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新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月23日 その2 石破茂首相/赤沢亮正大臣のタッグティームの合意に思う

2025-07-23 13:27:55 | コラム
トランプ政権との関税交渉の合意を巡ってー果たしてどちらの勝利だったのか:

本23日の朝、「トランプ関税とは」と見直して掲載したその直ぐ後で、ジムでエアロバイクを漕ぎながら見た合意に到達というニュースには、正直な所を言えばやや落胆を禁じ得なかった。トランプ大統領が日本との貿易合意を発表し、関税を15%で妥結、日本がアメリカに80兆円(円換算)もの巨額投資を約束したという。確かに表面的には「大きな成果」だと言えるのかもしれない。だが、果たしてこの合意の本質はどこにあるのかを考える必要はないのか。

率直に感じたままを言えば、今回の交渉を主導した石破首相と赤沢大臣のタッグティームには「国際交渉ゲーム」の修羅場を踏んだような老練さが感じられないのが残念だった。「国家の将来に直結するような合意を、果たしてこのようなタイミングで、しかも明らかに求心力を失いつつある石破内閣が、あたかも既成事実のように結んでしまって良かったのか」という事。

アメリカ側から見れば、これは実に巧妙なタイミングだった。レームダック化したと言える石破政権は、国内的には「成果」を求めるあまり、交渉において譲歩を強いられやすい。しかも、その“後始末”は次の政権が背負えばよい、という暗黙の了解すら読み取れはしないか。まさに「政治的に弱い相手」と見て取った上で、最大限の譲歩を引き出す、典型的なトランプ流のディールだと言えないか。

さらに問題は、その“裏”にある。今回の合意が、安保・防衛協力、対中戦略における日本側のさらなる負担を暗黙のうちに含んでいる可能性は高いのでは。巨額投資の内訳も不透明であり、トランプ大統領の「アメリカが90%の利益を得る」との発言には、もはや皮肉すら感じさせる。

このような交渉の場において、政治家が「外交成果」を演出するために、将来の国益を担保していなければならない。外交とは見せかけではなく、長期的な戦略と経験に基づく冷静な交渉が要諦である。

私の目には、今回の合意は、どう贔屓目に見ても「アメリカの勝ち」のように見えるのは僻目か。願わくは次なる政権が、この合意の内容を充分に再検討し、必要であれば堂々と見直しを図る精神力をもって、可能な限り再交渉にでも持ち込んで貰えれば良いのだがと願っている。


トランプ関税批判

2025-07-23 07:31:46 | コラム
アメリカ合衆国の関税(tariff)とは:

赤沢亮正大臣が8度目の交渉にワシントンDCに到着されたときでもあり、この際改めてアメリカ合衆国における関税とはどのような性質であるかを振り返っておこうと思う。

私は未だにトランプ大統領は「関税とはアメリカに輸出する業者か国が負担する性質の税金である」という誤った認識から抜けきっておられないと、半ば本気で疑っている。その理由は前任期の時から「tariffによる多額の税金が連日のように国庫に入ってきている」と錯覚しておられるようなことを言っておられるからだ。何度も引用したように「トヨタは税金を払うのが嫌だったら、アメリカに来て生産すれば良い」との名言(迷言)もあった。イーロン・マスク氏と大揉めになった大予算案ではその資金を減税に引き揚げるとなっていた。

しかし、現行のtariffはIEEPA(国際緊急経済兼現法)という緊急事態が発生した際に適用すると規定されていているのだ。トランプ大統領はその規定の存在を知って、恣意的に利用し始めたのだ。それに対してアメリカの国際貿易裁判所(CIT)は違法との判断を示した。トランプ政権は直ちに連邦巡回区控訴裁判所に上訴した。これを受けて、控訴裁は翌29日に、CIT額出した判断を一時的に停止することを命じた。従って当面は、現在の関税措置が継続されていると言う話だ。

私はトランプ大統領が最初にtariff政策を発表したときには「あり得ないことである。またまた、トランプ大統領の無知がそういう誤った事を言わせたのだろう」と受け止めた。そう言う根拠は、アメリカの大手企業で20年以上も輸出を担当していた者の辞書には「関税は恣意的賦課出来る性質ではない」とあるからだ。だが、私如きが知る機会もなかったIEEPAを持ちだしていたのだ。

関税についての常識論の概要を説明してみよう。そもそも、関税とは自国の産業界を他国からの不当な廉売から守り、且つ保護する目的で当該国からの輸入に賦課する税金である。典型的な例が「反ダンピング関税」(=anti-dumping duties)である。他にも「相殺関税」(=countervailing duties)という相手国が輸出奨励金等を与えているとの確証があれば賦課するものもある。トランプ大統領の「相互関税」(=reciprocal tariffs)と日本語の名称が似ているのが紛らわしい。

反ダンピング関税とは「他国の不当な廉売でアメリカの当該産業界が不利益を被っている場合に、業界から先ず商務省(Department of Commerce)に関税による保護を請願することから始まる。DOCは時間をかけて業界の実情と輸出してくる国を調査する。結果としてダンピングと認めた場合に、この件をITC(=International Trade Commission)に上げて、更に調査・審議される。そして、不当廉売と認められた場合に、初めて関税を課すと決定されるのだ。非常に緻密な調査であり、賦課と決定するまでには何ヶ月も要する。

このような性質であると常識として認識していたので、トランプ大統領がtariffと言いだしたときには、それこそ「何という出鱈目を言うのか」と、理解不能だった。そう受け止めるのが普通のこと。我が国を始めとして、多くの輸出国にはアメリカにダンピング輸出しているとの意識はないのだから。だが、トランプ大統領は違った。誰に入れ知恵されたのか、緊急事態でもないのに、上記のIEEPAを活用したのだった。

大方の有識者や専門家が見るところでは、上記の訴訟合戦は最終的には最高裁判所まで行き着くだろう。そこには9人の判事中に保守派(トランプ派?)の方が多いと見られているので、トランプ大統領側の勝訴かとの予想もされている。困ったことだ。

だが、私は非常に奇妙な訴訟であると思っている。それはアメリカという超大国の大統領が、自国の法律を恣意的に取り上げて、「MAGA」と「アメリカファースト」のスローガンの為に活用しているからだ。それだけではない.「対日本の貿易赤字削減」と吠えられるのは大統領の職務権限内のことだろうから、阻止できない。

しかしながら、その根拠に「自動車を何百万台も輸出しているし、アメリカ産の車を輸入しない」とか「700%もの関税をかけてアメリカ産米の輸入を拒んでいる」などと、間違っているか50年も前の日本に対する古い認識に基づいているのは承服できないし、看過できない。赤沢大臣はこのような事実の曲解と誤謬を指摘されて、有効な交渉材料に活用願いたいものだ。

7月22日 その3 石破現首相に思ったままを言おう

2025-07-22 14:50:53 | コラム
石破首相の言い訳の中でも「関税交渉がある」が最もおかしい:

アメリカ最大級(長年Boeing社に次ぐ第2位)の日本向け輸出会社、ウエアーハウザーで実務をアメリカの一員として担当して来た経験から、自身を持って常識として言うことは「石破首相が何を言われようと、赤沢大臣が何回出張されようとも、交渉の窓口役であるベセント財務長官もラトニック(Lutnick)商務長官もトランプ大統領に「君らの裁量で譲歩して宜しい」との権限の譲渡はされていないという事。

アメリカの企業社会の文化であり習慣であり慣例であることは「交渉を担当する者は、会社または上司の指示と命令通りに取引先かその交渉担当者を納得させて受け入れさせることが、唯一無二の大原則であり、使命なのである。想像するに、UKその他と妥結したということは、彼等はトランプ大統領に自由裁量は認められていなくても、最低(最高?)の譲歩の線くらいは認められているのかも知れない。

赤沢大臣は再三再四「交渉は進展してもう一歩押して詰めれば、何とかなる」という意味に聞こえた交渉の総括を述べておられた。これは納得できない説明のように聞こえた。即ち、もしベセント財務長官が譲歩を許可された線を提示されたのならば「これ以上は幾ら交渉されても応じられない。それで不満ならば上司にでも会って交渉したら如何か」くらいは言うか、ここから先は譲れないと表明するだろう。

アメリカの(両氏はそもそも政治家ではなく会社勤めの方)ビジネスマンが、言外に含みを持たせるようなことを言うとはあり得ないのだ。赤沢大臣は両長官の言葉から「未だ交渉の余地がある」と解釈されたのであろうか。そうだとしても、彼の仕事はそこまでで、残すは最高責任者の石破首相自らがワシントンDCに乗り込んで、両長官かトランプ大統領に膝詰め交渉することしか、局面の打開策はあるまい。

石破首相は今日までに、アメリカに飛んでいく意志があるかのようなことを仄めかしはした。だが、実際には腹心の赤沢大臣任せである。実際にはトランプ大統領との会談は形だけだったし、万博に来日したベセント財務長官とは「目的外会談」となってしまうことを回避したのか、表敬訪問を受けるに止めた。これだけで「関税交渉があるから辞任しない」という、こじつけでしかない言い訳にするのは卑怯である。

また、外務省か山田重夫駐アメリカ大使も赤沢大臣にどのような進言と助言をしているのだろうかと思ってしまう。即ち、「アメリカ人、それも政府高官が交渉の過程で、如何様にでも解釈できるようなことを先方に告げて、気を持たせてしまうことを言うか、いや言う訳がない」と、長年経験してきた範囲内からから言えるのだ。

赤沢氏を責める意図など無いが、彼は東京教育大学駒場高校から東大を経てIvy Leagueの一校であるコーネル大学(Cornell University)でMBAを取得しておられる。だから、アメリカとアメリカ人の思考体系やdebateの手法には慣れていないと困る。彼等が単純素朴に熱意を示して、約束無しでも押しかけてくることに感動する人種ではないことくらいはご承知のはずだ。

石破首相のように口先だけで「乃公出でずんば」と気取っているだけでは、事が進むはずがない。まして、「交渉があるから辞める訳にはいかぬ」とは、どの顔で言っているのかと指摘したい。赤沢大臣が7回話し合いに行かれても、落とせなかった相手でも、自分が出ていけばと言っている単なる虚言にすぎないのではないか。

もしも、石破さんが素直にお辞めになっても、後継者は最低でも「両院とも少数与党」との悪条件を抱えるのだ。そういう事態を引き起こした反省の欠片も見えなかった、昨日の記者会見の模様を見せられて、「暗い陰気な顔になるのは、我々国民の方ですよ」と、教えてあげねばなるまいと思った。

7月22日 その2 本日の憤慨

2025-07-22 10:17:23 | コラム
石破首相が「続投を表明」という表現は:

私はこの「続投」という言葉遣いは不快に感じている。それは、我が国の報道機関の軽佻浮薄さを表しているとみているからだ。誠に気に入らないのだ。この点については、既に繰り返して指摘したことで「何故、彼等が使い始めた古き時代のラジオでの野球の中継放送をしていた頃の用語を総理大臣などの動静にも得意げに使うのか」だった。

内閣総理大臣でも大企業の社長でも「留任を表明した」であるとか「辞任すべきであるとの内部の声や世論に逆らった」場合には、素直にそう伝えれば良いのではないか。何の根拠があって、例えば投球が通用しなくなった投手を続けて投げさせるという事を意味する「続投」という用語を使うのか。一体全体、石破さんは何を投げるのかを問い質したくもなる。

また、彼等は「降板」とも言って、企業社会の人事にも使う。これはピッチャープレートの“plate“を本来の「皿」を「板」として、そこから「降ろした」としたのだろうと推察している。社長さんや役員さんたちはプレートの上に立っているのではない。あからさまに批判すれば「こじつけ」だ。

あらためて言うと「続投」なる表現は、もとは野球の監督や投手について使う言葉であり、本来、民主主義における首班指名や信任の手続きを要する国家元首に対して用いるのは不適切ではないか。「辞任を拒否した」とか、この度の石破首相のように「居座った」場合などには、軽々しく陳腐な放送用語に依存せずに、このようにそのまま批判すべきではないのか。

今回のように各社・各局が一斉に「続投」などという言葉を使って報じるマスコミの姿勢には、総理大臣や党の要職にある者たちの責任追及を曖昧にして、阿っているかのようにしか見えないのだ。まさか、トランプ大統領が某社をホワイトハウスに出入り禁止にしたのを見て、首相官邸でもそうなりはしないかと、ビビっているのかと疑いたくなる。

何れにせよ、マスメディアには「野球の陳腐な放送用語を使って事実を矮小化しないようにして、ありのままに伝えよ」と繰り返して要望して終わる。

当方は言葉遣いに過敏なのだ、念の為。

本日は「ささやき」である。

2025-07-22 08:20:26 | コラム
夏に思うこと:

海水浴:
危険な楽しみだと認識して遊びに行く方が良いと信じている。昭和16年(1941年)から藤沢市鵠沼に病弱な小学校3年の子供にとって良き環境を求めて、転地療養で短期間だったはずの移転をした。そこで、ごく自然に海水浴に出かけるようになった。地元の人たちは「海」に慣れているはずだが、その鵠沼海岸でも度々水死体を見るようになった。結論を言えば「海水浴は危険な遊び」と知るようになった。そう言う理由を幾つか挙げておこう。

先ずは「潮の流れ」は怖いのだと認識すべきなのだ。鵠沼の海は潮の引きが強いので、一寸泳げばスイスイと沖の方に進むし、海面下の「引き」を知らずに波を避けて潜ると、何時の間にか足が立たない沖の方に引っ張られてしまうようになって、何度も慌てた。しかもその潮の流れは西の辻堂の方に向かっているので、気が付けば自分たちが立てたパラソルが見えなくなるほど流されていたのだ。ここで、潮の流れに逆らって泳ぐのも、浜に上がろうとするのも非常に困難だった。要するに危険な点が多いという事。

次は「海底がどうなっているか」などは見える訳が無いと言うこと。海岸という所では、いきなり「ドン」と深くなって、足が海底に届かなくなるものだと心得ておく必要がある。沖まで気持ち良く進んで、潮の流れ(引き)に逆らって何とか戻ってきて、さて立って歩こうかと思えば、その深みにはまって藻掻き苦しんだこともあった。ここで力尽きれば、命の危険が生じる事すらある。

最後は「君子危うきに近寄らず」である。1974年4月にフロリダの大西洋岸のクラブで当時所属していたMead社のパルプの部会に参加したときのこと。生涯に2度と来ることはあるまいかと、大西洋岸での海水浴と洒落込んでみた。快適だったが、鵠沼海岸と同様に水面下の潮の引きが強くて流されるのだった。そこで、波打ち際の水遊びに切り替えて、大袈裟に言えば「難を免れた」のだった。

個人的には「海水浴は楽しめても、あの海水に含まれている塩分の為だと思うが、体がベタベタになるのが気持ち悪かった」のだ。そこで、鵠沼海岸では手前に設けられていた藤沢市営の真水のプールで遊ぶことが多くなっていった。ここならば監視員もいて危険がないし、ベタベタにもならないし、シャワーの設備もあったのだ。

かき氷:
当方は「危険なもの」という時代に育った。多くのテレビ局は現在の異常としか言えない酷暑到来の前から、涼を求める人たちが「かき氷」に群がる状態を、これでもかと言わんばかりに特集するのだった。当方は「これは欺瞞ではないか」と疑っている。即ち、その場では少し冷えても、外に出て外気に触れれば「元の木阿弥」だから。それに、酷暑で弱った体と胃を急速に刺激して良いのかと案じている。塩分の補給が先ではないのか。

顧みれば、私が育った戦前には、「かき氷」とは非衛生的な食べ物?と言うか飲み物であると認識されていたと記憶している。当時の氷は現在のような製法ではなく、その用途も現在のように電気で動くのではなかった冷蔵庫の上の方に入れて冷やす為のものだった。だから、私は「おなかを壊すから食べることはまかり成らぬ」と言って禁じられて育った。

しかも、当時は現在のように多種多様のトッピングなのか何だか知らないが、色々と工夫を凝らして味付けなどされず、精々イチゴかクリーム味くらいしかなかった。何れにせよ、私には馴染みが殆どない清涼飲料的な食べ物だったし、今ではもう70か80年ほどは手を出したことがない。現在の氷は清潔だろうが、テレビ局の連中には「おなかを壊した世代」がいないのだろうと思ってみている。いや、単純に衛生観念が変わった時代になっただけかも。

ところで、石破さんも森山さんも選挙に三回も続けてまけても、猛暑に遭っても、胃にも頭にも影響がないようになるべく育てられたのだろうか。