もがり または 恩師 ⑭

2019-05-11 17:59:11 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません


 その旅の記憶は消えていたのに、前回の花見でチエコが夕食のホテルにポーチを忘れ、それを後日私が取

りに行ったことを思い出したことから色々とよみがえってきた。

 典子先生の帯状疱疹後神経痛は少しも快方へ向かわないのに、なぜかその年は二回も京都に花見に行って

いる。つまりチエコと早めの花見をした一週間後にまた遅めの花見のために京都へ出かけている。その旅は

先生と二人だけのツアーになった。

 ホテルに一週間前の忘れ物を受け取りに行った後、その頃はまだ建仁寺近くにあった「まとの」で昼食を

とり、四条から京阪電車に乗って伏見の墨染まで行った。墨染の桜で知られる墨染寺に行くためである。壽

碑と記された碑には寺の由来が書かれていた。貞観天皇の時代から江戸時代まで何度も変遷のあった寺だ

が、寺の名前の由来は、左大臣藤原基経が

“薨じて遺骨をこの地に殯(かりもがり)したもうや 上野峯雄 哀傷の情を和歌に托して曰く

 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け”

それにより桜が薄墨色に咲くようになったのだそうだ。
 
「先生、かりもがりって何ですか」

「今はもう、かりもがりともがりは同じ意味になっているけど、人が死んだ時にすぐには埋葬しないで長い

期間ある場所に安置する風習があったの。お通夜はその名残だというけど」

 それは火葬をしない時代に、死者が復活することを願ったり死体が腐敗し白骨化していくのを見て死の現

実を受け入れたりするのに必要な時間だったのだろう。


 当の墨染桜は三代目ということでまだ幼木の姿をしていた。写真を撮る広がりもないような小さな寺のソ

メイヨシノを見て寺を出た。

 いつも泊まる錦市場のゲストハウスに着くと、オーナーの八百屋さんが

「風流ですなあ」と笑っている。何かと思ったら、墨染寺の桜の花びらが私の髪に付いていたのだった。

 散歩に出る前に宿でお決まりのお茶の時間をもった。先生は以前象彦でもとめられた月と桜の金蒔絵の

銘々皿を持参なさっていた。私はお茶と茶碗と茶筅と黒文字と吉信の棹物菓子を宿に送っていた。前回の日

帰りの旅ではクーポンにお買いもの券がついていたので、帰りに京都駅で次回のために菓子を買った。羊羹

の上に透明な寒天を流し、その中に小さな桜の花が散らしてあった。

 象彦の皿は月の意匠が三日月から満月まで大きさを変えた五枚になっていた。先生は三日月を選ばれたの

で、私はそれより少し膨らんだ七日ほどの月にした。なぜか満月は選んではいけないような気がしていた。

 先生はお皿を洗った後、私に皿をもらってくれるようにと言われた。

「もともとこれはあなたの還暦のお祝いにしたいと思って買ったものなの。今日こうして使うことができた

から、あとはあなたが使ってね」

 私はとても有難いと思うだけで遠慮なく頂いた。それは嬉しいのとは違う。哀しいと言う方が近い。哀し

いけれどそうしなければいけないのだという気持ちだった。

 夕方、宿に若い友人のマキが訪ねてきたので、夕食は麩屋町三条の晦日庵河道屋の芳香炉でうどん鍋を囲

んだ。そこから木屋町髙瀬川沿いの夜桜を見たあと、鴨川べりに出て丸太町橋まで歩き、タクシーで宿に

戻った。宿には昼間買ったグルニエドールの菓子もあったので、それをデザートにしてうすめのコーヒーを

いれた。コーヒーも東京から送っておいたものだ。

 翌日の朝食も東京から送っておいたパンやジャムで支度をして出発に間に合わせた。九時に迎えに来た伊

野の車で原谷苑の桜、西明寺の槇と裏山を一面淡い紫に彩るコバノミツバツツジの群落を見に行った。途中

梅ヶ畑の平岡八幡で車を降りた時に伊野に尋ねた。「さっきすごい家が左手にあったけどあれは何?」伊野は

知らないと言った。しかし先生と私がお参りをして車に戻ると、伊野は神社の人に聞いたようで、昔は勝新

太郎の持家だったのが、今は東京の有名な占い師の所有になっていると教えてくれた。その家は立派では

あったが日本の田舎の風合いを生かした趣味のいい家に見えた。

 昼食は鳴滝音戸山の畑善に予約をしておいた。丘の上の別荘のような日本家屋からは東面の大きな一枚ガ

ラスの外に仁和寺の五重の塔を越して東山連峰が開けて見渡せ、おそらく送り火の夜は賑うだろうと推され

た。

 そのガラスの部屋は洋間になっており大理石がふんだんに使われているのに、奥の和室に違和感なくつな

がっていた。その後私はこの店が頻繁にテレビに登場するのを見ることになった。大抵は犯罪もののドラマ

で重要人物が絨毯の上に死体となって発見されるという場面で。

 午後は法金剛院の桜としきみの花を見て宝ヶ池の国際会館に行き、館長に会議場や庭や茶室を案内しても

らった。そこから西陣に向かって釘抜地蔵に寄った。前に先生の痛みがとれるようにここでお札を貰ってい

たので、先生をお連れ出来た今回は、ろうそくをお供えした。

 午後のお茶は堀川今出川の吉信の菓寮で先生は寒天みつまめ、私は実演の和菓子とお抹茶。最後のお花見

は吉信からすぐの白峰神社で、カラタネオガタマの花と欝金桜を見た。



 痛みがあっても一泊の旅をおつきあいくださったことに自信を得て、まだお見せしていない正月の京都に

もお誘いしてみた。駄目なら駄目で私が楽しめばいいと計画し、直前にキャンセルなさっても実行できる範

囲にしておいて、ほかの人も誘い、また、京都で万一何かあったら、宿の八百屋さんに頼ろうと思ってい

た。先生の痛みは福岡でも京都でも変わりはないはずだ。

 先生は参加の返事をくださった。今回は三泊四日の旅程を組んだ。今までの一泊の京都では東京に置いて

くる猫たちの世話は息子に頼んでいたが、今回は息子も婚約者を連れてくるので猫も一緒に連れてくること

を考えた。

 ゲストハウスのオーナーは私のとんでもない願いを

「うちも猫二匹いてますよって。ときどき自分でエレベーターまで載って下に降りて来よりますわ」

と私が恐縮しないよう何でもない風に受け入れてくれた。

 宿の部屋には二階式の猫用ケージが用意され、猫トイレ、猫砂、猫エサまで支給して下さった。

「お出かけになるときだけケージに入れておいてもろたら」

 ということで先生には前もって告げずに猫同伴を敢行した。衣類や食べ物は宅急便で送れるが、猫だけは

二匹とも細身とはいえ合計六キロ、よたよたしながらも楽しみのためならばと師走三十日に新幹線に乗せて

どうにか宿にたどりついた。

 猫はすぐにケージに入れて、それから京都駅に一時半に着く典子先生をお迎えに行った。宿に戻る前に若

王子のとまやで予約しておいた菓子と菱葩を引き取り、寺町の末広寿司で明日用の蒸し寿司の材料を買っ

た。

 先生は猫の出迎えに驚かれたが、それはいやだというより自分が猫に何かしてあげられるだろうか気に入

られるだろうかという戸惑いのような遠慮だった。自分から猫に話しかけられる姿はまるで赤ん坊か幼児に

接するかのようで、すぐに先生も猫も双方馴れてそれぞれ部屋の居場所に落ち着いた。

 友人の弘子と息子たちが来るのは元日の昼なので、夜は先生と二人で四条川端の一平茶屋に蕪蒸しを食べ

に行った。

 大晦日は朝から錦市場で買うものをリストアップして買い物の嫌いな私が溜息をついていると、先生が

「私が行ってくるわよ」とおっしゃるのでメモ用紙を渡してお言葉に甘えた。大晦日の錦市場が満員電車の

ような混雑なのは承知しているのによくそんなことができたと後々まで後悔とともに思い出す。そして「春

菊っていったら店の人が京都では菊菜というのだと言ってこれをくれたの」

と東京では茎にまとわるように葉の出ている春菊が、京都では葉が根本から株立ちしているものだと初めて

見せられた。それ以来春菊を見る度にその時のことを思い出すようになった。

 買い物のあと午前中に大徳寺高桐院まで行き、先生が今回来られなかった由美子におみやげを買いたいと

いうことで品揃えのいい全日空ホテルの売店に寄った。由美子には美山荘の大女将推薦の絹のタオルを、そ

してご自分用にぜんやのシルバーの草履を購入なさった。ぜんやは銀座の店だか、祇園芸妓さんたちも愛用

する名店で毎年京都高島屋で特別販売が行われ、ホテルにも出店している。

 昼は一旦宿に戻って錦の「八百屋の二階」でランチをとり、明治屋と三嶋亭に食材の買い出しに出た。そ

の足で祇園「松むろ」に予約のおせち料理を引き取りに行くと、

「お雑煮も宿で作らはりますか」と言ってふつうには入手の難しい山利の白味噌をたっぷりと分けて下さっ

た。

 松むろの後には清水寺まで歩いて今年の漢字の揮毫を見に行く予定にしていた。手には三嶋亭の肉、明治

屋の瓶類、そして数人分のおせちと味噌。先生にまで重いものを持たせて私はぶるぶる腕を震わせながら坂

道を上った。その年の漢字「命」を見てから宿に戻るとオーナーの八百屋さんから野菜のおせち重が届い

た。
 
 あとは私が博多がめ煮と吹き寄せ寒天を作るだけでお正月の準備が調う。

 夕食は昨日買った蒸し寿司を温めてごまだれうどんで年越しとなった。先生は洗い物をなさるときにお茶

の道具のようにお湯だけを使って洗剤は一切使用なさらなかった。「不潔と思うかもしれないけど」とおっ

しゃったが自分の主義を強く説明なさることはなく、海を汚さないためかと想像していた。

 元旦は先生と二人で一番近い錦天満宮に初詣に行った。息子の大学受験以来だ。

 雑煮とがめ煮とお屠蘇でまずは二人だけの朝食とし、昼前にやってきた弘子と息子たちが揃ってからゆっ

くりとおせちのお重を開いた。箸は老舗の市原箸店でもとめた栗箸、箸置きには昨日近くの熨斗水引の店で

買った金色の熨斗を使った。

 昼から息子たちは京都観光にでかけたので、弘子と三人で徒然草で山までは見ずと書かれている石清水八

幡宮に詣でることにした。ところが京阪電車で駅を降りるとものすごい人の数にたじろいだ。これは山への

ケーブルカーに乗る前である。私一人なら引き返したところだが、博多から、東京から来てくれた人を案内

した責任がある。こういうものだとあきらめてもらってケーブルに乗れるまで順番を待った。しかし上界は

さらに人の数がすさまじく、何も見えない。ギューギューと押されながら本堂の賽銭箱の前へ流され、かろ

うじて三人はぐれないようにして展望台へと逃れて、その後はどうやって駅まで下りたのかよく覚えていな

い。帰りの電車で先生と弘子がくすくすと笑っていた。

「何ですか。このあとどこでお茶するか考えてるのに」

「うん、そうだろうなと思って。険しい顔してた」
 
 元日に開いていて、わざわざ行く価値のある店となるとなかなかない。ツアーコンダクターの責任は重い

が四条のスターバックスしかなさそうだ。四条駅からタクシーでは中途半端に近過ぎるので五条で電車を下

りると鴨川の対岸のエフィッシュが開いているのが見えた。鴨川べりの喫茶店なら二人を案内しても満足し

てもらえるはずだ。三人でココアを注文してあたたまった。

 夜は三嶋亭の肉と先生が刻んで下さった九条ネギのすきやきを五人でつつき、食後は百人一首の札を使っ

て私が考案した遊び「蝉丸」に興じた。

 二日目の朝は先生と弘子に出汁でおじやを作り、私と息子たちはパンとコーヒーにした。息子たちは伊勢

に行くというので、昨日同様に先生と弘子の三人で迎えに来た伊野の車に乗った。今日は七福神を巡って色

紙にご朱印をもらう計画で、私はなるべくコンパクトに回ろうと市内にあるいくつかの候補のうち最短距離

で回れるところだけを選んでおいた。

 それなのに今となっては思い出せない、布袋・大福寺(二条麩屋町)、寿老人・革堂(寺町竹屋町)、福禄

寿・清荒神(荒神口)、毘沙門天・廬山寺(寺町広小路)、弁財天・妙音堂(出町)、大黒天・松ヶ崎大黒天、恵

比寿・恵比寿神社(祇園)だと思うのに円山公園南の長楽寺にも行った気がする。

 途中、円山公園内の平野家でいも棒の昼食をとった。ここは正月も開いている店だからという理由のほか

に、毎年正月は床にりっぱなヒカゲノカズラが吊るされるので、お茶をなさっている先生に見て頂きたかっ

たからだ。店の人の話ではそれを山に採りに行く人がちゃんといるのだそうだ。

 恵比寿神社で冬桜を見た後、祇園徳屋でぜんざいを食べて宿に戻った。私は殆どの荷物を送り、猫だけを

抱えて新幹線に乗った。

 後日典子先生からは、福岡に帰ってから京都の話ばかりするので義妹さんや姪御さんに呆れられているこ

とと、もうすぐ大阪から猫好きの友人が来るので自分の猫体験を語るのが楽しみだというお手紙を頂いた。

そして中に新聞の切り抜きが入っていて、寺田寅彦が猫を亡くした時の話や猫の魅力は言語を介してコミュ

ニケーションをとることがないところだと書いたコラムになっていた。

 先生がどのくらい猫を刺激的にとらえていらしたかがわかった。