Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

引越し?夜逃げ?

2007-01-31 22:52:52 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は天気が好かったので、いつものように機材を担いで撮影に出た。
ところが、昼前ごろから急にヘイズがひどくなり、シートフィルムを2枚消費した段階で切り上げた。
いつもの年なら、この時期は空気が乾燥している上に季節風も強いので、ヘイズが発生するはずもないのだが、今年は本当に変な気候だ。



そういえば、知人が愛読している極東ブログに「マレーシアのスモッグ(ヘイズ)」というエントリーがあって、かつてインドネシアの森林火災と漂海民(Sea Nomad)とそのエントリーを絡めたネタをひねくっていたことを思い出した。
漂海民(バジャウ)の生活は、移動型生活の中でも最も自由、かつ過酷なものではないかと想像するが(アンダマンの漂海民は、津波で大きな被害を受けたと聞く)、当時ひねくっていたのはその国境無き民族と、国境を越えて漂う資本と、国境なき博愛思想の押し付けが遭遇し、そこに面白くも暴力的な事件が起こるとかなんとか、そういう手合いのネタだった。



まぁ、個人的な経験もあって自分はあまり定住生活に魅力を感じていないというか、むしろ人間関係が固定化することの息苦しさを嫌う傾向すらある。おかげで、なかば流民か季節労働者のような仕事ばかりだったし、実は作品にもそれが少なからず影響しているように感じてもいる。
ただ、昔からWEB世界にはノマド的な気風があり、またそこが自分の性にもあっていたのだろう。自分はWEB世界の流動的なところというか、ある意味で先の見えないところも全く苦にならず、むしろヘイズがかったところが好ましく感じられた。



東京という街もWEB的というか、わずかの間に商店やビルが姿を消し、気がつけばまた新しいビルが建っている。立ち退きを迫られたのか、はたまた夜逃げをしたのか、わずかな生活痕が残る廃屋などを見ると、ついレンズを向けたくもなるが、そこはぐっとこらえて新たな撮影地を探す。



こうしてみると、自分が引越しだか夜逃げだかを繰り返してきたようだ…



最後になりましたが、これまで折に触れてトラックバックを送信させていただいておりましたAtelier Musee Ohtake / Photograph(世田谷光画倶楽部・写真ブログ)が、このたびめでたく引越しをされることとなったそうです。
新たなサイトは「世田谷光画倶楽部(Photographer Ohtake のんびりはんなり光画徒然)」となるらしいのですが、新ブログでもこれまでと同様のお付き合いをお願いいたします。


密着の誘惑

2007-01-29 22:42:23 | 業務関連


先日、ギャラリー"Roonee247Photography" で鑑賞した、五十嵐英右写真展‘ Plant  ’に感化されてしまい、ここしばらくは密着焼きへの関心が高まったままだ。
とはいえ、現状の制作方針で密着焼きを使うことがあるとは思えないし、技法を試したいがために制作方針を変更するなどは、正しく愚の骨頂としか言いようがないので、とりあえず情報収集だけにとどめている。



昼過ぎには取引先との打ち合わせが入り、いつものように途中から雑談モードとなったのだが、なにかの拍子で国立新美術館の前を通った話をしたところ、あまりなじみの無い若き担当者氏が「あそこでオタク祭りやってるんでしょ?観てきましたか?」と口を挟んできた。最初はいったいなんのことだかわからなかったが、しばらくして文化庁メディア芸術祭10周年企画展「日本の表現力」のことを指していることがわかった。そして、この唐突な話題転換が、とある人物のブログからヒントを得た、いわば壮大かつどうしようもなくうんこなネタトークであることも、同時に理解することができたが、ちょっとカチンと来たので意地になってぼけ倒した。



もともと、文化庁メディア芸術祭に対しては冷ややかな観かたをする関係者が少なくなかったし、自分も芸術の名を借りたサブカル搾取だと思っていたので、実を言うとイベントの存在そのものを完全に忘れ去っていた。その上、先ごろ行われた、日本のメディア芸術100選アンケートのエンターテインメント部門では、プレステやマリオ、ドラクエを抑えてやわらか戦車が堂々の1位を獲得するなど、まぁ穏当に言ってもあるある大事典クラスのメディア操作が行われている可能性が高く、あまり関心を持たないないほうがよいと言っておいた。



すると、今度はナニをどう勘違いしたのか(あるいはボケ勝負に打って出たのか)、ものすごいハイテンションで「文化庁の主催なら『反JASRAC、著作権非親告罪化反対ビラ』とかばら撒いたら楽しそうですねぇ~」等と、昭和のアートゲリラみたいなことを言い始めたので、心から驚いた。まぁ、直接頭ごなしに否定しても仕方ないので、かつて「ゼロ次元」というアートテロ集団があってねぇ、などとテキトーにお茶を濁してその場を収めた。
それにしても、国立新美術館の企画展と著作権囲い込み反対活動を瞬時に直結させた若き担当者氏の感性には、ただただ脱帽させられるばかりだ。もしかしたら、いやほぼ確実に企画展を同人誌即売会かなにかと同一視しているのであろうが、それにしても若いオタクの稚気にはいささかばかりの可愛げがある。また、かつてのアーティストたちも、そういった稚気を持ち合わせていたのだろう(中には現在もたっぷり持ち合わせてる作家氏がいるけどね)。



まぁ、そういったエネルギーの溢出を目の当たりにすると、否が応でも自分の年齢を感じさせられてしまうし、さらには密着して「エネルギーを吸収したい」欲求にすら駆られるが、そこは押さえるのが大人の分別というものであろう。
それに、いい歳して若い連中へ擦り寄ったり、ましてや若者ぶって稚気をあらわにするのは、ただただ見苦しいばかりだからねぇ~



もちろん、最後まで意固地になってぼけ倒した自分のことは、全部キレイに棚上げしておきますよ。


次の次

2007-01-28 23:45:34 | 業務関連


取引先からちょっとした仕事を紹介していただき、これまでとはまったく別系統の現場に参加させていただいた。
参加させていただいたといっても、本当にお手伝い程度のアシスタントだったし、むしろ足手まといになって無ければよいかとも思うのだが、別系統の現場に参加するというのはいろいろと勉強になって興味深い。



また、今回は本当にたまたまこのような機会をいただいたのだが、もぅいい加減いい歳になっていることでもあり、今年こそ営業にも本腰を入れていかねばならないとは思う。



ありがたいことに、現在制作しているような作品とはまったく異なるジャンルでも、知人や作家氏からお話をいただいており、なんとかその種を膨らませていきたいところである。
もしかしたら、次の次の個展、あるいは次の個展よりも手前の段階で、なにがしかの成果物を発表するすることになるかもしれない。



もちろん、自らの基盤となるジャンルで確かな成果を上げることが先決ではあるが、機会を無駄にしないこともまた重要ではないかと思うのだ。


運命の大菩薩峠超え

2007-01-26 23:01:39 | 業務関連


昨日の知人と再びだらだら話しをしていると、今日はエロゲに対する不満を垂れ流し始める。
エロゲに対する不満といっても、ぶっちゃけTYPE-MOONやその信者に対する愚痴なので、まぁテキトーに聞き流していた。だが、自分も含めた一部の老オタクにとって、奈須きのこ作品には近寄りがたい部分があるのも事実なので、知人が愚痴を垂れたくなる心情は共感できるし、またその相手として自分を選ぶというのも理解はできる。



というわけで、ただ聞き流してばかりというのもひどい話だし、せっかくだから以前よりひねくり回していた「Fate/stay nightはエロゲの大菩薩峠」話をする。



コレは「奈須きのこは現代の中里介山じゃないところがミソで、もちろんFate/stay nightがゲームとして中だるみがひどく(最初からたるみっぱなしという人もいる)、文章もあまりうまくなく(多くの人々はもっと辛らつな表現をするがね)、ただただ呆れるばかりに長い、いわばネバーエンディングストーリーであるにもかかわらず、少なくともエロゲには比較するものが見当たらず(それ単体でジャンルとして成立しているといってもよい)、そしてなにより多くのオタクたちに曰くいいがたい感動を与えたとことが、エロゲの大菩薩峠たる故なのだ。



また、大菩薩峠を論ずる際には必ず触れられる、苛烈なまでに虚無的な主人公の性格付けや、また松岡正剛氏が「松岡正剛の千夜千冊『大菩薩峠』全12巻中里介山」で触れたように、日本刀や剣を象徴とする「時代から失われゆく空気」のありようも、Fate/stay nightをエロゲの大菩薩峠たらしめている要因ではないかと思う。ついでに言うと、大菩薩峠には思想的な背景がありそうで全く無い、根源的な無思想を抱えた作品とされるが、その点もまたFate/stay nightに当てはまるだろう。



Fate/stay nightは紛れも無い傑作だが、それは作品に時代の虚無的で無思想な空気を、それとはわからないように忍ばせているところにあるのではなかろうか?



とまぁ、こんな具合に長広舌を振るったところ、昨日の知人はやたら面白がった挙句、こんなことを言いやがった…



おぃ、それすげぇ面白いぞ、ブログに書けよ!


危険な萌え騙り

2007-01-25 23:30:09 | 業務関連


今日は非常に好い天気だったのだが、なんだか気分が乗らないまま、掃除をして仕事に出た。
もやもやしたなにかを抱えたまま、取引先と新しい仕事の打ち合わせをした後、いつものように雑談をしていたら、ちょっと気になる指摘を受けた。



ミリオタ歴が長いのは言動からすぐにわかるし、最近はミリオタ方面でも萌えが許容されてるけど、作品とかブログで萌えをいじるのは危なくないか?



まぁ、自分は作品やブログで萌えをいじったつもりはないし、今後もいぢるつもりは無いけど、ギリのネタを飛ばしたことはある。最近、実際にはオタク世界を知らずにいるのに、表面的なものだけかじって、知ったかぶって物言う連中が後を絶たないのだから、自分のような立ち位置の人間に対して警戒心を抱くことは、むしろ健全な反応ではないかと思う。
というのも、明らかに自分は現代美術の一環として写真を使った作品を制作しているが、その点が警戒心を抱かせる要素になっているのだ。事実、細野不二彦大塚英志などの作家や評論家をはじめとして、少なくない数のオタクが村上隆を厳しく批判していたが、現代美術からのアプローチを疎んじる傾向は第9回ヴェネチアビエンナーレ建築展日本館展示の後も、ややトーンダウンしてはいるものの基本的には変化していないといえよう。



いささか長くなるものの、以下に椹木野衣の「日本・現代・美術」から引用する。



もしもこれらの遅れてきたポップ・アーティストたちが、美術の外部で自律している諸ジャンルの成果を、それが美術という別の世界で発表されることを免罪符に、オタク的水準からすれば質的に劣るまま発表し、それを評価する基軸がないことをもって「美術」たるべく主張するだけなのであれば、じつのところ彼らは美術の名のもとにサブカルチュアを搾取しているに過ぎない。

日本・現代・美術 P54L2-L6



厄介かつ皮肉なことに、ここに記されているような搾取構造は写真の世界にも存在しており、しかもかつては搾取される側だった写真が、いまや搾取する側にも回っているのだから、自分の行為は二重の意味で警戒されてしかるべきということになろう。
確かに、写真的価値判断や文脈においては質的に劣る作品が、往々にして批評文脈の魔術や撮影者の知名度などに乗じて「芸術性」を主張し、そしてそのことを評価する基軸を持たないがゆえに、結果としてそれが「美術」として評価され、広く流通していく構造は確かにある。だが、他方で写真はより歴史の浅い、あるいは社会的権威付けが不足しているがゆえに、自らのジャンルを評価する基軸があいまいなサブカルチュアを搾取していたのも事実である。



やはり、作家として自らの制作活動が真摯な動機に基づくものと自認するのであれば、やはり様々な機会をとらえて自らの制作姿勢を表明すべきであろうし、また横断、越境、進入、あるいは援用するジャンルに対しては一定の敬意を表明する必要もあろう。



少なくとも、ただマスメディアやコモディティーがジャンル内で流通する用語や概念(例えば萌えやツンデレ)を誤って用いたり、あるいは非常に浅くしか理解できなかったりしたとしても、ジャンルの当事者でもない自分がしゃしゃり出て、えらそうに「あまりその本当の感覚を知らずにネタ的に使われてるだけ」とか言えないし、言うつもりも無いことだけは声を大にして表明しておきたい。
なにか特定のジャンルについて解説する役割というのは、やはりジャンルの専門家がまず第一に担うべきだし、もしあえて外部の人間がその役割を引き受けるというのであれば、それ相応の覚悟というものが必要なのではなかろうか?



自分はなんでもかんでも外から眺めようとするが、それなりの覚悟を完了してから外に出て、中を見ているつもりはあるよ。


安定と停滞と不安定と活動力と

2007-01-23 22:29:06 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日も好い天気だったので、打ち合わせの前に寄り道して、フィルム2本(16カット)消費した。
その後、久しぶりに写真ギャラリーをいくつか周ったが、今回は割りとアタリの展示が多く、ちょっといい気分にさせていただいた。



まず、四谷のギャラリールーニィを訪れ、小原昌輝写真展「TOKYO RIVER」五十嵐英右写真展‘ Plant  ’を鑑賞させていただく。五十嵐氏の作品は非常に若い感性や、制作に対する迷いがストレートに表れていて、よい意味での「不安定さ」を感じることができた。ご本人ともいくつかお話させていただいたのだが、非常に真摯に写真と向き合っておられる様子が、言葉の端々からもひしひしと伝わってきて、楽しい時間をすごさせていただいた。
あんまりにも楽しかったので、少し意地悪を言ってみたりもしたのだけど、これまたとてもまじめに応えてくださり、自分の人間的なレベルが低いことをさらけ出してしまった…
ともあれ、次の展示が楽しみな作家氏である。



次に訪れたロータスルートギャラリーでは、谷口雅彦写真展「華の刻印 -Exposed Decade-」を開催していたが、こちらは打って変わって落ち着いたというかなんというか、少なくとも作家が自身のスタイルを完全に確立しているようで、なんというか老成したようななにかを濃厚に漂わせた展示となっていた。
プロフィールを見ると、谷口氏と五十嵐氏は同年輩とのことで、同じ世代でもコレほどまでに作風が違い、そして作品に対する姿勢も違うのかと思うと、世代などと言うレッテルで他人をひとくくりにしてしまうことの危険性を、改めて思い知らされた。



その後は、付近の自主ギャラリーをチェックしつつ新宿駅へ向かい、いつものようにメーカー系ギャラリーで締める。
ただ、今日はニコンサロン齊藤宙展[愚かさの傍観]が思いのほかよくって、これまた非常によい気分にさせていただいた。ややもすると、単なる懐古趣味に堕してしまいかねない被写体を扱いながら、低レベルな廃墟写真とは一線を画する作品に仕上がっており、またここでもよい意味での「不安定さ」を感じさせていただいた。
幸運にも、作家氏ご本人とお話させていただいたのだが、今後はまた新たなテーマにも取り組んでみたいと、静かだが力強く語っておられたのが印象的だった。



非常によく言われることだが、不安定であること活動的であることは、実のところ表裏一体のものであることを、まざまざと思い知らされた。ひとつの形を極めつつ、様式美の世界を作り出すこともまた興味深い試みではあるかと思うが、自分としてはやはり不定形な何かと向き合うほうが好きだ。
とりあえず、自分も自分の世界を強固にすることより、積極的に新しい試みを取り入れてゆきたいと思う。



とはいえ、次回の展示もあのインスタレーションを踏襲するつもりなんだけどさ~


それは初心かい?

2007-01-22 23:34:29 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日のエントリーですが、初心会といっても、ゲームネタではありません。



今日も今日とて、夕方から知人と打ち合わせだったのだが、やはり例のごとく途中から雑談となる。まぁそれはそれとしていいのだが、今日も知人がブログの話題を振ってきたので、途中からいささかうんざりしながら聞き流していた。



というのも、自分は「ブログ」に対して少々(いや激しく)原理主義的なところがあり、例えばこのブログにしても確かにブログでありWeb日記でもあるが、決してBlogやWeblogではありえないと考えている(実名表記でWeb界隈のテーマを拾うこともあるが、そのことをテーマにしているわけではない)。また、日本にはブログへのコメントやトラックバックを許可制にすることを奨励する人々すらいるが、いくらコメントスパムトラックバックスパムを回避するのが目的とはいえ、コメントを検閲して管理者にとって都合がいい意見のみを掲載したり、自由なトラックバックすらも許さないブログは、それがなぜ「ブログと名乗ってWEB上に存在しているのか」すら疑われても仕方がないと信じている。
そもそも、コメントスパムやトラックバックスパムにおける最大の被害者は、やはりシステムやシステム管理者であり、ブログ管理者の被害は2次的なものに過ぎないのだが、その点をすっかり忘れた議論があまりにも横行している。
それに、日本におけるブログはコモディティー化された2ちゃんねるといった趣のものがあまりに多く、情報の質は2ちゃんとあまり変わらない。そのため、自分はブログをほとんど観ないし、知人の話にもついていききれない部分があった。



今日は納豆ダイエットデータねつ造事件に関するトピックが俎上に乗ったのだが、こうしてエントリーのためにチェックしてみると、それらの大半は小市民的な憤激をただナイーブに表明したのみか、あるいは見当違いの社会批判やメディア規制論を並べ立てたものもあり、正直言ってうんざりさせられた。
もっと性質が悪いエントリーになると、賢しらに「日本人は熱しやすく冷め易いなんてのは昔から変わらない」とか、あるいは「誰かが問題起こして攻撃受け始めると、それに便乗して攻撃したり、したり顔で正義の味方を気取る人って非常に多い」とか、何様のつもりか評論家気取りで「大衆」を小ばかにした中二病全開エントリーまであり(あれじゃ2ちゃんの釣りスレ未満だよ)、これでは愚痴のひとつも言わずにはいられないだろうと、今になって知人の気持ちが多少は伝わってきた。



とはいえ、今回の騒動をある程度冷静に分析したエントリーも見つけたので、ここに紹介しておく(書き手はプロだけどさ)。



磯島大の「マーケティング夢想」(^_^)1月22日「納豆ダイエット データ捏造事件の本質



でまぁ、前置きというか知人に触発された中二病発作をひとくさり書き散らしたところで、ヨウヤク本題へと入っていくのだ。知人に言わせると、フィリップ・K・ディックの小説世界に描かれるようなメディアの欺瞞に気がつく人が増えれば、自分が最近制作しているような作品に注目する人も増えるだろうし、その端的な実例としてあげたのが納豆ダイエットデータねつ造事件をめぐるブログ界 (Blogosphere) の騒動っプリだったというわけ。
ただ、残念なことに知人がその端的な実例を話し始めた段階で、早くも自分が中二病の発作を起こしてしまい、本題にはほとんど入らずじまいでタイムアウトとなってしまった。



とはいえ、知人には非常に申し訳ないのだが、もし本題をきちんと最後までうかがったとしても、自分には納得いかなかった可能性が高い。事実、自分が作品で表明した「全てのものを外側から見ろ」というメッセージや、フィリップ・K・ディックの小説世界に描かれる世界の欺瞞というものは、受け手に疑うことさえも疑うことを強要するというか、誌的な表現を用いるのであれば「疑いの深淵と正面から向き合い続ける」ことを求めているわけだ。
しかし、知人が提示したブログ界 (Blogosphere) における騒動というのは、例えばメディアを信じられなくなった人々の「もっと上手に気持ちよく信じさせてくれなかったこと」に対する怒りだったり、または別の何かを信じていた人々による「異教徒へのあざけり」に過ぎず、いずれにしても「何かを信じたい、信じさせてほしい」という願望や、あるいは「自分以外の何かを信じると表明することで、自分の責任を軽くしたい」という心情の表れと観ている。



つまり、本質的な意味では2ちゃんねるでくだを巻いているねらーたちと変わらないわけで、そういった人々へ「疑いの深淵と正面から向き合い続ける」よう求めても、控えめに言ってもよい結果は期待できないと思うのだ。



ただ、知人が指摘したように自分はフィリップ・K・ディックの小説世界をこよなく愛しており、かつてはそういう暗い世界観を作品へ持ち込もうと苦心していた。あれから月日も流れ去り、自分も歳を喰ってしまったが(比喩表現じゃなく、マジで)、また初心に帰ってみるのも悪いことではないかもしれない。



とりあえず「スキャナー・ダークリー」でも観に行くか…


ぃイヒ方衣だち

2007-01-20 23:09:38 | 業務関連


先週末に蔵書を持ち込んだ日月堂さんより、査定の結果が届いた。
入札の結果を待ったものも含まれていたので、少々時間がかかったのだが、自分の予想よりもはるかに高く査定していただき、かえって恐縮してしまう。もちろん、これは自分とお店の守備範囲がきれいに一致するという、非常に稀有な幸運の賜物で、もぅ柳の下にどじょうはいないのだが、ある意味で金額の高低よりもはるかに喜ばしい出来事だった。



特に喜ばしかったのは、店主氏がロシア構成主義(ロシア・アヴァンギャルド)をこよなく愛し、かつ関連書籍の品揃えに力を注いでいることで、自分としてもよいお店に引き取っていただくことが出来たと思う。
芸術理論としてのロシア構成主義(ロシア・アヴァンギャルド)はすっかり陳腐化しているし、さすがの自分もその理論を実作へ応用しようとは思わないのだが、それでもなお少なからぬ数の人々をひきつけてやまない魅力を持っているのは間違いない。とはいえ、店主氏によると魅力が必ずしも売り上げに結びついているとは言いがたいようで、その点は自分としても非常に残念に思う。



理由のいかんを問わず、愛蔵していた書物を売りに出すというのは、ある種の後ろめたさというか、最後を見届けることの出来なかった残念さというか、なにか書物のアウラまで失うような(!)、そういう心の痛みを感じる行為でもある。
しかし、今回は本当によいところへ持ち込むことができて、なにかほっとしているような、そんな気持ちにさえなっているのだ。



まぁ、思ったより高い値段がついて、金銭的にほっとしているのも事実だけどさ~


続アウラのわな

2007-01-19 23:07:48 | 業務関連


前回の続き



アウラに関して説明した段階で、知人は「アウラを排除しなければならないとしても、なぜ写真にこだわるのか?」と疑問を投げかけてきた。



実は、その部分こそベンヤミンの論考における中心的な要素であり、バカ正直に説明すると「ベンヤミンの論考を丸ごと解題する」ことになりかねないので、悪いけどそれだけはどうかご勘弁してくださいということで、とりあえずごく大雑把なところだけにとどめさせていただいた。まず、ベニヤミンは「作品は複写あるいは複製されることでアウラを喪失する」とし、芸術作品の複写にはオリジナルの持つアウラが備わっていないし、また大量生産されて「誰もが容易に入手可能となった」品物に対しては、誰もそれからアウラを感じないとしている。
つまり、写真には本質的に複製性と複写性を備わっているため、本来的な意味でのアウラを持ち得ないのだ。



その上で、ベニヤミンは伝統や儀礼と結びついた神秘性、つまりアウラに価値を見出すことは、保守的な権力者を利するばかりだと考え、複製技術の進歩によるアウラの喪失を積極的に評価した。もちろん、ベニヤミンは本質的にアウラとは最も縁遠い存在である写真に注目し(ただし、時系列的にはまず写真についての論考があり、その中でアウラという概念と写真の担う役割を提唱している)、アウラを排除することこそが写真の社会に対して担う役割だと論じたのである。



でまぁ、写真の被写体が存在しないと成立しない点と、撮影者が存在せずとも写真は成立するという点が、ベンヤミンの言うアウラの喪失に結びついているのだ。また、そのような写真の本質的な特性に注目して、写真が現実を超えた超現実をもたらすと考えたのが、同時代のシュルレアリスト達なのだ。



シュルレアリスト達は過去の規範や常識、伝統、暗黙のうちに成立した約束事などにとらわれている限り、現実を新しく(または正しく)認識することはできない。そのため、作家の主観や意識や理性が介在できない状態で偶然に生み出された作品や、そもそも意識の介在から解き放たれた夢の中にこそわれわれの普段気付かない現実、いわば超現実が存在していると主張したのである。



また、シュルレアリスト達が写真の本質的な特性に注目したのも、いうなれば非常に当然の成り行きであり、さらにベンヤミンがアウラという概念を導き出すきっかけのひとつになったユージェーヌ・アジェを見出したのもまた、シュルレアリスト達であった。



つまり、アウラを拒否することと超現実を求めることは、そもそも隣接した思考あるいは行為ともいえるのだ。
そのため、自分は写真における匿名性や無名性、中でもUnlinkabilityを重視し、例えば「どこで撮影したのかわからない=現実の撮影地と作品とが結びつかない」ことや、あるいは「誰を撮影したのかわからない=被写体と作品が結びつかない」ことが重要であると説明した。



コレが学科の口頭試問だったら、すかさず「論理の飛躍が多すぎる」とか、そもそも「伝統や儀礼と結びついた神秘性、あるいは過去の規範や常識などの否定が自明となっており、前提条件の証明がなされていない」などと厳しく突っ込まれ、レポートの再提出は避けられないところではあったが、なにしろ相手は担当教員でもなんでもない単なる知人だったので、その辺はかなぁり楽をさせていただいた。
それでも、知人はひとつの興味深い疑問をぶつけてきた。



大量生産品は芸術的に無価値なのか?



これは「au design project」の4モデルがMoMA (ニューヨーク近代美術館) のコレクションに選定されたニュースを引き合いに出すまでも無く、大量生産品であっても芸術的な価値を持つもの持つし、また場合によっては大量生産品からアウラさえ感じられるとも答えた。
つまり、ベンヤミンの言説には欠陥があり、アウラ論も絶対的なものではない。
無論、著名人や近親者の愛用品、歴史的事件、事故に関係した品などに、ある種のアウラめいたものが宿ることは簡単に理解できるだろうが、そのような品は既に大量生産品の概念を超えた存在といえよう。むしろ、ただ単に年月を経ただけの品であっても、それになにかアウラめいたものが宿っているかのように思えることの方が問題で、かつてスーザン・ソンタグが論じたように、写真は古びたほうが価値を持つという指摘もある。
さらに、ほとんど全てのオタクは大量生産品からアウラを感じ取り、また棟方志功などの版画を複製したリトグラフからもアウラを感じとっている人々も少なくない。つまり、大量複製時代の到来によるアウラの消失に対して、多くの人々はベンヤミンが予見したようなアウラなき世界を歓迎せず、逆に大量生産品へアウラを付与することを望み、そして大量生産品からアウラを感じ取るようにすら変化していったと考えられるのだ。



ついでに言うと、シュルレアリスムも理論としては既に破綻している。特に、その土台を形成したフロイトの精神分析や共産主義理論の欠陥が明らかになったこともあいまって、現在では個々の作品における思想的な背景として解説されるか、あるいは歴史的なエピソードのひとつという扱いを受けることがほとんどだ。



それでは、なんでいまさらそんな破綻理論にこだわるのかというと、これはもぅ純粋に「自分が面白いから」と言うほかない。
作品を制作する際に、いかなる理論を援用するのかは作家の自由だし、もしもそれによって作品の魅力が増すのであれば、もちろんそれに越したことはないのだ。



ただ、白状してしまうならば、伝統や儀礼と結びついた神秘性、あるいは過去の規範や常識、とりわけノスタルジアなどを無批判に肯定した作品、さらには作家の意図があまりにも明白で作品全体を一部のすきも無くコントロールしている作品に対しては、暴力的なまでの反感を覚えてしまうということもある。写真作品で例えるならば、花鳥風月に祭り、ペットや子供、女性などから、ただ作家の考える美しさ、かわいらしさのみを取り出したような画像、いつぞやのエントリーでも触れたニコラ・ペルシャイトに代表されるソフトフォーカスレンズを使って、あくまでも作家が考えるところの被写体の魅力しか見るべきところの無い画像などがそうだ。
ひどいときには、丹波哲郎演じた丹下博士よろしく、大声で「こんなものは芸術でも何でもない!」と、ステッキふるって粉砕したくなるほどだが、まぁ丹波先生の足元にも及ばない自分などがやるネタでもないし、多くの人々に通じるネタでもないしな。



ただ、作家の感覚というか思考の枠を出ない、出る気もないような作品というのは、見ていて本当につまらないのだけは間違いないねぇ~


アウラのわな

2007-01-17 22:32:28 | 業務関連


朝から雨模様で、仕事も微妙にはかどらない。
昨日の原稿を担当者と一緒にチェックしなおしたり、今後の仕事について軽く打ち合わせたりした後、出先で夕食をご馳走していただく。夜には昨日の知人と合流し、案の定というかなんと言うか、昨日の続きを話すことになった。



まず、アウラの説明については、以下に『文化理論用語集』の説明を一部引用する。



アウラ(Aura)
ウォルター・ベンヤミン(Benjyamin1970)の論考「複製技術時代の作品」において初めて使われた用語であり、一つの芸術作品の唯一性と、それが伝統や儀礼と結びつくことで付与される神秘的な価値を示す。以下略



ここにおいて重要なのは、アウラが「伝統や儀礼と結びつくことで付与される」というところで、芸術作品のアウラを感じるためには、受け手にもある一定の「アウラを感じる心」が求められるともいえよう。
いささか極端に過ぎる事例だが、例えばイスラム原理主義者は仏教やキリスト教の美術にアウラを感じ無いだろうし、また枯山水魯山人の器にアウラを感じる子供もまぁいないだろう(いたら気持ち悪いかもね?)。つまり、仏教やキリスト教の儀礼とか、あるいは日本文化の伝統を共有していない受け手は、仏教やキリスト教美術のアウラ、または枯山水魯山人の器のアウラを感じ取れないといえるのだ。



言い換えるなら、アウラとは受け手が伝統や儀礼を通じて培った「神秘的な価値を感じる心」を刺激し、芸術作品に優れた価値があるように思わせる仕掛けである。そのため、もしも受け手の「神秘的な価値を感じる心」を培った伝統や儀礼をうまく取り入れられれば、手っ取り早く作品に価値があることを示すことも可能となるのだ。



とはいえ、アウラが「伝統や儀礼と結びつくことで付与される」以上、アウラを仕掛けとして利用する作品も伝統や儀礼との結びつきを避けられないし、当然ながら伝統や儀式を横断する多様性や国際性は持ち得ない。また、受け手が作品の価値を認め易くなるような仕掛けを、作家自身が作品に練りこむことについては、もちろん批判されてしかるべきだと思うし、ベンヤミンはそのような行為をアウラの捏造として激しく非難している。



このようなアウラの捏造を回避し、さらには作品からアウラを切り離すため、一部の作家たちは写真作品における「匿名性、ないしは無名性」をことのほか重視したのである。また、アウラは土地や人物の持つ歴史あるいは文化とも容易に結びつくため、匿名性の中でもUnlinkabilityを重視し、例えば「どこで撮影したのかわからない=現実の撮影地と作品とが結びつかない」ことや、あるいは「誰を撮影したのかわからない=被写体と作品が結びつかない」ように心がけたのだ。



続く…


匿名性と物語性

2007-01-16 22:33:13 | 業務関連


明日、完成予定となっている原稿の進捗状況を尋ねたところ、今日中に上がるといってきた。
珍しいことでもあるものだ、こりゃ雨でも降るなと思いながら、受け取り方法や時間をすり合わせたら、作家氏は明日から取材旅行に出かけるということで、今日中に受け取ってほしいとのこと…



他社さんの予定が1日前倒しになったそうなのだが、まぁ「わかりやすいオチ」もついたということもあり、仕方なく近所の寝カフェで時間をつぶす。なにしろ、今日中といっても今日のいつになるかはわからないので、閉店時間を気にせず居座れるところでないとまずいのだ。



幸運にもオンライン状態の知人を発見したので、斜め前方のカップルシートに入ったオタクコンビが(もちろん、両方いかにもな男)、妙に和気あいあいと楽しげにネットゲームをしているのを(どーせコンビでアイテム集めかPKでもしてるのだろう)、よくないこととは知りつつも腐妄想込みのメッセ中継しつつ、トニカク作家氏からの連絡を待つ。正直、忙しいとこにメッセで知人に捕まると少なからず後悔するものだし、挨拶を送信したときは悪いことしちゃったかとも思ったが、知人もひまをもてあましていたのは二重の幸運だった。



幸か不幸か、知人はねとげーや腐妄想に全く興味が無いので、気がつくと毎日新聞のWEB批判について、ここでもあれこれ語り合っていた。



知人にとっては、自分が日ごろから匿名性を排したアメリカのBlogを評価する一方で、写真作品については匿名性を重視しており、また毎日新聞のWEB批判については「事実誤認やフレームアップがはなはだしく、批判どころか記事としても成立していない」と切り捨てた点が、どうにも腑に落ちなかったらしい。そのため、まず「発言に責任を持つ」ことと、写真作品における「アウラや物語性を拒否する姿勢としての匿名性、ないしは無名性」はまったく異なることを説明したのだが、コレがまたWEB2.0も真っ青の難事業だということに気がついたのは、説明し始めて十数分が経過したことだった(メッセなので秒単位の計測も可能だったが、そんなデータを記録するほどひまじゃぁ無かったよ)。



とりあえず、ウォーカー・エバンスを引き合いに出しつつ、写真における匿名性は、時として無名性とも訳されるように一般的な匿名性概念とはいささか異なることを説明し、撮影者ではなく被写体の側が持つ匿名性であり、無名性を指し示していることを強調した。そして、匿名性の中でもUnlinkabilityを重視しており、例えば「どこで撮影したのかわからない=現実の撮影地と作品とが結びつかない」ことや、あるいは「誰を撮影したのかわからない=被写体と作品が結びつかない」ことが重要であることを説明した。



また、なぜUnlinkabilityを重視するのかについても、受け手がそれまでの経験から被写体に持っているイメージや、ある種の物語性を喚起することなく、撮影された現実をストレートに受け止め、そして先入観を持たない状態でその現実から「超現実的ななにか」を見出すことを重視しているためだと説明した段階で、今度は「超現実」という厄介なキーワードを使ってしまったことに気がつく。



幸いにも、ちょうどいいタイミングで作家氏より連絡があり、成果物を受け取りに行かねばならなくなった。
知人にはちょっと悪いことをしてしまったが、今度はもう少し整理した形で説明させていただくので、今回は勘弁してほしい。



それにしても、危ないところだったぬぅ~


写真という物理存在

2007-01-14 22:48:20 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日もlいい天気なので朝から撮影に出かけ、とりあえずシートフィルムを12枚消費して帰宅した。
帰宅後、知人を呼び出して、携帯の機種変に付き合ってもらう。ただでさえ端末登録の待ち時間が長いばかりか、混雑する日曜に手続きしようというのだから、最初から小半日はつぶす覚悟を決めていたのだ。



端末自体は機種も色も希望のものがすぐに見つかったのだが(とはいえ、店頭にある最後の1機だった)、やはり登録に1~2時間ほどかかるということで、知人とお茶でもしながら時間をつぶすこととした。実は、端末探しよりカフェのイス取りゲームがはるかに大変だったのだが、まぁそれはさておくとしよう。



雑踏の中を30分ほど歩いて、ようやく見つけたカフェチェーンの片隅に体を押し込めつつ、端末のデータ移動についてあれこれ教えてもらっていたところ、不意に「写真ってなんだ?」という話になった。
もちろん、これは写真という単語の辞書的な意味などではなく、いわば写真という概念についての問いであり、疑問でもある。



とりあえず、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』写真という項目では、以下のように定義されていた。



写真(しゃしん、photograph、photography)とは、狭義には光学系を通して対象物を結像させ、ある時間露出することにより、物体で反射した光(または物体が発した光)を感光剤に焼き付けたのちに現像処理を経て可視化したもの。 この過程はカメラと呼ばれる機械的、化学的または電子的機器を用いて行われる。



ここにおいて重要なのは「光学系を通して対象物を結像させ」という部分であり、この点はフォトグラム(レイヨグラム)でも変わりはなく、つまるところ写真は被写体が存在しないと成立しないということになる。いずれにせよ、写真の構造的な部分についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の定義に問題はなく、写真がそれ単体で独立した存在にはなりえないのは間違いない。
この、写真は被写体が存在しないと成立しない点と、撮影者が存在せずとも写真は成立するという点を踏まえ、椹木野衣氏は写真の死を論じている。だが、他方で写真愛好者の大多数はその点を敢えて等閑視することで、いわば写真にかりそめの生を与えることに汲々としている。
これは、写真を撮影者のメッセージ伝達手段と考え、撮影者不在の写真が写真として成立しうることを受け入れられない人々のみならず、写真に対して被写体の美しさや可愛さ、珍しさを求めるのみの人々にも共通することであろう。いうなれば、写真は被写体が存在しないと成立しないということと、撮影者が存在せずとも写真は成立するという点をを無視することが、写真愛好者たる条件になるのではなかろうか?



そして、写真の構造的な部分に対する百科事典的な定義と、その定義を直視したくないという写真愛好者心理との乖離が、写真という概念を複雑にしているのではないかと思う。
ただし、写真の構造的な部分に対する百科事典的な定義と、写真愛好者心理との間に接点が全く存在しないというものではなく、オリジナルプリントという物理存在が両者の結節点として作用しているといえよう。



オリジナルプリントは、写真に収められた画像という抽象的な情報存在と異なり、物理的に存在しているがゆえにフェティッシュな欲求の対象となりえる。そして、オリジナルプリントは物理的な存在であるがゆえに、あたかも被写体が不在であっても写真が写真として存在しえるかのような錯覚をもたらし、写真を写真として愛好する人々(愛好していると信じたい人々)が写真の構造的な部分に対する百科事典的な定義から眼を背ける、格好の道具となっているのと思うのだ。



ただ、デジカメがこれだけ普及しても、まだまだプリントにこだわる人々が非常に多いことを考えると、これは単に写真愛好者のみの問題ではなく、ひろく一般に存在する意識のような気もする。既に、写真と画像という言葉の使い分けも浸透しつつあるが、写真をめぐる人々の意識がどのように変化するにか、あるいはしないのかに対しても、大いに興味をそそられるところではある。


帰属と呪縛

2007-01-13 23:17:45 | 業務関連


今日は大型の写真集や図録などを中心に、2束ほどの本を古書日月堂へ持ち込み、とりあえず査定していただく。なにしろ部屋が狭いので、今後の制作に資する本以外は蔵書を整理することとしたのだが、お世辞にも保管状態がよいとはいえない本ばかりなので、実は迷惑をかけてしまったのではないかと、いささか後ろめたい気持ちになる。



それにしても、本当に恥ずかしい話ではあるのだが、自分は古書日月堂サイトにある年頭の挨拶を音読できない。
それも、ちょっと突っかかるととこがあるとか、そういうかわいらしい話ではなくって、半分も読めないのだから本当に救いようがない話である。
毎日新聞によると、日ごろからインターネットばかりやっている人間は「人間としての程度が極めて低い」そうだが、まぁ問題の逆切れ文芸部記者氏も、さぞかし日ごろからネットに接していたのだろう。
それにしても、インターネットって「やる」ものなのかしらん?



さておき、夕方には知人と合流して、夕食をご馳走になりながら、だらだらと世間話をする。
幸か不幸か、いや多分に幸運なことなのだが、自分は帰属意識とかなんとか、そういった類のものにはほぼ全くといってもいいほど鈍感で、 かつ他者がどこのナニに帰属していようがしていまいが、さして気にも留めない人間なのだが、それでも知人の話にはいささか理不尽なものを感じざるを得なかった。
まぁ、話の取っ掛かりからして毎日新聞の理不尽で扇情的なWEBバッシングだったのだが、知人自身もまたお世辞にも合理的とは言えない問題に直面していた。ありがちな話だが、知人は同人あがりの商業作家なので、商業的に見込みの無い企画のいくつかを、同人もしくはWEBで展開しようと考えた。
ただ、いちおうは知人が持ち込んだ企画でもあったので、念のため最初に持ち込んだ編集者にお伺いを立てたところ、なぜか反対されたのだという。もちろん、持ち込んだとはいっても最終的に却下された企画であり、編集者は企画を拘束できないのだが、ともかく「そういうことは作家としてよくない」の一点張りで、口調や態度は穏やかだったものの、最後までその編集者は反対し続けたという。



これは、編集者が作家の独自行動に反対することで、作家の帰属意識や規範意識を高めようとしたと見て、さほど問題にはならないだろう。ただ、知人は当該編集部への帰属意識や規範意識が薄かったため、双方に肯定的な結果をもたらさなかったが、もしも知人が作家としての個人よりも集団への帰属や規範を重視する人間であったら、あるいは個を主張しつつ集団的思考へ埋没する個別主義者であったなら、恐らくは編集者の意に従って同人誌への企画転用を撤回したか、そもそも最初からそんなことなど思いつかなかったかもしれない。



作家とは、基本的に「個を主張する立場」に身を置いていると思うが、そうは言っても完全に個を個として生活することは不可能といっても過言ではない。近代的自我と前近代的集団意識とを対立的に論じるのはたやすいが、完全に個を個として生を全うするどころか、そのような生き方を目指すことさえ、多くの人々にとっては極めて苦しく、かつ困難なものらしい。
そして、実際には個を個として主張しきれない、どこかで組織に寄りかかりたい人が多いというか、ほとんどの人はそうらしい。もちろん、だからこそ編集者は知人が企画を同人転用することに反対し、知人もまた多くの人々と同様に組織への帰属意識や規範意識を高め、知人個人よりも組織の発展に寄与しうる企画を考えるように仕向けたのだろう。



まぁ、そんなわけだから「近代的自我なんてのは西洋文明が押し付けたまやかしで、日本の風土になじまない」などという、あまりの脳天気ぶりに悶絶しそうな自虐コントを、それもよりによって近代的自我の申し子であるWEB空間で発信するという、ある意味ではゼロ次元も真っ青のハプニングが展開されているのだが(WEBでその種の言説を垂れ流している連中は、大衆的で保守的で反革命的で規範的で、しかもナイーブな美を嗜好している点において、文字通り「鏡の国のゼロ次元」といえるかもしれない)、かといって本当に前近代的集団意識というかムラ社会というか、そういうリアル息苦しい社会に順応できる人がどれほどいるかというと、それまたはっきり言って大いに疑問なのだが、少なくとも作家なんて因果な商売に手を染めない限りは、ぼちぼちうまいことやっていけるのかもしれん。



ちゅうか、近代的自我を究極まで推し進めると、実は前近代的集団意識へ還元されるのではないか、それはパトリック・シルベストルのたどった道なのではないかと、そんなことを考えてもしまう(えらそうな口を叩いているが、自分は『初期革命評論集』も『戦争と革命への省察--初期評論集』も読んでませんし、童貞でもありません)。
個人的には、個とは近代的自我でもあり、前近代的集団式でもありという、なんとも煮え切らない、宙ぶらりんの状態が、実は最も自然で居心地のよい状態なのだろうと思うのだけど、なんかそういう宙ぶらりんにも耐えられない人が少なくはなさそうで、なんだかしょぼぉ~んな気持ちですよ。


全ての陰謀論を我等(コモディティー)の手に!!

2007-01-11 23:11:38 | 業務関連


新年のご挨拶を兼ね、取引先へ成果物を受け取りに行ったところ、年明けから模様替えというので、事務所の中は大変なことになっていた。流石にただ手をこまねいているわけにもいかず、担当者氏と一緒に荷物を動かしたり、機材の配線を手伝ったりした。



とりあえず一段落したところで、担当者氏から成果物をいただいたのだが、実は自分も深くかかわった企画なので、いささか微妙な気持ちになった。



その後、担当者氏から遅い昼食をご馳走になりながら、いつものようにあれやこれやと四方山話に花を咲かせた。だが、担当者氏が「下請けのゲームライター氏が陰謀論にはまってしまって困る」とぼやき始めたときは、悪いけど腹の底から笑ってしまった。



かつては海外文献などをまめにチェックするだけでも一苦労で、論文や雑誌記事になると検索することさえ困難だったこともあり、例えば落合信彦のような人物が怪しげな文章で注目を集めた時期もあった(情報ニッチの悪用という点では、家田荘子も似たような存在ではある)。また、陰謀論的な裏情報を知っていることがひとつのステータスとまではいかないまでも、インテリにあこがれる学生や若いサラリーマンにありがちな、他人と異なる情報を持っていることを誇りに思う心理をくすぐったことは間違いないだろう。



とはいえ、それもすっかり過去の話しで、情報ツールが発達した現在では、情報ニッチそのものが絶滅危惧種といってよいほどだし、それでもなお怪しげなネタで一儲けしようものなら、即座に検証されてしまうはずだった(事実、家田荘子落合信彦も、厳しい批判と検証にさらされた)。
ところが、情報ツールの発達は誰もが簡単に陰謀論をひねり出せるという、いわば陰謀論のコモディティー化をも促進したため、例えば阿修羅掲示板が活況を呈しているように、少なからぬ人々が「自分のオリジナル陰謀論」を語るようになったと見てよいだろう(オリジナルといっても、その大半は既存陰謀論のマイナーチェンジに過ぎない)。



とりあえず、問題の下請けライター氏はそれなりの才能を持っており、陰謀論にはまった程度で見捨ててしまうのはもったいない。そのため、できるだけ陰謀論や政治経済、国際情勢などの話題を避けつつ、ビジネスライクにお付き合いするのがよいように思った。
ただ、陰謀論とナルシシズムが結びついてしまうと、基本的な人間関係を維持することさえ困難であり、その場合は泣いて馬謖を斬るほか無いだろうとも思う。個人的にも、陰謀論に取り付かれた大学の後輩などにてこずらされた経験があり、危ないと思ったら手を引いたほうがよいと、いささか強く伝えておいた。



しかし、才能あるやつに限って、壊れ方も激しいんだよね~


ウチは銀塩でいきます

2007-01-10 23:16:32 | 業務関連


今日は夕方から取引先の事務所へ出向いて、新年のご挨拶かたがた仕事の打ち合わせをしてきた。
去年はデジタル導入ですったりもんだりしたものの、とどのつまりは導入見送りと相成ったため、今年も銀塩でお付き合いさせていただくこととなった。
デジタル導入によるコスト削減は大きな魅力だが、編集側の作業負担が大きくなることに加え、画質というか誌面のクオリティ低下が避けられないということが、導入見送りの理由となったそうだ。そのため、とりあえず今年は見送りといったものではなく、今後も銀塩でやれる限りは銀塩を使うということらしい。



以前より、編集者や取材記者にコンパクト機や普及機1眼レフを持たせて、補助的な素材を撮影させるということは広く行われていた。だが、最近は高性能デジカメが広く普及したこと伴い、カメラマンを同行させずに済ませる現場も増えているほど、デジタルは便利かつ低コストで失敗が少ないと受け止められており、そして銀塩の肩身は狭い。
ところが、今回の取引先は銀塩の質感や色彩表現に並々ならぬこだわりをお持ちのようで、また媒体の特性から言ってもコストをかけるだけのことはあると判断されたようだ。



取引先の方々ともいろいろお話させていただいたのだが、コスト削減に汲々とするあまり、企画内容を見失ってクオリティを低下させるようなことがあってはならないし、そのようなメディアは競争に負けてしまうと力武された。
例えば、コンパクト機や普及機1眼レフを編集者や取材記者に持たせても、とりあえずの役にしか立たない画像しか得られないことが多いし、場合によっては再撮を余儀なくされることさえあるなど、当然ではあるものの見失いやすい原則的な話だ。



いずれにしても、最終的に判断するのは受け手の側であり、担当者氏は「顧客を満足させるためには銀塩のクオリティが必要」と考えておられる限り、こちらも銀塩の体制を維持しなければならない。ただ、個人的には銀塩の仕事が残ってうれしく思えたし、あくまでも顧客第一の姿勢を貫く担当者氏に対して、ちょっと尊敬の念を抱いたりもしているのだ。