世界の街角

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須弥山ワールドと北タイ陶磁文様・#4

2017-08-01 07:43:49 | 北タイ陶磁
<続き>
 

話は飛ぶ。2014年7月、二度目のペナン島で、ヒンズー寺院であるマハ・マリアマン寺院を参拝した。この寺院はドラヴィダ様式である。そこに黄金色の柱が立っている(寺院の人に聞くと祭礼の際の旗竿とのことであった)。この柱に似たものがタイにも存在することを思い出した。

(出典:グーグルアース)

その柱とは、国の柱とか市の柱(ラック・ムアン Lak Muang)と呼びクニの守護神で、ラーマ1世(在位:1782-1809)がバンコク建都の際、バンコクの礎になる柱を立て(1782年4月)繁栄を願った。ラーマ1世は、このことをバラモン教の教えに従って建立されたと云われているが、バラモン云々については、孫引きのため詳細はわからない。

ここで話題にしているのはバンコクではなく、中世の北タイにおけるヒンズー教や仏教的須弥山世界の土壌についてである。アジア・アフリカ言語文化研究所 森幹男氏に優れた論文がある。それによると、ランナー社会に継承される『スワン(ナ)カムデーン伝承記』によれば、ランナー・タイ王国の創建と存続に対する正統性について、神意による王国の創建と、『インドラ神の柱(=インターキンの御柱)』の獲得による、王国の安定と繁栄のさまが叙述されている・・・とある。

以下、論文の概要を紹介する。『ラック・ムアン』は北タイ、雲南、シャン州、北ベトナム、ラオスにおいて広範に観察されるとして、ラック・ムアンは物質的な象徴であり、通常木製の柱で土地の守護霊と結び付けられ、ローカルの政治権力とその正統性についての威信を示している・・・と説明されている。

チェンマイのインターキンの御柱は先に紹介したので、北タイ少数民族のラック・ムアンを以下紹介する。
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 (写真は北タイ・チェンダオの少数民族パローン族の『ラック・ムアン』である。まさに心の御柱で集落の守護霊に他ならない。このような柱は北タイで見ることができる)

『インドラ神の柱』は、チェンマイの危機を救うため、インドラ神によってもたらされたが、後に市民が柱への崇拝を怠ったため都市が荒廃した。再度市民の依頼に応じてインドラ神が柱のレプリカを建立することを命じた、という神話に由来する。

旧市街の中心部のチェディルアン寺の中にある『インターキンの御柱』、すなわち『インドラ神の柱』は、北タイの慣習では、伝統的国家ムアンの守護霊(Sua muang)と同一視され、さらにムアンの守護霊はより一般的なラック・ムアンと呼ばれる『クニの柱』となる。これは守護霊信仰における土地神(チャオ・ティー)と解釈される・・・としている。

また、以下のようにも説明されている。タイ・ユアン族社会においても『インドラ神の柱』は、しばしば『男根柱』として認識されている・・・つまり豊穣を祈願するのが目的かと思われる。

以上のまとめとして、『インドラ神の柱』=モン(Mon)=ラワ族経由のヒンズー・仏教的世界観と、その中心観念を表象すると結んでおられる。

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(写真はチェンマイの西郊外ワット・ドイカムのインドラ神像である。北タイではインドラ神(帝釈天)やブラフマー神などのベーダ神話におけるバラモンの神々と土着信仰が混交し、そこに上座部仏教が伝播してきたもので、当該ブロガーからみると何でもありの仏教に見える・・・)
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(ワット・ドイカムの麓はラワ族のプーセ・ヤーセ像を祀る祠があり、先住民ラワ族の故地とされている)
このラワ族の言及については、ランナー朝以前を表すものであり、このような土壌はランナー朝建国前期に存在したことを暗に示している。

いずれにしても、メンライ王がランナー朝を建国した当時、『インドラ神の柱(=インターキンの御柱)』を国の礎として建立したという点である。このインドラ神とは、仏教でいう帝釈天である。堂々巡りのようであったが、帝釈天は須弥山の頂上である善見城の殊勝殿に住む。つまり、中世のランナー世界は須弥山ワールドであり、当時の寺院壁画は須弥山図や仏陀の本生話で彩られ、陶磁器文様にも採用された背景が浮かんできたと思っている。


                        <続く>