🔶202『自然ず人間の歎史・䞖界篇』ペヌロッパ諞郜垂の自治ノェネツィア、ゞェノバ、アムステルダムなど

2022-02-26 21:49:14 | Weblog
🔶202『自然ず人間の歎史・䞖界篇』ペヌロッパ諞郜垂の自治ノェネツィア、ゞェノバ、アムステルダムなど

 珟圚のノェネツィアベネツィアは、むタリアの北郚ノェネトベネト州の州郜だ。アドリア海のラグヌンラグヌナず呌ばれる干期ひがたに浮かぶ118もの島々からなるずいう。
 その名の由来は、「りェネティ人の土地」ずいうラテン語だずいう。もう䞀぀、「氎の郜」の通称を持っおいるのは、この街に属する島々が数倚くの橋で぀ながっおいるこずからくるのだろうか。5䞖玀452幎には、このあたりの人びずに自治が築かれる。小さいながらも、共和囜ずなったのち1797幎たで続く。東ロヌマ垝囜の支配䞋にあったのだが、それは緩いものであっお、倚民族の䟵入に晒されおいたこずも、人びずを結束させるに力があったずいう。10䞖玀にもなるず、海運共和囜ずしお貿易で栄えるようになる。
 このノェネツィアだが、信教の自由ず法の支配が有名であっお、これなくしおは「千幎の郜」は実珟しなかったであろう。ここでは、その最盛期、次いで16䞖玀、17䞖玀のそれぞれに぀き、簡単に振り返っおおこう。䞭略
 その16䞖玀の察倖的な有様に぀いおは、こういわれる。
 「しかし、レパントの海戊の勝利にもかかわらず、その埌のスペむンずの䞍和のためトルコの前に孀立し、1573幎にはキプロス島をトルコに譲っお、その意を迎えるこずによっお東方貿易の維持をはかるほかなかった。西欧諞囜の東方貿易ぞの進出がノェネヌツィアの海䞊商業をずきずずもに守勢に立たせおもいた。たた、スペむンずオヌストリアの䞡ハプスブルク勢力のあいだに挟たれたノェネヌツィアの立堎は、むタリアの内郚にあっおも、フランスやサノォヌむァ公囜などず結んで、わずかに珟状維持を策する以䞊には出なかった。」森田鉄郎線「むタリア史」山川出版瀟、1976
 こうした閉塞的な倖郚環境は、17䞖玀に入っおも続いた。

 「しかもノェネヌツィアは、17䞖玀前半においお、いく぀かの囜際的玛争をある皋床成功裡に収拟するだけの力を残しおいた。こずに反宗教改革の波がむタリアを颚靡ふうびするなかで、囜内の教䌚のこずに関しお教皇の干枉を蚱さない独自の立堎を保持しおいた。17䞖玀初頭にノェネヌツィア政府が宗教機関の䞍動産取埗を制限し、たた、二人の聖職者を凊眰したこずに発しお、かねおからノェネヌツィアに教暩の確立をねらう教皇庁ずのあいだに玛争がおこったずき、スペむンの支持を埗た教皇パりルス五䞖は、1606幎ノェネヌツィアを砎門したが、これに察しノェネヌツィア政府は、改革掟の聖職者サルビの指導䞋に完党ず察抗し続けた。」同

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 それでは、こうした自治郜垂ずいうのは、地域によりどのような発展経路をたどっおいったのだろうか、䟋えば、そもそものルネサンス期(14501600)の姿ずしおは、ものものしい䞀面も芗かせおいる。次に玹介するのは、1481幎に発衚されたクリストフォロ・デ・グラッシ䜜の「むタリア、ゞェノバの光景」に寄せたゞェレミヌ・ブラック(歎史孊者)による説明文の䞀節である。

 「ゞェノノァはこれたで繁栄を脅かしたすべおの打撃に備えるこずになった。垂街地にはほずんど特城のない小さな家々がびっしりず密集し、波止堎のすぐそばたで迫っおいる。2本の防波堀ははっきりず描かれ(西偎には)有名な灯台が芋える。枯の䞭倮(画面䞭倮)には歊噚庫がある。」(ゞェレミヌ・ブラック著、野䞭邊子/高橋早苗蚳「䞖界の郜垂地図500幎史」河出曞房新瀟、2016)
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 その埌、17䞖玀たでの姿に぀いおは、䟋えば、次のように説明されおいる。

   ã€Œ17䞖玀にはスペむンの支配䞋に眮かれおいたずはいえ、むタリアには郜垂を䞭心にした郜垂囜家がいく぀もあった。ロンバルディアにあったミラノの北にあったミラノ公囜は、スホルツァ䞀族による独裁的な支配で知られた。(äž­ç•¥)
 ノェネチアダ、ゞェノノァのような郜垂囜家は、か぀おの圹割を保ち぀づけた。16䞖玀および17䞖玀の西掋瀟䌚で、郜垂共和囜は善政た垂民の矎埳のお手本ずしお広く称揚された。共和制ず密接に結び぀いおいた叀代ギリシャの矎埳を思いださせるものだったのだ。公共の矎埳は共和制を特城づけるものであり、「均敎のずれた」組織をも぀囜家の産物ずみされたのである。」(ゞェレミヌ・ブラック著、野䞭邊子/高橋早苗蚳「䞖界の郜垂地図500幎史」河出曞房新瀟、2016)
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 「ネヌデルランド連邊共和囜(オランダ共和囜)は、郜垂連邊のひず぀の圢ずしお、その兞型ず考えられた。1100幎頃に持村ずしお築かれ、1275幎に初めお郜垂特蚱状をうけたアムステルダムはやがお補造および通商の街ずなり、17䞖玀には黄金時代を迎えた。アムステルダムの有名な運河が築かれたのはこの時期であり、1665幎にはアムステルダム垂民の誇りずこの郜垂の重芁さを䞖に知らしめるために壮倧な垂庁舎が建蚭された。
 しかし、倚くの郜垂は独立した存圚ずしお政治を運営したいず願っおはいたものの、領土を接した囜家ずしお連携したほうが、諞郜垂にずっおはより効果的な防衛になったはずである。蟺境地垯にないかぎり、近代的な(そしお費甚のかさむ)芁塞化や垂民軍を必芁ずしなかった。こうした囜家は、領䞻である支配者たちの暩力、財政的な資源をも぀地元の䞊流人士、郜䌚の゚リヌトたちの商業的な関心が組み合わさっお発展した。
 こうした協力関係は䞖界䞭のいたるずころで芋られたわけではない。ほずんどの地域では、田舎ず郜䌚の゚リヌトのあいだに民族および瀟䌚的な栌差があった。そんなわけで、オスマン垝囜の銖郜は偉倧なコンスタンティノヌプルだったが、田舎の領䞻であるムスリムのトルコ人゚リヌトたちは、アレクサンドリア、スミルナ(むズミヌル)、サロニカ(デッサロニカ)ずいった商業の䞭心地で掻動するキリスト教埒やナダダ教埒の有力商人たちに少しも芪近感をもたなかった。」(ゞェレミヌ・ブラック著、野䞭邊子/高橋早苗蚳「䞖界の郜垂地図500幎史」河出曞房新瀟、2016)

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 これらにもあるように、アムステルダムは、商人のために商人により築かれた運河(1600幎代、3぀の倧運河が有名)に囲たれた郜垂であっお、フランドルや北フランス、北ドむツずいった北欧では、領䞻は商人の力に抌されお蟲村郚に移るなどするケヌスが倚かった。これに察しむタリアなどにある郜垂では、封建領䞻である貎族が郜垂領域に入り、堎合によっおは垂民ずなりかわっおいく、その過皋で郜垂は歊装にも努めおいく、いわゆる郜垂囜家の発展が匷く芋られる(もう少し詳しくは、手頃な参考文献ずしおは、石坂昭雄ほか「新版、西掋経枈史」有斐閣双曞、1985を掚奚したい)。

続く
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