🔶341『自然と人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易

2022-02-28 20:19:02 | Weblog
341『自然と人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易

 15世紀から19世紀にかけては、西洋列強による、アフリカ人民を目当てにしての奴隷貿易が行われていた時代だ。
 まずは、奴隷貿易船の主なルートと、その先々での奴隷の獲得方法とは、およそつぎのようなものであったらしい。リバプール、ルーアン、ボルドー、リスボンなどから出向した「奴隷船」は、まずアフリカの西岸、南岸及び東岸のあたり、典型的には南岸のダホメ王国やベニン王国など沿岸の黒人国に、寄港する。そして、積んできた小火器、ガラス、綿布などとの交換で奴隷を手に入れていたのだという。
 もう少し詳しく述べよう。ポルトガルの奴隷船は通常、赤道以南のコンゴ川流域、現在のアンゴラやモザンビークなどのバントゥー系アフリカ人を捕らえたり、供給を受けたりして奴隷に仕立てる。そこには債務ゆえの奴隷もいたのかも知れないが、いたとしても多くはなかったろう。一説には、出港前にはキリスト教による奴隷としての洗礼を受けさせる。むろん、奴隷の意思や宗教ルーツなどは顧慮されない。いうなれば、彼らにとっては「精神の刻印」を押される大事であったのかもしれない。
 当時は、イギリスやフランス、それにオランダの奴隷船も沢山行き来していた。こちられは通常、ポルトガルより北にいた黒人たちを捕らえたり、供給を受けたりしていたという。そして、現在のセネガルからニジェール川の河口付近の港から新天地やヨーロッパへ向けて出航していたという。
 当時、こうした船が向かった先の新天地は、主に南北のアメリカ大陸である。具体的な行き先には、(1)スペイン領アメリカ、(2)ブラジル、(3)イギリス領北アメリカと建国後の「合衆国」、(4)イギリス領西インド諸島、(5)フランス領西インド諸島、(6)その他の西インド諸島などがある。
 その延べの人数は、諸説があって定かでない。奴隷貿易の期間を通じての数は、通説では、アフリカからアメリカ大陸に運んだ奴隷の総数は大ざっぱに1500万人とも2000万人ともいわれている。なお、1501~1867年までの大西洋奴隷貿易にかぎっていえば、1070万5850人の奴隷輸入数があったとの研究がある(歴史学研究会編「史料から考える世界史20講」岩波書店、2014)。
 彼らがどのようにして運ばれたのかについては、絵もかなり多く残っていて、その悲惨さをほとんど余すところなく、現代に伝えている。多くは、船底などの床に1人ずつ縛り付けられていた。ガキの掛かる船倉に手鎖などをされて隔離されていたことも、いわれる。
ともあれ、目指す港に到着するまでは、反乱を起こされたり、自殺防止の必要もあったのではないか。
 奴隷制の衰退から廃止にいたった過程については、幾つかの指摘がなされているところだ。例えば、米山俊直氏による指摘には、こうある。
 「300年のあいだに約5000人が奴隷としてアメリカに輸出された、ともいう。この非人道的な貿易に対する非難もしだいに強まったが実際にこの貿易が下火になるのは、19世紀ま中頃以降である。それは人道主義的な配慮によるというよりも、三角貿易がアメリカ合衆国の独立(1776)などによって以前ほど利益を上げなくなったことによるといえよう。ウィリアムズは、「アメリカの独立は、重商主義体制を破壊し、旧制度の信用を失墜せしめた」という。一方では産業革命が英国などヨーロッパ諸国の国内市場を変えてきていた。「資本主義者は、初め西インド奴隷制を奨励し、ついでそれを破壊するのに手をかした」ともいう。英国は1807年に奴隷制廃止宣言を公表、1833年大英帝国奴隷廃止法を制定。フランス、オランダ、アメリカも同様の措置をとり、1850年頃には残っていた密貿易もなくなって、名実ともに奴隷貿易はなくなった。
 しかし、この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な富を蓄積し、産業革命の発展の基礎をつくったが、アフリカ大陸は内部に奴隷狩りの戦闘、掠奪(りゃくだつ)による対立を生み、古い伝統的な制度は瓦解してしまった。」(米山俊直「アフリカ学への招待」NHKブックス、1986)
 これにあるように、19世紀に入ってからは西洋列強の中でも奴隷廃止を決めるのであるが、1850年代におけるリビングストン(リヴィングストン)の探検行においては、事はそう単純ではなかった。東アフリカのアラブ商人と中央アフリカの幾つかの部族が奴隷貿易を担っており、ポルトガル人をはじめとする白人が東アフリカやアンゴラなどの港を基地としてこれに介在し、利用していた。これを目の当たりにした彼は、「奴隷貿易の首領は、てての長官の許可を受けてしたことだと抗弁した。そんなことはわかっている。長官が知らずに、このような取引が行われるはずがないからだ」(アンヌ・ユゴン著、堀信行監修「アフリカ大陸探検史」創元社、1993でリビングストンの著作から引用)と背後に権力の存在があることを告発している。

(続く)

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🔶339『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い、1863以後)

2022-02-28 17:22:39 | Weblog
339『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い、1863以後)

 1864年に入っての6月、逃亡奴隷取締法が廃止される。10月、ネヴァダ州が連邦に加入する。11月、リンカーン大統領が再選される。1865年の初めのリンカーンの第二期大統領就任演説には、こうある。

 「総人口の八分の一は黒人奴隷でありましたが、連邦全体に分布しておらず、連邦の南部にだけ存在していました。これらの奴隷をもとにして独特の強力な利害関係(黒人奴隷制度)が作られました。この利害関係がともかく戦争の原因であることはすべての人が知っていました。反乱者たちが戦争にうったえてまでも連邦を分裂させようとしたのは、この利害関係を強め永続させ拡張することが目的でした。しかし、他方連邦政府はそれが領地内に拡大するのを抑制しようとしたほかは何の権利も主張しませんでした。双方とも戦争がここまで大きくなり長期化するとは予測していませんでした。」(同)

 4月9日、グラント将軍に追われていた南部の主力、リー将軍の率いる軍隊が降伏する。4月14日、リンカーン大統領が暗殺され、翌日死亡したことから、副大統領のジョンソンが大統領に就任する。5月、アメリカ連邦(南部連邦)大統領デーヴィスが逮捕・拘禁される。5月26日、最後の南軍が降伏し、南北戦争が終結した。この戦争で死亡した将兵は、62万3千人に達していた。南部連合は4年目にして消滅することになった。残された課題は、南部11州をどのようにして連邦制に復帰させるかになっていく。12月、合衆国は憲法修正を行い、奴隷制廃止を規定した。
 1866年2月 フランス皇帝ナポレオン3世にメキシコからの撤退を要求する最後通牒を手渡す。4月、黒人の権利擁護をはかる公民権法が制定される。7月には、テネシー州が連邦に復帰する。1867年 3月、ネブラスカ州が連邦に加入する。1868年6月、アーカンソー州が連邦に復帰した。11月、共和党のグラントが第18代大統領に選出される。1869年5月には、大陸横断鉄道が完成する。12月、ワイオミング準州でアメリカ最初の婦人参政権法が制定される。
 1870年1月、ヴァージニア州が連邦に復帰する。2月23日、ミシシッピ州が連邦に復帰する。3月、憲法修正が批准され、白人と黒人の公民権の平等が規定される。7月、テキサス州、ジョージア州が相次いで連邦に復帰したことで、南部諸州の連邦復帰が完了した。1872年11月、グラント大統領が再選される。1873年9月、「1873~79年恐慌」が勃発する。「世界恐慌」ガアメリカにも押し寄せた形だ。ジェイ・クック商会が倒産するなどの激震が走り、南北戦争後から続いていた景気拡大が止まる。1875年1月30日、ハワイとの通商互恵条約締結される。1876年 8月には、コロラド州が連邦に加入する。
 ところで、前の南北戦争で奴隷制の廃止を訴えた北部が南部11州に勝利し、黒人に市民権が与えられたのであったが、彼らの前途は多難なものであった。1896年に最高裁が白人と黒人との隔離政策を容認すると、南部諸州では「ジム・クロウ制度」呼ばれる様々な黒人隔離策がまかり通るようになっていく。要するに、公共の場でも、黒人は白人と同じ場、同じ場所、同じ席にはいられないような差別的取り扱いが社会に広がっていった。こうしたアメリカ国民の生活全般に亘る激しい差別は1964年に導入される公民権法成立まで続いていく。

(続く)

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🔶338『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで、~1863)

2022-02-28 17:20:00 | Weblog
338『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで、~1863)

 1849年2月にはカリフォルニアでゴールド・ラッシュ始まり、以後、ヨーロッパの大動乱を逃れた人々のアメリカへの移民も激増していく。1850年9月、カリフォルニア州が、自由州として連邦に加入を果たす。1851年2月、ボストンで逃亡奴隷取締法に反対する黒人運動が始まる。12月30日、現在のニュー・メキシコ州とアリゾナ州南部をメキシコより購入、メキシコとの国境が画定する。
 1854年 5月30日、カンザス・ネブラスカ法が成立し、新領地での南北両派の対立が煽られる。7月6日、共和党が正式に発足する。1856年5月、奴隷制支持派が反対派を殺害したりで、騒乱が続く。これを「流血のカンザス事件」という。1857年には、合衆国最高裁判所によりドレッド・スコット事件の判決が出される。発端は、この事件の名のミズーリ州の黒人奴隷が主人に連れられて、イリノイ州に来たことで、彼は晴れて自由の身となった。自由州及びミズーリ協定で奴隷制が禁じられた領地に居住することになったと主張した。ところが、同判決はこの主張を認めず、奴隷制支持派に力を与えた。トーニー判事による判決文には、こうある。

 「今や・・・・・奴隷に対する財産権は憲法において明確に容認されている。ふつうの商品や財産の物件と同様に奴隷の貿易をする権利も(憲法制定後)20年間はそれを欲するあらゆる州において合衆国市民に保証されていた。そして連邦政府は、奴隷が所有主から逃亡したならば、それ以後いつまでもそれを保護することを明確な言葉で約束している。」(大下尚一他編「メイラワーから包括的通商法まで、史料が語るアメリカ1584~1988」有斐閣、1989)
 1858年に入った5月、ミネソタ州が連邦に加入する。1859年2月、オレゴン州が連邦に加入する。10月16日、ジョン・ブラウンがヴァージニア州で奴隷解放を標榜してハーバーズ・フェリーを襲撃した。
 1860年11月の大統領選挙で、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選し、翌年の3月に合衆国大統領に就任することに決まる。リンカールの勝利に、南部では衝撃が走った。12月には、サウス・カロライナ州が連邦脱退を決議する。1861年1月、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が相次いで連邦を脱退する。これらのうち「サロスカロライナ州連邦離脱理由の宣言」には、こうある。

 「きたる3月4日、この政党は政権を握ることになる。その政党は南部はすべての新しい公有地から閉め出されなくてはならないし、裁判所はもっと地域的偏向を強めるべきであり、奴隷制に対する戦いは合衆国全域でそれが死滅するまで戦われ続けられなければならないと宣言した。憲法による保障はもはや期待しえない。州の間の平等の権利は失われてしまうであろう。奴隷所有州はいまや自治権や自衛権を失うことになり連邦政府はそれらの州の敵となるであろう。地域的利害と敵意はますます深刻なものとなっていくであろう。和解への望みは、北部の世論が間違った宗教的信念に凝り固まって、大きな政治的錯誤におちいっていることによって虚しいものとなった。」(同)

 同年2月、連邦を脱退した南部7州がアメリカ連邦(南部連邦)を結成する。ジェファーソン・デーヴィスがアメリカ連邦(南部連邦)大統領に選出される。4月には、南北戦争が勃発する。これに先立ち、南部連合に加わったスウス・カロライナ州が州内にあった連邦側のサムター要塞を攻撃した。これに対し、リンカーン大統領は現地に救援軍を差し向け、これが引き金となって開戦に至った。当時の連邦・北部勢力の規模は、23州で人口は約2100万人であったのに比べ、南部連合内には白人が550万人と、かれらの支配下に置かれる黒人奴隷が約350万人いた。
 リンカーンは、開戦と同時に南部海岸線の封鎖を命令する。南部では、黒人奴隷を使っての綿花栽培のプランテーションが行われていた。プランテーションとは、奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向けた、単一の特産的農産物を大量に生産する農園経営のことをいう。南部産の綿花の主な輸出先は、イギリス、フランスなどの欧州向けであった。5月~6月、アーカンソー州、ノース・カロライナ州、テネシー州の4州が相次いで連邦を脱退する。1862年4月、コロンビア行政区で奴隷解放令が実施される。同年の8月22日付け、リンカーンのホレス・グリーリー宛て書簡には、奴隷制に対する彼の微妙な立場が吐露されている。

 「もし奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。また、もしもすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるものならば、私はそうするでしょう。また、もし奴隷の一部を自由にし、他は放置するすることで救えるならば、やはり私はそうするでしょう。私が奴隷制度や黒人種について何かをするとすれば、それは、そうすることがこの連邦を救うのに役立つと信じているからなのです。(中略)以上、公的な義務に対する私の見解に従って私の目的とするところを述べました。」(同)

 当時のリンカーンと政府の念頭にあったのは、この内戦に勝利して南部の連邦からの分離独立を阻止することであって、奴隷制の問題はこの主要目的を果たすために、そのかぎりにおいて考えられていたのである。
 1862年9月にイギリスが南部政府承認の気配を見せると、9月22日、合衆国大統領は軍総司令官の権限で、63年1月1日を期して、奴隷解放宣言を出し、占領地域の奴隷の身分を解放することを布告で明らかにする。それには、「1863年1月1日において、合衆国に対して反乱の状態にある州、もしくは州の一部が反乱状態にあると見なされる地域で例として所有されているすべての人びとはその日以後永久に自由を与えられる」とあった。そして迎えた1863年1月、リンカーンの主張が議会で通った形での奴隷解放宣言が発効する。これにより、イギリスなどによる南部政府の承認を阻んだ。ここに、戦争は、南部の分離独立阻止の戦いから、より広範なアメリカン・デモクラシーと社会変革のための戦いへと性格を変える事になる。高い理想を帯びるに至った北軍の進撃には、迫力が増していった。
 また、この頃の戦闘と直接に関係しないものながら、西部開拓と自営農民化に力を与えようとしたものに、合衆国公有地割譲の条件緩和があった。これより前、合衆国政府が管理する公有地を民間に払い下げる場合は、一区画が大きな面積で行われていたため、これを買うには富裕者や土地転売を目論む不動産業者に有利であった。そんな中、西部への移住者が増えるに従い、公有地をより小さい単位で払い下げてほしいとの要求が高まった。
 その流れは、「1841年先買権法」を経て次第に高まり、ついに1862年、5年間の現地居住と開墾耕作を条件に、160エーカー(1エーカーは約1224坪)分の公有地の無償付与することを定めた「1862年自営農地法」がつくられた。これにより、基本的には、「1863年1月1日以降、一区画として存在し、公有地の正式な分割法に合致し、測量の完了した土地であって、同人がすでに先買権の請求を行っているか、あるいは申請時において1エーカー1ドル25セントまたはそれ以下の価格で先買権の対象とされている4分の1セクション(160エーカー)またはそれ以下の面積の未占有の公有地、あるいはまた1エーカー2ドル50セントの価格で先買権の対象とされている80エーカーまたはそれ以下の未占有の公有地に入植する権利を認められる」(同)ことになった。
 そして迎えた1963年6月、ウェスト・ヴァージニア州が連邦に加入する。7月1~3日にはゲティスバーグで両軍が激突した。ミシシッピ川は、全域にわたって北部、すなわちアメリカ合衆国の支配下に入った。1863年11月19日、リンカーン大統領のゲティスバーグ演説(Gettysburg Address、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において)があった。その初めには、「4世代と7年前に私たちの祖先たちはこの大陸に、自由の理念から生まれ、全ての人が平等に創られているという命題に捧げられた一つの新しい国を生み出しました」と建国の往時を振り返りつつ、その結語では「人民の、人民による、人民のための政治」を共につくりだすことを訴えた。

(続く)

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🔶340『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

2022-02-28 17:16:51 | Weblog
340『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

 はじめに、アメリカの南北戦争が開始された当時の奴隷制の実体について、大まかに掴んでいただきたい。1860年の国政調査の結果があって、それにはこうある。

 「1.サウスカロライナ州、自由人301,271人、奴隷402,541人、総人口703,812人、奴隷人口比率57.2%。
2.ミシシッピ州、自由人354,700人、奴隷436,696人、総人口791,396人、奴隷人口比率55.1%。
3.ルイジアナ州、自由人229,164人、奴隷435,132人、総人口964,296人、奴隷人口比率45.1%。
8.バージニア州、自由人1,105,192人、奴隷490,887人、総人口1,596,079人、奴隷人口比率30.7%。
9.テキサス州、自由人421,750人、奴隷180,682人、総人口602,432人、奴隷人口比率30.0%。
合計(15州)、自由人8,289,953人、奴隷3,950,343人、総人口12,240,296人、奴隷人口比率32.2%。
(出典:エドウィン・ハーグ・シャイマー「奴隷人口地図ーアメリカ合衆国南部諸州(Slave Population kf the Southern States of the US )」リトグラフ(66cm×84cm)、1889を紹介し引用しているのは、ジェリー・ブロットン著、斎藤公太他訳『新世界地図』河出書房新社、2015。なお、原データは“Census of 1860”。)

 このジェリー・ブロットンの著によれば、「南部諸州では平均して人口の30%以上が奴隷だった」とされる。

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 その後の経過についても、以下に簡単に触れておこう、南北戦争中の1863年1月には、緊急に奴隷解放宣言を出したものの、この時は当時の北軍の支配圏内にいる黒人奴隷を解放するものではなかった。前述のようにその文面は「1863年1月1日に、合衆国に対し謀反(むほん)の状態にある州あるいは州の指定地域の内に奴隷として所有されているすべての人は、その日ただちに、またそれより以後永久に、自由を与えられる。」(邦訳は、小川寛大「南北戦争ーアメリカを二つに裂いた内戦」中央公論新社、2020)となっていたのだが、それは一過性のものとなってしまう可能性があった。
 そこで包括的なものとするべくリンカーン政権(共和党)は、1865年1月31日に、憲法修正第13条を議会で成立させた。そこには、「奴隷制および本人の意に反する苦役は、適正な手続きを経て有罪とされた当事者に対する刑罰の場合を除き、合衆国内またはその管轄に服するいけなる地においても存在してはならない。」(前掲書での訳文)と定めてある。

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 なお、南北戦争に込めた南部連合の思惑なり、狙いについては、どんなであったのだろうか。顧みると、南北戦争の開戦前のアメリカの州の数としては34州であった、そのうちの南部の13州については黒人奴隷を使っての、綿花栽培を始めとしたプランテーション経営を多分に行うようになっていた。当時イギリスに住んでいて、国際労働者協会の立場でアメリカ政治を見守っていたマルクスは、国を北部(人口は約2200万人)から分かとうとするアメリカ南部(約900万人)の狙いを、こう指摘している。

 「南部における本来的な奴隷所有者の数は、30万人をこえない。それは少数者の寡頭支配であって、それにたいしては幾百万の、いわゆる「貧乏白人」が対立しており、その数は土地所有の集中によってたえず増大し、その状態はローマの最も衰退した時代の平民のそれとのみ比較しうるほどのものである。」(マルクス、墺(オーストリア)紙「ディー・プレッセ」(1861年10月25日付け)への寄稿より)

 引き続き、マルクスは次のように述べている。
 「奴隷所有者の党にとっては、彼らがこれまでに支配してきた地域を一つの自立的な諸州連合に統合し、連邦の上級権力から脱却することのみが問題であると、こう世間では信じている。これほどひどい誤りはない。(中略)分離主義者たちはケンタッキーになだれ込んだ。彼らはその「全領域」なるもののうちに、まず第一に、デラウェア、メリランド、ヴァージニア、ノース・カロライナ、ケンタッキー、テネシー、ミズーリ及びアーカンソーの、いわゆる「境界諸州」すべてをふくませている。(中略)いわゆる境界州はすべて、南部連合領有のものを含め、断じて本来的な奴隷州ではない。それらはむしろ、奴隷制度と自由労働制度が並んで存在し、支配権を目指して闘争している合衆国の領領域なのであり、南部と北部のあいだの本来的な戦いの場となっている。このように、南部連合の戦争は断じて防衛のための戦争ではなく、どちらかというと、侵略戦争、奴隷制の拡大とその永続のための侵略戦争なのである。」(カール・マルクス、墺(オーストリア)紙「ディー・プレッセ」(1861年11月7日付け)への寄稿より)


(続く)

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🔶1176『自然と人間の歴史』中国の財政金融政策(~2022)

2022-02-28 09:06:20 | Weblog
1176『自然と人間の歴史』中国の財政金融政策(~2022)

 中国においては、2021年秋以降、新型コロナウイルスの感染再拡大で一人の移動制限が強化されたこと、電力危機、運輸面や環境対応などからの隘路(エネルギーなど)も含めて財、サービスの生産、消費が減速。原材料価格の高騰も加わり、大企業だけでなく、中小企業の収益が悪化しているとのこと。

 2021年12月15日には、中国人民銀行が、当日から企業の資金繰りを助ける名目で、銀行の預金準備率を0.5ポイント引き下げた。

 だが、それからも、同月20日には、中国人民銀行は、今度は、銀行が貸し出す際の指標となる政策金利LPR(最優遇貸出金利)の1年物(企業向け)の金利を0.05ポイント引き下げて3.8%とした。政策金利の利下げは、2020年4月以来1年8カ月ぶりのこと。一方、住宅ローンの指標となる5年物については4.65%で据え置いた。
 明けて2022年2月17日には、2021年10~12月のGDP(国内総生産)が発表され、実質成長率前年同期比4%増へと伸びが鈍化した。同日にはまた、中国人民銀行が、約2年ぶりとなるMLF(中期貸出制度)金利の引下げを行った。

(続く)

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