悠久の時を経て

「美しく大きく丈夫なオオクワガタ」このテーマを担う血統作出目指した飼育記録をメインに、気儘な話題を書いていきます。

手織絨毯の魅力・2022年3本目への交換第2弾

2023年02月18日 13時18分00秒 | 2022年度・オオクワガタ

今年2023年は、6年周期でいうと10サイクル目の新たな始まり、スタートに位置する年である。
などとそう勝手に解釈しているもので。^^
ブログ本題に入る前置きも、自ずと"6年周期"ごとを振り返る話題になってしまいます。
とはいえ、自分を振り返る、立ち返る備忘録ブログの存在は、こちらのブログでは度々登場、重要視している"過程"として大切なわけです。
そんな節目だからなのでしょうか?最近週末の恒例となりつつある、次女との図書館通いで手に取る書物も何故か歴史に纏わるものが中心に。📚


さて交換報告第2弾前置きですが、6年周期の5〜6サイクル目(24〜36歳)当時に注力した、本業の手織絨毯販売と仕入について取り上げることにします。こちらのブログ"悠久の時を経て"と名付けた由来は手織絨毯なんです。
まず初めに歴史から学ぶ、美しいものに説明は不要といった一級品の定義など、手織絨毯の仕事と関わる中で多くの貴重な経験と学びがありました。


・手織絨毯の歴史
絨毯の起源は、4,000年前~5,000年前ともいわれています。当時の絨毯は現在のパイル織りではなく獣毛を固めたようなもので、実用品として太古から日常品として使われていました。
現存する世界最古の手織り絨毯は1949年ロシアの考古学者がシベリア、アルタイ山脈中のパジリク渓谷にあるスキタイ王族古墳から発見された、バジリク絨毯です。



盗掘をまぬがれ、凍結状態になったことにより劣化が最小限にとどまった絨毯が発見されました。およそ2,500年前のものと思われるその絨毯は、羊毛とラクダの毛の地糸に羊毛のパイルが使われており、当時、位の高い裕福であったスキタイ王侯を葬る棺に納められた埋葬品の一部であったそうです。ちなみに初めて絨毯を購入した人物は紀元前3世紀頃アレキサンダー大王だとか。ペルシャの戦いから帰国した際に購入したものと伝えられています。
 
ペルシャ絨毯の芸術性が高まるようになったのは、西アジアがイスラム化し始めた7世紀以降。イスラムでは偶像を崇拝する事が否定されており絵画、彫刻などの生産が遅れましたが、対して織物や陶器などの工芸品の発達は早く、アラベスク文様が工芸品を飾る事で工芸美術を構築していくことになります。また当時、高級品とされる絹製絨毯は権力などの象徴の証として、王侯家族の観賞用、各国への贈答用など、様々な使い方がされていたようです。

実際にペルシャ(現イラン)で絨毯の生産が発達し始めるのは16世紀のサファヴィー朝以降。そしてイスファハンに都を移したシャー・アッバス1世(1587年~1629年)の時代にペルシャ絨毯の製作も最盛期を迎えます。新しい王宮、庁舎、邸宅の建設にともない絨毯の需要が増大。貿易が奨励されたので世界の商品が集まり、世界の半分と称される程に繁栄を謳歌します。ペルシャ絨毯も宮廷工房が設立。宮廷工房では羊の飼育から染料植物の栽培まで一環して宮廷の敷地内で行われました。


・イマーム広場とイマームモスク
イランの真珠、世界の半分と称されたイスファハーンを代表する場所がイマーム広場。モスクや回廊が四方に配され、見事な景観が展開します。建物を飾る壮麗なタイル細工は圧巻。イスラム建築の頂点の姿がここにあり、ユネスコの世界遺産に登録されています。







その後18世紀になると、アフガンの侵略によってサファヴィー朝は滅びてしまい、そのために絨毯の生産も多くが途絶えますが、19世紀後半にはタブリーズを中心として絨毯の生産が復興、急激にペルシャ絨毯が製作されるようになります。
やかで絨毯の復興は欧州の市場へと向けて行われ第一次世界大戦の時期は、市場がヨーロッパからアメリカへと移ったものの20世紀のパフラヴィー朝でも絨毯の復興のための制作は続き、そこでペルシャ絨毯が世界でも不動なものになっていくのです。


・日本への輸入
イランの織物であるペルシャ絨毯ですが、日本伝来の歴史も古く、最も古いものは、魏志倭人伝にて邪馬台国の卑弥呼に、朝貢の答礼として絨毯のような敷物が贈られていた事が記されています。遣唐使による工芸品には、花氈というフェルトは今でも正倉院宝物として残されいます。
本格的に日本へ絨毯が入ってきたのは17世紀以降、中国やシルクロードを経由し桃山時代に日本へと渡ってきたものと考えられています。当時の権力者豊臣秀吉が絨毯の美しさをとても気に入った事で、絨毯を裁断させ、身にまとう陣羽織とさせました。
ペルシャ絨毯の産地であるイランと日本での共通点はいずれも欧米のような土足の文化ではなく、室内では靴を脱いで生活するという点です。そのような生活習慣の共通点もあるためか日本の生活にも絨毯が受け入れられる事となりました。また京都祇園祭りの山鉾を飾る懸装に使われていたりと、日本の祭りの文化にも昔から深く関わっていたようです。





・手織絨毯の魅力
手織絨毯は気の遠くなるような長い時間をかけ一つ一つ手作業で作られており、長いものでは数年、数十年を費やし製作されています。織工たちはたて糸を固く張った機の前に腰をおろし、何百万、何千万という結び目を作る作業に取り掛かります。そのため手織りの絨毯は機械で織ったものとは模様の繊細さや耐久性が格段に違うのです。


絨毯の主な原料はウール=羊の毛です。セーターなどでご存知でしょうが、羊の毛は食べ物や気候の影響で弾力性に富み強靭で暖かみがあります。空気を羊毛を手で紡ぎ、草木で染め、手織で仕上げるので、毛が寝てしまうこともなく、踏まれても長持ちするのです。また羊毛には油分が含まれているので、踏まれる程光沢感が出て、美しさが増すのです。更に細かい手織りの技術によって、いっそう耐性が高まるのです。




手織りの繊細な模様も魅力のひとつです。産地や手織りの職人によって様々な模様があり、繊細で鮮やかなデザインが特徴となっています。
ペルシャ絨毯に欠かせないのが女性の存在で、この繊細な模様を作りだしているのがイランの若い女性職人なのです。10代後半の女性の細い指先と視力の良さが上質な絨毯を作り出しています。女性の優しいエネルギーが、気分を和らげる心地のよい絨毯を作る秘訣になっています。



やはり特出すべきはその耐久性です。丁寧に織られた絨毯は使えば使うほど色合いに深みが出て重厚さが増してきます。長い期間をかけ丁寧に織られているので、丈夫で傷みが少なく耐久性に大変優れています。
50年、100年と経過した絨毯もあり、50年以上のものをセミ・オールド、100年以上のものをアンティークと呼ばれ、修理(メンテナンス)をしながら、愛着を持って自分と一緒に暮らしていく。そんな感覚ができるのも絨毯の大きな魅力に他なりません。





とここまでは書物やネット情報で集められる情報です。ここからは仕事上の経験を踏まえた話題に。私の本業はインテリア関連の営業職ですが、入社したての1年目から、得意先様を集め定期的に行われている買付イベントの設営準備の際、初めて手織絨毯を目に触れることになります。その後、直属の上長が一般消費者に向けた、手織絨毯の大きなイベントに注力していきます。



サイクルでいうところの5サイクル目。
1993年〜1999年は銀座、新宿とイベント会場を借りた手織絨毯展示会を毎年開催していました。私も良質な多くの手織絨毯に触れ、マネキンの話術を聴きながら少しずつ絨毯を覚え、販売に携わりながら次第に手織絨毯に魅力されていきます。そして入社4年目には自ら200×300cmサイズのタブリーズ産ペルシャ絨毯を36回払いのローンで購入しています。(会場価格96万円)
この思い切りの良さは当時催事担当の上長、絨毯の仕入商社、そして当時の上層部にも認知され、のちに会社の手織絨毯仕入バイヤーに任命されるといった流れへと繋がっていくことに。

手織絨毯イベントの最盛期は一会場で数億を売り上げましたが、国内はデフレ化が進みが加速化。潮目が変わりつつありました。その後、タイミング的には6サイクル目、結婚する2ヵ月前でしたね。パキスタン・カラチ開催、手織絨毯展示会への海外出張を命じられています。しかし当時は2001年から始まったアフガニスタン紛争の影響が少しずつ高まっていた頃でもありました。万が一のため遺書を書き残した記憶が残っています。

海外出張のミッションは自社のカタログでオリジナルデザインの手織絨毯を展開すること!
手織絨毯は簡単に手が届くものではありません。どうしても高額なわけです。デフレ化とはいえ、高額絨毯も催事イベント用として一定のニーズがあるので、全国の拠点、営業所では輸入商社経由で委託販売は続いていましたが、そうではなく会社、カンパニーとして、手頃な価格の普及品化するため量を増やし、その分安く購入し、手織絨毯オリジナルデザインによるブランド化を目指す。自社買付による全国展開です。

オリジナルデザインではありませんが、私が担当となって始めて訪れた2003年の国際展示会で草木染、草木洗い絨毯として発表されたいたものを日本国内限定柄として仕入、カタログ掲載をすることにした絨毯。今振り返ると環境配慮への先駆けかもしれませんが、ただ少し価格が高過ぎましたね。第一弾は失敗(不発)に終わりました。


こちらは染料で染めずに天然素材のウールのみで織り上げたナチュラルバーバー。日本のフローリングに馴染むよう存在し過ぎない色柄のセレクト。品番はNBA・NBBでしたか。NLBと間違えそう...



普及品シリーズデザイン




モダン手織デザインシリーズ
こちらは通称チョビといった厚みのあるダブル織りで織り上げたアフガニスタン由来の手織絨毯です。雑貨系の家具インテリア店舗で導入の多かったシリーズ。緻密さはありませんが、なにしろ頑丈な絨毯でウチのリビングでも暫く愛用、丈夫で汚れ難いと嫁に好評でした。使い捨てではなく使い込む絨毯です。

他にも光沢感あるシルク入りオリジナルデザインや、モダンデザイン、ギャベなど。
普及品オリジナルシリーズですが、デフレ化もあって全国の家具店、専門店、百貨店等への汎用品ブランドとして、オリジナルシリーズ手織絨毯の納入は10年程続いていきます。
私自身もアフガニスタン紛争による現地のテロが活発化し渡航禁止になるまでの2003年から2009年、30代半ばの6年間は毎年、カタログ展開商品の選別とチェック、他イベント用として手織絨毯の海外買付は続きました。

日本国内で手織絨毯を拡販し増やすことは即ち、現地で働く多くのワーカーの生活の向上に繋がるわけです。これは実際に現地の人間と定期的に仕事を続け、また現地の熱量を肌で感じないと理解できない部分でしたね。そしてなかなか普通のサラリーマンでは味わえない、商社ポジション的で貴重な経験でした。

世界には中国商人、インド商人、ユダヤ商人と有名ですがペルシャ商人には中国人でも敵わないといわれています。イランは2,500年以上前の古来から東西交流、シルクロードの交易の要所です。相手のプライドを重んじ懐に飛び込む、そういう商売の極意が脈々と受け継がれています。

例えば日本から大金を持って現地イランの著名絨毯工房に買付に行くとします。勿論商売なので買付自体をすることは出来ますが、ただ本当に価値のある絨毯が、欲しいものがその場に出てくることはありません。毎年何度も通い、相手が勧める絨毯(在庫が多く売りたい品物)を何度も購入した上で、"コイツは口先だけじゃなくて信用できるやつだ。"そう認められて初めて上質な絨毯を購入することができるのです。

長い年月をかけて織られた大切な絨毯は、子供のような存在なのでしょうね。素性の分からない人間に一級品の絨毯は渡せないわけです。
仲間を大切にする、信頼できる関係をつくる、人としてのあり方を子どもたちにも日常から教えているのです。

・長い年月をかけ人の手で織られる緻密で精巧な品質と完成度、素材を生かした美しさ

・使い込む程に味わい深く、長きに渡り暮らしに寄り添う、使い捨ての対極に位置する本物の良さ

・時代を超え今も世界中の多くのユーザーに愛されている事実 価値あるものは残る

歴史のある、そして独特な手織絨毯の世界に触れた貴重な経験が2人の娘に"織"の文字を名付け、ブログタイトル"悠久の時を経て"とした理由なんです。






さて2022年ブリードの交換報告第2弾です。
昨年2021年度に♂種親として活躍して貰った2019-KU-609を昨年に続いて使用しています。




こちらめんTさんからの♀を掛け合わせた10番が2022年ブリードの中では最も体重の乗ったラインになりました。










やまさん89.5mm同腹の♀を使った11番ラインからも太めな38.8gが出ています。








こちらはJonny the 30さん累代でメルリン久留米血統の血を残すための里帰り的な種親。ウチのメルリン系統の♀中心のラインナップを組み、メルリン血統再構築として位置づけていますが、こちらはJUUさんからの♀を掛け合わせた15番ライン。ウチの♂種親のメルリン系統累代は血の濃さの影響もあってどうも不健全なようなので、里帰りの♂種親にウチの累代♀を掛け合わせています。




2022年♀個体は主水さん、かっちゃんさん、めんTさん、やまさん、Jonnyさん、JUUさんと久留米産地では実績を残しておられるブリーダーからの補強が中心です。
前年2021年は主水さん、虫蔵さん、杢目さん、カレントワさん、めんTさんでした。

私はある時から考えることがあって、自己ブリードや純血マツノ久留米といった拘りは持たず、信頼に足る方の育て上げた虫を毎年補強するようにしています。
確かに多数の人の手を渡ることで、人から人が繋いでいく中では当然リスクも発生しやすいのでは?そんな考え方もあろうかと思います。過去には2015年に発生した久留米偽称事件といった嫌な出来事もありましたからね。実はその出来事からなんです。人の育てた虫を積極的に補強していこうと考えたのは。

ここ数ヶ月の悠久ブログをご覧の方はお分かりでしょう。3サイクル目の多感な10代の学生時代に影響を受けた、リスクを顧みず常に挑戦を続けた猪木イズム。7サイクル目、新規開拓を軸に取り組んでいた40代前後。そして今回の6サイクル目の時代、手織絨毯のバイヤーとして経験を積んだ30代。

各々ブリードスタイルも考え方も色々とあると思いますが、嫌な出来事があっても、いやあったからこそ、信頼に足るブリーダーからの個体をしていこうと。購入に抵抗がないのはこれまでの経験がベースにあるかです。真摯に打ち込んでいるか?信頼に値する人物かどうか?慧眼力ですね。リスクを恐れ、結果どこからも虫を買えなくなってしまうのでは面白くありません。

同時に商売のためにというのではなくて、やはり価値ある個体を作出していきたいですね。そこは過程というよりも実績の部分です。毎年安定して自信を持って世に出せる。そんなブリーダーを目指していきたいものです。今回も長い記事でしたが、6年周期の始まりの年ですからね。ひとつご容赦ください。ではでは。

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人生を6年周期で考える・2022年3本目交換について

2023年02月11日 10時30分00秒 | 2022年度・オオクワガタ

"6年周期で人生を考えてみる" 以前そんなテーマでブログで記事にしたことがありましたが、バイオリズム的な運気を俯瞰的、長期的な視点で捉えた経験はありますか?
周期に多少前後の幅はありますが、私自身振り返ると周期的な人生の節目(転換期)があるようです。



今年は社会人生活も30年を過ぎ、次の10サイクル目を迎える新たな始まりの年(周期)。
歳を重ねますと、ある時から良い意味で自惚れと勘違いで邁進するだけでは通用しないことを、自分がちっぽけな存在であることを否が応でも人生経験から知ることになります。所謂(壁)というものでしょうか。
特に仕事において、大きな時代の流れに対してはなすすべがないことを。そして同時に、若い時の勢い、打算的でない負けん気と健気さが大きな武器であったことを痛感します。

壁というと私の場合は40歳前後、6年周期でいえばちょうど8サイクル目の頃が転換期でしたね。営業部門の管理職となり、自らの数字だけではなく、与えられた部署全体の目標を達成しなければならない。チームで補い合いながら、更なる売り上げ拡大のミッションが与えられました。しかし当時の流れ(時流)は、少しずつ逆風が吹き始めていたのです。

その2つ前、6サイクル目の30代前半から中盤の1,999年以降からは部署が絶好調の時期でした。モノづくりの企画と営業とが一体化し、次々とヒット商品を世に送り出していました。特にインターネット部門はそれこそ時流に乗って拡大路線の真っ只中に。また家具、雑貨店と新規に獲得した先も軌道に乗っていましたね。取引先からは御社の商品を扱いたいといった声も多く聞かれました。しかし、好調の波はいつまでも続きません。

7サイクル以降からのインターネット部門物流費の大幅値上げ。そして既存店、新規販路は家具大手チェーン・ニトリの攻勢が顕著になり、都内主要ターミナル駅の出店ラッシュが続き、それに伴う取引先である既存店舗の縮小が始まりました。
売り先のシュリンクです。

具体的、俯瞰的に見てみると丸井in The ROOM閉店がまさに大きな壁と感じていた2011年と12年前でしたか。新規開拓先の中でもOEM展開をしていたロフト、インザルームは特に思い入れがありましたからね。オリジナル商品として双方で企画デザインしたラグ、カーテンが形となって誕生し、やがて店舗のヒット商品へと育っていく。作り上げていく過程、そしてモノづくりに携わってきたメンバーと喜びを分かち合う。まさに仕事の醍醐味がありました。


時流の流れに伴うシュリンク傾向に対して、前売り部門一丸となって、あらゆる施策を講じ、粘りに粘りましたが、取引先の売上縮小に歯止めが掛からず、24年間ラグ、カーテンを製造企画し、また手織絨毯の仕入、開発担当として愛着のあった前売り部門からは一転して、9サイクル目からは新築、改修案件を開発部隊とワークし獲得するといった工事部門へ異動することになりました。

しかし異動したその後の6年間で大塚家具、島忠家具、東急ハンズと前売り部署主力取引先が、次々に買収されることになろうとは流石に思いませんでした。前売り部門が最も勢いのあった6サイクル目(18年前)には"役員の半数を我が部署から出そう!" そう息巻いていたこともありましたが。ニトリやIKEA強しです。

インテリア業界でもこれだけの激変があるわけです。流れのまま過ごしていれば、瞬く間に激流の渦に飲み込まれてしまう、そんな変化の激しい激動の時代。今の工事部門は神奈川エリアにおけるビジネスモデルの構築といったミッションと、シンボリックな大型新築案件の受注と納品がメインで、前売り部署とはまた違ったやり甲斐があるわけで。それと同時に、もしコロナ禍が起きず、大阪本社在籍のままであったなら、きっと今頃は海外赴任だったことを考えると。運が良いなぁと思いますし運が良い分、もっと今を楽しまないと。

仕事は色々プレッシャーがあるのでしんどいわけですが、やはり家族の存在は大きいです。家族がいるから頑張れる。そして健康でいられて、気持ちの切り替えができる趣味があってこそ、色々な困難も乗り越えていける。そう思います。
振り返ってみると、私は同じ方向に向いている人達と、新たな何かを生み出していくことが好きなんだなぁと。

次に迎える10サイクル目を前に、6年周期を年表風に振り返ってみました。変わらず楽しみながら邁進するのみですな。嘆いてる暇はありません。









さて本題の2022年ブリードです。年末に菌糸をボトルに詰めて2/14に交換する予定でしたが、家族が揃ってコロナに感染。菌糸詰め作業を14日に、ボトル投入は予定から2週間遅れの1/28に交換を完了しています。準備と後片付けを含め160本を3分半ペースを想定も実際には4分ペースと10時間以上を要しましたがこちらは1日で完了。ちとハードでした。😅

昨年は大型血統10年目羽化の祖となる2頭のお気に入り個体(種親)によるブリードのために次世代に累代を残すことを優先(重視)。安全寄り(完品羽化重視)に軸を置くブリードでした。具体的には

・温室2台を増設・温度の安定を維持
・餌を少し弱めの添加剤配合
(北斗恵栽園・タダノヒラタケ菌)を3本目の半数に使用
・暴れ又は劣化ボトルは全て4本目に交換
(菌糸及び発酵マット)

しかし今年は特に主水さんからの90.1mm同腹といった良血個体をメインに据え、チャレンジ寄りの方向性で挑むことにしました。具体的には
・インラインブリードを多く組む
・添加剤は強めの餌による取り組み
・プリンカップで餌の食べ方を確認する
・自詰めは少し緩めで喰わせるように

なので正直投入スケジュールのズレは致命的なマイナス要因に繋がることに。案の定、10/8投入分は明らかに交換が遅かったですね。年末交換で良かったようです。反省点は見えているので翌年そのあたりは改善しないといけません。

◯2022年2番(KLBエントリーライン)
主水さんからの2020年当たりライン10番88mm(90.1mm同腹)のインライン。
なにしろこちら10番88mmを種親にしたラインは幼虫採りに苦戦。卵が採れても羽化しないといった状況が延々と続きましたので、半ば種無しと諦めていましたが、それでもどうにか6月末の期限内に最も幼虫が採れたラインをKLBエントリーラインに選定。ただ幼虫体重の乗りはもうひとつ。
久留米インブリードはなかなか難しい。喰い方もじっくりとした居食いではありませんが、還元率の高い系統ですからね。3頭のみの♂ですが、最後までしっかりと管理してどうにか1部リーグ残留を果たしたいところ。










◯2022年4番
こちらは同じ主水さん2020年10番にかっちゃんさんからの♀を掛け合わせたアウトライン
こちらは1本目の投入が遅かった分、菌糸の状態も悪くなく喰い方も満足できるレベルでした。









◯2022年6番
こちらは2020年10番の種なし疑惑が発生、相談した主水さんから急遽援軍として送っていただいた同じく10番同腹の87.2mm
同じ2020年10番でも大顎が太く出る系統にまたものインラインブリード。やはり交換の遅い投入分から37g台が出ています。




次回交換報告に続く。


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