【掲載日:平成21年12月3日】
周防なる 磐国山を 越えむ日は
手向よくせよ 荒しその道
【磐国山=今の欽明路峠への道】
早馬は 飛ぶ
大和へ 朝廷へ
旅人の 申し状 以下の通り
「先ごろよりの 瘡〔腫物〕による病
快復の儀 捗々しくあらず
若しものこと あり候わば 悔いあるにより
遺言いたしたきの儀 これあるにつき
急ぎ 在京親族 稲公並びに胡麿の二人をして
西下の取り計らい 乞い願うばかりなり」
早速に 勅許を得た 両名
馬を継いで 西へ 筑紫へ 大宰府へ
一方 旅人の館では
護摩焚き煙の 上る中 祈りの声音が響き
百済医師執刀の 切開術の 手が進んでいた
「取れ申した これが 病の原因」
見れば 大人の拳もあろうかと言う 腫瘍塊
さすがの旅人も ギョとなった
「もう 大丈夫でござる
一命は取り留めて候
ただ いま少しの 養生節制は 欠かせぬが」
「何は ともあれ 良かったではないか
なになに 病の原因 心塞ぎの重なりじゃと
鄙への赴任 奥方の死 長屋王の変事と
公私共の 気疲れでは あったのう」
ここ 大宰府の外れ 日守八幡の地
快癒お礼まいりを終えた 一行
旅人の回復を見届けた 稲公・胡麿
両名を 送るべく同行した 大伴百代 山口若麿
それに 旅人の子家持の五人であった
夷守の駅 ここで 別れの小宴が持たれた
「御苦労で ござった
後は 我々が
今以降の 気疲れをなされぬよう お守り致す
ご両名は 朝廷への よしなの報告と
道中くれぐれもの 心配りを なさいませ」
草枕 旅行く君を 愛しみ 副ひてそ来し 志賀の浜辺を
《あんたはん 旅立たれるの 惜しよって ついて来たんや 志賀の浜まで》
―大伴百代―〔巻四・五五六〕
周防なる 磐国山を 越えむ日は 手向よくせよ 荒しその道
《岩国の 山越える日は 神さんに ちゃんと拝みや 道険しから》
―山口若麿―〔巻四・五五七〕
送る者 送られる者
双方の胸に 旅人平癒の安堵が 広がっていた
<磐国山>へ
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