♦️1167『自然と人間の歴史・世界篇』米中の国力比較(2020~2022)

2022-02-09 20:58:46 | Weblog
1167『自然と人間の歴史・世界篇』米中の国力比較(2020~2022)

 まずは、2021.2.28の中国側国家統計局発表として、中国の名目国内総生産(GDP)は、同統計局が同日発表した公式為替レートをもとに計算したドル建てのGDPは、前年比3.0%増の14兆7300億ドル(約1550兆円)となった。この換算にあっては、2020年平均でみた人民元の対ドル相場は1ドル=6.8974元と、前年の平均より0.02%のわずかな上昇となった由。人民元建てのGDPは101兆5986億元で、初めて100兆元を突破した。
 中国での新型コロナの状況を振り返ると、年初に新型コロナウイルスがまん延し、早期に抑えこんだ。春以降は生産の回復を急ぎ、不動産開発などをてこに経済が持ち直した形だ。一方、外需も成長を押し上げ、20年は主要国で唯一のプラス成長となった。
 これとは対照的なのがアメリカで、新型コロナ対応の初動でつまずき、経済の足を引っ張った。米商務省によると、米国の名目GDPは20兆9349億ドルと、19年より2.3%減少した。この結果から、2020年、米GDPの7割を超えたことが分かったとされている。


 ついでながら、購買力でみた中国のGDP(それぞれの国内で人々が各国共通の財・サービスをどのくらいで買うことができるかについての、いわば仮定付きの指標)は、アメリカのそれを2014年に抜いており、そのことから、追々市場ベースでのGDP比較でも前者が後者を上回るであろうことは概ね予想されている(注)。

(注)これは、20世紀の初めにスウェーデンの経済学者カール・グスタフ・カッセルが提唱した外国為替レートの決定に関する理論である。具体的には、(Perchasing Power Parity Rate:PPP )レート=(自国の通貨建て物価/外国通貨建て物価)で求められるとしている。
 つまり、様々な財やサービスをそれぞの国の通貨でどれだけ購入できるかという購買力の比でもって当該の為替レートが決まるというもの。この説によると、大多数の人が裁定(異なる市場の間の価格差を利用して利益を得る経済行為)をとるとその財・サービスの価格は同じになっていく、その結果として一物一価の法則が働くと考える訳だ。
 とはいえ、このレートはあくまでも理論値であって、外国為替市場での実際のレート(日々のニュースで伝わる市場為替レート)とは異なっていて、当該の財・サービスでの両市場での価格差が追々縮小し、両国間で一物一価の法則が成立するようになるスパン(中・長期)に至れば、購買力平価説が成立すると考えられる。
 
 したがって、これまでの世界経済での両国の全般的すう勢が大きな変化を来さないかぎり、騒ぎ立てる程のことではあるまい。また、特に日本の保守的政治家などの中には、「今こそ米中のデカップリング」を強調する意見が散見されるものの、大方は経済合理性を無視して主張しているように見受けられ、有益であるとは思えない。

 (参考)「名目GDPについては、アメリカが20.8兆米国ドルなのに対し、中国は14.9兆米ドル。GDPの世界シェア(購買力平価換算)については、アメリカが16%なのに対し、中国は19%。GDP成長率の世界シェア(購買力平価換算)については、アメリカが14%なのに対し、中国は30%。人口については、アメリカが3億3000万人なのに対し、中国は14億400万人。軍事費の対GDP比については、アメリカが3.4%なのに対し、中国は1.9%。研究開発支出の年平均伸び率(2013~2018年)については、アメリカが5%なのに対し、中国は10.6%。ユニコーン企業数(時価10億米ドル超)については、アメリカが233社なのに対し、中国は227社。産業用ロボットの保有台数については、アメリカが29万3000台なのに対し、中国は78万3000台。スーパーコンピューターの保有台数については、アメリカが113台なのに対し、中国は214台。」(国際通貨基金、世界銀行、国際連合、Hurun Global List Report 2020,TOP500,UBS,2021年2月現在、これらを援用しているUBS「中国市場への投資ーグローバル投資家への投資機会」2021年3月から引用)

(続く)

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♦️1156『自然と人間の歴史・世界篇』中国の国有企業(「社会主義市場経済」における、その位置付け、2021~)

2022-02-09 09:04:11 | Weblog
1156『自然と人間の歴史・世界篇』中国の国有企業(「社会主義市場経済」における、その位置付け、2021~)

 2021年10月16日からの報道によれば、中国では国有企業があげる利益と、民間・民営企業(内国)があげる利益(注)が、2021年の1~8月についての比較で逆転したという。


(注)会計上の収益というのは、売上高に利子収入などを含めた全体をいい、これから費用を差し引いたものが利益だとされる。
 なお、国有企業の中での最近の分類については、さしあたり、当局編集の「2020年版財政年鑑」を中心に参照したい。
 また、「社会主義市場経済」というのは、中国独特の経済体制をいうのに中国政府により使われていて、市場を活用することでそれまでの社会主義が不得手であったところを克服しようとの取り組みの一つ(いわば拡張型)であり、そのことは、現代における社会主義を考える上では有益だと考えられる。なぜそうなるかについては、社会主義社会像についての捉え直しを含め、別項で探りたい。
 私見では、今日考えられうる社会主義経済というのは、その複雑系からいって市場抜きには上手くいかない、もっと言えば管理・運営できにくいものとなっているのではないか。もっというなら、そのシステムが分権的であれ集権的であれ、もはや何から何まで計画ですれば上手く事が運ぶというのは幻想だと言って差し支えないのではないか。そうした意味合いでは、ロシア革命からほどなくのネップ(新経済政策)において、食糧徴発にかえて食糧税を設けた時のレーニンの柔軟な発想に多くを学ぶことができるのではないだろうか。

 具体的には、2021年1~8月期の利益総額は、国有企業が民間企業を8%上回ったとされる。この時点で、13年ぶりに通年で国有が民間をしのぐ可能性もあるというから、従来とは異なる展開なのであろう。
 そして、これをもって「政府による国有企業への優遇・強化策のひずみが鮮明」で、なおかつ「資金調達の格差埋まらず」という論調が、日本などで多く見受けられる。さらには、これらをもって、「「国進民退」(注)と呼ばれる習近平(シー・ジンピン)指導部の国有強化のひずみが表面化してきた」と断定しているものもある。

(参考)中国で営業している企業の所有形態別の国民経済に占めるシェア(%)
 都市部就業者数は、1997年に国有企業が53.1%、非国有企業(民営企業)が44.1%、外資企業が2.8%だったのが、2010年には国有企業が18.8%、非国有企業(民営企業)が76.0%、外資企業が5.3%となる。
 工業総生産は、1999年に国有企業が34.9%、非国有企業(民営企業)が39.0%、外資企業が26.1%だったのが、2010年には国有企業が12.1%、非国有企業(民営企業)が60.7%、外資企業が27.2%となる。
 輸出額は、1997年に国有企業が56.2%、非国有企業(民営企業)が2.8%、外資企業が41.0%だったのが、2010年には国有企業が14.9%、非国有企業(民営企業)が30.5%、外資企業が54.7%となる。
(注1)国有企業には国有独資企業を含む。
(注2)非国有企業に外資企業は含まない。
(注3)外資企業には、香港・マカオ・台湾を含む。
出所は、CEICデータベース、「国家統計年鑑」、「中国商務年鑑」をもとに曽根康雄氏が作成されたものを、曽根康雄「「央企」と「国進民退」:高井潔司、藤野彰、曽根康雄「中国を知るための40章(第4版)」、明石書店、2012から引用した。

 そういえば、2020~2021年にかけては、「ゼロコロナ」の新型コロナ対策もあって、当局による中国民間大手企業に対しての規制が矢継ぎ早であった感を拭えない。しかし、この措置については、市場の独占を防ぐ意味合いもあったのではないかと推察されよう。こちらについては、民間企業の多くが、新型コロナ禍で「川下」とされる消費財、サービス関連に多いため原材料価格の高騰や人手不足などで打撃を受けているのは、間違いあるない。また、中国政府がどのような支援措置をとっているのかを具体的に伝えてもらいたい。



(続く)

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新664『自然と人間の歴史・日本篇』社会保障給付の状況(2018年度~)

2022-02-08 09:42:05 | Weblog
新664『自然と人間の歴史・日本篇』社会保障給付の状況(2018年度~)


 社会保障給付は、大きく分けて社会保険と社会保障費の二本立てとなっている。まずは、全体像をつかんでもらいたい。2018年度の社会保険給付の総額は、121.3兆円だ。これをGDP(国内総生産)の564.3兆円との比較でいうと、21.5%と、かなりの比率に違いない。
 そのうちの年金が占める割合がトップの56.7兆円であって、10.1%を占める。次いで、医療が39.2兆円で、7.0%。三番目の介護は、10.7兆円で1.9%を占める。さらに、子育て関係が7.9兆円で1.4%。それから「その他」が6.7兆円で1.2だとされる。


 次には、この給付がどのように負担されているか、つまり財源がどこにあるかが問題となろう。こちらは、大まかな姿としては、保険料によるものが70.2兆円である。たとえば、国民基礎年金においては保険料と半分ずつを、厚生年金では労使で保険料を折半している。
 一方、公費によるものが46.9兆円だという。その合計の給付額と比べての差は、これらのほかに年金制度の積立金を利用していることによる。
 後者の公費の内訳としては、「地方税負担等」が13.8兆円に33.1兆円の国庫負担が加わる。この国庫負担の出どころは、国債発行による収入と税によるものとで成り立たつことになっている(財務省主計局「社会保障について」2019.10)。財源調達手段が国債(内国債)であっても税の徴収であっても、現世代が背負わなければならない(前者ては主に投資が、後者では主に消費が犠牲にされるだろう)。
 この社会保障給付のうち医療費と介護の先行きについては、これに影響を与える、75歳以上の「後期高齢者数」(適切な呼び名とは言えないが)は2030年まで大幅に増加していく、その後ほぼ横ばいのあとの2040年頃から再び増加していく見通しだという。
 その一方で、保険制度の担い手(支え手)としての現役世代(財務省の説明中では、20~74歳)の人口は、今後中長期的に大幅な減少が続く。ましてや、15~64歳のいわゆる生産年齢人口の見通しとなると、さらに大きな減少幅となっていくだろう。たとえ、高齢者や女性などの労働参加が引き続きあったとしても、2030年頃からはそんな努力も虚しく、労働力人口は大幅な減少になっていくのであろう。もちろん、これには海外からの移民を大勢迎えたりすることで、ある程度緩和できるのかもしれない。
 少子高齢化で担い手がますます少なくなると、社会保障財源のうち保険料に関わるところでの財政破綻が取り沙汰されるようになっていく。加えるに、これまでのような大企業や大金持ちの利益を大事にする政府は、その分のしわ寄せを国民にもっていく。年金加入者の減少と受給者の増加への対策として「マクロ経済スライド」をしたのも、その一つだ。そして今回の消費税増税の後、参議院選挙が予定されていることから、その後になるだろうか、年金のさらなる改悪などによる国民負担の増加の企てが幾つも、虎視眈々と準備されている。


 改めていうならば、実は日本は、先進国の中では社会保障に財源をかけていないことで知られている。具体的には、例えば2013年での国際比較(先進5か国、社会保障財源の対GDP比)でいうと、日本は22%(公費負担が8.9%、被保険者本人負担が6.9%、事業主負担が6.2%)、イギリスは26.3%(公費負担が14.5%、被保険者本人負担が3.6%、事業主負担が8.2%)、ドイツは30.2%(公費負担が10.3%、被保険者本人負担が9.3%、事業主負担が10.6%)、フランスは32.4%(公費負担が11.7%、被保険者本人負担が6.8%、事業主負担が13.9%)、スウェーデンは30.6%(公費負担が16.2%、被保険者本人負担が3.0%、事業主負担が11.4%)となっている(資料は、日本が社会保障・人口問題研究所「社会保障費用統計」、他はEurostat「European Social Statistics」)。

(続く)

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新20『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

2022-02-07 22:34:05 | Weblog
新20『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。
 これらのうち初期のものは、2世紀後半から3世紀前半の弥生時代晩期、「楯築墳丘墓」が知られるものの、その築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。
 その後の、いわゆる古墳時代に入ってからの前方後円墳の中では、浦間茶臼山古墳と備前車塚古墳は最も古い時期(古墳時代1・2期)の建造とみられている。
 やがては、吉備地方の古墳の中でも、後期の造立と考えられるものに入ってくる。ざっと西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。
 すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(つくりやま、古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、及び浦間茶臼山(岡山市浦間)、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。
 これらのうち、最も大きいものとしては、5世紀初めの造立だと推定される造山古墳だが、全国第4位の規模だというから驚きだ。その被葬者が誰なのかは皆目見当がつかないようなのだが、盗掘か破壊された可能性が高いという。ある一説には、雄略大王との関係を取りざたする向きもあるものの、憶測の域を出ないのではないか。
 ここでは参考までに、当時のを振り返り書かれたという「日本書記」吉備に関わる、当該の部分を、しばし紹介するにとどめよう。
 「八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不罄竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、內外歡心、欲令普天之下永保安樂。不謂、遘疾彌留至於大漸。此乃人生常分、何足言及、但朝野衣冠、未得鮮麗、教化政刑、猶未盡善、興言念此、唯以留恨。今年踰若干、不復稱夭、筋力精神、一時勞竭、如此之事、本非爲身、止欲安養百姓、所以致此、人生子孫、誰不屬念。
 既爲天下、事須割情、今星川王、心懷悖惡、行闕友于。古人有言『知臣莫若君、知子莫若父。』縱使星川得志、共治國家、必當戮辱、遍於臣連、酷毒流於民庶。夫惡子孫、已爲百姓所憚、好子孫、足堪負荷大業、此雖朕家事、理不容隱、大連等、民部廣大、充盈於國。皇太子、地居儲君上嗣、仁孝著聞、以其行業、堪成朕志。以此、共治天下、朕雖瞑目、何所復恨。」一本云「星川王、腹惡心麁、天下著聞。不幸朕崩之後、當害皇太子。汝等民部甚多、努力相助、勿令侮慢也。」
 是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、蝦夷等或踊或伏、能避脱箭、終不可射。是以、尾代、空彈弓弦、於海濱上、射死踊伏者二隊、二櫜之箭既盡、卽喚船人索箭、船人恐而自退。尾代、乃立弓執末而歌曰、(以下、略)
 要は、雄略大王の死後直ぐには、星川皇子(ほしかわのみこ)が母である吉備稚媛(きびわかひめ)の言によりそそのかされて反乱を起こす。そして、これに吉備上道臣(きびかみつみちのおみ)が加勢しようとの動きがあった、というのだが。

 ちなみに、有力説では、その後の吉備のあり方について、つぎのように推察している。

 「「日本書記」は倭の五王の最後の武王すなわち雄略天皇の巻に、吉備一族の反乱伝承を集中させているが、それらの多くは朝鮮での戦争にからまっている。また反乱はすべて吉備氏の敗北に終わるけれども、ちょうどそれを裏付けるかのように、五世紀後半から吉備地方の古墳も急速に縮小、六世紀にはかわって郡小豪族の群集積が発達しはじめる。「書記」でも、六世紀前半にあたる安閑(あんかん)天皇の巻に後城(しづき)・多禰(たね)・来履(くくつ)・葉稚(はわか)・河音(かわと)・胆殖(いにえ)・胆年部(いとしべ)、欽明(きんめい)天皇の巻に白猪(しらい)・児島など、吉備地方に対する諸屯倉(みやけ)の設置を記し、反乱鎮定のあとに在地の郡小豪族を起用して朝廷の直轄領が拡大されたことを物語っている。「吉備の王者」の支配は六世紀にはいって解体されてしまったのである。」(青木和夫「古代豪族」講談社学術文庫、2007)
 また、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。
 それにしても、この弥生時代に続くのがどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。
 事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはならないのである。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となろう。
 5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。
 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。

(続く)

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新◻️406『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、立石岐、浅部和七郎)

2022-02-05 10:08:37 | Weblog
406『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、立石岐、浅部和七郎)

 立石岐(たていしちまた、1847~1929)は、備中船穂の小野家の生まれ。19歳で立石家の養子となる。まもなく明治維新を迎え、殖産興業の必要を感じ、二宮に1917年(大正6年)に製糸工場をつくる。
 1878年(明治11年)には、21名にて共之社をつくる。そのために、言論による住民運動を進めようと。それを使って、「産業を起こせ、民権を高めよ」、すなわち、ある種の「産業結社」ということであったろう。ちなみに、その産業とは、養蚕製糸業を考えていた。
 続いての1879年(明治12年)には、岡山県内の同志とともに両備作三国親睦会を結成する。あまねく人々に国会開設運動をすすめる。1881年(明治14年)には、国会開設の勅諭が出されると全国で政党結成が相次ぐ。
 その翌年には、美作自由党が発足する。その性格としては、大地主、新興ブルジョアを中心とした勢力の力を強め、封建的な政治経済体制を破ろうというもの。
 そして迎えた1890年(明治23年)、我が国初の衆議院議員選挙が実施される。岡山6区(美作西部)からは彼が選出される。その翌年の第二回帝国議会で政府が提出した「鉄道公債法案」について、こう質問する。
 「この第一条の末項について質問いたしたい。末項に鉄道に要する軍用停車場というものが設計になっておりますが、この説明を見ますと、その工事の費用というものは40万5千円を要すとあります。このことは私どもがちょうど考えてみまするはなはだ不必要なものでーー不必要ではありませぬ、不経済のもので、また国家に不親切なる設計ではないかと考えます。
軍事上にはこういう停車場も必要であろうと思いますけれども、およそ戦争は幾年を期してあることか分からぬことである。しかるにこれにこれだけの金をかけて、東京なり名古屋なり大阪なりその他兵営のある場所というところは、いずれも都会の地にして、この土地はずいぶん貴重な土地である。有要な土地であるから、金を費やしておかねばならぬということであるが、私どもの考えにおいては、もしも一朝事ある時は、かようなものは即ち工兵をして直ちに造ることができるから、平生にこれを備えおくは、はなはだ不経済であると考える。
 しかしながらこれは実際戦争というものは、幾年を期してあるか分からぬことで、あるいは3年、5年の間に大演習などがある場合にも、必要であるとするも、これもまたその時に造ればよろしい。その間は元のごとくにしておけばよろしい。それぞれ軍事に使用するものを造っておかないでも、差し支えないと存じます。私どもはこれを平生備えておくことは、はなはだ不経済であると信ずるのでありますが、政府においては別に我々の思慮の及ばざる必要の事があるのでありますか。この主意を承りたい。」
 これにあるように、鉄道における軍事施設は不要ではないかもしれないが不急だという。なかなかの気骨に違いない。この法案は有名な蛮勇演説のあおりによる衆議院解散のため廃案となったものの、1892年(明治25年)には、鉄道網整備の基本法である鉄道敷設法が制定される。
 地元との関係では、中国鉄道株式会社設立に協力していく。井出毛三(落合町)、中島衛(なかしままもる、鏡野町)、安黒基(あぐろもとい、津山市)内田にぎ穂(加茂町)、菅英治(すがえいじ、中央町)などの仲間とともに、美作における自由民権から身をおこし、その後の岡山の政治にも大きく関与していった大立て者としてある。

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 浅部和七郎(あさべわしちろう、1843~1883)は、実業家だ。窪屋郡子位庄(現在の倉敷市)の生まれ。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいた。しかし、いずれもうまくいかない。
 そこで迎えた1876年(明治9年)には、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の採掘に加わるも、出費がかさむ事から採掘事業は解散してしまう、たが、和七郎一人踏みとどまる。事業の起死回生を狙って新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功する。
 また、早島村(現在の都窪郡早島町)の金田山廃坑の再掘を始める。これに平行してか、多くの銅鉱を採掘し、それらの利益で数十町の田畑を買う。更に船舶を買い、海運業を始める。

 やがての壮年期に病を抱えるようになり、本人の人生航路には忸怩(じくじ)たる思いもあったのではなかろうか。その評伝としては、「剛毅で温厚な性格。公共のために尽くし、私財を投じ貧しい人々を救った」と伝わる。

(続く)

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新◻️386『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、箕作佳吉)

2022-02-05 09:10:06 | Weblog
386『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、箕作佳吉)

 箕作佳吉(みつくりかきち、1857~1909)は、動物学の中でも海洋生物学者だ。父、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三男として、江戸津山藩邸で生まれる。1870年(明治3年)に、父の友人、福田諭吉が開いた慶応義塾に入り、英語を学ぶ。
 1872年(明治5年)には、大学南校に転校する。1873年(明治6年)の15歳の時、英語教授エドワードハリスに伴われアメリカに渡る。父親の「つて」あってのことなのだろうか、かの地では、ハートフォード中学からレンサラー工科大学に入る。そこでは、土木工学を学ぶ。のちエール大学ジョンホプキンズ大学に転じ、今度は動物学を学ぶ。その後、ケンブリッチ大学でも動物学を学んで、1882年(明治15年)に帰国するのだが、早々に津山の墓を詣でようとしたらしい。その時の話として、蒸気船で岡山の港へ上陸(注)。

(注)当時、岡山の外港として繁栄した三蟠港(さんばんみなと、現在の岡山県岡山市中区江並)からは、三蟠鉄道(さんばんてつどう)による岡山市内への連絡があった。こちらは、国清寺(岡山市中区門田屋敷)および桜橋(同市中区桜橋)とを結んでいた軽便鉄道にして、1915年8月11日に三蟠-桜橋間の敷設に始まる。1923年(大正12年)2月には湊-国清寺間が開通し、全線が開通した。つごう7.25キロメートルの行程のうちに「三蟠」「浜中」「宮道」「下平井」「上平井」「湊」「桜橋」「網浜」「国清寺」の計9つの駅が設けられてあった。その後の経緯としては、従来型の船を主体とするものから県外との鉄道連絡をもってする輸送手段への変化に押されることにより業績が悪化、1931年(昭和6年)6月28日をもって廃線に追い込まれたとしている。

すると、宿屋では白魚の吸い物を出したところ、これに眼をとめたのが縁で、白魚の研究を始めたのだと伝わる。それからは、東京大学動物学教授を務める。1886年(明治19年)には、東京大学三崎臨海実験所を創設する。
 一見取りつきにくい話ながらも、前述の白魚の研究を進めた結果、頭蓋骨の点で、白魚と素魚との区別がかない、また中間魚でないことも立証されたという。「白魚科」が「ハゼ科」から独立することになった。他にも、深海に棲むミツクリザメやミツクリエビは、彼に名前を献上されたと言われ、学者冥利に尽きる話ではないだろうか。
 1901年(明治34年)には、東京帝国大学理科大学学長となる。牡蠣養殖や御木本の真珠養殖に助言を求められ、力を貸す。また、女子教育の大事さを説いて、東京高等女学校の校長も務める。1904年(明治37年)の万国学術会議に、北里柴三郎と参加する。

 ロシアのドストエフスキーやトルストイを連想させるかのようなひげを蓄えている顔は、いかにも優しげに見受けられる。彼はまた、海洋生物学・昆虫学でいわれるミツクリザメ(学名:Mitsukurina Owstoni Jordan 1898)など、約40種の学名にその名前が付いていて、一説にはそれらの大方は臨海実験所の所員なりが佳吉に献上したともののようである。さほどに、学問一途の人には権威に甘んじるのではなく、人徳が備わっての栄誉なのではないだろうか。

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新◻️250『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)

2022-02-04 21:31:50 | Weblog
250『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)
 
 加賀郡の吉備中央町は、2004年10月に、加茂川町、賀陽町が合併して発足した。
 南部は、有名な吉備高原に含まれる。楓や漆、紅葉などが生えている、「宇甘渓自然公園」(うかい(うかん)けいしぜんこうえん)もある。交通の便は、岡山自動車道賀陽ICから岡山県吉備中央町の宇甘渓自然公園まで、車で約25分にて、赤い橋がシンボルの「宇甘渓自然公園」には着くという。
 そこでは、旭川の一支流としての宇甘川が極度に狭まり、激流が岩を削って奇岩・音岩のそそり立つ山肌が見える。宇甘川に面した斜面は非常に急峡であり、またツガやモツを主とする天然林でもあることから、吉備清流県立自然公園にも指定されている。そういうことから、「春の桜や冬の雪景色と四季を通じて景観が美しい」という。殊に、秋ともなれば、大勢のウォーカーが訪れるという。
 さて、このあたりの町起こしということでは、昔も今も、人を呼び込むのが近道であろうか。ここで幾つか紹介したい。それというのも、町内の上野地区に、会話は「英語オンリー」を掲げる古民家宿が2013年からあり、世界を旅しながら日本の田舎暮らしを求めて訪れる外国人と、彼らとのふれあいを求める日本人とが泊まり込みで交流する場となっているという。
 その場所は、町のほぼ中心の小高い山を登った先にある「岡山英語村ナノビレッジ」という施設で、ある新聞記者が訪ねると、宿の軒先で外国人ら8人が出来立ての餅をほおばっていたという。聞こえてくる言葉はすべて英語だというのは、なんとも敷居が高い。
 それでも、アメリカやオランダ、フランスなど様々な国から外国人がやってくるらしく、その人たちは、京都や奈良、東京などでの名所旧跡や賑やかな観光地では「お好み」ではないらしい。そんなことよりも、日本人の生活そのものを知りたい、ざっくばらんに国際交流したいというのであろうか。そんな外国人や日本人たちが長い人では2週間~1カ月ほど滞在することが多いというから、驚きだ。
 二つ目に紹介したいのは、山陽新聞デジタル版(2019年11月6日付け)で見つけた、自然を頼みに人を呼び込むにはどうしたらいいのだろうか、その回答らしき一つが、こうある。
 「秋の深まりとともに、岡山県吉備中央町の吉備高原にも雲海の季節が到来した。「雲海の里」として知られる長丸(ちょうがん)集落(同町高谷)では6日早朝も、真っ白い大海原が出現。合間から山々の頂がぽっかりと浮かび、幻想的な情景を描き出している。
 雲海は、放射冷却で地表付近の気温が下がり、空気中の水分が霧になる現象。気温が低く快晴となった山間部や盆地で発生しやすく、明け方の数時間だけ観察できる。
 同町のほぼ中央に位置する長丸集落の標高は約300メートルで、眼下に広がる景観は刻一刻と変化。灰色だった雲海は日の出とともにオレンジ色に輝き、徐々に明るさを増して白色に。山々も黒から緑へと表情を変えていった。
 町観光協会は「見ごろは来年2月ぐらいまで。早起きして、素晴らしい光景を目に焼き付けて」としている。」
 これなどは、今時のテクノロジーを駆使しても、なかなかに得難いのではないだろうか、自然現象にはひとの心を洗ったり、癒したり、あるいは「励起」したりもする。ネットに出てくる写真には泣けるようだし、早朝のトレッキングにはもってこいの場所ではないだろうか。ついでに、景色を眺めながら、持参のおにぎりを食べるのも、良い思い出ができるのではないだろうか。

 この辺りの近世からの歩みでいうならば、やはり、長らくの間農業が重きをなしてきたのであろう。そのことは、つぎの紹介にあるような農具発達の経緯からも窺えよう。

 「中国地方の中央を走る吉備高原・冠山(かんむりやま)山地は、山陽一帯でも最も広い地域で、農耕を中心とした生活が広がっている。それは花田植えの如き華やかな行事が各地に残っているのでも知られる。農耕具は南北を通じて呼称の違いはあっても、形式とか機能はそれほど大きな差はみられない、農耕具や日常生活の諸民具の多くは、この山地高原に自生する草木でつくった自家製品が多く、コウラミノや三八笠(さんぱちがさ)、自然の木の反(そ)りを利用したオイコやネコ車などがある。同時に村の大工・木挽(こびき)・鍛冶屋(かじや)などにつくらせたものも多い。かつて用いた麻(あさ)の山着なども、畑で栽培した麻を各家で繊維にして紡(つむ)ぎ、染めた糸を機(はた)にかけて布とした。
 また、この地帯を訪ねると時折、特に古い長床鋤(ながとこすき)をみかける。なかには牛に引かせないで人が一人で引いた一人鋤をみかける。引き綱を腰にかけて後ろ向きになって引く、いまからすればかなり時代ばなれした農具である。」(早川貞和、坂田貞和ほか制作・編集「グラフィックカラー 日本の民話」12、中国2❮岡山・広島・山口❭研秀出版、1977)

 また、この地では、戦後に酪農が大いなる発展が見られ、ここでは例えば、吉田牧場の取り組みが、次のように紹介されている。

 「30歳を前に就農した当初は乳を農協に出荷していた。(中略)もっと乳を搾ろうと言われた翌日、方針転換から頭数を減らさないとペナルティだと迫られた。吉田さんは「妄想」と呼ぶが、「いずれはちーを作りたい」と頭の中では準備していた。(中略)生産調整とは決別し、借金をしてチーズ工房を作った。乳酸菌は自家培養し、この土地らしい味を目指すことにした。(中略)40代に入り、酪農のルーツを訪ねる旅がライフワークになった。」(編集委員・長沢美津子「輝く人、牛飼い・チーズ職人、吉田全作さん(64)、手本なき世界を探検」朝日新聞、2019年11月24日付け)

 なお、吉田さんは、北海道大学を卒業後、東京でのサラリーマン生活をしていたものの、1984年(昭和59年)に、夫婦で吉備高原で酪農家となる。1988年(昭和63年)には、チーズ作りに踏み出す。ブラウンスイス種を放牧。この牛は、足腰が強く、濃いミルクを出すとのこと。 
 その後は概ね順調なようで、2019年現在は、子牛を含めて約50頭、これを家族9人で事業を展開しているという。 
 ほかにも、チーズの熟成庫は地下にしたり、太陽光発電、雨水の浄化を行う。主力のチーズは、顧客との直接取引を重視し、牧場の売店て販売を行う。総じての「技術がいくら身についても、チーズのおいしさは原料乳の質が絶対だからです」と取材者にいうあたり、文字どおり「簡単な道をえらばない方が後悔はない」(同)という格言もここから生まれる。

(続く)

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新◻️221『岡山の今昔』岡山の農業(歴史的現代)

2022-02-03 21:09:08 | Weblog
221『岡山の今昔』岡山の農業(歴史的現代)

 岡山県の農業は今どうなっているか、と問われるなら、県南部は平坦地が多く、中部は平坦地と傾斜地が混在、さらに北部は山あいの中で取り組まれている。中国山地を水源とする旭川、吉井川、高梁川の三大河川は良質で豊かな水を常にたたえている。
 およその気候としては、月並みには次のように説明されているのではないだろうか、いわく、年間平均値(岡山市)は気温16.2度(摂氏)と、大方が気候温暖だと。年間の降水量は1105ミリメートル、日照時間2030時間と日照時間が長い、さらに台風や地震などの自然災害が少ないとされるなどと。
 したがっての落としどころとしては、立地の良さから恵まれた気候までの大方が揃っていて、農作物の栽培に適した地ということになるだろう。しかしながら、以上はあくまで平均で見た場合の話であって、南部地域に偏っての評価なのかもしれない。例えば、美作の山間部で行われている農業の厳しさにあってはおよその状況はさにあらず、それゆえ別の算段や営農上の格別の工夫が必要な話となっているのを付記しておきたい。
 その上で岡山県の農牧地を眺めると、耕地面積は約6.6万ヘクタール(2020 「農林業センサス」)だという。岡山県の面積は約7,114平方キロメートルなので、そのうち耕地面積は10分の1ほどに相当しよう。総農家数としては約6.3万戸(2020 「農林業センサス」)、総農家数戸は5万753戸(同)、耕地面積6万3600ha(同)だとされる。かたや工業立県と称されながらも、こうした岡山の地理的条件を加味すると、結論的には、岡山の農業はまだまだ伸びる余地あり、というところだろうか。

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 販売農家数(2022年2月初旬での県統計関連サイトなど、以下同じ)は、およそ2万8千戸で、全国で14番目、中国地方では1番とされている。品目別の農業産出額については、米320億円、鶏卵244億円、ぶどう170億円、生乳111億円など合計1401億円だという。
 これにあるように、米作りも盛んな土地柄にて、銘柄では朝日米が全国1位、雄町/酒米がシェア90%で全国1位、ビール大麦が全国4位。
 小麦については、特に津山地域を中心として、多収で製麺性に優れ、加工にも適した品種「ふくほのか」は「津山小麦」としてブランド化が進められている。稲を収穫した後には、黒大豆は全国2位。勝英地域の「作州黒」が全国でも有数の産地。小豆、ササゲも栽培しており、岡山県が開発した品種「夢大納言」という小豆も栽培している。
 全国的に知られたフルーツ生産県であり、2014年でみると清水白桃全国1位でシェア64%で全国1位、マスカットはシェア95.0%で全国1位、ピオーネはシェア41%で全国1位、ほかにも、おかやま夢白桃などと。また、紫苑というのは花栽培にて、全国シェア100%。東アジア原産。 栽培の歴史は古い。平安時代の「今昔物語」にも 出てくる。 秋に、白か、うすピンク色の花を たくさん咲かせる。


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 それにしても、農業というのは、地味で、地道に取り組むしかない、というのが、長らくの間、この国での定番となっていた感があろう。
 そんな「農業の次の一手」として注目されているものに、IOT(インターネットによる情報化)があるという。まだまだ試行錯誤もあるものの、米や野菜の栽培に力を発揮し始めているらしい。
 まずは、一つ紹介したく、こんな記事が載っている。
 「株式会社夢ファームがある西大寺地区は、JR岡山駅から東に20分の位置にある。同社では現在約140人の地主から農地を借り、農作業を受諾して米や麦を生産しており、圃場の数は550枚以上に上る。(中略)2007(平成19)年、独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構(以下、農研機構)が、GIS(地理情報システム)を利用し、圃場地図上で農作業を管理できるPMS(作業計画・管理支援システム)を開発し、ウェブ上で無償公開していた。奥山さんは早速使い始め、その後農研機構との共同開発にも携わるようになった。(中略)
 PMSは、地理座標を持った電子圃場地図上で農作業に関わるさまざまな情報を管理するシステムである。(中略)国の事業に採択後、同社と株式会社ルークシステム(岡山市)はPMSを利用した資金管理システムを開発した。同社では、生産のほか、米や酒、肥料や農薬などの販売も行っている。」(企画・発行は中国電力地域共創本部「GIS互換のITシステムで生産・経営を効率化」、「碧い風」Vol91、2017.11)
 同社の設立は2008年、小さな会社にして、これだけの意欲を持った取り組みができているのには、他にもいろんな創意工夫があるようだ。少し紹介すると、「畑状態の田んばに種を播き、苗が少し成長してから水を入れる乾田直播(かんでんちょくはん)と呼ばれる全国でもめすらしい方法」や、「稼働データを利用できるシステム」を他者と共有する道を模索するあたりは、特に興味深い。

(続く)

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新◻️212『岡山の今昔』岡山の漁業(歴史的現代)

2022-02-03 13:42:45 | Weblog
212『岡山の今昔』岡山の漁業(歴史的現代)

 郷土出身の作家である柴田錬三郎は、「小学校時代、私は、漁師の生活面を眺めて来たので、遠い記憶だが、鯛漁について知識がある」と前置きして、こんな話をしてくれている。
 「(前略)瀬戸内海の鯛は、水深十メートルから五十メートルの間を、泳いでいる。上り鯛と下り鯛がある。産卵に、ため太平洋からやって来るのを、上り鯛という。
 八十八夜あたりから、上って来るもので、漁師は、鯛漁をはじめる。
 しばり網、天保網、五知網の三方法があった。現代は、五知網だけが残っているらしい。ローラー五知、というやつで、ロープを曳いて、船を叩くと、鯛があわてて集結する習性を利用して、引きあげる方法である。但し、雷が鳴る時、またジェット機などが飛ぶと、駄目らしい。
 私が知っているのは、しばり網である。桂(短冊状の物をつけたロープ)で、広い海面を円形にとりまき、これに鯛を追い込んで、せばめて、ひきあげる漁獲法である。
 上り鯛は、旧暦の六月二十三日頃まで、太平洋から瀬戸内海に入って来る。そして、夏をすごして、再び太平洋へ去って行く。麦刈りの時期が、最もたくさん獲れるが、しかし、もうこの頃は、産卵を終わっているから味が落ちているのである。
 太平洋から入って来たのを、いきなり獲った鯛が、いちばん美味なのである。
 おもしろいことに、鯛の群は、ちゃんと海路かをきめていて、けっしてその路線をはずれるようなことはしない。その海路を、網代((あみしろ)という。この網代を、満月の日の夜あけに、しばり網でやると、豊漁であった。
 さて、漁師は、網元と網子の上下関係を、三百年間、保って来た。一人の網元に、七、八十人の網子がついていた。
 網元と網子の関係は、ひとしろ(一人前)の漁獲高の歩合(合(ごう)と称する)で、成り立っている。
「ひとしろ一万円だから、お前は、七合(七千円)でよかろう」
 といった契約になるわけである。きわめて大ざっぱだが、非常に人間的なつながりがあり、信頼感が、漁獲方法とともに、三百年間これを断ち切らせなかったのである。」(柴田錬三郎「鯛について」、「ふるさとの味・西日本」作品社、1998に所収)

 これに一端がひも解かれているような瀬戸内海の漁業は、いうまでもなく瀬戸内海の中央部たる、備讃瀬戸に位置している。そこへ、戦後の国策としての農地拡大の号令の一環として、新たな政策が持ち上がる。およそ5500ヘクタールの干拓地の農業用水を確保するために、前兆1558メートルの締め切り堤防が児島湾に賭けられることで、一大転機を迎えた。これにより、児島湾の大部分は淡水の「児島湖」と、残された細長い「児島水道」とも称される現在の児島湾とに分けられた。
 その「農林省直営の、「児島湾沿岸農業水利工事」に用いられた工法たるや、池田光政の命令で津田永忠が指導してのやった沖新田を造成する時に用いた。一説には、「へ泥の上へ、丸太組みの竹筏(いかだ)へ粗朶(そえだ)とを敷いて、その上に捨石をのせて、それを投げ込むのと、水にさからわぬ研究」とで完成」(岡長平「岡山の味風土記」日本教育出版、岡山文庫121、1986)させたのだと指摘されている。
 そのことは、この辺りの海での漁場そのものの性格を大いに変化させ、ひいては本来であれば漁業を生業としてきた人々の暮らしを激変させていく。とはいえ、これでもって「日本屈指の美魚棲育環境」が全く無くなったと訳ではないものの、1970年(昭和45年)頃からは、いわゆる漁船(海面)漁業が減っていく。魚種の方はイカナゴ、コノシロ、カレイ、シャコ、アサリといった魚種には減少傾向が見られる。
 これを反映してであろうか、2005年で見る岡山県の漁業経営体数は1440で前年より86だけ減り、県下海面の漁場が狭いことと相俟って、一部漁協においては各種漁業が入合って乱獲操業に陥るという状況に陥っていく。その減った分を、児島、牛窓、日生などで牡蠣(カキ)やのりといった海面養殖業の急激な伸展が見られるなど、一定の持ち直しが見られることになっていく。したがって、今の岡山の漁業を語る上では、複眼的な視野からその在り方を探っていくべきなのだろう。

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新◻️222『岡山の今昔』岡山市、倉敷市、井原など(戦前~1970年代、ジーンズなどへ)

2022-02-03 13:41:25 | Weblog
222『岡山の今昔』岡山市、倉敷市、井原など(戦前~1970年代、ジーンズなどへ)

 1880年(明治13年)の下村紡績所の開業を新たな契機として、この地域においての繊維産業は、次なる歩みをしていく。糸の生産に加え、足袋(たび)や畳縁、帯子といった幅広い展開がなされていく。1906年(明治39年)、それまでの児島の繊維業は、大きな節目を迎える。橋本屋の松三家が、足袋縫製に初めて動力ミシンを導入する。そのことをきっかけに、 大正初頭へ向けて児島足袋の全盛期に入っていく。やがて1919年(大正8年)頃には、「足袋の生産」で全国的に知られる。続けて1937年(昭和12年)には、日華事変により衣料統制が敷かれる。そこで、児島の縫製工場は陸海軍の管理工場に指定され、 軍隊の被服を縫製することになる。
 戦後になると、1950年(昭和25年)、繊維の統制が撤廃される。1956年(昭和31年)には、学生服の生産がさらに伸び、全国の70%を生産する。
 これは、児島(1967年に倉敷・児島・玉島の旧3市が合併、新生の倉敷市となり、同市に編入)に散在する地域の各企業を結びつける役割を果たしていく。そのことは、大企業の力が働いていたこともあろうが、この時期までに、綿の加工を起点とする生産の一貫体制(「中小紡績→撚糸→織布→染色→縫製」)が、井原を含み出来ていたため、このような展開になったのではないだろうか。
 その実、井原の地では、江戸時代の中期頃から綿花栽培が盛んに取り組まれるようになり、その前からの藍(あい)と合わさっての藍染織物(手織り)の産地として知られるようになっていく。「備中小倉」のブランドも生まれ、その流れから学生服や作業服の服地にも採用され、全国的にも知られるようになっていったようである。しかも、その銘柄のバリエーションの一つとして、表面が藍色で裏側が白(生成)の厚地織物が話題となり、「裏白」と呼ばれることになるのだが、これがアメリカの「DENIM」さながらの品質であることから、今日では国産デニムのルーツとも言われている。
 そして戦後を迎えると、アメリカのジーンズの文化がこの地にも流れ込む。そうなることで、井原産の「裏白」をベースにデニム生地を使ったジーンズの生産が始まる。その発展は、1970年(昭和45年)頃には、生産数としては当時の国内の約75%を占めていたのだという。
かたや、アメリカの影響を受けたジーパンメーカー のマルオ被服(後の「ビッグジョン」)が、1960年(昭和35年)に誕生する。そして迎えた1965年(昭和40年)には、アメリカから輸入したデニムの生地を使い、我が国のジーンズ生産の先駆けとなる。
 これは、学生服製造に衰退の陰が見え始める中での出来事であり、内外の注目を集める。 生地も染色も、かねてからこの時を待っていたかのように、新しい素材が加わることで、この地域で爆発的なブームが起こっていく。1973年(昭和48年)には、倉敷紡績が初の国産デニムの製造を開始し、この地区でのジーンズの一貫生産の体制が整う。
 これを歴史の一齣として地元に関係資料を展示し、明るい未来につなげようとしているものに児島学生服資料館(倉敷市児島下の町)があり、これを紹介している文例には、こうある。
 「資料館は日本被服株式会社の会社内にある築90年の蔵を活用し、一階には昔の工場の様子を写したたくさんの写真、学生服を縫製していたミシン類や、学生服そのもの、そしてボタンや小物など様々なものが展示されている。
 しかし、この博物館での一番の見所は、二階にある400着ほどの学生服のコーナーだ。ここでは好きな学生服を自由に試着できる。この体験をするために若い女性から熟年層まで幅広い年齢層が訪れ、最近は香港や台湾など海外からの来訪者もあるという。」(丹治俊樹「世にも奇妙な博物館、未知と出会う55スポット」星雲社、2021)
 けだし、現在のジーンズというのは、こうした幅広い、しかも流行に敏感な顧客の需要に答えるべく、バリエーションの豊富さが求められているかのようであり、それだけ進化を遂げた設計力、デザイン力なりがつねに求められているのであろう。

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