「日本市場を開放させた」は誤認識で誤解である:
ウエアーハウザーという嘗ての日本向けの輸出では、ボーイング社に次いで2位にあった会社で、その輸出を20年以上も担当した者として、トランプ大統領が何処をどのように曲解されているかを改めて指摘したいのだ。
その20年以上の経験から言うことは「日本の需要家も最終消費者もアメリカ製品に対して市場を閉鎖しようなどと言う大それた考えなどハナから持っていない」のである。アメリカの製造業界の多くの企業の対日輸出が、事前に意図した通りに進まなかったのは日本市場の閉鎖性の所為でも、非関税障壁の為でもないのだと断じる。
私は我が国の多くの消費者は古い言葉の「舶来」に惹かれ、アメリカのブランド品を持っている、使っていることをひけらかしてさえいるのだと承知している。論より証拠で、マクドナルドはあれほど人気が高く、Coca Colaが好まれ、Starbucksがその街の近代化の象徴だと認識していた地方都市があったし、Ralph LaurenやNikeやNew Balanceが市中に溢れているではないか。だが、これらはアメリカが輸出した製品ではないと解っておられる方は多いと思う。
問題は「アメリカでは衰退したままの製造業界が自国内で製造した最終製品は日本市場にトランプ大統領を満足させるほどには浸透していない点」にあると思う。これは絶対に「市場が開放されていない為」ではない。
アメリカは古くは「大量生産→大量販売」という「売り手市場」というか、私の見解では「producers’ market」なのである。自社のスペック(製造規格)でしか物を作らないアメリカ市場では通用しても「多品種少量生産」の日本市場には向いていなかっただけのこと。換言すれば「自社都合」だけで大量に作った製品(「マスプロ」のこと)を、消費者の趣味・趣向等に配慮せず「さー、買ってくれ」と売る方式なのだ。相手国の市場が求めている製品を作って売り込もうという気構えはなかったのだ。
この方式を全く異なった長い歴史の下に醸成された異文化の国、日本市場にも通用するはずだろうとばかりに持ち込んだ辺りに、「上手く行かなかった大きな原因があった」と私は見ている。尤も、買う側の我が国にも「アメリカは異文化の国である」との認識も、アメリカと同様に欠落していた。双方が解っていなかったのでは、上手く事が運ばないのは当たり前なのである。
私は自動車の失敗に準えて、クリントン政権の下でアメリカがパルプやウッドチップしか輸入しない日本市場に誇らしげに「世界最高の品詞であると売り込んだ印刷用紙が失敗だった事」を、左ハンドルのアメ車が受けなかったことに準えて「左ハンドルの紙では幾ら頑張っても、日本市場には通用しない」と指摘したし、事実として我が社を含めてアメリカの印刷用紙は根付かなかった。
このアメリカのマスプロ製品が日本市場に狙い通りに浸透しなかった原因を分析すれば、以下のようになる。第一に日本市場の細分化された規格と市場の要求に合わせようとしなかった(合わせられなかった)事を挙げたい。大量生産の体制の下では、細分化された需要者側の規格に合わせて生産すれば効率が低下するし、設備能力自体に柔軟性が無いような設計されている。簡単に言えば「小回りは出来ない」のである。
次に挙げたくなるのが、アメリカにはない流通機構という障害である。アメリカ人の精神というか頭脳構造には「自社の製品を販売する事に他人の手に依存することなど無い」のである。勿論進出する前から「流通機構」の存在は承知していても、イザ乗り込んでみて、その複雑怪奇さ?に驚かされたのだった。私の紙パルプ産業界の販売店には元禄時代(江戸中期で1688年)から続く「商店」もあった。
現在では米不足という不測の事態が発生して「流通機構が複雑だった」などと言い出していたが、これらのように製造者側から数えれば四重にも五重にもなっている複雑さ(とアメリカ人には見える)には、その業界ごとに歴史的にも、そうなっていって言わば必然性があったのだ。その辺りは200年と一寸の歴史しかないアメリカには複雑怪奇と見えたのだろう。
「適材適所」を考えて見よう。日本市場への売り込みに必要な条件は、
*市場の品質に対する細分化された細かさと、アメリカでは考えられない厳格さの要求を理解していること
*複雑な流通機構網を突破して、最終需要家まで到達する道案内が出来るような、売り込みを成功させるような能力を備えていること
*「製造から需要まで」の仕組みに精通し、尚且つお客を確保していること
*専門語に至までの高度な英語能力を備えていること
などを挙げるが、これだけのじょうけんに叶う営業マンなどが、何処にいるというのか。要するに外資にとっては「適材」不足なのだ。
事「人材」の点では上記のような能力の持ち主が、日本全体で何人いるだろうか。また、もし自社内にいたら、経営陣が現在にように国際化の時代に、むざむざと手放すだろうか。駐在の経験者や名門私立大学等に留学してMBAを取得した人たちがいるというかもしれないが、アメリカの会社の実情を知れば、簡単には動かないと思うよ。
さらに問題として再び取り上げたいことがある。それは「大量生産から大量販売」で今日に至っているアメリカの製造業界には「最終需要からの細分化された品質の要求(カタカナ語なら「ニーズ」だ)に合わせられる設備能力もないし、製造担当部門にも営業担当者にも、それに対応できる柔軟性も思考体系もないのではないか。結果として「買わない日本が悪い」か「買わないのは誤りである」となってしまっている。
ここまで言えば十分だと思うのだ。即ち、日本国と日本の市場が意図的に門を開いていなかったのではなく、門扉を開かせることに失敗した者たちが責任を回避して「買わない日本が悪いのだ」と弁解しただけのことではないのか。しかも、私は本稿では「労働力の質」という、アメリカ側の根本的な障害には触れていない。
要するに、トランプ大統領が繰り返して主張される「日本は何百万台の車を輸出するのに、アメ車を買わない」であるとか「市場開放していない」、「アメリカを貪っていた」というのには多少の理はあるかも知れない。だが、それらは根本的に皮相的な認識であり、50年以上も前の古き良き去りし時代の日本観に執着している」と指摘したいのである。
以上は、20年以上もアメリカの大手製造業の会社に勤務して、対日輸出にそれこそ身を粉にして働いてきたからこそ、実体験に基づいて言える「アメリカの問題点」なのである。「買わない日本が悪い」は誤りで、アメリカ側は「売り方の手法を間違えていたこと」を認めて改善すべきなのである。それなのに「80兆円で15%を買った」と言う放言は撤回させたい。