◻️232の6「岡山の今昔」岡山人(20世紀、池田遙邨)

2019-09-22 20:59:45 | Weblog
232の6「岡山の今昔」岡山人(20世紀、池田遙邨)

 2017年の新聞が、画家、池田遙邨の代表作をこう伝える。
 「関東大震災描く「災禍の跡」 岡山・倉敷市立美術館が所蔵、池田遙邨、転機の異色作/中国
「池田遙邨名作選」を担当する前野嘉之学芸員=岡山県倉敷市中央2の市立美術館で、小林一彦撮影
 岡山県出身の日本画家で、文化勲章を受章した池田遙邨(ようそん)(1895~1988)は、ひょうひょうとしたユーモア漂う画風で知られる。しかし、それが遙邨の創作のすべてではない。例えば、同県倉敷市中央2の市立美術館に所蔵されている「災禍の跡」(24年)。1923年9月に起きた関東大震災をテーマにした屏風(びょうぶ)作品だ。(小林一彦)」(毎日新聞、2017年3月7日付け)
 ここに紹介される遙邨は、この大震災の発生時には京都にいたという。連日のように画業に励んでいたという。その地震発生直後、何を思ったのか、被災地に行く。
 そんな中、目の当たりにした光景を、後に描く。
 「地平線が画面下方に設定されているため、被災地が果てしなく続いている状況が想像できます。こうした光景は、中央にいる子どもの目の前にも広がっていたはずです。遙邨は、400枚にのぼる被災地のスケッチをしていますが、この作品は写生から始まってイメージの中で再構成することにより、現実をそのまま写す以上に、震災の恐ろしさ、悲惨さを訴えています。」(同)
 この批評にもあるように、画家たるもの、眼と脳に刻んだ像のエッセンスを表現しようと格闘したものと見える。
 そんな彼は、岡山市門田屋敷(両親の当時の居住地)生まれと推察される(本籍地は浅口郡乙島村=倉敷市玉島)。幼少期から絵を描くことが好きで、1910年(明治43年)に大阪に出て、洋画家・松原三五郎の天彩画塾に入る。

 1913年(大正2年)には、福山で水彩画による、初の個展を開く。翌年の第8回文部省美術展覧会に「みなとの曇り日」を出品する。1919年(大正8年)になると、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入る。そして、第一回帝国美術院展覧会(帝展)において、「南郷の八月」で入選を果たす。昭和に入ると「昭和東海道五十三次」のように清新な画風に変わる。
 戦後になると、さらに画風をリニューアルしていく。伝統や慣習にとらわれないのを理想にしたものと考えられる。


(続く)

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