音読・暗記・暗唱:
正直に言えば、私は① I read a newspaper every day.② I am reading a newspaper every day,もそれで通用するだろうと思っています。だが、答えは一つという我が国の英語教育の中では何れか一方を選んで正解として答えねばならないのでしょう。
この縛りの中で「科学としての英語」を数学のように教えて点数を付けていくのが我が国の学校教育における英語の特色ですから、こういう設問が出てくるのも不思議ではないと思います。
私は中学生の頃に何の理屈も理論的な裏付けなとなく、そういう勉強の仕方を避けて、学校で何を教えられようと最も楽な勉強の仕方であった「音読・暗記・暗唱」だけをやっていました。その勝手なやり方でも何故か正しい言い方と表現がいつの間にか身に付いていたのです。
より具体的に言えば、旧制中学から大学の教養課程までの間に、英語の試験で90点を切ったのが2回しかなかったというところに到達していました。勿論、その間には大学受験を控えて佐々木高政氏の名作「英文構成法」で英作文の勉強もしたことがありました。この本で学んだことの効果は絶大で、既に採り上げた日系人のMBAには「英文を書く基本は出来ている」と認めて貰えました。
「音読・暗記・暗唱」に走ったのは「単語カード」だの「単語帳」だの、「英文和訳」だの「英作文」だの「文法」などは面倒だからと手を出さなかったずぼらでもありました。そういう先生から見れば不真面目な生徒だったにも拘わらず、気が付けば高校の頃には「文法の達人」と周囲にも認められたのでした。そう言う域に達したのが、偶然だったのか、そのずぼらな勉強法が良かったのかなどは知りません。
しかし、大学に入って私などは到底及ばない凄い英語力を持った同級生に出会って、恐る恐る高校までの英語の勉強法を尋ねてみれば何と私と全く同じだったのでした。彼は私とは違って全科目に優れていたので、3年になった時に大学の推薦で米国に留学に出て行きました。ではあっても、私の勉強法が誤りではなかったことが立証されたので、大いに意を強くした次第でした。
一つ、私が彼とも他の学生とも違っていた点がありました。それは終戦後直ぐからGHQの日系人の秘書の方に「英語だけで考える事」と「英語だけで考えて英語を話す事」を言わば強制されたことが大きな助けになっていたと言えるでしょうか。
私は大学の卒業を目の前にして「英語で仕事をする会社にだけは行きたくない」と固く心に決めていました。それは仕事で英語を使う事が余計な負担になるからと考えたからでした。また、アメリカの会社に変わることなど夢にも思ったことなどありませんでした。それが偶然の積み重ねで17年もお世話になった会社を離れて39歳にして移ってしまいました。それは英語が出来るからではなく「能力を買われた」と自分に言い聞かせていました。
正直に言えば、私は① I read a newspaper every day.② I am reading a newspaper every day,もそれで通用するだろうと思っています。だが、答えは一つという我が国の英語教育の中では何れか一方を選んで正解として答えねばならないのでしょう。
この縛りの中で「科学としての英語」を数学のように教えて点数を付けていくのが我が国の学校教育における英語の特色ですから、こういう設問が出てくるのも不思議ではないと思います。
私は中学生の頃に何の理屈も理論的な裏付けなとなく、そういう勉強の仕方を避けて、学校で何を教えられようと最も楽な勉強の仕方であった「音読・暗記・暗唱」だけをやっていました。その勝手なやり方でも何故か正しい言い方と表現がいつの間にか身に付いていたのです。
より具体的に言えば、旧制中学から大学の教養課程までの間に、英語の試験で90点を切ったのが2回しかなかったというところに到達していました。勿論、その間には大学受験を控えて佐々木高政氏の名作「英文構成法」で英作文の勉強もしたことがありました。この本で学んだことの効果は絶大で、既に採り上げた日系人のMBAには「英文を書く基本は出来ている」と認めて貰えました。
「音読・暗記・暗唱」に走ったのは「単語カード」だの「単語帳」だの、「英文和訳」だの「英作文」だの「文法」などは面倒だからと手を出さなかったずぼらでもありました。そういう先生から見れば不真面目な生徒だったにも拘わらず、気が付けば高校の頃には「文法の達人」と周囲にも認められたのでした。そう言う域に達したのが、偶然だったのか、そのずぼらな勉強法が良かったのかなどは知りません。
しかし、大学に入って私などは到底及ばない凄い英語力を持った同級生に出会って、恐る恐る高校までの英語の勉強法を尋ねてみれば何と私と全く同じだったのでした。彼は私とは違って全科目に優れていたので、3年になった時に大学の推薦で米国に留学に出て行きました。ではあっても、私の勉強法が誤りではなかったことが立証されたので、大いに意を強くした次第でした。
一つ、私が彼とも他の学生とも違っていた点がありました。それは終戦後直ぐからGHQの日系人の秘書の方に「英語だけで考える事」と「英語だけで考えて英語を話す事」を言わば強制されたことが大きな助けになっていたと言えるでしょうか。
私は大学の卒業を目の前にして「英語で仕事をする会社にだけは行きたくない」と固く心に決めていました。それは仕事で英語を使う事が余計な負担になるからと考えたからでした。また、アメリカの会社に変わることなど夢にも思ったことなどありませんでした。それが偶然の積み重ねで17年もお世話になった会社を離れて39歳にして移ってしまいました。それは英語が出来るからではなく「能力を買われた」と自分に言い聞かせていました。