572◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、田渕節也)
田渕節也(たぶちせつや、1937~2006)は、実業家だ。
苫田郡神庭村(現在の津山市)とあるも、実は大邱生まれ。旧制中学まで大邱で育ち、旧制高校は松江、大学は京都のため岡山に住んだことはない(日本経済新聞、2007年11月4日、「私の履歴書」)という。
その京都大学法学部を卒業して、1947年野村證券に入る。主に営業畑を歩む。
1978年には、社長に就任するという、トントン拍子で出世の階段を上がっていく。
それからは、国際部門を飛躍的に伸ばし、世界有数の証券会社に押し上げたというのだが、きれい事だけではなかった筈だ。
それというのも、1985年に、社長の座を田淵義久に譲り会長になるも、その後も会長として「院政」のように経営に携わっていたようなのだ。
1990年12月には、経団連副会長に就任する。日本資本主義を支える一角としての証券業界、そこを地盤にしたのはいうまでもあるまい。
1991年には、損失補てん問題や暴力団との取引が発覚する。前者というのは、いわゆる「損して得とれ」というか、国会で証人喚問を受けた時に、その体質が露となる。つまるところ、責任を取って会長職を辞任し相談役に退く。経団連副会長も、解任される。
それでも、粘りを発揮して、1995年には、再び取締役に就任し復権を果す。しかし、1997年総会屋への利益供与が発覚し、すべての役職から退く。
その仕事人生についての評価では、「功罪相半ば」というのか多数なようだが、もう少し具体的に述べたらよいのではないか。
つまるところ、証券業界の不祥事の根っこには、国民のための経済に欠けるところが多々あり、そのことを無視してかれらが自分たち本位に金儲けに突っ走ったところが、もっと明らかにされて然るべきであったろう。
もちろん、彼だけが責められる話でないことは、当時の政財官の大方が、どこを向いて仕事なりをしていたのか、その流れの全体が歴史の中に正しく位置付けられるべきであろう。
(続く)
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田渕節也(たぶちせつや、1937~2006)は、実業家だ。
苫田郡神庭村(現在の津山市)とあるも、実は大邱生まれ。旧制中学まで大邱で育ち、旧制高校は松江、大学は京都のため岡山に住んだことはない(日本経済新聞、2007年11月4日、「私の履歴書」)という。
その京都大学法学部を卒業して、1947年野村證券に入る。主に営業畑を歩む。
1978年には、社長に就任するという、トントン拍子で出世の階段を上がっていく。
それからは、国際部門を飛躍的に伸ばし、世界有数の証券会社に押し上げたというのだが、きれい事だけではなかった筈だ。
それというのも、1985年に、社長の座を田淵義久に譲り会長になるも、その後も会長として「院政」のように経営に携わっていたようなのだ。
1990年12月には、経団連副会長に就任する。日本資本主義を支える一角としての証券業界、そこを地盤にしたのはいうまでもあるまい。
1991年には、損失補てん問題や暴力団との取引が発覚する。前者というのは、いわゆる「損して得とれ」というか、国会で証人喚問を受けた時に、その体質が露となる。つまるところ、責任を取って会長職を辞任し相談役に退く。経団連副会長も、解任される。
それでも、粘りを発揮して、1995年には、再び取締役に就任し復権を果す。しかし、1997年総会屋への利益供与が発覚し、すべての役職から退く。
その仕事人生についての評価では、「功罪相半ば」というのか多数なようだが、もう少し具体的に述べたらよいのではないか。
つまるところ、証券業界の不祥事の根っこには、国民のための経済に欠けるところが多々あり、そのことを無視してかれらが自分たち本位に金儲けに突っ走ったところが、もっと明らかにされて然るべきであったろう。
もちろん、彼だけが責められる話でないことは、当時の政財官の大方が、どこを向いて仕事なりをしていたのか、その流れの全体が歴史の中に正しく位置付けられるべきであろう。
(続く)
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