もがり または 恩師 ⑯

2019-05-25 18:09:29 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません。


 “さくらと、おいしい食事の夢のような10日間 ありがとうございました

  帰り着いて絵葉書やパンフレットやさくらの本をながめていましたら

  知らぬ間に1週間もすぎていました

  ずっと私のお守をして下さってさぞお疲れのことでしょう

  私の方は今日受診してきました

  今日はコレステロール値や動脈硬化の検査でしたが3月よりずっと減っていて、

  京都であんなに色々おいしいものを食べて下がったのですから

  かえって制限しないほうがいいのかもしれないと思っています

  今回の旅で痛みを気にせず出歩き、何でも食べたこと 

  そして声に出して読んだこと

  これからも一人でつづけてみようかと思います

  手始めに伊勢あたりか何かをと

  少し痛みに強くなって次回に備えてみますから

  また誘ってくださいね

  しばらくはお花見と京の町筋を夢に見ることでしょう

  本当に楽しい10日間でした 帰りの新幹線のお弁当の豪華だったこと!!”

 典子先生がもうたくさんではなく、また誘ってくださいと言われたことにほっとしていた。

 けれども、“また”はもうなかった。

 これまでにない痛みに襲われ、近所に出るのもままならないご様子で手紙の返信もなかなか来なくなっ

た。先生も私もこれで京都旅行の続きはないのだと暗黙のうちに悟っていた。それは先生のお体のためでも

あり、もうここで続きをつなげない方がこれまでの楽しさが輝きを保つという悟りでもあった。京都の十日

間は最後の京の旅にふさわしかった。

 丁度その頃から私は造園学の調査のために福岡に通い出した。行く前に先生に日程を知らせ、当日にお電

話をして先生のお加減がいい時だけ街まで出てきていただいてお昼ご飯をご一緒した。少し遠くまでお出に

なれそうなときは同級生が営むお茶漬けの店まで出向いたり、バスで四十七士の墓のある穴観音にご案内し

たりした。

 出てきてくださるのは三回に一回ぐらいだった。それでも謙三先生の月命日のお参りは欠かさず久留米ま

でおいでになっていたので、

「私もお墓参りにお供させてください」

と申し出てみた。福岡で知り合った女性のタクシードライバーに迎えに来てもらって先生と久留米から筑後

川を渡って謙三先生のお墓のある寺に向かった。そこは昔からの菩提寺ではなく、謙三先生の知り合いのお

寺にお墓をひきうけてもらったのだとおっしゃった。

 小高い土地には低い楓が植えられて古さびた墓石たちにを薄暗い陰をつくっていた。謙三先生のお墓には

芭蕉の句が刻まれていた。

“旅に病んで夢は枯野をかけめぐる”

 京都で典子先生と芭蕉の句碑を訪ねたことを思い出した。鳴滝の川沿いの細い道を上っていくと鳴滝の地

名のもとになった小さな滝がある。たしかにそこに着く前からもうすぐ滝の場所だとわかる水のとどろく音

がしていた。

“梅白し昨日や鶴をぬすまれし”

豪商三井秋風の鳴滝の別荘に招かれた芭蕉が、梅とくれば鶴となる宋の詩人を踏まえて、梅をたたえた句が

小川の草むらにうもれた石にかすかに読めた。

 正月には寺町通りにある阿弥陀寺も訪ねた。大抵は信長の墓のある寺として知られるため、ドライバーの

伊野はそちらへ案内しそうになったのだが、われわわれは芭蕉の句碑の前で写真をとってもらった。

“春立や新年古き米五升”

「あの頃が一番楽しかったわあ」

先生、私もですといいたいのに声には出せなかった。何と比べて楽しかったのか、最近の中では一番という

意味なのか、人生の中で一番楽しかったならいいのにと考えていた。

 お線香をあげてお参りをしながら、いつかここに典子先生のお墓をお参りする日がくるのだと思った。

 帰りはタクシーで浮羽を回って帰ることにした。丘の上の農家を若い人たちが改装して食堂や菓舗やイン

テリア雑貨の店にしている。ガラス越しに筑後川や平野を見下ろして若者の作るエスニック料理を食べた

後、紅葉した櫨の並ぶ高速道路を通って福岡にもどった。

 次の年の秋、喜寿を迎えられる先生のお祝いをするために福岡の同級生に声をかけて十名余に集まっても

らった。先生のお若い頃しか知らない人ばかりで、白髪になられた先生に皆驚くことだろうと思った。先生

には参加者の旧姓をリストにして、この人は知らないということがないよう予習材料としてお届けした。ビ

ルの中の日本料理店に先生をご招待する形にしたら、先生からは全員に和紙に版画をデザインしたカレン

ダーが贈られた。私は食事の前の挨拶で「次は先生の傘寿のお祝いと私たちの喜寿を一緒にさせてくださ

い」と言ったのだが、先生は「いやもうそんなには生きてないわ」と取り下げられた。

 その後ますます先生は体調の悪い時の方が多くなられ、こちらから連絡をするのもはばかられる気持ちに

なった。いやそうではない、気を紛らわせて頂くためにもお便りはすべきだとも思い迷いながら。

 そんな時由美子が提案してきた。

「典子先生の日常のお世話係になったら? 私の大学の友人は大学の恩師のお世話をしに通っていたわよ」

そんなことがかなうならどんなに甲斐のあるお世話だろう。毎日先生に色々なことを教えて頂きながら私の

料理を食べていただくとしたら、これ以上に張り切って作れる相手はいない。私も福岡に落ち着いて造園の

調査をすればいいのだし。あとは自分の決心と覚悟だけだと思い、最後の判断は先生にゆだねることにし

た。

 先生からはしばらくお手紙がなく、私は次の福岡行きの日がやってきた。お電話をすると体調はわるいけ

ど短時間だけお会いしましょうと、飛行機に乗る前に先生のお宅にお邪魔をすることになった。

 お世話係のことは自分も何とか一人でやっているから大丈夫だと言われたので、それ以上は話を伸ばさな

かった。「先生も家事をなさっいる方がお体のためにいいかもしれませんね」と言うとうつむいてうなずか

れた。姪御さんや義妹さんが時々いらっしゃるのに私が間に入るのは控えた方が先生のためになるだろうと

も考えた。

“お会いしてからもう一か月になろうとしています

あの時もそうでしたが、お手紙をいただいたときも、もう少し自分の気持ちをきちんとおはなししておいた

方がよかったと思っています

修行が足りないのは言うまでもないことですが、ずっと暮れから体調が悪くなるばかりのころ、

一日一日をすごすのが大変で、あなたのお申し出を頂いた時は、

とても春先までもちそうになく、自分のためにあなたの未来の拠点を断ち切ってしまうことに

怖れを覚えました

今こうして春も暮れゆくころ、細々と続いているいのちをもてあまして

結局は甘えきれなかったのだと納得しています

今は読むのが楽しみです

あなたの書いている諸々をまとめて一冊にしてください

私が読めるあいだに”