新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月22日 その2 何故にカタカナ語を濫用するのか

2018-10-22 14:51:51 | コラム
日本語を破壊しつつある恐るべきカタカナ語の氾濫:

これは16年の10月18日に一度発表したもの。しかしながら、その後でもマスコミの世界で余りにカタカナ語の語彙の拡張と濫用が続くので、それは余りにも好ましくないと痛感したので、ここに再度加筆・訂正してご高覧に供したいと思うに到った次第だ。こういう主張は何度でも繰り返しておくべきだと信じている。

レガシーって何:
これはカタカナ語排斥論者を憂鬱にさせてくれた現象の一つである。16年の小池都知事の就任以降“legacy”という難しいというか文語的な言葉がカタカナ語化されて普及し始めて、独り歩きをしているのだ。残念ながら私のW社在職中の英語力を以てしても、仕事の面でも日常的な会話の中で使う必要もなかったし且つまた使った記憶がない言葉である。それがカタカナ語化されてスラスラと出てきて、テレビでも新聞でも当たり前のようにオリンピック関連の施設について使われるようになったのだった。

本当に恐れ入る我が国の学校教育の英語における単語重視の笑うに笑えない無意味な成果であると切り捨てたい。「貴方はこの単語を使って何か英語の文章が書けるのか」と問いかけられて「出来る」と言える人がいたらお目にかかりたいほどだ。

Oxfordを見ると、“money or property that is given to you by ~ when they die.”となっていた。「何方かが亡くなった後で貴方に与えられる金銭か資産」のことのようだ。ジーニアス英和には「(遺言によって譲られる)遺産(inheritance)、《一般に「相続財産」はheritage》」となっていた。次には「受けつがれたもの、名残、遺物」と出ていた。何となく元の英語の意味からすると違和感を覚える使われ方だが、最早誰も止められない形で普及したようだ。

このように目下濫用しまくられているカタカナ語を使った文章を戯れに作ってみたら、このようになった。

“「イベント」の「キーワード」は「チャレンジ」であり「リアル」に「インパクト」があって「パワー」を感じるので「シリアス」に「コメント」することも「イメージする」ことも出来ない”という具合になった。

これを読まれた多くの方はこの例文の意味がお解りになるだろうと思う。私は解ってしまうのはかえって困ったことだと本気で考えている。近頃テレビ等に登場する無知蒙昧な輩や有識者風の先生方のご愛用のカタカナ語を冗談半分で使って作文してみるとこうなっただけのことなのだ。私は「これでは最早日本語ではなく、何か異質の言語である」と言いたい思いである。試みに漢字と熟語を使って日本語に焼き直してみれば「この催し物の鍵となる言葉は挑戦であり本当に衝撃的で勢いを感じるので、本気で論評することも何かを思い描くことも出来ない」辺りになるかと思う。

私が恐れ且つ嫌っていることは「何処まで漢字文化を避けるのか、あるいは無視し日本語を破壊すれば気が済むのか」という点なのである。更に「そもそも、英語の言葉をカタカナ語化することで、漢字本来の意味を表現できると思うの誤りである」のだ。だが、それだけではなく、恐らく彼らカタカナ語乃至は借用語崇拝者どもは最早漢字文化が理解できないので、格好を付ける為に習い覚えさせられた(自発的に習い覚えたのではないと敢えて断じる)英語の単語の意味の一部だけを切り取って代替しているに過ぎないのではないのか。その意味を取り違えないで使われていれば未だ救いがあるが、誤解か誤認識している例が多いのが甚だ宜しくないのだ。だからこそ、私は「単語は流れの中でその使い方をと意味を覚えよ」と主張するのだ。

このままにカタカナ語の濫用が進めば、私が危惧するところは「漢字文化を排除して全てハングルに置き換えてしまった韓国にも似た事態になりはしないか」なのである。仮令無意識であろうとも、決して真似るべきことではないと断言する。だが、私には「現実はその方向に進んでいる」かのように見えるのだ。

死語と化しつつある漢字の熟語:
テレビ局がおかしなカタカナ語を濫用し続けると「耳から入る言葉の影響力は読むよりも強烈だ」という私の持論が現実となりつつあり、最早「催し物」という熟語は死語と化し「イベント」にされた、「挑戦」も「チャレンジ」に置き換えられた。ここには採り上げなかったが、松坂大輔が使い始めた「リベンジ」も「仕返し」を消し去ってしまう猛威を振るっている。“revenge”は他動詞であり目的語が必要だとだけ言っておこう。英語では“retaliate”という言葉があって、この方が適切であると思うが、多分、難しすぎて誰も覚えていられなかったのだろう。

「思い描く」は「イメージする」にされてしまった。「パワー」も困ったもので「身体能力に優れ、力があること」を全てこれで置き換えてしまった。Oxfordに始めに出て来るのは“the ability to control people or things”とあるし、次でも”political control of a country or an area”であるに拘わらず。

「シリアス」という表記も細かいことを言えば困ったもので、発音記号を見るまでもなく「シアリアス」と表記する方が原語に近いのだが、例によって例の如くにローマ字読み式に準拠してしておかしな表記にしてしまった。何処かに英和辞書すら持っていない通信社が何かがカタカナ語化したのだろうと疑っている。因みに、Oxfordを見ると、いきなり出てくるのは“bad or dangerous”で、次が“needing to be thought about carefully; not only for pleasure”と出てきて、間違った言葉を引いたかの感すらある。

英語での日常会話では“Are you serious?” などと言えば「君は本気かい?」という意味になるのだが、「シリアス」は「深刻」という意味で使われているようだ。

兎に角、ここで声を大にして指摘しておきたいことは「単語帳的知識に基づいて英語の言葉を漢字の熟語の代わりに、格好付けて使うのを好い加減に止めろ」なのである。こんなことを続けていれば、我が国の漢字文化を破壊するだけではなく、国語自体を訳の解らない代物にしてしまうだろうと危惧する。その結果で英語に訳そうとしても意味を為さない言葉にしてしまいかねないとシリアスに案じているのだ。また、おかしなカタカナ語を読んだり聞いたりする方たちも、解ったように気分になっては貰いたくない。

「カタカナ語は元の英語の言葉の意味と使い方を正しく理解できていない為に、誤用された上に濫用されて日本語を破壊しているのであり、無闇に格好を付けて使うべきではない」と認識して欲しいのだ。



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