栄氏が第6代総裁に選ばれた。
・豪雨、東海地方も急襲・・・13日、未明、愛知県西三河地方と岐阜県東濃地方が1時間70ミリ以上の記録的豪雨に見舞われ、死者49名、行方不明48人を出した。
・四日市公害も患者側勝訴・・・24日、「四日市ぜんそく訴訟」の判決が言渡され、患者側の勝訴となった。
8月
・科学衛星「でんぱ」・・・19日、東大宇宙航空研究所は、電波探測衛星を積んだ4段式ミュー4S型4号機の打ち上げに成功した。
・高校野球に津久見優勝・・・23日、第45回全国高校野球選手権大会で中九州・津久見が初優勝した。
・ミュンヘンオリンピック・・・26日、第20回オリンピック・ミュンヘン大会の開会式が行われた。
9月
・田中首相、毛主席と会う・・・27日、田中首相は北京で毛沢東中国共産党主席となごやかに会談。
・日中国交を樹立・・・29日、日中両政府の共同声明調印式が北京の人民大会堂で行われた。
10月
・ルバング島に元日本兵・・・19日、フィリピンのルバング島で、元日本兵2人が警察軍と撃ち合い、小塚金七氏が死亡、小野田寛郎氏が逃亡。
11月
・パンダちゃんお目見え・・・4日、中国から贈られたパンダ2頭の贈呈式が東京・上野動物園で行われた。
・踊る歌手、山本リンダ・・・22日、山本リンダのNHK紅白歌合戦2度目の出場が決まる。
12月
・王者ショーター2連勝・・・3日、福岡市で行われた第7回国際マラソン選手権大会で、ミュンヘン五輪で金メダルの米ショーターが初の2連勝。
・笑いとまらぬ社会党・・・11日、上げ潮ムードに乗った社会党は118議席を獲得し、成田委員長が早々と勝利宣言。


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