341『自然と人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易
15世紀から19世紀にかけては、西洋列強による、アフリカ人民を目当てにしての奴隷貿易が行われていた時代だ。
まずは、奴隷貿易船の主なルートと、その先々での奴隷の獲得方法とは、およそつぎのようなものであったらしい。リバプール、ルーアン、ボルドー、リスボンなどから出向した「奴隷船」は、まずアフリカの西岸、南岸及び東岸のあたり、典型的には南岸のダホメ王国やベニン王国など沿岸の黒人国に、寄港する。そして、積んできた小火器、ガラス、綿布などとの交換で奴隷を手に入れていたのだという。
もう少し詳しく述べよう。ポルトガルの奴隷船は通常、赤道以南のコンゴ川流域、現在のアンゴラやモザンビークなどのバントゥー系アフリカ人を捕らえたり、供給を受けたりして奴隷に仕立てる。そこには債務ゆえの奴隷もいたのかも知れないが、いたとしても多くはなかったろう。一説には、出港前にはキリスト教による奴隷としての洗礼を受けさせる。むろん、奴隷の意思や宗教ルーツなどは顧慮されない。いうなれば、彼らにとっては「精神の刻印」を押される大事であったのかもしれない。
当時は、イギリスやフランス、それにオランダの奴隷船も沢山行き来していた。こちられは通常、ポルトガルより北にいた黒人たちを捕らえたり、供給を受けたりしていたという。そして、現在のセネガルからニジェール川の河口付近の港から新天地やヨーロッパへ向けて出航していたという。
当時、こうした船が向かった先の新天地は、主に南北のアメリカ大陸である。具体的な行き先には、(1)スペイン領アメリカ、(2)ブラジル、(3)イギリス領北アメリカと建国後の「合衆国」、(4)イギリス領西インド諸島、(5)フランス領西インド諸島、(6)その他の西インド諸島などがある。
その延べの人数は、諸説があって定かでない。奴隷貿易の期間を通じての数は、通説では、アフリカからアメリカ大陸に運んだ奴隷の総数は大ざっぱに1500万人とも2000万人ともいわれている。なお、1501~1867年までの大西洋奴隷貿易にかぎっていえば、1070万5850人の奴隷輸入数があったとの研究がある(歴史学研究会編「史料から考える世界史20講」岩波書店、2014)。
彼らがどのようにして運ばれたのかについては、絵もかなり多く残っていて、その悲惨さをほとんど余すところなく、現代に伝えている。多くは、船底などの床に1人ずつ縛り付けられていた。ガキの掛かる船倉に手鎖などをされて隔離されていたことも、いわれる。
ともあれ、目指す港に到着するまでは、反乱を起こされたり、自殺防止の必要もあったのではないか。
奴隷制の衰退から廃止にいたった過程については、幾つかの指摘がなされているところだ。例えば、米山俊直氏による指摘には、こうある。
「300年のあいだに約5000人が奴隷としてアメリカに輸出された、ともいう。この非人道的な貿易に対する非難もしだいに強まったが実際にこの貿易が下火になるのは、19世紀ま中頃以降である。それは人道主義的な配慮によるというよりも、三角貿易がアメリカ合衆国の独立(1776)などによって以前ほど利益を上げなくなったことによるといえよう。ウィリアムズは、「アメリカの独立は、重商主義体制を破壊し、旧制度の信用を失墜せしめた」という。一方では産業革命が英国などヨーロッパ諸国の国内市場を変えてきていた。「資本主義者は、初め西インド奴隷制を奨励し、ついでそれを破壊するのに手をかした」ともいう。英国は1807年に奴隷制廃止宣言を公表、1833年大英帝国奴隷廃止法を制定。フランス、オランダ、アメリカも同様の措置をとり、1850年頃には残っていた密貿易もなくなって、名実ともに奴隷貿易はなくなった。
しかし、この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な富を蓄積し、産業革命の発展の基礎をつくったが、アフリカ大陸は内部に奴隷狩りの戦闘、掠奪(りゃくだつ)による対立を生み、古い伝統的な制度は瓦解してしまった。」(米山俊直「アフリカ学への招待」NHKブックス、1986)
これにあるように、19世紀に入ってからは西洋列強の中でも奴隷廃止を決めるのであるが、1850年代におけるリビングストン(リヴィングストン)の探検行においては、事はそう単純ではなかった。東アフリカのアラブ商人と中央アフリカの幾つかの部族が奴隷貿易を担っており、ポルトガル人をはじめとする白人が東アフリカやアンゴラなどの港を基地としてこれに介在し、利用していた。これを目の当たりにした彼は、「奴隷貿易の首領は、てての長官の許可を受けてしたことだと抗弁した。そんなことはわかっている。長官が知らずに、このような取引が行われるはずがないからだ」(アンヌ・ユゴン著、堀信行監修「アフリカ大陸探検史」創元社、1993でリビングストンの著作から引用)と背後に権力の存在があることを告発している。
(続く)
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15世紀から19世紀にかけては、西洋列強による、アフリカ人民を目当てにしての奴隷貿易が行われていた時代だ。
まずは、奴隷貿易船の主なルートと、その先々での奴隷の獲得方法とは、およそつぎのようなものであったらしい。リバプール、ルーアン、ボルドー、リスボンなどから出向した「奴隷船」は、まずアフリカの西岸、南岸及び東岸のあたり、典型的には南岸のダホメ王国やベニン王国など沿岸の黒人国に、寄港する。そして、積んできた小火器、ガラス、綿布などとの交換で奴隷を手に入れていたのだという。
もう少し詳しく述べよう。ポルトガルの奴隷船は通常、赤道以南のコンゴ川流域、現在のアンゴラやモザンビークなどのバントゥー系アフリカ人を捕らえたり、供給を受けたりして奴隷に仕立てる。そこには債務ゆえの奴隷もいたのかも知れないが、いたとしても多くはなかったろう。一説には、出港前にはキリスト教による奴隷としての洗礼を受けさせる。むろん、奴隷の意思や宗教ルーツなどは顧慮されない。いうなれば、彼らにとっては「精神の刻印」を押される大事であったのかもしれない。
当時は、イギリスやフランス、それにオランダの奴隷船も沢山行き来していた。こちられは通常、ポルトガルより北にいた黒人たちを捕らえたり、供給を受けたりしていたという。そして、現在のセネガルからニジェール川の河口付近の港から新天地やヨーロッパへ向けて出航していたという。
当時、こうした船が向かった先の新天地は、主に南北のアメリカ大陸である。具体的な行き先には、(1)スペイン領アメリカ、(2)ブラジル、(3)イギリス領北アメリカと建国後の「合衆国」、(4)イギリス領西インド諸島、(5)フランス領西インド諸島、(6)その他の西インド諸島などがある。
その延べの人数は、諸説があって定かでない。奴隷貿易の期間を通じての数は、通説では、アフリカからアメリカ大陸に運んだ奴隷の総数は大ざっぱに1500万人とも2000万人ともいわれている。なお、1501~1867年までの大西洋奴隷貿易にかぎっていえば、1070万5850人の奴隷輸入数があったとの研究がある(歴史学研究会編「史料から考える世界史20講」岩波書店、2014)。
彼らがどのようにして運ばれたのかについては、絵もかなり多く残っていて、その悲惨さをほとんど余すところなく、現代に伝えている。多くは、船底などの床に1人ずつ縛り付けられていた。ガキの掛かる船倉に手鎖などをされて隔離されていたことも、いわれる。
ともあれ、目指す港に到着するまでは、反乱を起こされたり、自殺防止の必要もあったのではないか。
奴隷制の衰退から廃止にいたった過程については、幾つかの指摘がなされているところだ。例えば、米山俊直氏による指摘には、こうある。
「300年のあいだに約5000人が奴隷としてアメリカに輸出された、ともいう。この非人道的な貿易に対する非難もしだいに強まったが実際にこの貿易が下火になるのは、19世紀ま中頃以降である。それは人道主義的な配慮によるというよりも、三角貿易がアメリカ合衆国の独立(1776)などによって以前ほど利益を上げなくなったことによるといえよう。ウィリアムズは、「アメリカの独立は、重商主義体制を破壊し、旧制度の信用を失墜せしめた」という。一方では産業革命が英国などヨーロッパ諸国の国内市場を変えてきていた。「資本主義者は、初め西インド奴隷制を奨励し、ついでそれを破壊するのに手をかした」ともいう。英国は1807年に奴隷制廃止宣言を公表、1833年大英帝国奴隷廃止法を制定。フランス、オランダ、アメリカも同様の措置をとり、1850年頃には残っていた密貿易もなくなって、名実ともに奴隷貿易はなくなった。
しかし、この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な富を蓄積し、産業革命の発展の基礎をつくったが、アフリカ大陸は内部に奴隷狩りの戦闘、掠奪(りゃくだつ)による対立を生み、古い伝統的な制度は瓦解してしまった。」(米山俊直「アフリカ学への招待」NHKブックス、1986)
これにあるように、19世紀に入ってからは西洋列強の中でも奴隷廃止を決めるのであるが、1850年代におけるリビングストン(リヴィングストン)の探検行においては、事はそう単純ではなかった。東アフリカのアラブ商人と中央アフリカの幾つかの部族が奴隷貿易を担っており、ポルトガル人をはじめとする白人が東アフリカやアンゴラなどの港を基地としてこれに介在し、利用していた。これを目の当たりにした彼は、「奴隷貿易の首領は、てての長官の許可を受けてしたことだと抗弁した。そんなことはわかっている。長官が知らずに、このような取引が行われるはずがないからだ」(アンヌ・ユゴン著、堀信行監修「アフリカ大陸探検史」創元社、1993でリビングストンの著作から引用)と背後に権力の存在があることを告発している。
(続く)
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