新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月28日 その2 森尾由美の英会話指導に思う

2016-10-28 14:01:55 | コラム
What kind of dressing do you have?

フジテレビでは日曜日の朝6時半から森尾由美、磯野貴理子、松居直美の3人が語り合う、それなりに面白い番組を流している。カリフォルニア州はLAに住んでいるはずの森尾が毎週出てくるのも不思議だとは思う時もある。森尾は何回かに一度は生きた英語の会話の指導?の如きものをやるのに私は興味を惹かれる。少なくとも「科学としての英語」ではないところが肝腎なのだから。「なるほど、現地人はそう言うのか」と感心しておられる向きもあるだろう。結構なことではある。今朝は森尾由美に以下のように刺激されたのだった。

掲題の表現は本13日の朝に「どんなドレッシングがありますか」と尋ねる時にはこう言うのだと、森尾が挙げた例文だ。その通りだし、立派にEnglishではあると言える。だが、ここから先がnative speakerたちが言うことはこのような教科書的ではないので困るのだと言いたい。多くの現地人は「ありますか?」または「在庫していますか?」と尋ねる際に教科書的な“have”ではなく、“carry”で来ることが多いのだから。これは「在庫」=“inventory”を言う時に“carry inventory of 何とかかんとか”と表現することから来ているかと思うが、これがアメリカでの“English”だと思って置かれると良いだろう。

この“carry”はほんの一例であり、このように現地人たちは「科学的」ではないEnglishを日常的に使ってくると承知しておくと良いだろう。それは時には“idiom”であり、“slang”であり、時と場合によっては“swearword”等という代物も飛び込んでくる場合もあって「それって何のこと」戸惑わせてくれるものだ。所謂日常会話であるから、そんなに難しいことではないので、少し例を挙げてみよう。アメリカでコーヒーは食事中にガブ飲みする安価な飲み物なので、常にwaiter等が「お代わりが要りますか」という意味で“More coffee?”と言って回ってくる。

欲しければ“Yes, please.”と言ってcupを差し出せば良いだけのことだが、要らない場合もあれば少しだけ欲しい時もある。「不要だ」は簡単で“No thank you.”で良いのだ。だが、現地人はこうは簡単にはことを終わらせない。カップの上に手をかざして“I’ll stay with this for a while.”等という。「現状で良いよ」という断り方。または”Not right now. Thanks.”等という言い方もする。

私は「少しだけ」は言いにくいと思っていたが、“A little, please.”で十分だと経験的に学習した。だが、アメリカ事情に不馴れな頃に現地人が“Just a dash.”と言うのを聞いて流石に上手いことを言うなと感心していた。ところがwaiterは手元が狂ってなみなみと注いでしまった。お客は「多過ぎる」と言って叱った。すると彼は慌てず“This is my dash. Sorry.”とにこやかに切り返して呆気なく終わった。

長い説明だったが、Englishの表現は学校の試験ではないのだから「答えは一つ」ということはないのだ。各人のその時の気分で色々な表現を使われてしまうので、単語帳的な知識を誇っていると簡単な表現でも困惑させられるものだと言いたいのだ。それに持論である「カタカナ語」が怪しからんこともある。初めてアメリカ本土に行って本社のマネージャーと打ち合わせの時にコーヒーが出たのだが、“How do you take it?”と秘書に尋ねられて瞬間的に混乱させられたとは何度も述べた。

それは「どのようにして飲むのか」と訊かれれば「コーヒーカップから」に決まっていると思ったのであった。だが、Englishの意味は“Cream and sugar”は要るかと尋ねていたのだった。そこで“I’ll take it straight. Thank you.”と答えて切り抜けた。彼らはコーヒーには「ミルク」は入れないで“cream”を入れるのだが、カタカナ語というか我が国の習慣では「ミルクとお砂糖は?」という表現になる。コーヒーには牛乳は入れないものなのだ。

こういう細かい例を挙げる目的には「科学としての英語」で習い覚えた単語帳的知識で英会話に臨むと、思いがけなかったか、乃至は聞き慣れないか見慣れない表現が飛び出してくる。そこで「アレッ」となった時点で思考回路が閉ざされてしまう経験を何度かしたものだった。この難関を克服する為には懸命になって「彼ら現地人は『こういう時にはこのように表現するのか』と記憶して、それを使う時が来るのを待っておくこと」だった。これはその気にならないと容易に蓄積出来ないので大変なのだが。

他にも例を挙げておけば、アメリカでは支払いをする時に“Cash or charge?”と訊かれるのだ。これは「現金ですかカードですか」という質問なのだが、「カード」と言わずして“charge”となるので、戸惑わされる。これはホテルで「この勘定は部屋付けに出来ますか」と言う時には“Can I charge it to my room account?”と言えば良いのと同じ“charge”の使い方である。「科学として英語」の語法にはないと思う。

もう一つだけ例を挙げておくと、アメリカに入国の際に入管と言うか所謂「パスポート・コントロール」で尋ねられる入国の目的が“Sightseeing?”ではなく、“Business or pleasure?”であること。即ち、「サイトシーイング」ではなく“pleasure”という「楽しさ、娯楽、観光」等を意味する言葉が使われるのだ。

そのような「native speaker並の上手い表現」の記憶のファイルが増えるようにするのも必要だが、肝心な点は「その現地人の表現が科学としての英語の言い方とどう違うか、思考体系の何処か変わっているかを把握することだ」と信じている。「いや、俺は飽くまでも『科学としての英語』で十分である、そこまでやらないで十分海外で用が足りてきた」と主張される方も多い。それはそれで結構なことで、私はそうおっしゃる方の英語力というか表現力に介入しようとは考えていない。「コミュニケーションが取れれば良い」のだから。

上記は昨年の10月に掲載したものを加筆訂正したものである。その狙いは我が国の学校で教えている「科学としての英語」と現地のEnglishとの違いの例を追加したい次第である。


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