新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月10日 その3 小学校3年から英語を教えるだと

2017-11-10 15:04:11 | コラム
悪い冗談だろう:

実は、以下は3年前の11月に一度採り上げた話題だが、何度述べても良いと思う主張なので、多くの方にご認識願いたいことなので、ここに敢えて再録する次第だ。

恐らく反発される方が多いだろうと思う案件だ。そういう方には「日本語が未だ満足に出来ていない子供に英語を教えて何の為になるのか、誰がどうやって海外で議論も出来るし大学で経済学でも教えられるまでの次元の英語を教えるのか」をとくとお考え願いたい。

ある会合で元小学校の先生だった女性と一寸語り合う機会があった。先生は寧ろ嬉しそうに正式に教科となったことを語っておられた。そこで、年来の持論を手短に述べて、如何に愚かなことかを力説した。先生は一瞬戸惑いの表情を見せたが、「私に教えろと今言われたとしても出来ない」とは言った。要するに、どれほど愚かなことかなどを全く解っておられなかった。私にはそれは当たり前というか普通なことだと思えた。

強調して語って差し上げたことの一つが「これまでに我が国の中学から始めて大学まで教えてきた『科学としての英語』がどれほど“話せるようになる”という点でも効果を挙げてきたか(読解力は別だとは言えるが)。小学校の児童を国際人なる空想上の存在に仕立てる為に、3年の頃から英語を教える意味が何処にあるのか。今まで効果が出なかった教え方を、小学校の3年までに降ろせば効果が出るのか。その教育にnative speakerを使うと言うが、その質の良し悪し、程度の高さ低さを判定できる能力がある人が文科省にも各段階の学校にもどれほどいるのか」だった。目を白黒された。

私がこれまでに小学校からというか幼児に英語を教えることがどれほど無意味かを何度も強調し、且つ機会を得れば語ってきた。だが、悲しいかな効果を挙げるまでに至っていなかった。それはある出版社のデスクがいみじくも(認識不足で言われた?!)私が無名な存在であるかからかも知れない。今週の運週刊新潮に藤原正彦氏が「管見妄語」で指摘されたことは、何と私の持論と全く同じだ。「藤原氏は解っておられる」と偉そうに言おう。少なくとも同調者がおられたと意を強くしたのだって。(失礼)

何度でも言うが、仏文学のTK博士が指摘された「我が国の世界最低の水準にある外国語教育の手法を、小学校にまで引き下げて効果上がる訳がない」のだ。私には私の勉強の仕方、即ち「音読・暗記。暗唱方式で、単語帳など作らない」で数人に教えて効果があった実績がある。

それでは「Nが少ない」という方が多い。それならば、我が国の学校教育に「自由に自分が思うままに英語で話せるようになったほど効果が挙がっていないNがどれほどあるのか」と問い掛けたい。藤原氏も「英語を使う職業に就く希望を持つ者だけが中学校から全力で始めれば良い」と言っておられる。その通りだ。

申し上げて置くと、私はそういう為の英語を勉強した訳ではないが、偶然の積み重ねで職業としてアメリカの会社に転身しただけである。そこで、私独自の英語の勉強法で培った英語力が活かせただけのこと。そして22年余を経て今日の持論に立ち至ったのだ。その経験もない人が小学校から英語を教えて国際人を養成しようなどと言って欲しくない。藤原氏もアメリカ人に国際人と呼べる者など一割もいないと書いておられる。これもその通りで、私は滅多にそういうアメリカ人に出会ったことなどない。アメリカ人が国際人だなどと思い込まないことだ。即ち、国際人になる為には英語が話せねばと言うのならば、アメリカには国際人だらけだということになりはしないか。

兎に角、小学校の3年から英語を教えるなどという戯言は直ちに撤回すべきだ。






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