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文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

資格とはなんだろう

2010-09-23 11:14:24 | 資格試験一般
 色々な人のブログを回っていると、「資格」についての定義が結構ばらついているのを目にする。考えてみると、これは案外難しいかもしれない。試しに、gooの国語辞典で検索してみると、「資格」の定義は、次のようになっていた。

1 あることを行うのに必要な、また、ふさわしい地位や立場。「理事の―で出席する」
2 あることを行うために必要とされる条件。「税理士の―を取る」
   (gooの国語辞典より引用)

 このように、「資格」と言う概念は、かなり幅広いのだが、資格マニアの方も自分の持っている資格について述べる時に、さすがに最初の定義で使っている人はいないと思うので、ここでは二つ目の定義の方について述べてみよう。

 しかし、この二つ目の定義も、一般に認識されている「資格」の定義からは不十分だと言わざるを得ない。確かに、法律に基づいて、「一般に禁止・制限されている行為を行政機関が特定の人に対して許すことや、特定の人に権利を定めて地位を与える」(Wiki「免許」より引用)という「免許」についてはこの通りなのだが、例えば「情報処理試験」などは情報処理の業務を行う上で必ずしも必要ではない。

 私は、「資格」には広義の資格と狭義の資格があると思っている。そして、狭義の資格とは免許のことであり、広義の資格には、これに検定を加えたものだ。検定とは、ある技術・技能等を持っていることを保証する制度のことである。また、芸事では慣例として「免許」と言う言葉を使うこともあるが、これは法的な根拠は無いので、分類としては検定に含まれるだろう。そして免許はほぼ無条件に「資格」としてカウントできると思う。

 更にもうひとつ、これはあまり明示されてはいるものにお目にかかったことはないのだが、特に検定の場合は、私は、「社会通念上一定の評価ができるもの」というのがあると思う。なぜなら、一定の評価がされているような検定でない以上、その人の技術・技能等が保証されているとは言えないからである。

 これらに照らしてみて、迷い易い個別の事例について検討してみよう。まず「学位」である。これは、法律に基づいて、学位を名乗るということができる権利を与えるものだから、資格としてカウントできるだろう。

 次に、講習だけで取得できるようなものだが、社会通念上一定の評価がされているようなものなら、取得の方法にはよらないだろう。しかし、怪しげな民間資格やネット検定の多く、通信教育の修了などは、仮に資格と自称していても、社会的な評価と言う意味で、資格として扱うには疑問がある。

 また、最終的に資格を取得するための部分的な要件となっているようなものは、それ自体を資格として扱うべきではないというのも普通の感覚だろう。だから、資格試験の科目合格や、学位を得るための条件となっている大学等での単位取得を独立した資格として数えるべきではないと考えている。


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終身雇用制と日本文化 ゲーム論的アプローチ

2010-09-23 07:00:00 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
 長引く不況を背景に、労働市場の自由化など、市場のメカニズムに過大な期待を寄せる論調をよく目にするようになった。日本経済が絶好調だった頃はあれだけもてはやされた、「終身雇用制度」を背景とする「日本的経営」は、、今や日本企業の競争力を阻害している元凶のように言われることも多い。

 しかし、それでは、自由市場に一番信奉を置いているアメリカの場合はどうだろう。クーリエ・ジャポンの2010年3月号は、「『貧困大国』の真実」として、アメリカの病める姿を鋭く描き出していた。この実態を見れば、市場というものは、決して諸手を挙げて礼讃できるようなものでもないのだろう。もちろん、昔の社会主義諸国のような計画経済などは論外であり、解は、自由市場に近いところにはあるのだろうが、市場は必ずしも安定ではなく、そこになんらかのコントロールというものは必要なのである。

 市場に信頼を置くのは、「新古典派経済学」の考え方なのだが、私自身、安易な自由競争への期待に対して、ずっと懐疑的な気持ちを持ち続けて来たのだが、先般「終身雇用制と日本文化 ゲーム論的アプローチ」(荒井一博:中央公論新社)を読んで驚いた。まさに、私が感じている疑問に対して真っ向から論じていたのだ。発行は、1997年だからもう10年以上も前である。大抵のことは、既に誰かが考えて、論じているということのよい事例であろうか。

 要点をごく簡単にまとめてみよう。

 日本は伝統的に信頼を非常に重視した社会であり、そのような文化のもとでは、終身雇用制は、協力を促進するので、企業にも労働者にもメリットが大きい。

 反面、終身雇用制は、インフォーマルグループというものが組織内に形成されやすく、組織全体のためではなく、自分たちの利益のために動きがちである。信頼を非常に重視していた日本社会自体も急激に劣化が進行している。

 日本的システムは欠陥が露呈しているものの、歴史や文化を無視して、そのままアメリカの真似をしてもアメリカ以下にしかなれない。何よりアメリカ人の大多数が日本人より幸福という訳ではない。結局は、倫理的側面と制度的側面から日本的システムを改善してやっていくしかない。

 最近の経済学関係者たちの論調に少し辟易していた身には、いちいちうなずけることばかりである。ところで、本書には、経済学徒について、面白い実験結果が紹介されている。経済学徒は(もちろん平均的な話で個々には例外があるのはもちろんだが)、一般の人と比べて、「合理的」に行動したり非協力出会ったりする傾向が優位に現れるというのだ。ここでの「合理的」とは、「経済人」の持つ合理性ということで、つまりは自己の利益を最大にするように行動するということだ。経済の専門家の主張することが、時に違和感を持ってしまうのも、案外このあたりの感覚のずれから来るのかもしれない。


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