もがり または 恩師 ⑬

2019-05-04 11:54:06 | 物語
ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません


 典子先生を京都にお誘いする旅に、次はどんな趣向をと考えるのは難しいことではない。京都にはご案内したいとこ

ろや場面がまだまだ沢山あり、同じ場所でも時節が違えばまた別の味わいになる。

 一度は大文字の送り火を見て頂きたいと思った夏、先生は連句のお仲間とアルプスの旅へ出かけられることになっ

た。大学の山岳部の部長であった謙三先生の散骨もあわせてチロルからアルプスを越えてヴェネチア、ヴェローナへ回

る一週間を予定なさっていた。連句のお仲間といっても、典子先生ご本人は望まれたご趣味ではなく、謙三先生の教え

子の方々が謙三先生のご遺志を承けて典子先生と親しくなさっていたといったらいいだろうか。

 その連句行をまとめた小冊子を典子先生は時々送って下さっていた。

 ある時お仲間の、“黒小鉢 鱧の縮れの 身の白き”という句を受けて、

典子先生は、“錦市場に 外国語(ことば) 飛び交い” という句をお造りになっていた。その解説を読むと、

“「鱧」ならやっぱり京都でしょう。京都なら「錦市場」でしょう。数年前京都旅行中に観た,

京都が外国人に占領されているという変だけどちょっと面白かった映画を思い出しました”

とあって先生が映画『地球のヘソ』を人に伝えるほど楽しんでおいでになったのだと分かって嬉しかった。


 先生のイタリアからの帰国予定日の数日後、由美子から電話があった。

「お宅にお電話したけどお出にならないの。何かあったんじゃないかしら」

 私は連句のお仲間の仕事場を調べて由美子に電話をかけてもらった。すると典子先生は旅の最後に帯状疱疹を発症さ7

れて今は福岡の病院に入院なさっているとのことだった。

 退院後、先生の痛みはおさまらず、神経ブロックや注射や投薬などを続けているとの電話を下さった。私も帯状疱疹

後神経痛について温泉や漢方まで色々な情報を集めたが、帯状疱疹は初動の治療が鍵で、時期を逃すと完治はかなり難

しく、癌や陣痛にならぶ激痛を伴うということを知った。今回の旅ではヨーロッパは初めてという謙三先生の妹さんも

ご一緒だったことから、典子先生は責任や緊張でいつも以上にお疲れになったのだと想像できた。

 その後の先生からのお便りは症状の辛さを訴えるものばかりになった。痛みを訴え続けたため鬱病の薬まで出されて

いるという。私は“帯状疱疹後神経痛 完治”というキイワードで検索を続けた。しかし完治を保証したクリニックはど

こにもなかった。患者からのレポートでは、完治はしないけれど痛みが和らいだという人がいた。、カラオケなど何か

に熱中しているときは痛みを忘れられるという。

 今の状態が続けばもう先生を京都にお誘いすることはできなくなるかもしれない。先生にも何か熱中して忘れていた

だけるようなものがあればよいのにと思った。それでも数か月すると時々は街中まで買い物に出たりお芝居を見に出た

りなさるようになった。

 もし先生が京都までおいでになる気力がおありになるなら、ずっとお相手をして気を紛らせて差し上げられる。決め

るのは先生だからと、春の日帰り京都を提案してみた。すると直前にキャンセルしても許されるならと返事があった。

旅の仲間には同級生のチエコを誘った。

 京都駅のMK貴賓室から伊野の車で出発して二人を細見美術館で下ろし、私は岡崎疎水でその年から始まった十石船の

予約をしにいった。予約は意外にすんなり取れたので、二人を美術館の出口で待った。チエコも典子先生の教え子であ

り、演劇部では主役でもあった。予定通りに午前の船で疎水から桜を眺めたが、満開にはまだ少し早く、肌寒い天気

だった。

 昼食は紫野和久傳に寄り、午後の花見に進んだ。何年も前から気になっていた菖蒲谷池の桜を見に行くのだ。それは

月刊京都というローカル誌に俳優の田村高弘が書いていた文で、彼は町中の桜よりもロケ先の花脊で常緑樹の間に点在

する桜の存在に生命感を覚えて好きだったこと、またよく散歩をした菖蒲谷には御所に仕えた女御が病で隠れ住んでい

たと聞いて山桜の風情と重なったとあったので、この目で同じ風景を見たいと思ったのだ。直指庵手前の茶店で一服し

た後、伊野には菖蒲谷に迎えに来てもらうことにして、着いたら電話をすると言い置いた。

 直指庵裏の山道にロープを越えて入ると、人の通らないようなほんの少しの草の分け目しか見えなくなった。少し進

めば道らしくなるかと思ったのに、逆に雨後の小川のような隙間があるだけ。さらに困ったことに大きな岩がはだか

り、それでも岩を超えるしか前には進めないところに来た。もう引き返せないほど歩いている。半分むず痒いようなお

かしさで笑いながらも困りながら岩をよじ登った。七十を過ぎた先生に同じことを強いるのも勇気が要ったけれどチエ

コと私で先生の前と後ろを守って登って頂いた。人はもちろんのこと建物など一切見えない笹薮と岩の山道。遠くには

赤松の低山が見えた。

 そうするうちにもいつからか道は下りになり、幅も出来て道らしくなった。杉林の道を我慢をして下り続けると下の

方から人の声や音楽が響いて来るようになった。道の先に開けた場所が見え、池らしいとわかった。林が切れたところ

に立札があったので読んでみると熊に注意と書いてある。完全に菖蒲谷側から入る人のためである。直指庵から山に入

る人は想定されていない。チエコはそれも逆手にとって立札の前でポーズをとって記念写真にしていた。

 菖蒲谷の桜は植えられて間もない山桜が数本あるだけでこぶしの白の方が目立った。

 食後の腹ごなしになったとはいえ、一時間近い山歩きは不安の方が勝って早く街中に戻りたい気分だった。後から月

刊京都を読んでわかったのだが、田村高弘は一言も直指庵から菖蒲谷に行ったとは書いてなく、雑誌の方で菖蒲谷へ

は直指庵から山道があると付け足していたのだった。地図では一キロもない山道に見えていたので大スターでも歩いて

行ける道だと思い込んでいた。

 すぐに伊野を呼ぼうと電話をすると圏外で繋がらない。まだまだ安堵することはできない。菖蒲谷の事務所に電話

を借りてやっと伊野に迎えに来てもらった。

「次は広沢池にお願いします」

 広沢池の前には木全体が真っ赤になるほど花の咲く椿があり、いつも車で通る時に見かけてはいたが下りて間近で見

たことはなかった。後から知ったのだがその木は谷崎潤一郎の細雪にも書かれているのだとか。椿の前の家がずっと保

護していたがその家も取り壊されて今は椿だけが残っている。

 椿はまさに見頃でチエコは喜んでカメラに収めていた。

 次は柊野の農家に五色散り椿と呼ばれる古木を見に行った。私は確かな住所を知らなかったが、伊野は場所を心得て

いるようで、「どうして」と聞くと「以前椿の専門家をご案内したことがあるので」と答えた。夕日に映える椿はどの

花も見上げる高さにあって下には花びらが割れて散り敷かれていた。上賀茂神社より北にはまだ農家が残っており、そ

の家は椿の季節だけは門から入る人を受け入れていた。

 夜はハイアットホテルに席を予約し、夜間にライトアップされる中庭の桜を眺めながら夕食をとって最終の新幹線で

帰る予定にしていた。先生は時々左胸を押さえるしぐさをなさっていたが、どうにか一日おつきあい頂くことが出来て

ほっとした。

「ここは私にご馳走させてね。チエコさんとは久しぶりだし、いいでしょ」

 この時のことをチエコは帰りの新幹線の中で不満そうに言った。

「本当はもう私たちが先生にご馳走をする番なのに」