185『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)
さて、近世もかなり大詰めになっての江戸時代の後期まで、封建時代の生産関係の下で基本となる生産力のは発展は、およそ次のような推移をたどったようである。
「1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)
さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。
この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。
計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。
この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。
こうして海を仕切って我が国において最初にできた児島湖なのだが、その後の展開でいうと、やはり湖沼法との関連で岡山県にスポットが当てられるようになったことではないだろうか、そのことは、環境行政に詳しい由比浜氏により、次のように語られている。
「国の責任官庁が不明では、県が浄化事業を実施しようにも補助金申請先がない。したがってこれまで県が実施できたのは工場などの排水規制指導、河川への清水導入、流域下水道建設、合成洗剤問題PRなどであった。
1985年(昭和60年)暮れに湖沼法が制定され、県は水質保全計画を翌年春にまとめ、国と協議のうえ、全国に先がけて1987年(昭和62年)に計画決定をみた。1985年度(昭和60年度)のCOD10ミリグラム/リットルを5年間で8.8ミリグラム/リットルにまで改善する目標で、下水道整備、底泥凌渫(しゅんせつ)、排水対策等々を講じようというのである。目標達成自体、大変な努力を要するし、流域下水道は第一期工事が完成しても流域の一部をカバーするにすぎず、加えて処理場からの大量放水を湖沼・湖外のいずれに行うのかは地元との大争点である。
1987年(昭和62年)5月に農林水産相は農林水産省を児島湖管理者とし、管理を岡山県に委託する旨決定した。農林水産省所管ということは、土地改良法にもとづく事業が主体となる関係上、委託を受ける県側の主役は水質保全課ではなくて耕地課である。そのため、どこまで環境改善が達成されるか不安がる向きもある。しかしともあれ、行政として児島湖問題に取り組む体制ができたといえる。」(岡山大学教授・由比浜省吾「大干拓の歴史と再生への努力ー児島湖」ー「日本の湖沼と渓谷11ー中国・四国、宍道湖と帝釈峡・祖谷渓」ぎょうせい、1987に所収)
(続く)
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さて、近世もかなり大詰めになっての江戸時代の後期まで、封建時代の生産関係の下で基本となる生産力のは発展は、およそ次のような推移をたどったようである。
「1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)
さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。
この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。
計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。
この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。
こうして海を仕切って我が国において最初にできた児島湖なのだが、その後の展開でいうと、やはり湖沼法との関連で岡山県にスポットが当てられるようになったことではないだろうか、そのことは、環境行政に詳しい由比浜氏により、次のように語られている。
「国の責任官庁が不明では、県が浄化事業を実施しようにも補助金申請先がない。したがってこれまで県が実施できたのは工場などの排水規制指導、河川への清水導入、流域下水道建設、合成洗剤問題PRなどであった。
1985年(昭和60年)暮れに湖沼法が制定され、県は水質保全計画を翌年春にまとめ、国と協議のうえ、全国に先がけて1987年(昭和62年)に計画決定をみた。1985年度(昭和60年度)のCOD10ミリグラム/リットルを5年間で8.8ミリグラム/リットルにまで改善する目標で、下水道整備、底泥凌渫(しゅんせつ)、排水対策等々を講じようというのである。目標達成自体、大変な努力を要するし、流域下水道は第一期工事が完成しても流域の一部をカバーするにすぎず、加えて処理場からの大量放水を湖沼・湖外のいずれに行うのかは地元との大争点である。
1987年(昭和62年)5月に農林水産相は農林水産省を児島湖管理者とし、管理を岡山県に委託する旨決定した。農林水産省所管ということは、土地改良法にもとづく事業が主体となる関係上、委託を受ける県側の主役は水質保全課ではなくて耕地課である。そのため、どこまで環境改善が達成されるか不安がる向きもある。しかしともあれ、行政として児島湖問題に取り組む体制ができたといえる。」(岡山大学教授・由比浜省吾「大干拓の歴史と再生への努力ー児島湖」ー「日本の湖沼と渓谷11ー中国・四国、宍道湖と帝釈峡・祖谷渓」ぎょうせい、1987に所収)
(続く)
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